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檻の中の君  作者: 二井星子
第2章 檻の中
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43 凶行②

 テディの様子にただならぬ何かを感じ取り、アリアは弾かれたように寝台から降りた。指を鳴らすと同時に衣服を夜着から看守の制服へと変え、邪魔な髪も首の後ろで一つに括る。


「来い!」


 アリアの身支度が整ったことを確認し、テディが猛然と走り出す。アリアはその後を追い、さらにフィリベルトが続く。


 普段ならば、テディの足の速さについていくことは容易だ。しかし、今のアリアは三日間眠り続け、ようやく目が覚めたばかりだった。思うように体が動かず、足がもつれてテディに追いつけない。


 見兼ねたテディが舌打ちと共に引き返してきて、アリアに背を向けてしゃがみ込んだ。


「乗れ!」


 緊急時の判断は一分一秒が命運を分ける。見習い時代に受けた騎士の訓練で痛感したことだ。


 アリアは瞬時に、このまま自分で走るよりテディに背負われた方が良いと判断した。一切ためらうことなく、テディの背に乗る。


 テディはアリアの足を支え、素早く立ち上がって体勢を整えると、走り出した。アリアを背負っているとは思えないほどの速度で駆ける。

 その後を、離されることなくフィリベルトが追う。


 テディは中央棟二階の通路から南棟へ抜けると、階段を駆け降りる。


 そうして南棟一階の廊下にたどり着いた瞬間、異変に気が付いた。


 テディの足が止まる。


「下ろしてくれ」

「ああ」


 アリアはテディの背から下りると、廊下の惨状を改めて見る。


 南棟一階の廊下は、大量の鮮血で汚れていた。


 廊下の奥からこちら側に向かって、何かを引きずったような血の痕と一人分の血の足跡が続く。それらは向かって左手、二つ目の扉——『ニ』と書かれた扉の中に消えていた。『ニ』の独房の扉の取手は血まみれだ。


「何が起きた」

「わからない。俺が来た時にはもうこの状態だった」


 アリアの脳裏に、南棟一階に収監された囚人であるアルコルの姿が浮かぶ。


「そこの……『ニ』の独房はアルコルの独房か?」

「いや、じいさんの独房は『七』だ」


 アリアは監獄全体に意識を向ける。南棟一階、『七』の独房には誰もいないが、『ニ』の部屋の中には一人いる。


 『ニ』の部屋の中にいる何者かがその場から動く気配はなかった。ただ佇んでいるだけだ。


 それだけではない。


(一人、足りない)


 今、グリニオン監獄内に七人いるはずの囚人は、六人しかいなかった。


 『ニ』の部屋に一人。


 南棟一階の廊下に二人——これはテディとフィリベルトだ。


 中央棟二階の廊下に一人。


 西棟二階、六番の部屋に一人——これはダグラスだ。


 前庭のガゼボに一人。


 背筋に冷たいものが走る。


 アリアの魔法で感知できるのは、アリアの魔法が及ぶ範囲内にいる、生きている者のみだ。


 死者は感知できず、範囲から出た者もまた、感知できない。


 必然的に、七人の囚人のうち一人が、『死んだ』あるいは『逃げた』ということになる。


 そして、そのどちらであるかは、廊下の惨状を見る限り歴然だった。


「フィリ。君はここにいろ」

「わかりました」


 フィリベルトにこの場に留まるよう言いつけ、アリアはテディと共に『ニ』の独房の扉の前に立つ。


「いざとなったら魔法を使う。その前にこちらに向かってきたら制圧する。いいな?」


 アリアが小声でテディに確認を取ると、テディからは「了解」と短い返答がある。


 テディの返答を確認したアリアは、血に濡れた取っ手に手をかけ、ゆっくりと扉を開けた。


 独房の構造は、どの独房も同じだ。扉を開けると、窓も明かりもない狭い廊下になっている。床には何かを引きずるような血の痕と足跡が続き、密閉された空間には血の臭いが充満していた。


 アリアはテディを伴い、狭い廊下の奥、二枚目の扉まで行く。一度テディに目で合図してから、一気に扉を開けて中に踏み込んだ。


「……っ」


 思わず息を呑む。アリアの目の前には、異様な光景が広がっていた。


 黒い部屋だ、と真っ先に思った。


 独房の中は、イーゼルに置かれたキャンバスだらけだった。


 キャンバスに描かれた絵は人物画から風景画、何を描いたのかわからない絵や、キャンバスをただ塗りつぶしただけのものまで様々だが、全てが黒一色で描かれている。


 壁面を埋めるように飾られた大量の絵も全て黒一色だ。

 絵と絵の隙間から見える壁面も黒い色をしている——よく見ると、黒い壁紙ではなく、黒の絵の具か何かで壁一面が塗りつぶされていることに気付いた。


 床にも大量のキャンバスが打ち捨てられたように置かれているが、やはり、全て黒い絵の具のみで描かれている。


 どうやって飾ったのか、天井までもが壁面と同じ有様だ。


 閉ざされたカーテンの色も黒で、模様とは思えない色むらがあることから、素人がわざわざ黒に染めたことが窺える。


 その異様な室内の中心には、血まみれの隻腕の男性——カストルがいた。


 カストルは横向きに立ち、右手に先端の鋭い太い木の枝を持っている。枝の先端は鮮血に塗れ、その鮮血が床に滴り落ちていた。全身に返り血を浴びたのか、身に纏ったシャツもズボンも、顔面も血だらけだ。足元には、片手でぎりぎり掴めるくらいの大きな石が落ちていて、その石も血に塗れている。


 カストルの正面の床には血溜まりがあり、何かを引きずったような血の痕はそこで途絶えていた。


 アリアとテディが室内に入ってきたことには気付いているはずだが、カストルは微動だにしない。アリアたちの方をチラリと見ることもせず、床にできた血溜まりを見ているようだった。囚人の面に隠されていない口元は無表情だ。


「『枝を床に捨てて、その場から動くな』」


 アリアが魔法と共に鋭く言い放つと、途端にカストルの手が緩み、枝を離した。渇いた音を立てて、木の枝が床に転がる。アリアの方へ横顔を向けたまま、カストルがぴたりと静止する。


 と、その時だ。荒い足音がして、室内に何者かが入ってきた。


「なんだこれは……!?」


 何者かが驚愕を滲ませ、半ば叫ぶように言う。


 アリアはちらりと出入り口の扉の方を見た。入ってきたのは、白金色の髪の男性リゲルとフィリベルトだ。

 フィリベルトが申し訳なさそうな表情をしていることから、無理やり『ニ』の独房に入ろうとしたリゲルを止めようとしたものの、結局入られてしまったことが窺える。


 アリアは、テディとリゲルに順繰りに視線を送り、開口した。


「恐らく、ここにあるのは毒石の絵の具で描かれた絵だ。鼻と口を塞いでおけ」

「毒石だと……!?」


 リゲルが驚いた様子で周囲を見渡し、それからあごに手をやって黙り込む。


 テディとフィリベルトは、無言でシャツの袖を引っ張り、鼻と口を覆うようにして当てた。


 『ニ』の独房からは、執務室兼書斎では感じられなかった甘いにおいが、はっきりと確認できる。これが、フィリベルトの言っていた金黒石の絵の具のにおいなのだろう。間違いなく、金黒石から作られた絵の具が使われている。


 アリアはカストルに視線を戻す。


「ここで何をしていた?」

「殺しただけだ」


 カストルは即答した。何の感情も読み取れない平坦な声が、何でもないことのように答える。


「誰を」

「アルコルを」


 カストルは考えるそぶりなく答える。


 視線を感じる。カストルが囚人の面の下、横目でアリアを見ているのだろう。


「その枝で刺して?」

「そう。あとは石で殴った」

「最初にアルコルに危害を加えたのは別の場所だな。引きずってここまで連れてきたのはなぜだ」

「その点については黙秘する」


 カストルが初めにアルコルを襲ったのがこの部屋ではない別の場所であることは、廊下の惨状を見れば明らかだ。


 さらに言えば、アルコルは身長が高く、標準体型。隻腕のカストルがここまで引きずってくるのはそれなりに大変だったはずだ。理由もなくしたことだとは思えない。何らかの理由があって、ここまで引きずってきたのだろう。


「なぜアルコルを殺した?」

「邪魔だろう」


 澱みなく答えるカストルに、アリアは黙り込む。その口ぶりが、まるで看守のアリアのために邪魔者を排除したとでも言いたげだったからだ。


「あいつを生かしていても、皆死ぬだけだろう。看守の仕事の邪魔になるだけだ。生かす意味がない」


 『あいつを生かしていても、皆死ぬだけだろう』という発言から察するに、カストルはアルコルの正体がアラステア・ケメーニュ・ノイラートであることを知っている。アラステアが人を殺さずにはいられない人物であることも知っているに違いない。さもなければ出ない発言に思える。


 さらに、アルコルの正体を知った上で、あえてアルコルの本名を出さないようにした。


 カストルのアリアに対する発言は全て、アリアがアルコルの正体を知っていると確信している言い方だ。カストルの様子からも『看守はもう気付いているだろう』と思っていることが窺える。


 カストルは、アリアがアルコルの正体を見抜いていると確信しているにも関わらず、アラステアの名前を出さなかった。つまり、この場にいるアリア以外の三人のうちの誰か、あるいは全員に対し『アルコルの正体を明かさない方が良い』と判断したということになる。


「アルコルの死体は?」

「ない。魔力爆発で消えた」


 それは妙な話だ。


 魔力爆発が起きたにしては、何も起きていない。よほど範囲が狭かったか、もしくはまだ気付いていないだけで何か影響が出ているのだろうか。


 それに、先程フィリベルトに渡された囚人たちの身体検査の結果として描かれた絵には、アルコルの体に魔力染みは無かった。


 アリアが再び黙り込むと、リゲルが舌打ちと共にアリアとテディを押し退けて素早く前に出た。


 アリアが止めるより先に、リゲルがカストルの胸ぐらを掴む。

 勢いよく両手で掴んだせいか、リゲルのシャツのボタンが弾け飛んで床に落ちる。


「やってくれたな。なぜ殺した? 自分が何をしたのかわかっているのか」


 怒りとわずかな困惑の入り混じった声で、リゲルが言う。


 カストルは微動だにせず、口元にうっすらと笑みを浮かべた。


 ただ笑っているだけなのに、不気味な笑みだと感じるのはなぜだろう。


 アリアと同じように、リゲルも不気味に感じたらしい。ぎょっとして胸ぐらから手を離した。


 カストルは一度小さく咳払いすると、吐き捨てる。


「おまえに話すことはない」


 リゲルは口を開きかけたが、結局何も言わずに黙り込む。


 カストルは一切動揺した様子もなく、緩慢な動作でシャツを整え始めた。

 ボタンが弾け飛んだせいで大きく開いて胸元まで見えるシャツを合わせ、裾をズボンに仕舞い込む。鎖骨の中心にほくろがあるのが見えた。


 と、リゲルが大きく息を吸い、それから「どうして」と弱々しく呟く。


(なんだ……?)


 突然、リゲルの纏う空気が変わった。囚人の面で顔面の大半が隠されているが、明らかに血の気が引いた。


 リゲルはそれ以上何も言わず、口元に手をやって何かを考え込む。


 カストルはその様を見ているだけで何も言わない。


 状況は疑問だらけだが、まだ確認することがある。一つ息を吐き、アリアは開口した。


「独房のこの有様はなんだ?」

「ああ、看守は知らなかったか」


 嫌味ではなく、アリアが知らなかったことをただ確認するような口調で、カストルが言う。


「この独房はアルコルの画室になっている」

「画室」


 アリアは再度室内を素早く見渡す。


「これらは全てアルコルが描いたものなのか?」

「ああ」

「壁も天井も絵で埋め尽くしている理由は? なぜ毒石の絵の具ばかりを使っている?」

「それは本人に聞かないとわからない。まあ……俺が殺したからもう聞くことはできないが」


 だとすれば、執務室兼書斎に飾ってあったアリアとクラウス、ヴィリバルトと母親の肖像画は、アルコルが描いたものに違いない。この部屋にある人物画と描き方が酷似しているからだ。


 つまり——つまり、どういうことなのかがわからない。


 アリアの思考は混迷を極めた。なぜ、ヴィリバルトは、アルコルの描いた絵を執務室兼書斎に飾ったのだろう。二人の関係性を思えば、アルコルから絵を贈られたところで、ヴィリバルトが素直に受け取るとは思えない。何かあると考えるのが普通だ。まして、飾るなどといったことをするわけがない。


 アリアは小さく息を吐き、指を鳴らすと同時に魔法を使った。カストルのシャツのボタンを元に戻し、あちこちに付着している血痕を消した。


「わかった。今、君に聞くことは以上だ」


 それから、アリアは魔法を使い、カストルの行動に制限をかける。


「『君は独房に戻って、明日いっぱいまで部屋から出るな。』食事は部屋に用意する」


 カストルは「ああ」と短く答え、アリアに命じられた通り、室内から出ていく。

 アリアはその背を見送ってから、室内に残る面々を見渡した。


「君たちも独房に戻れ。フィリベルトは執務室兼書斎にいるように」


 アリアの指示を受け、フィリベルトは「わかりました」と頷き、テディは「ああ」と返答する。二人が室内から出ていった後、リゲルが無言でのそりと動き出す。


「リゲル」


 アリアが呼び止めると、リゲルは足を止めた。


 アリアはそばまで行き、リゲルに耳打ちする。


「後で君の独房まで行く。それまで独房で待機していてくれ」

「北棟二階、十一」


 リゲルは返答の代わりに自らの独房の場所を吐き捨て、アリアを一瞥することなく室内から出ていった。

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