第2話 ダンジョン再訪
翌朝、俺は小鳥のさえずりで目を覚ました。
東京の喧騒とは無縁の穏やかな朝だ。カーテンを開けると、朝日がキラキラと庭の草木を照らしている。
「……さて、と」
昨夜思いついた「ダンジョン民宿」計画。
酔った勢いの戯言だと笑い飛ばすこともできたが、不思議と俺の心はまだ、そのバカげたアイデアに惹かれていた。
「まずは、現状把握からだな」
行動あるのみ。
社畜時代に叩き込まれた基本だ。
俺は押入れの奥から、親父が使っていたであろう古びたリュックサックと、強力なLEDランタンを引っ張り出した。中には水筒と、念の為のカロリーバー、そして救急セットを詰め込む。
服装は、動きやすいジャージ姿。足元は履き慣れたスニーカーだ。
準備を整え、俺は家の裏手へと続く小道を歩き始めた。
「うっ……結構、荒れてるな」
最後にこの道を歩いたのは、いつだっただろうか。
子供の頃は秘密基地へ続く冒険の道だったが、今は雑草が生い茂り、蜘蛛の巣が顔にまとわりつく。かき分けながら進むこと約10分。視界が開け、岩肌がむき出しになった崖の中腹に、ぽっかりと口を開けた洞窟が現れた。
あれが、田中家のダンジョンだ。
入り口の脇には、風雨にさらされて色褪せた
『立入禁止』の看板が物悲しく立っている。
「よし」
俺は意を決して、洞窟の中へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が、汗ばんだ肌を撫でる。ランタンの光が照らし出すのは、ゴツゴツとした岩の壁と、湿った地面だ。洞窟内は意外と広く、大人が立って歩いても頭をぶつけることはない。
しばらく進むと、最初の「モンスター」と遭遇した。
「……ぷるぷる」
足元で、青く半透明なスライムが健気に震えている。
大きさはバスケットボールくらい。目のようなものがあり、こちらをじっと見つめている。 ランタンの光を浴びて、ゼリーのようにキラキラと輝いていた。
「……」
俺は、そっと手を伸ばしてみる。
社畜時代、理不尽な上司に頭を下げ続けた経験から、こういう相手の懐に入るのは得意なはずだ。
「よ、よしよし……」
恐る恐るスライムの頭を撫でると、スライムは「ぷるるん!」と心地よさそうに体を揺らした。敵意は、まったくない。むしろ、もっと撫でてくれと言わんばかりにすり寄ってくる。
「……可愛いじゃないか」
思わず笑みがこぼれた。
これが、ハズレダンジョンと言われる所以か。これでは、冒険者がレベルアップすることも、素材を手に入れることもできないだろう。
さらに奥へと進む。
道はなだらかに下っており、時折、二手に分かれている場所もあった。迷わないように、壁にチョークで印をつけながら進む。
次に現れたのは、緑色の肌をした小さなゴブリンだった。
身長は1メートルほど。ボロ布を腰に巻き、木の棒を持っている。教科書通りのゴブリンだが、その表情はどこか間の抜けたものだった。
「キ?」
ゴブリンは俺を見つけると、首をこてんと傾げた。
木の棒を構えるでもなく、ただ、そこに突っ立っている。
「……こんにちは」
俺が会釈をすると、ゴブリンはぺこりとお辞儀を返してきた。
礼儀正しいな、おい。
俺が通り過ぎようとすると、ゴブリンは「キキッ!」と何かを差し出してきた。
それは、洞窟の隅に生えていた、青白く光るキノコだった。
「え、くれるのか?」
「キー!」
ゴブリンは満面の笑みで頷いている。
毒があったらどうしよう、という考えが一瞬頭をよぎったが、このゴブリンの純粋な瞳を見ていると、そんな気は失せてしまった。
「ありがとう。助かるよ」
キノコを受け取ると、ゴブリンは嬉しそうにその場でぴょんぴょんと跳ねている。
どうやら、ここのモンスターたちは、総じて平和主義らしい。
一時間ほど探索を続け、俺はかなり広い空間に出た。
天井は高く、ドーム状になっている。壁からは清らかな水が染み出し、小さな滝となって下の池に注がれていた。池の水は驚くほど透明で、底で光る石がキラキラと輝いているのが見える。
「……すげぇ」
思わず、声が漏れた。
まるで、ファンタジー映画のワンシーンだ。空気は澄み渡り、静寂の中に水音だけが心地よく響いている。
ここだ。ここに、民宿を作れないだろうか。
この天然の泉を露天風呂にして、池の周りに客室となるコテージを建てる。
天井の岩肌には、光る苔が自生しているのか、ランタンを消してもぼんやりと明るい。これなら、照明にも困らないかもしれない。
「問題は……どうやって作るか、だな」
資材の搬入、建設許可、そもそもダンジョンの中に建物を建てていいのか。素人が一人でどうにかできる問題ではない。
(役場、か……)
鈴木さんの言葉を思い出す。
まずは、行政に相談してみるのが筋だろう。頭がおかしいと思われるのは覚悟の上だ。失うものは、もう何もないのだから。
俺は光るキノコをリュックにしまい、来た道を引き返し始めた。
すれ違うゴブリンに手を振ると、嬉しそうに手を振り返してくる。足元ではスライムが「ぷるぷる」と応援してくれているようだった。
「待ってろよ、お前ら。ここを、世界一面白い宿にしてやるからな」
洞窟の外に出ると、真昼の太陽が眩しかった。
俺の心は、社畜時代には感じたことのない、確かな高揚感と希望に満ち溢れていた。
まずは役場へ。そして、この計画を形にするための第一歩を踏み出すのだ。
俺は固く決意し、再び雑草の道をかき分け、実家へと戻るのだった。