第8話 ようこそ、ダンジョン民宿へ!
山田家が到着する、土曜日の昼下がり。
俺は、生まれて初めて経験するレベルの緊張に襲われていた。まるで、役員相手の最終プレゼンに臨む新入社員のような気分だ。
「田中さん、顔、めっちゃこわばってますよ! スマイル、スマイル!」
隣でリサが、俺の頬をむにむにと引っ張る。
「ぷるる!」と足元のプルも、応援するように体を震わせた。庭先では、ゴブ吉が覚えたての草むしりの仕上げに精を出している。
準備は、万全のはずだ。
客室となる和室は、リサとプルのおかげで塵一つなく磨き上げられ、新調した布団がふかふかと客人を待っている。夕食のバーベキュー用の食材も、魚屋の大将がくれた特大ホッケを筆頭に、完璧に揃っている。
あとは、お客さんが本当に来てくれるかどうか。そして、この「民宿(仮)」を気に入ってくれるかどうかだ。
そんな俺の不安を乗せたまま、一台のワンボックスカーが、ゆっくりと家の前に停まった。
来た……!
運転席から降りてきたのは、人の良さそうな笑顔が印象的な、山田さんご本人だった。続いて、助手席から奥さん、そして後部座席から、大きなリュックを背負った少年がひょっこりと顔を出す。彼が小学5年生の健太くんだろう。
「こんにちは! 田中さんですか? 動画、拝見しました!」
「は、はい! ようこそお越しくださいました! 田中雄介と申します!」
俺は、社畜時代に叩き込まれた完璧な角度のお辞儀で山田さん一家を出迎えた。
あまりの固さに、山田さんの方が少し引いている。
「あはは、そんなに固くならないでください! こちらこそ、急な申し出を受けてくださってありがとうございます。妻の良子と、息子の健太です」
「こんにちはー、お世話になります」
「……どうも」
奥さんはにこやかだったが、健太くんは少し緊張しているのか、お父さんの後ろに隠れるようにして、小さな声で挨拶をした。
その目は、不安と好奇心が半分ずつ混じったような色をしている。
そんな健太くんの視線が、一点に釘付けになった。
俺の足元で、ぷるぷると健気に震えている青いスライム――プルだ。
「うわ……」
健太くんの目が、キラリと輝いた。
「本物の……スライムだ」
「ぷる!」
プルは、健太くんの期待に応えるように、その場で軽く跳ねてみせた。
「さ、触っても……いい?」
「ああ、もちろん。こいつはプル。うちのペットなんだ」
俺が言うと、健太くんは恐る恐るプルに指を伸ばした。その指がプルに触れた瞬間、健太くんの顔が、ぱあっと明るくなった。
「うわ! ぷにぷにしてる! 冷たくて、気持ちいい!」
プルも満更ではない様子で、健太くんの手にすり寄っている。その光景に、山田さん夫妻も顔を見合わせて微笑んだ。
「すごいわね、本当にモンスターがいるのね」
「健太、よかったな。会いたがってたもんな」
どうやら、最初の関門はクリアできたらしい。
俺は内心でガッツポーズをしながら、一行を家の中へと案内した。
「うわー、おばあちゃんちの匂いがする!」
リサが完璧に掃除した古民家を見て、健太くんが嬉しそうな声を上げた。
都会のマンションで育った彼にとって、この畳と木の匂いがする空間は、それだけで新鮮なのだろう。
そして、客室に荷物を置いた後、いよいよ本日のメインイベントが始まる。
「それじゃあ、ダンジョンに行ってみましょうか」
俺のその一言に、健太くんの目は最高潮に輝いた。
「行く! ダンジョン、行く!」
俺とリサを先頭に、山田さん一家を連れて、ダンジョンへと続く小道を進む。
洞窟の入り口に着いた時、健太くんは「うわぁ……」と感嘆の声を漏らした。
ランタンの明かりを頼りに、ひんやりとした洞窟の中を進んでいく。
すぐに、例の礼儀正しい――ゴブ吉の同僚らしきゴブリンが姿を現し、ぺこりとお辞儀をした。
「パパ、見て! ゴブリンがお辞儀した!」
「ははは、本当だな。なんて礼儀正しいんだ」
山田さんも、まんざらではない様子だ。
健太くんは、最初こそ少し怖がっていたものの、ゴブリンが全く敵意を見せないことに気づくと、自分から「こんにちは!」と挨拶を交わすまでになっていた。
そして、一行はついに、あの泉の広場へと到着した。
光る苔が放つ幻想的な光に照らされた、神秘的な空間。その光景に、山田さん一家は完全に言葉を失っていた。
「すごい……」
呟いたのは、奥さんの良子さんだった。その声は、感動で少し震えている。
「こんな場所が、本当にあったなんて……。なんだか、心が洗われるみたい」
健太くんは、泉のほとりまで駆け寄ると、キラキラと輝く水面にそっと手を浸した。
「パパ、ママ、見て! 水がキラキラ光ってるよ!」
その純粋な喜びに満ちた笑顔を見て、山田さんの目尻が優しく下がった。
「健太。ここに来て、よかったな」
「うん! 人生で一番、楽しい!」
その一言が、俺の胸にじんわりと染み渡った。
社畜として、数字とノルマに追われ続けていた俺が、今、誰かを「人生で一番」楽しい気持ちにさせている。それも、この何もないと思っていた故郷で。
俺の隣で、リサがそっと肘で小突いてきた。
見ると、彼女は満面の笑みで「ね?」と口パクで言っている。その手には、もちろん小型カメラが握られていた。
元社畜おじさんの、ダンジョン民宿。
その記念すべき最初の客人は、最高の笑顔でこの場所を受け入れてくれた。
まだ何も始まっていないと思っていたけれど、もしかしたら、もう、とっくの昔に始まっていたのかもしれない。