41 戸惑い④
「な……にを」
フィリベルトは、何を言っているのだろう。
(クラウスがエントウィッスル侯爵家にいた? クラウスとフィリベルトが、親友?)
クラウスが生きていたことは、オーレリアからの報告で把握していた。だが、それがまさかエントウィッスル侯爵家にいたとは。
いや、それよりも——。
感情を無視して、頭が勝手に理解してしまう。
耳元で鼓動が聞こえるかのように、心臓が早鐘を打つ。息を吸っても吸っても、吸っている気がしない。
フィリベルトは、クラウスと『親友でした』と言った。
——過去形だ。現在も関係が続いている言い方ではない。
縁を切ったのだろうかとも考えたが、きっと、そうではない。高確率で違う。確証はないのに、フィリベルトの纏う雰囲気で縁を切ったわけではないのだと悟る。だとすれば、クラウスはきっと——。
「あなたは賢い方だ。わかってしまったのですね」
フィリベルトの手が離れ、視線が逸らされる。そのまま、静かに言う。
「クラウスは死にました。もうこの世にはいません」
——クラウスが、死んだ。
頭の中が真っ白になる。何もかもがおぼろで、薄い膜を一枚隔てたような、地に足がついていないような、そんな感覚がした。
覚悟はできていると思っていた。
アリアがクラウスを滝壺に突き落としたとされた事件の後、クラウスが生きていたということは目撃証言からわかるが、それ以降の足取りは不明だ。生きている可能性も、死んでいる可能性も、どちらも等しくあった。
生きていて欲しいと強く思ったが、死んでいる可能性も十分ある。それでも、いかなる場合でもクラウスの行方を知りたいと思った。
生きているなら会いたいし、死んでいるならどうして死んだのかを知った上で墓前に花を供えたい、そう思っていた。
クラウスが死んでいる場合に備えて、心の準備をしていたはずだった。しかし、結局のところ、覚悟ができていると思っていただけで、本当の意味での覚悟などできていなかったのだ。そのことを、フィリベルトの口からクラウスの訃報を聞かされた瞬間に悟った。
「クラウスは……『エントウィッスル侯爵家のあれ』で死んだのか?」
アリアの口からはかすれた声が漏れ出る。これだけは確認しなければ、とやっとのことで問いかける。
フィリベルトは『エントウィッスル侯爵家のあれ』の犯人ではないが、あの凄惨な事件の何かに深く関わっている。
もし、クラウスが『エントウィッスル侯爵家のあれ』で命を落としているのなら、フィリベルトはクラウスの死にも深く関わっている可能性が高い。
フィリベルトの視線がアリアの方に向く。そうして、フィリベルトはゆっくりと首を横に振り、今にも泣き出しそうに顔を歪めて「いいえ。それよりも前に」と弱々しく囁いた。
「なら、どうして……」
どうして、クラウスは死んだ。
病気だったのか? 事故だったのか? なぜ、死んでしまったのか。
怒りなのか悲しみなのか、あるいはそれ以外の何かなのか、自分にもわからない激情がアリアの胸中を駆け巡る。それらが叫びになって口から飛び出しそうになるが、忌々しい魔力作用が邪魔をしてうまく言葉が出ない。
「アリア」
フィリベルトが動いたかと思えば、気づいた時にはアリアはフィリベルトの腕の中にいた。
瞬間、理由もわからず体から一気に力が抜ける。振り払うことができなかったのは、フィリベルトがアリアと同じか、それ以上にクラウスの死に対して納得しておらず、深い悲しみを抱いているのがわかったからだ。
「クラウスは殺されました」
「こ……」
思わず絶句する。フィリベルトの言葉が頭の中で何度も何度もこだまして、じわじわと侵食していく。
「……殺された?」
「はい」
耳元で、フィリベルトが肯定する。
殺された。
クラウスが、殺された。
「誰にだ」
「わかりません。僕とロニー様が気付いた時には、クラウスは何者かに殺害され、亡くなっていました」
(——『わかりません』? 『気付いた時には亡くなっていた』?)
途端に強烈な違和感を覚える。
フィリベルトは今、クラウスは殺されたのだと言い、誰が殺したのかわからないと言った。さらに、気付いた時にはクラウスは死んでいた、とも。
フィリベルトは断定の口調だった。つまり、予測ではなく、事実に基づいて発言しているということだ。
だとすれば——。
(フィリベルトは、どうやってクラウスが殺されたことを知った?)
クラウスには、アリアとは逆の手に魔力染みがある。
魔力染みを持つほど魔力の多い者が亡くなった場合、事切れた瞬間に魔力爆発が起こり、遺体は髪の一本ですら残らない。
誰の犯行かわからないと言うからには、フィリベルトはクラウスが殺される瞬間には居合わせていない。第三者がその瞬間を目撃したわけでもない。目撃者がいるなら、クラウスを殺した者の特徴が目撃者から直接か間接かでフィリベルトの耳にも入っているはずだからだ。
気付いた時にはクラウスは何者かに殺害され、亡くなっていました、という発言から、フィリベルトが瀕死の状態のクラウスと対面したわけでもないことがわかる。
『気付いた時には』という言葉からは、クラウスがフィリベルトの知らないところですでに事切れていたということが伝わる。何者かに襲われたクラウスが、瀕死の状態で殺されそうになったことをフィリベルトに伝えたわけではない。
一体、何をもってして、『殺された』と判断したのだろう。
考えたくもないが、刃物の類いで斬られるか突かれるかして血が流れた場合、体外に流れ出た血は魔力爆発に巻き込まれずにその場に残る。
その血痕を見たのだとしても、遺体の無い状況で血痕がクラウスのものであると断定はできない。その場で人が死んでいる判断材料にはならないし、ましてやそれが誰のものかなど判断のしようがない。そもそも人のものではなく動物のものである可能性だってある。
血痕の有無に関わらず、それ以降クラウスの姿が見えなかったのだとしても、誰も見ていない上に遺体が無い状況では、真っ先に『失踪した』となるはずだ。『殺された』にはならない。
それに——フィリベルトは、魔力爆発の影響を受けずに動いている。
ダールマイアーのこの黒の魔力染みは、手首までのものですら魔力爆発が起これば自然消滅するまで数百年はかかる。手首以下の魔力染みだとしても、数十年、数年——自然消滅するまで確実に年単位で時間がかかる。
その間、魔力爆発の有効範囲内にいる者は脱力し、全く動けなくなってしまう。
フィリベルトは先程、クラウスは『エントウィッスル侯爵家のあれ』で亡くなったのではなく、それより前に亡くなったと言った。
『エントウィッスル侯爵家のあれ』が起きたのはフィリベルトが十五歳の時だ。さらに、クラウスがアリアに殺されたとされた時、クラウスはアリアと同じ十歳。
フィリベルトとクラウスの年齢差は三歳であるから、『エントウィッスル侯爵家のあれ』より前にクラウスが殺されたとすれば、フィリベルトが十三歳から十四歳の間、クラウスが十歳から十一歳の間に事が起きたということになる。
『エントウィッスル侯爵家のあれ』は体を動かすことができなければ起こせないし、エントウィッスル侯爵家を始めとするエジーテの街の中や、ガルデモス帝国内で『動けなくなる』事件が起こったという記録はない。
クラウスが死に、魔力爆発が起きたとすれば、そもそもフィリベルトはここにいない。脱力したまま、動くことも話すこともできずに餓死しているはずだからだ。
クラウスが殺された時、フィリベルトとロニーが魔力爆発の有効範囲外にいたのだとしても、『殺された』と断言するからにはその根拠を見つけていることになる。
つまり、事実確認のためにクラウスが息絶えた場所に接近するか、あるいは接近した上で根拠を見つけたということだ。確実に有効範囲内に入っている。
どうして、魔力爆発が起きていないのに、クラウスが殺されたと断言しているのだろう。
(フィリベルトは、クラウスに魔力染みがあることを知らないのか? だから、何かを見てクラウスが殺されたと勘違いしている……?)
死んだふりをしているクラウスが、自分がダールマイアーの人間であると——クラウス・ダールマイアーであると明かし、親友だというからには深く信頼を寄せ、親しくしたであろうフィリベルトに、魔力染みの存在のみを隠すだろうか?
どうやって、クラウスの魔力染みの存在を知っていたか否かをフィリベルトに確認すればいいのだろう。
どうやって、クラウスが殺されたと断言する理由を聞き出せばいいのだろう。
あまりにも気が急いて、思うように頭が回らない。
直球で聞けばこちらが疑念を抱いていることに気付かれる。何か、方法を考えなければ——。
アリアは抱き締めるフィリベルトの背に、両手を回した。
待っていたとばかりに、フィリベルトにさらに抱き寄せられる。体が密着し、フィリベルトの体温が直に伝わる。
(クラウスは本当に殺されたのか? フィリベルトが嘘をついているのか? だとすれば、そんな嘘をつく理由はなんだ?)
アリアは背に回した腕に力を込め、フィリベルトのシャツを固く握りしめる。
できることなら、今すぐ問いただしたい。だが、そうしたところでフィリベルトが話すわけがない。何をしても無駄なのはわかっている。
「アリア」
フィリベルトがさらに擦り寄り、耳元で苦しそうに名前を呼ぶ。
今にも泣き出しそうなフィリベルトの声に意識を奪われ、ひねり出そうとしていた問いが頭の中から吹き飛んでしまう。
アリアを抱き締めるフィリベルトの手に、力がこもる。
「あなたのお兄さんを守ることができず、申し訳ありませんでした」
「君のせいじゃない」
気付けば、アリアの口から言葉が飛び出していた。
「君のせいじゃない、フィリベルト」
なだめるように繰り返し、アリアもフィリベルトを抱き締める手に力を込めた。
フィリベルトが何を隠しているのかはわからない。
それでも、本当にクラウスが亡くなっているのだとすれば、それはフィリベルトのせいではない。悪いのはクラウスを殺害した何者かだ。
「アリア……」
すがるような響きの声で名前を呼ばれ、一段と強く抱きしめられた後、解放される。
フィリベルトは近距離でアリアを見つめたまま、真剣な表情で言う。
「アリアは……もし、クラウスを殺した者を見つけることができたら、どうしますか?」
——クラウスを殺した者を見つけたらどうするか?
(そんなものは決まっている)
アリアの中ですでに答えは決まっている。
フィリベルトの発言に疑問は残るものの、もし本当にクラウスが殺されていた場合、取るべき行動は一つだ。
「殺す」
アリアは湧き上がる殺意を短い言葉に乗せ、吐き捨てた。
たった一人の兄。大好きな兄。何よりも大切なアリアの半身。こうして今生きていられるのも、クラウスが心の支えになってくれたからだ。
その兄の命を無情にも奪った者がいて、その者と対面するようなことがあれば、アリアはその者の命を奪うつもりでいた。できることなら、クラウスが味わったであろう恐怖や痛みや絶望を、倍にして返してやりたいとすら思う。
アリアが殺意を口にすると、フィリベルトはかすかに笑った。どこか安堵したように小さく息を吐く。
「必ずその者の命を奪うと、誓っていただけますか?」
「ああ」
アリアは頷く。
それにしても妙な質問だ。先程までもしもの話をしていたのに、フィリベルトからたった今投げかけられた質問は、『必ずその者の命を奪うと誓えるか?』という、確実性を問うものだった。
もしもの話が前提の問いではないように思えるし、フィリベルトの口ぶりはまるでアリアがその者と対峙するとでも言いたげだった。
どういうつもりなのだろう。フィリベルトの発言を疑問には思ったものの、聞いたところで答えない予感がした。
「ありがとうございます」
アリアの返答に、フィリベルトは心底嬉しそうに笑う。
その笑顔に妙な胸騒ぎを覚えるも、原因がわからない。
不可解な状況であるのにクラウスは殺されたのだと断言し、さらにはその犯人を必ず殺すと誓えなどと、フィリベルトが妙なことを言い出したからかもしれない。だから、不穏な何かを感じ取って胸騒ぎがしたのだろう。
フィリベルトはテーブルに向き直り、ゆっくりとティーカップに手を伸ばした。と、持ち手に触れる寸前で手を止め、アリアの方を見た。
「そろそろ、よろしいでしょうか?」
遅効性の毒かを確認する時間を終え、このまま茶を入れてもいいか、とフィリベルトは聞きたいらしい。
「ああ。もう十分だ」
確認は十分だろう。フィリベルトの体には何の症状も出ていない。
フィリベルトは先程自分が使用したティーカップを手に取った。
「あなたに僕が使用したティーカップを使うのはあまり気乗りしませんが……こちらのティーカップを使用した方がよろしいでしょうか?」
どうやらフィリベルトは、アリアの内心を察しているらしい。
フィリベルトが、使用していないもう一つのティーカップの内側に毒を塗るか何かをしているとは思いたくないが、可能性がないとは言い切れない。
「そうだな」
アリアが頷くのを確認してから、フィリベルトがティーポットに手を伸ばす。
アリアは、フィリベルトがティーカップに茶を注ぐ様子をじっと見つめた。
動きに不審な点はない。注がれた茶から立ち上る湯気が、時間の経過に対してやけに多い気がするが、それだけだ。
「どうぞ。こちら側は僕が口をつけてしまいましたので、アリアはこちらからお召し上がりください」
「わかった」
フィリベルトは、自らが口をつけた箇所を避けるようにティーカップを回し、向きを逆にすると、アリアの前のテーブルに置く。
アリアはティーカップを手に取り、口元に持っていく。先ほど感じた、茶の匂い以外の何か——甘い匂いがふわりと香る。
ひとまず、一口だけ口に含んでみる。刺激はない。味に変化も見られない。アリアはそれから、口内の茶を一息に飲み込んだ。体に異変はない。そのまま少し待ってみたが、何も起きなかった。
大丈夫だと判断したアリアは、続けて二口、三口と茶を飲んだ。
(やっぱり、熱すぎる気がする)
ティーカップに注がれた茶は、まるでたった今用意したかのように熱い。
アリアはティーポットに目をやる。見る限り、何の変哲もない一般的なティーポットだ。中身が冷めにくいようになっているわけでもなさそうだった。
フィリベルトが茶の用意をしてここに戻ってきてから、だいぶ時間が経過している。それにもかかわらず、全く冷めることなく温度が保たれているのはどういうことなのだろう。
疑問に思いながらも茶を飲み、ある程度飲んだところでティーカップをテーブルに置く。
「フィリ」
続く言葉は声にならなかった。猛烈な眠気に襲われ、ぐらりと体が傾ぐ。
倒れかけたアリアの体をフィリベルトが支え、自らにもたれかけさせる。
抗えないほどの凄まじい眠気のせいで、体を動かすことができない。目を閉じないようにするので精一杯だ。
「な……」
「ああ、アリアはこれには耐性がないのですね」
肩を抱くフィリベルトの手が、あやすようにアリアを撫でる。
「耐性がない場合は少々効き過ぎてしまうかもしれませんが、大丈夫です。ただの眠り薬ですから。アリアがあまり眠っていないようでしたので、お疲れかと思い、薬草を調合しました。毒ではありませんのでご安心ください」
(眠り薬……)
眠気のせいで思考が鈍る。眠いということ以外に何も考えられない。
「アリアの代わりに、僕が厄介事を済ませておきますね。どうぞ、ゆっくりお休みください」
(厄介、事……?)
なおもフィリベルトは何かを言っていたが、もはや何を言っているのか聞き取れなかった。
アリアのまぶたは完全に閉じられ、深い眠りに落ちていった。




