6 フィリベルト・ジンデル②
なるほど、と目の前の男を見据える。
この短時間でいくつかわかったことがある。
この男は情報収集能力が高い。
フィリベルトは、先程アリアを『ダールマイアー伯爵』と呼んだ。捕えられてから今までの四年間、ずっと牢獄の中にいたにも関わらず、つい先日爵位を継承し、まだ『伯爵』であると公表されていないアリアを、『ダールマイアー伯爵』と正確に呼んだのだ。
大罪人であるフィリベルトがどのような扱いを受けているのかはおよそ想像がつく。
史上最悪の大罪人がまともな扱いなど受けられない。人間扱いすらされないに違いない。そんなフィリベルトが、今回の結婚はおろか、国内の出来事ですら聞かされるはずがない。
アリアとフィリベルトは今日初めて対面した。
アリアの身体的特徴——ダールマイアーの者に多く見られる黒髪と、腕の付け根まで広がる黒紋で、アリアがダールマイアー伯爵家の者だと察することはできても、『伯爵』なのだと推察することは難しい。
皇帝はアリアを「ダールマイアー伯爵令嬢」と呼んだし、今日は建国祭だ。
制服を着ていたならまだしも、アリアは舞踏会にふさわしいドレス姿だった。
アリアがあの場にいたことを、爵位継承のためだと見抜くのは不可能に近い。
ダールマイアーはあらゆる行事にあらかじめ欠席することを許可されてはいるが、禁止されているわけではない。
過去、看守としてグリニオン監獄に入っている当主以外のダールマイアーの者が様々な行事に参加した例もある。
あの場にアリアが現れたことは、なんらおかしなことではない。
むしろ、当主が看守を務めるためにグリニオン監獄から出てこないということを大衆が知っているからこそ、あの場では皆がアリアを伯爵令嬢なのだと思ったに違いない。
つまり、目の前のこの男は、第三者からダールマイアー伯爵がアリアに代替わりしたのだと聞いたということになる。
それも、爵位の継承に関する業務を行っている役職の者から聞いた可能性が高い。宣布前の情報を、牢獄を見張る守衛が知っているとは考えにくいからだ。
どうやって、という疑問が口から出そうになるも、堪えた。
初めにその姿を目にした時も思ったが、フィリベルトは一見すると、驚くほどにまともだ。
温厚そうで、優しそうな好青年。
柔らかな雰囲気を纏い、フィリベルトの周囲だけ時間の流れが緩やかになるような空気を感じる。
穏やかな笑顔に、耳に心地よい低音の声と話し方。
二百二十人の人間を殺害したとは到底思えない、あまりにも印象が良い男。ただ見つめられただけで、警戒心が削がれる不思議な男。
この四年の間に、この男が城内の者を幾人か懐柔していたとしても、なんらおかしなことではないように思える。
この男——フィリベルト・ジンデルにはそれができる。
そして、この男は、意図的にアリアを『ダールマイアー伯爵』と呼んだ。
婚姻の儀を終え、夫婦になったアリアを、『アリア様』でもなく『アリア殿』でも『アリア』でもなく、わざわざ『ダールマイアー伯爵』と爵位で呼んだ。
アリアが呼び捨てを許可した途端に、何の躊躇いもなく『アリア』と即座に呼び捨てで呼ぶくらいに、他人と距離を詰めることに抵抗やためらいのない男が、わざわざ『ダールマイアー伯爵』と最も他人行儀な呼び方をしたのだ。
明らかにわざとだ。
アリアがどういった反応を示すかを、見ている。
アリアがフィリベルトを観察してどのような人間なのかを見極めようとしているように、フィリベルトもアリアを観察してどのような人間なのかを見極めようとしているのだ。
人好きのする笑顔と物言いで、ごく自然に、こちらを見ている。アリアが自分を観察していることにも気付いている。
それを肌で感じた。互いに腹の内を探り合っているのだ。
二百二十人を殺害した狂人と呼ぶにはあまりにも理性的でまとも、しかし普通と呼ぶには肝の据わり方が異常すぎる。
(——これがフィリベルト・ジンデル)
フィリベルトは、ゆっくりと名残惜しそうに唇を離し、アリアの手を解放する。
「フィリ」
アリアは、フィリベルトをあえて愛称で呼んだ。
実際の愛称がなんなのかはどうでもいい。この男がこれで『勝った』と思ってくれればいいが、もっともこの男はこの程度で勝ったと思ってくれるほど単純ではないに違いない。
フィリベルトは一瞬目を丸くした後、ふわりと嬉しそうに笑った。
まるで本当にこちらに恋情を抱いているかのような熱を帯びた瞳が、アリアを見つめる。
「はい」
「いいだろう。君の望み通りに」
アリアは右手を伸ばし、フィリベルトの頬に触れた。
手袋をしているとはいえ、黒紋のある手に触れられているというのに、やはりフィリベルトは平然としている。
「最期に、この手に口付けすることを許そう」
「嬉しいです、アリア」
フィリベルトが頬を染め、先ほどよりも嬉しそうに笑う。
違和感など一切ない、自然な表情。演技には見えない、心からの表情だとしか思えない表情。
この男は、なんだ。
本当に、ただの従者なのか。
アリアはフィリベルトの頬を撫で、髪を梳くようにして軽く耳に触れてから手を離した。
「敬語は使わなくていいと言ったと思うが」
「これまでずっとこの話し方だったので、いきなり変えるのは難しいです」
「なら、できる限りで構わない」
「ありがとうございます」
馬車に乗るように促すと、フィリベルトは素直に従って先に馬車に乗り込む。
アリアは、これまでフィリベルトが付けていた拘束具と枷を適当にまとめて隅に置いた。
それから御者に行き先を告げ、馬車に乗り込んだ。
フィリベルトの向かい側に腰を下ろすと、馬車が動き始める。
城の明かりが馬車の窓から差し込み、ぼんやりとフィリベルトの姿を照らす。
フィリベルトは笑っていた。穏やかな笑みをアリアに向けている。
しばらく見つめ合う。先に開口したのはフィリベルトだった。
「アリアは強い方なのですね」
何が強いと言いたいのかがわからない。
このまま会話の主導権を握らせてみるべきだろうか。
アリアは黙ってフィリベルトを見つめ、続く言葉を待った。
フィリベルトが笑みを深め、右手で自分の左胸をトントンと指し示す。
「騎士だとは」
どうやら、フィリベルトはアリアの制服の左胸に付いている徽章のことを示していたらしい。
フィリベルトが言葉を続ける。
「しかも、色が金で青の線が三本。首席騎士ですね」
騎士であることを示す徽章は、今年意匠が変わった。
各年の首席騎士は、アリアという例外を除き、全てが王族の側近くに仕える近衛騎士か軍部の頂点に所属し、牢獄の守衛をするなどということはない。
フィリベルトが首席騎士の徽章の意匠を知る機会は無いはずだ。
それを知っているということは、やはり、城内の者を懐柔していることに他ならない。フィリベルトの情報源が複数人いる可能性すらある。
「あなたはダールマイアー伯爵家の者で、おまけに『兄殺し』として有名なお方です。ただ存在するだけで恐怖され、嫌悪され、悪感情を向けられてしまうことでしょう。黒紋を持つあなたは将来伯爵位を継ぎ、グリニオン監獄の看守として監獄で一生を過ごすことが確定しています。騎士の称号を得たところで有益な存在にはならないと誰もが知っています。それにも関わらず、あなたは首席騎士の称号を得ている。騎士になるにはガルデモス帝国騎士団の団長と副団長の承認は必須で、さらに二十人以上の騎士の承認がいると聞きます。剣技や体術はもちろんのこと、教養、礼節、精神性、全てが伴わなければ承認されず騎士にはなれない。年度によっては首席に該当する騎士が出ないことすらある。つまりあなたは、他の者よりかなり不利な状況で、全てをねじ伏せて騎士になった。首席騎士以外はあり得ないと判定されるくらいの圧倒的な強さと優秀さと高潔さで」
素晴らしいですね、と囁くフィリベルトをアリアは無表情に見返す。
「アリアが騎士になった年は特に優秀な者が多かったと聞きます。でも、不作の年だとも言われていますね。首席のあなたはダールマイアーですし、次席騎士はバルバーニー、三席はスカンラン、四席はワイラー、五席はシェルマンでしたから。あなたは看守になりますし、次席のバルバーニーはバルバーニー商会の次期会頭、三席のスカンランも四席のワイラーも五席のシェルマンも、お家のことがあるので騎士団には入れないか、それどころではないようでしたからね。上位の騎士が全員騎士団に入らないのは前代未聞だとずいぶん騒がれたようですね」
アリアが騎士になったのは昨年だ。
その時、フィリベルトは王城の地下牢に投獄されていた。通常なら知り得ないことを、自分は知っているのだとひけらかすように話すフィリベルトに、眉をひそめそうになる。
ただの世間話であるかのようにフィリベルトは振る舞っているが、恐らくこれはただの世間話ではない。
——試されている。
アリアの程度を——出方を知ろうと、試しているのだ。
「それが君に関係あるのか?」
「ありますよ。妻のことを知りたいと思うのは当然の感情ではないでしょうか。おかげで夫婦喧嘩には気を付けないといけないことがわかりました。物理的にはあなたに敵いそうにありません」
おかしそうに笑うフィリベルトは、それ以上の他意などないのだという顔をしている。
「それに」
「それに?」
不自然に言葉を切るフィリベルトに、アリアは続きを促す。
フィリベルトは困ったような、どこか恥ずかしそうな顔をしてアリアから目を逸らした。
「あなたがバルバーニーの息子と親しいとのことだったので。あなたとバルバーニーの息子が恋人同士なのではないかと思ってしまって」
羞恥に染まる瞳が、アリアの方に向く。
そうして、ぽつりと言う。
「もし、アリアがバルバーニーの息子を好いているのだとしたら、凄く嫌です。あなたには、僕だけを見つめて欲しい」
思わず鼻で笑いそうになるが、堪えた。
「確かに、騎士見習いとして過ごしていた時、テディ・バルバーニーとはよく話した。でも、それは私が益になると思ったから向こうが近付いてきただけ。私もあいつが自分の益になるからよく話した。それ以上でもそれ以下でもない」
「友人ですらないとおっしゃるのですか?」
「テディ・バルバーニーはそういう男だ。あいつが私を友だと思ったことはないだろうし、私もあいつを友だと思ったことは一度もない」
「アリアがバルバーニーの益になるとは思えないのですが……」
フィリベルトの言葉で悟る。この男は、聡く、合理的だ。
周囲からあらぬ勘ぐりをされるくらいにはそれなりに親しくしておきながら「友人ではない」と断言したことを咎めるでもなく、客観的な事実を突き付けてきた。
ダールマイアー伯爵家はグリニオン監獄の看守を務める一族であるため、何か事業を展開しているわけでもなければ、領地も持たない。
収入源といえば、『大罪人専用の監獄の看守』という唯一にして無二の特殊な家業に対する補助金のみで、それもさして高額ではない。邸宅を保ち、使用人の給金を支払う程度にしか支給されない。
アリアは社交界には出ず、何の行事にも出席しない。
おまけに、歴代のダールマイアーの者の中でも、アリアは『兄殺しの令嬢』として広く名が知られている上に、腕の付け根までが黒紋に覆われ、強い力を持つ。
誰よりも恐れられ、忌み嫌われるのがアリアだ。
アリアがバルバーニーの益になるくらいに何かを仕入れ、大金を払えるわけでもなければ、新たな人脈や情報を提供できるわけではない。
だから、アリアがバルバーニーの益になるとは思えないのだと、フィリベルトはそう言いたいのだろう。