第1章:さらわれ姫、逃げただけ 【Scene 1:城、パニック】
――王城・朝の間。荘厳なる儀式の直前。
「……遅いな」
玉座の前で、重厚なマントを翻しながら王が眉をひそめる。周囲に並ぶ臣下たちも、困惑の色を浮かべていた。
本日、第一王女フィオレ・ルクレツィア・アルバレスト殿下が司るはずの〈陽光の朝拝式〉が、いまだ始まらない。
誰もが首をかしげる中――騒然とした足音が廊下から響いた。
「し、失礼いたします!」
飛び込んできたのは、侍女頭のクラリッサ。顔は蒼白、息も荒い。
「姫様が……お部屋にいらっしゃいませんっ!」
「なにっ!?」
ざわめきが広がる。玉座の間が、一瞬で緊張に包まれた。
「なぜだ!?警備は!?誰か見た者はおらぬのか!」
「お部屋の扉には異常はなく……しかし、窓が……窓が開いておりまして……!」
別の侍女が言い添えるように叫ぶ。
「お召し物もお部屋にそのままで、まるで、昨晩のままのような……!」
「まさか……!」
王が玉座から立ち上がる。
「さらわれたのか!? 魔族の仕業か……!?」
どよめきが、一気に爆発した。
「魔族がこの国境を越えたのか!?」
「どうやって王都に潜入を!?」
「しかし目的は何だ!? 和平条約を破棄するつもりか……?」
憶測と恐怖が、朝の王城を瞬く間に覆い尽くしていく。
「すぐに全軍に通達を!門を閉じよ!飛竜騎士団を空へ!魔法塔は探索魔術を全開にせよ!」
王が次々に命を下す。だが、その中心にあるのは――
(フィオレ……無事でいてくれ……)
静かに、強く、祈る父の想いだった。
「――魔族の仕業かもしれん!!」
玉座の間に響き渡る王の叫びに、重臣たちはどよめいた。
「お待ちください、陛下!」
宰相ギルメスが一歩前に出て、卓上の書簡を掲げる。銀縁の眼鏡をきらりと光らせ、どこか得意げな顔つきだ。
「実は、姫様が以前より、魔物の分類や生態にご興味を示していた記録がございます。書庫に通い、召喚魔術やダンジョン構造に関する書籍を熱心に――」
「ま、まさか……魔族に、そそのかされたのか!?」
「くっ、まさか人質に……!?」
「姫様が……我が愛しの娘が……っ!」
青ざめた王が玉座から立ち上がり、震える手でひげをむしり取らんばかりの勢いで顔を覆う。
「落ち着いてください、陛下!」
騎士団長のカリスが駆け込み、額に汗を浮かべながら進言した。
「近衛隊が、姫様の部屋にて不可解な痕跡を発見しました。窓辺の足跡と、床に残された石のずれ。裏庭の茂みに隠された抜け道が、地下に続いております!」
「抜け道だと!? 誰かが連れ去ったのか!?」
「いいえ……調査の結果、抜け道の構造は比較的新しく、設計に知性と工夫が見られます。まるで……姫様ご自身が用意されたような……」
「馬鹿な……! 我が娘がそんなことを!」
王の顔が引きつり、次の瞬間には玉座を蹴飛ばすようにして叫んだ。
「――勇者を呼べ!! 今すぐ国中から、選ばれし者たちを集めるのだ!! 魔族に抗う希望を! 姫を救う剣を!」
「陛下、ですが我が国には今、公式な勇者は……」
「ならば、募集せよ! 試練を与え、力ある者を選び出せ! 人類の威信を懸けた、姫救出の英雄を!!」
ギルメスが口元を歪め、こっそり笑みを漏らした。
(……いいぞ、もっと騒げ。国を巻き込み、炎を広げよ。我が腹心・三号スライムたちの活躍の時も近い……!)
玉座の間が混乱に包まれる中、誰一人として気づいていなかった。
その“抜け道”の先に広がるのは、姫自らが設計した――「国防型スライムダンジョン」だったということに。
王宮の混乱をよそに、その知らせはすでに広まりつつあった。
──ギルド都市メルヴィア。
魔王軍にも通じるという噂の裏商会が息を潜めるこの街で、ひときわ賑わうのは《勇者ギルド》である。
「姫様奪還依頼、正式受理! 本日より受注可能だ!」
ギルドの中央掲示板の前に、角の尖った使者が堂々と布を剥がすと──
そこには金のインクで煌びやかに装飾された一枚の依頼票があった。
【S級依頼:王国第一王女ヒメリア・アゼリード奪還】
依頼主:王国中央政府
報酬内容:
・金貨500万枚
・王位継承権(姫との婚姻による)
・騎士団の全指揮権
・国家予算の特別枠割当
・魔導図書館無期限利用券
・専用ダンジョン建設許可(城下五区画分)
※ただし、姫を無傷かつ「惚れさせた状態」で奪還せよ。
「いや出しすぎだろオイ!!」
ギルドの片隅から声が飛ぶ。
ツインテールの白銀髪、マントの下に鋭く光る十字のメダル。
騎士ヒルダ=ヴァーネットだ。
「婚姻権!? 継承権!? あんたら勝手にそんな条件追加して──」
「だって“依頼主”が承認したって紙持ってきたものでー」
ぺら、と使者が見せたのは、王国の印章が押された契約書。
ヒルダはその署名を見て、さらに顔色を変えた。
「……ギ、ギルメス様……!?」
王国宰相ギルメス=ドーグ。その名が、依頼者欄に達筆で刻まれている。
「“この国には英雄が必要だ”──ってね。言ってましたよ。英雄が姫を救い、愛し、国を導くって」
使者はしたり顔で笑う。
「それ、ただの“王位簒奪の脚本”だろうが!!」
ヒルダが叫ぶよりも早く、掲示板の前はもうごった返していた。
筋骨隆々の斧戦士、二刀の暗殺剣士、さらにはドラゴンを連れた吟遊詩人まで。
「惚れさせた状態、か……フッ、楽勝だな」
「俺に口説けぬ女はいない……!」
「愛こそ、すべて……だ」
──王女ヒメリア、全力で逃げてくれ。
そうヒルダは、心の底から祈った。
喧騒が一段落し、残された者たちは、まだ熱の残る作戦会議室で呆然と立ち尽くしていた。
──報酬、王位継承権付き結婚権利。
──勇者掲示板、更新済み。
──ギルド、総動員状態。
そんな急展開を前にして、王国軍参謀のヒルダは頭を抱えていた。
「……なにこの、ド派手すぎる報酬設定。王国ごと売ってるレベルなんだけど……」
「国王不在だし、臨時決定権あるって言ってたよね。ギルメスさんが」
「いや、だからって王位継承権まで出す!?」
ヒルダの悲鳴混じりのツッコミも、誰にも止められなかった。
全ては“姫が攫われた”という前提で動いている。
今や、城中がパニックである。
そのときだった。
「……おかしいですね」
ぽつり、と場違いなほど冷静な声が響いた。
フィリーネだった。紅茶のカップをそっとテーブルに置きながら、まるで他人事のような顔で続ける。
「……姫様、最近“秘密基地が完成したら、しばらく籠もる”って、仰ってませんでしたか?」
その瞬間、空気が止まった。
言葉を失う参謀たち。
耳が赤くなっていく兵士。
ゆっくりと振り返るヒルダ。
「…………」
全員が、音もなくフリーズしていた。
思い出すのは、確かにそう言っていた姫のあの笑顔。
「人間の目からも魔法の探知からも隠れる、超絶やばい地下要塞、完成したら……こもるしかないですよねぇ~ふふふ」──あのときの、楽しげな笑みが脳裏をよぎった。
誰もが気づいていた。
だが、誰もが“攫われた”という前提に流された。
それを、フィリーネだけが。
「……あのぅ、誘拐じゃなくて、もしかして……自発的な……?」
その場に、重すぎる沈黙が落ちた。
ティーカップの中で、微かに紅茶が揺れていた。