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檻の中の君  作者: 二井星子
第1章 大罪人
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9 フィリベルト・ジンデル⑤

 この誓約書の問題点は他にもある。


 誓約書の一文が指定する処刑は、フィリベルトが『二十歳になった時』だ。『二十歳になった後』ではない。つまり、フィリベルトが二十歳になった『瞬間』——日付けが変わった瞬間に寸分の遅れなく処刑を実行しなければならないということになる。


 さらに言えば、フィリベルトの『正確な誕生日』に処刑を実行しなければならない。


 フィリベルトが自覚する誕生日と実際の出生日が異なっている場合、実際の出生日に処刑を実行する。


 制約を交わす者の自覚は関係ない。


 フィリベルトの誕生日は、『エントウィッスル侯爵家のあれ』を免れた使用人への聞き込みで判明している。

 ただ、それが正しいのかは不明だ。


 フィリベルトが嘘をついていた可能性もあるし、そもそもフィリベルトが自らの正しい出生日を把握しているかも不明だ。


 あの誓約書の『妻アリア・ダールマイアーは、夫フィリベルト・ジンデルが二十歳になった時に処刑を行う』という制約は、限りなくアリアに不利で、不可能と言ってもいい一文だ。


 誓約書に署名するわずかな時間であの一文を見逃せば死に、見逃さなかったとしても不可能に近い制約で死ぬ確率が高い。


 悪意の透けて見える——アリアの死を望む一文だった。


 制約を無に帰す方法もあるにはある。

 書面で制約の魔法が使われた場合、その書面の媒体を焼くなり破るなりして破棄すれば制約は無かったことになる。


 しかし、今回に限ってはそれは不可能だ。書面は王城で厳重に保管されるだろうし、アリアはこれから一生をグリニオン監獄で過ごさなければならない。登城する機会はもう二度とないだろう。


「ですから……アリアには、僕と寝台を共にしてもらいたいのです。僕はあなたに生きていて欲しい」

「仕方ないな。不本意だが……」

「何もしませんのでご安心ください」

「それは心配していない」


 フィリベルトは意外そうな顔をした。


「信頼していただけて嬉しいです」

「いざとなれば君を制圧するくらいは簡単にできるからな」

「はは、手厳しい」


 何が面白いのか、フィリベルトは面白そうに声を上げて笑った。笑いが収まってから、言う。


「信頼していただけるよう努めます。ああ、ご所望ならいつでもお申し付けください」

「何を?」

「初夜です」


 フィリベルトの口から飛び出した単語に絶句する。思わず顔を顰めそうになったが堪えた。


「そんな日は来ない」

「それは残念です」


 アリアは視線を逸らし、窓の外に目をやった。

 もう少しで王都の端、目的地に着く。


 フィリベルトは不気味なほどに落ち着いている。

 これから死よりも辛い目に遭うかもしれないグリニオン監獄に収監されるというのに、何の恐れも抱いていない。黒紋を恐れず、看守のアリアを恐れてもいない。


 それに、フィリベルトからは死への恐怖も絶望も感じられなかった。


 間もなく尽きる命であるというのに、フィリベルトからは生への執着が感じられない。

 自らの命の終わりを、他人事のように見ているように感じる。


(それなのに、生きることを完全に諦めているようには見えない。何か目的があるようにも見える)


 冷静で理性的、温和で表情豊か。自分の容姿の良さと使い所を存分に理解している。


 フィリベルトはただ優しげなだけの男ではない。


 腹の底が見えない、笑顔の『武装』の下に何かを隠した食えない男だ。


 フィリベルトは、捕まった時、全身血まみれで炎の柱を見上げて笑っていたという。

 話に聞いたり書類で読んだ限りでは、さぞかし不気味に微笑んでいたのだろうと思ったが、違う。そうではない。


 今なら確信を持って言える。

 フィリベルトは、ただ穏やかに、柔らかな笑みを浮かべていたのだ。


 綺麗な景色に表情をほころばせるように、友人と楽しいことを共有するように、なんてことのない日常の中で見せるような、ごくごく自然な笑みを浮かべていたのだ。


 死に絶えた二百二十人、その胴体の山と首の山が作る炎の柱の前で。血に濡れた姿で。


 ふと、強い視線を感じて、アリアは正面を向いた。


 フィリベルトがこちらを向いて、微笑んでいた。

 たった今アリアが想像した通りの笑顔でこちらを見ている。


 和やかで温かみのある笑顔に反して、肝が冷えた。


 と、馬車が停止する。目的地の建物に着いたようだ。


「ここは?」

「バルバーニー商会の拠点の一つ、その敷地内にある倉庫だ」


 入り口で御者が守衛の者と何やら会話しているようだ。ややあって、中に通される。馬車が動き出す。


「どうしてここに?」


 フィリベルトの言葉にはわずかに険がある。本当にテディ・バルバーニーが好きではないのだろう。


「馬車で一夜を明かすためだな」


 フィリベルトは目を細めてアリアを見つめた。不満そうな顔だ。説明が足りないらしい。


「陛下のダールマイアー嫌いについては聞いていたから、舞踏会に招待された時点で城内での宿泊を許されずに追い出されると予測していた。そもそも建国祭ですでにどこの宿屋も満室だろうが、私が宿に泊まるわけにはいかないし、王都近郊の情勢は安定しているとは言えない。今から王都を出るのは危険だ。だから、あらかじめテディに依頼しておいて、バルバーニー商会の倉庫の一角に馬車を置かせてもらうことにした」


「なるほど。わかりました」


 相変わらず不満そうな顔をしてはいるが、納得したようだ。アリアがテディを頼っているのが気に食わないのだろう。


 馬車が再び止まる。

 アリアは窓の視線に視線を走らせ、「着いたな」と誰にともなく呟く。


「バルバーニーの息子に会うなら、僕にも挨拶させてください。あなたの夫として」


 静かな声音に苛立ちを滲ませて、フィリベルトが言う。


 アリアはフィリベルトに視線を移す。苛立ちなど感じられない穏やかな笑みがアリアに向けられた。


 これが本心からくる嫉妬であれば面倒極まりないが、この男に限ってそれはない。フィリベルトはそういった人間ではない。


 アリアに明け透けな好意を示すことが有効なのかそうではないのかを探っているのだろう。

 アリアの無表情と淡々とした態度が何をすれば崩れるのか、まずはそれを知ろうとしているに違いない。


 どうやらテディの存在は、フィリベルトが『アリアへの愛情を示す』ための格好の手段として使われつつあるようだ。


「君は……私の夫である以前に大罪人としてここにいる。その自覚を持て。君はここで待つように」

「でも」

「テディはここにいない。あいつは忙しいからな」


 意味のない問答を続けるのが億劫で、フィリベルトの言葉を遮る。


 アリアは、話は終わりだと言わんばかりに馬車から降りた。


 馬車が止まっているのは、バルバーニー商会所有の荷馬車が多く停車する区画の端だ。


 バルバーニー商会はガルデモス帝国、ノイラート国、リンガイル国の他にも多数の国を股に掛ける巨大な商会で、扱う商品は多岐に渡る。

 この倉庫は主に衣料品や宝飾品を取り扱う拠点になっている。


 アリアは詰所に向かう。

 中にいた商会の者に拠点の長を呼び出してもらい、その場で場所を貸してくれたことに対し感謝を述べる。

 さらに罪人を一人連れているが、囚人の契約をしているので何ら危険はないことを丁寧に説明した。


 さすがと言うべきか、商会の者も拠点の長も、アリアに対して恐怖する様子も嫌悪する様子もなく普通の人間と同じように接した。

 応接室にと案内されそうになったが、それは遠慮した。

 

 いくら普通の人間のように接しているからといって、彼らの内心はわからない。

 現に、瞳の奥は怯えているようだった。


 フィリベルトやテディのように最初からアリアに何の偏見も持っていない人間の方が稀だ。


 御者が宿泊する客間の鍵を預かり、湯浴み用の浴室の場所を教えてもらう。

 詰所には常に人がいるため、何かあれば誰でもいいので申し付けるようにと説明された。

 最後に人数分のパンと水筒、アリアとフィリベルトの分の毛布を受け取る。


 破格の対応だ。

 いかに次期会頭であるテディの影響力が強いかがわかる。


 アリアは詰所を後にし、馬車のところまで戻った。御者に客間の鍵とパンと水筒を渡し、客間の場所を伝える。

 詰所に向かう御者を見送った後、アリアは馬車の中に入る。


「お帰りなさい」

「ああ。ただいま」


 アリアが挨拶に応じると、フィリベルトは心底嬉しそうに笑う。


「食事だ。これは寝る時に使うように」


 アリアはパンと水筒と毛布をフィリベルトに渡す。


 フィリベルトはありがとうございますと礼を言って受け取る。


「食べたら君は湯浴みだ」

「ああ、なるほど」


 フィリベルトはじっとアリアを見つめた。そうして、ふっと笑う。


「湯浴みを兼ねた身体検査ですね」


 察しが良すぎる男だ。


「構いませんよ。僕の体を好きなだけご覧になってください。そもそも、僕に拒否権はありません」


 フィリベルトがパンにかじり付いたのを横目に、アリアも向かいの席に腰を下ろし、パンをちぎって口に運ぶ。


 フィリベルトからの視線を強く感じて、アリアは目線だけでフィリベルトを見た。


 目が合うと、フィリベルトはふわりと笑う。


「一口、小さいんですね」

「だから何だ」

「可愛いなと思って」

「そういうのはいい」


 アリアは淡々と拒否したが、フィリベルトはお構いなしのようで、顔をほころばせた。


「つれないですね」

「いいから食べろ」


 アリアが注意すると、素直に従って食事を進める。


 食べ終わった後、アリアとフィリベルトは馬車から外に出た。フィリベルトにはフードを被らせる。


「フィリ。『浴室まで私の後ろをついてくるように』」


 アリアは後ろをついてくるようにと魔法を使って指示する。


 囚人の契約により、フィリベルトはアリアの指示に逆らえない。

 これで、逃げることも他の者に危害を加えることもできず、ただアリアの後ろをついていくことしかできなくなる。


 アリアが先頭に立ち、案内された詰所内の浴室に向かう。


 途中で詰所の者とすれ違うと、彼らは笑顔で会釈してきた。たいしたものだ。


 浴室に着くと中に入る。

 浴室には、体を拭く布やら何やら必要なものは一通り用意されていた。浴槽には湯が張られている。掃除も行き届いているようだった。


 後ろをついてくるようにとのアリアの指示は、浴室に入った時点で切れている。

 アリアは背後を振り返った。


「私はここで見ているから、好きに入るように」

「はい」


 フィリベルトは素直に頷き、何の躊躇いもなく衣服を全て脱いだ。


 裸体の一切を隠すことなく、平然とアリアに向き直る。


「先に調べますか?」

「いや、君が湯浴みするのを見るだけでいい」

「わかりました」


 フィリベルトは頷き、湯浴みを開始する。

 アリアに裸体を見られることに、何の羞恥も感じていないようだ。


 武器は隠し持っていない。体に傷は少ないようだ。背中の一部と左の上腕に皮膚が焼けたような痕があるが、最近のものではない。


「傷が少ないのが気になりますか?」


 湯船に浸かり、その縁にもたれるように腕をかけて顎を乗せ、フィリベルトが笑う。


 アリアの心を読んだかのような質問だが、こちらの視線の向きをこっそり見ていたのだろう。


「治癒魔法の使える者が、僕を治療していたんです。痛みで気絶しないようにしながら、繰り返し繰り返し、痛めつけては治して、痛めつけては治して、気が遠くなるほど痛めつけられたんですよ。それに、どうしても僕から事件について聞き出したかったようで、処刑の前に死なれては困ると思ったみたいです。酷い拷問の後は、必ず治癒魔法で治療を施されました」

「そうか」


 気になる点はもう一つある。フィリベルトの右腕だ。


 フィリベルトの右腕——腕の付け根から指先にかけてが、他の皮膚と比べて色白だ。

 フィリベルトは色白ではないが、右腕だけは色白だと言ってもいい。むしろ青白い。


 この右腕の白さは、舞踏会の場で対面した時にも疑問には思っていた。まさかその白さが腕の付け根にまで及んでいるとは思わなかったが。


「その右腕はどうして色が違う?」

「ああ、これですか」


 フィリベルトは湯船の縁にもたれるのをやめて体を起こし、右手をかざす。


「昔……大怪我を負って右腕が壊死してしまって、切断したんです。その時は自分が治癒の魔法を使えることは知っていましたが、どの程度のことができるのかは把握していませんでした。不便だったのでどうにかして腕を元通りにできないかと試してみたら、新しい腕が生えたんです。でも、なぜかこんな色になってしまって」


 エントウィッスル侯爵家でフィリベルトが従者を務めている間、フィリベルトが右腕を失うような大怪我をしたとは聞いていない。


 フィリベルトの言う『昔』とは、エントウィッスル侯爵家に来る前を示すのだろう。


 フィリベルトが頑なに話そうとしない過去に、何らかの要因でフィリベルトは深傷を負い、右腕を失った。

 その失った腕を元に戻したことが、フィリベルトが強大な治癒の魔法を持つことに気付かせたということなのだろう。


「気になるようでしたら、どうぞ」


 フィリベルトが水気を払い、右腕を差し出す。

 アリアが色の違う右手を凝視していることが気になるらしい。


 アリアはフィリベルトの側まで近付くと、その手を取った。

 水気を払ったとはいえ、わずかにアリアの手袋が湿る。


 アリアは左手でフィリベルトの右手を持ち、まずは手の甲から指先を観察する。

 アリアより大きな手だ。長い指を目線でたどる。爪までもが青白い。中指の付け根付近にほくろが一つ。


「爪まで青白いな」

「ええ。初めてのことだったので、何かやり方が間違っていたのかもしれません。爪も含めて何度か元の皮膚の色に戻そうと試みましたが、どうしても治らないのでこのままです。変ですよね」

「別に、どうとも思わない」


 アリアが答えると、フィリベルトがアリアの手をやんわりと握った。


 思わず手元から目を離してフィリベルトを見る。


 目が合うと、フィリベルトは破顔した。甘ったるい笑顔だ。


「よかった。気持ち悪いと言われてしまったらどうしようかと」


 思わず見入ってしまいそうになる。

 無理やり視線をフィリベルトから引き剥がし、フィリベルトの右腕を左手で軽く叩いた。


「離せ」

「すみません」


 フィリベルトが握っていた手を離す。


 アリアはフィリベルトの手を返し、手のひらを確認する。やはり、満遍なく青白い。


 手首から肘、肘から腕の付け根を順番に見ていく。


 腕の付け根は真っ直ぐ線を引いたように綺麗に色が分かれている。


 アリアは、フィリベルトの腕の付け根、ちょうど色が分かれているところを指でたどる。

 アリアの黒紋と同じように、色の分かれ目は直線だ。


「はは」


 と、突然フィリベルトが控えめな笑い声を上げる。


「どうした?」

「この状況で全くそういう空気にならないのが面白くて」

「君にも私にもその気がないからだろう」

「それはそうですね」


 会話が途切れる。

 今まではそうではなかったのに、何だか急速に妙な空気になったような気がして、アリアはフィリベルトの右腕から手を離した。


「もうよろしいのですか?」

「ああ」


 アリアはフィリベルトから目を離さず、後退して元の位置に戻る。


 フィリベルトはアリアの視線を意に介さず、湯浴みを再開したのだった。

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