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第32話「あれから母は」

再び現れた工藤を想像し、二度と奪われてたまるかと決意を固くした。



日が暮れて病室が橙色に染まりだした頃。


楽しければ楽しいほど名残惜しくなるもので、未来は泣きじゃくって千里の腕から離れようとしない。


千里も寂しそうにしながら未来の頭をよしよしと撫で、微笑みかけて名前を呼ぶ。


「み~く。今日はもう遅いからお兄ちゃんと帰ろうね?」


未来は一向に顔を上げようとしない。


母親がそばにいるべき年齢なのに、「お母さん」と気軽に呼べる距離にいない。


毎回こうなる度に陸斗と千里は胸を痛め、罪悪感に押しつぶされそうだった。


甘えたい時期に甘える相手が傍にいないのは、想像以上に寂しいことだ。


「未来。また今度兄ちゃんが連れてきてやるから」



声をかけると未来は涙を止めようと目元をごしごしする。


駄々をこねたって仕方ないことだと、幼いながらに未来は理解している。


まだ子どもだからうまく感情のコントロールできないだけ。


理性と板挟みになり、葛藤が目立ってしまう。



「未来ちゃん」


鈴華が未来の前にしゃがみ、目線の高さを合わせる。


未来の目尻に溢れる涙を、細くて白い指がそっと拭った。


「未来ちゃんがここに来たいときは私に言ってください。私、千里さんともっとお話がしたいので、未来ちゃんが一緒に来てくれたらありがたくてですね」


「……ほんとぉ?」


「はい。約束しますわ」


約束、とにっこり笑って小指を未来の小指に絡める。


「指切りげんまん」と、二人は笑いながら約束を交わした。



「じゃあ……今日は帰るな」


「陸斗。体調管理だけはしっかりしなさいよ?」


「わかってるよ。それじゃあな」


いくつになっても照れくさいものがあり、陸斗は千里に背を向けながら手を振る。


頭を下げ、陸斗の後を追う鈴華。


未来はとびっきりの笑顔で千里に手を振り、病室を出ていった。




***




「……あの頃のわたしよりも年上で、ずっと大人ね」


千里は誰もいなくなった病室の窓から外を眺め、陸斗たちの姿が現れて遠のいていくのを見送った。


病室の扉が開き、無言のまま誰か入室してくる。


この様子だと看護師や医師ではないようだ。


振り返らずとも誰が入ってきたか、千里にはわかっていた。



「久しぶりですね。道久さん」


もう何年ぶりになるのだろうか。


何を言うわけではない。


緊迫した雰囲気が病室内に張り詰めていた。


「千里さんはこんなときでさえ、取り乱したりしない」


「いつかあなたが……。わたしの前に現れると、わかっていましたから」


陸斗の再会した時とは別人の、ひどく落ちついた工藤。


二人の間に沈黙が流れ、夕焼けが部屋に差し込む。


さきほどまで賑わっていた分、静かさが際立ち、窓から入り込む風も冷たくなっていた。


「道久さんは今、何をしておいでで?」


「陸斗と同じ工事現場で働いてる」


「あの子、ちょっと短気なところがあるからすぐに怒ったでしょ?」


「そうですね。参ってしまうくらいには」


「……あなたがここに来たと言うことは何か話したいことがあったのでしょう?」



夕陽に当たった千里の顔は陰影が濃くなって、まるで表情がモナリザだ。


「まず、千里さんには言わなければならないことがあります」



工藤の言葉に千里は頷きも示さない。


言わなければならないこと、それをすでに予期しているかのようだ。


工藤は一度、深呼吸をして肩の力を抜くと千里を見据え、覚悟に口を開いた。


「謝っても償いきれないとはわかっていますが……。申し訳ございませんでした」


工藤はその場に膝をつき、深々と土下座をする。


影を背負った姿に千里は口を開かず、光を失った虚ろな目をして見下ろしていた。



千里が思いだすのはかつての平和な家族。


そして壊れた日々だ。


借金の保証人になり、工藤が逃げてしまったことで優斗は変わってしまった。


もともと潜在的に暴力をする面が隠れていたのかもしれない。


それでも千里の夫としての顔、陸斗を愛する父親としての顔が忘れられない。



心から愛した人。


もう戻ることの無い過ぎ去った日々のこと。


どれだけ望んでも事が平穏だった過去に戻れない。



工藤の罪は謝っても手遅れだ。


怒りをぶつけるにも、時間が経過しすぎて千里の傷は麻痺していた。


「顔をお上げになってください。道久さん」


凛とした声で、現実を生きようとする。


その声に工藤は戸惑いがちに、恐る恐る顔を上げ千里の表情を確認するも、変わらず千里に色はなかった。



「どれだけ謝っても過ぎた時はもう戻りません」


わかっているからこそ、胸の痛みは増す。


取り返しのつかない罪を犯してしまった。


一番謝りたかった親友は、刑務所を出て以降行方知らずだ。


冷たくて、残酷な現実が工藤を戒める。


そんな工藤の心情を見透かすように千里は小さくため息を吐いた。


「本来ならばもっとあなたを憎んでいたでしょう」


「それは……どういう意味で?」

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