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檻の中の君  作者: 二井星子
第2章 檻の中
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40 戸惑い③

 アリアが問うと、フィリベルトは控えめな笑い声を上げる。


「何、とは?」


 わざとらしいすっとぼけた返答に、思わず舌打ちしそうになるが、堪える。


「わずかだが、ここにある茶葉にはない匂いがする。砂糖や牛乳やヤギ乳、ジャム、一般的に茶の味を変えるために入れるものを入れた時の匂いでもない。全く別の何かだ」


 目の前のティーカップからは、注がれた茶の匂いに紛れてわずかに花の匂いのような甘い香りがした。


 グリニオン監獄に入ってからアリアが在庫を確認した数種の茶葉では、淹れ方を変えたところでこの匂いは出ない。


 もちろん、別々の茶葉と茶葉を混ぜてもこの匂いにはならないし、砂糖や牛乳やヤギ乳、ジャムや果汁、そういったものが混入している匂いでもない。全く別の何かが混入している。


「まるで、僕が毒を入れたかのような口ぶりですね」

「違うのか?」

「毒ではありませんよ」

「毒では(・・)? ならば君は、何かを入れたんだな?」


 横目でフィリベルトを見やる。フィリベルトは真っ直ぐアリアを見つめ、微笑んでいた。


「心を落ち着かせる……癒しの効果がある薬草を少々入れました。お味は少し甘くなる程度でさして変わりませんので、安心してお召し上がりください」

「そう言われて飲むと思うか?」

「いいえ」


 即答だ。答えを迷うそぶりすらなかった。


「ですので……」


 フィリベルトの手が、今し方アリアがテーブルの上に置いたティーカップとソーサーに伸びた。そうして手に取り、笑みを濃くする。


「こちらは僕がいただきます。アリアは、僕の体に何も起きないことを確認してからお飲みください」


 そう言うや否や、フィリベルトは流麗な動作でティーカップを口元に運んだ。


 一口、二口、三口——フィリベルトが茶を飲み下す。


 ややあって、フィリベルトは口元からティーカップを離すと、「ご確認ください」とアリアに向かって口を開けた。口内には何も残っていない。

 それから、空のティーカップをアリアに見せる。どうやら、一滴残らずきちんと飲み込んだらしい。


「即効性の毒でしたら、すでに僕は死んでいますね」


 あっけらかんとした様子で、どこか楽しそうにフィリベルトが言う。


「遅効性だったら?」

「では、それを確認するために少し話をしましょう」


 フィリベルトは、空になったティーカップとソーサーをテーブルの上に置き、ソファーの背もたれに体を預ける。


「話?」

「ええ。お互いを知るための話です」


 フィリベルトがアリアの腕を軽く引き、自分と同じようにソファーにもたれるよう促す。


 アリアはフィリベルトから目を離さず、ひとまず背もたれに体を預けた。


「アリアの好きなものは何ですか?」

「好きなもの?」

「食べ物でも動物でも、するのが好きなことでも、好きな場所や好きな色、何でも構いません」


(好きな……もの……)


 問われて初めて、アリアは、自分には何もないことに気が付いた。


 好きなものがあるだろうかと改めて考えてみても、何も思い浮かばない。


 アリアにとって飲食物は、生命を維持するために摂取するものであって、そこに好き嫌いはない。

 長い間、どんなものでも摂取しなければ死ぬ環境だった。だから食べたり飲んだりする。それだけだ。


 動物は動物だ。特定の種を好きだと感じることなどない。


 するのが好きなこと、というのもない。アリアの行動は全て、必要だからしていることだ。

 身に付けた技能も知識も全て、習得した理由は『好きだから』ではなく『必要だから』だ。


 アリアが他人や場の状況を深く観察し、あらゆることを推察するのに他よりも長けていることも、元をたどれば母親や戦闘技術の指南役からの折檻と拷問を軽減し、最低限の世話をしてくれる使用人を見極めるために身に付いてしまった能力だ。


 相手の機嫌を、心の機微を、状況を——全てを読み取って最適な言動を取らなければ、より酷い目に遭った。

 頼る使用人を見極めなければ食事にありつけないこともあったし、体調が良くない時に薬を得ることができなかった。

 好きでこうなったわけじゃない。こうならざるを得なかっただけだ。


 好きな場所、というのもない。


 アリアにとっての世界は、ダールマイアーの邸と周囲の深い森で完結していた。やがて看守が交代すれば、そこにグリニオン監獄が追加される。永遠に逃れられない檻の中が、アリアの居場所だ。


 ダールマイアーの邸の中に、安息を得られる場所は存在しなかった。

 全ての部屋の鍵を管理していたのは母親で、アリアがどこに逃げ込もうが鍵をかけようが見つけ出されたし、隠れて見つかった後は必ず酷い目に遭った。


 母親は時間帯に関係なくアリアを折檻し、拷問した。


 就寝時も例外ではない。就寝中に母親が来た時に備え、アリアは自然と周囲の気配に敏感になり、自らに危害を加えようとする気配が近付いた時に飛び起きるようになった。


 好きな色もない。色は色だ。特定の色に好ましさを感じたことはない。


 他のものも同様だ。自分を取り巻く何かに対して、特段好きだと感じるものはない。


 アリアが好きだと感じるのは、唯一、クラウスだけだ。だがそれは、回答としてはフィリベルトの質問に即していない。フィリベルトは、人物以外の何かで好きなものはあるのかと聞いているのだろう。


「ちなみに僕は、食べ物では干物が好きです。動物は犬。時間を気にせず何かに没頭することが好きですので、ゆっくり本を読んだり、絵を描いたり、刺繍したりすることが好きです。体を動かすことも好きですね。好きな場所は水辺です。日の光を受けて輝く水面を見るのが好きです。市場も好きですね。活気のある様を見ていると心が弾みますから。好きな色はご存知かと思いますが、青です」


 返答に窮するアリアを見兼ねたらしいフィリベルトが、なだめすかすように言う。


 大丈夫だと語りかけてくるかのようなフィリベルトの視線に耐え切れなくなって、アリアは目を逸らす。


「私には何もない。何が好きなのか、考えたこともなかった」

「それは仕方がないことです」


 フィリベルトは静かに言う。右手を伸ばし、そっとアリアの左手を握る。


 アリアは握られた左手に視線を向けた。触れられたのは何度目だろう。やはり、不思議と不快ではない。


「あなたは壮絶な環境にずっといた。いえ、ずっといなければならなかった。僕には、あなたの心境を軽々しく『わかる』などとは言えません。ですが、考える余裕すらなかったと想像することはできる」


 フィリベルトの親指が、ゆっくりとアリアの手の甲をなぞる。労るように、何度も何度も撫でる。


「大丈夫ですよ。今何もなくても、これからゆっくり探していけばいいんですから。色々なものに触れて、色々な感情を知って、何に心が動くのか、何が好きなのかを知っていけばいい」


 随分と妙なことを言う。フィリベルトの口ぶりは、アリアが看守の任から解放され、ここから出られることを前提にしているかのようだ。


「ここから出られないのに?」


 とっさに、口調は淡々としているものの、皮肉のこもった言葉が口につく。


「いいえ、あなたはここから出られます」


 断言だ。


 とはいえ、ことはそうそう簡単な話ではない。世間一般からしたら、ダールマイアーの役目は王命により定められているだけのように思えるだろうが、実際は強力な制約の魔法と約束の魔法に縛られている。


 制約の魔法により、『黒紋を持つ者が伯爵位を継ぐ』『黒紋を持つ者は看守としてグリニオン監獄で一生を過ごす』『黒紋を持つ者は看守としてグリニオン監獄に入ったら、監獄より外に出ることはできない』『看守のいるグリニオン監獄に、他のダールマイアー一族の者が入るのを禁ずる』と定められ、約束の魔法によって『黒紋を持つ者はダールマイアーの役目から逃げることを禁ずる』と定められている。

 これら二つの魔法がある限り、アリアはグリニオン監獄から出ることはおろか、逃げたいと考えることすらできない。


「どうして言い切れる」


「僕が『媒介』のありかと破棄の方法を知っているからです」


 驚きのあまり、顔を上げてフィリベルトを見る。目が合った途端、フィリベルトはふわりと笑った。


「僕は、あなたたちダールマイアーを役目に縛り付ける制約の魔法と約束の魔法が刻まれた『媒介』が何であるか、どこにあるのか、どうやって破棄するのか——全てを知っています。僕はあなたをここから出すことができる。だから、断言しました」


 嘘だろうか。それとも、本当だろうか。


 フィリベルトは、どうしてダールマイアーの一族を縛る制約の魔法と約束の魔法の存在を知っているのだろう。


 ヴィリバルトがダグラスに教え、ダグラスからフィリベルトに伝わったということだろうか。


 ならばなぜ、『媒介』のありかを知っているのか。おまけにフィリベルトは、『媒介』が何であるのか、どうやって破棄するのかについても知っていると言った。


 『媒介』が、ごく一般的に制約を交わす際に使用される書類の類い——紙でないことは、アリアも予想していた。


 オーレリアによると、過去、制約の魔法や約束の魔法を用いて取り決めをした際の記録には、書類で交わしたなら『書類』だと、口頭で交わしたなら『口頭』だと明確に書かれている。それはガルデモス帝国内だけでなく、他国でも同様だ。だとすれば、『媒介』と書かれた意味がわからない。


 媒介に刻んだ、と書かれている以上は文字を刻める何かなのだろうが、その実体が想像できない。一体、何に制約と約束を刻んだのだろう。


 『媒介』については一切が不明だ。ダールマイアーの一族間には何も伝わっておらず、記録も残っていない。フィリベルトはなぜ、それを知っているのか。


「なぜそれを知っている?」


 フィリベルトは途端に口を閉ざした。困ったように微笑む。話す気はないらしい。


「……君は、私を今すぐここから出すことができる?」


 ぽつりと呟く。


 アリアの手を握るフィリベルトの手に、わずかに力がこもる。


「その答えは半分が『はい』で、半分が『いいえ』です」

「どういうことだ?」


 言っている意味がわからない。フィリベルトは困ったように微笑んだまま、今度は口を開く。


「今はまだ時期ではありません。あなたを解放するには、もう少し待たなければなりません」

「もう少しというのはどのくらいだ?」


 フィリベルトは静かに首を横に振った。


「わかりません」


(……わかりません(・・・・・・)?)


 アリアは内心で盛大に首を傾げた。


 今は時期ではないと断言したことから、フィリベルトにはその時期がいつであるのか具体的にわかっているように思えた。


 待たなければならない期間を『もう少し』と表現したことからもそれがうかがえる。明確な日数がわからずとも、具体的なおおよその時期がわかっていなければ、『もう少し』とは言わない。もう少しの程度は個人差があるものの、直近でなければ言わない表現には違いない。


 それなのに、フィリベルトから返ってきた答えは『わからない』だ。


 疑問はまだある。もう少し待たなければならないというのなら、今すぐここから出せるのかというアリアの問いへの答えは『いいえ』でいいはずだ。しかし、フィリベルトは半分が『はい』で半分が『いいえ』だと言った。


 奇妙な違和感を覚える。


「時期さえきたら、必ずあなたをここから解放します」


 フィリベルトは不意に真剣な顔付きになる。何かの決意を固めた、強い視線がアリアを射抜くように見ている。


「それまでは、僕の全てをかけてあなたを守ります」


 アリアには、目の前のこの男が何を考えているのかがわからなかった。アリアを殺そうとしているはずのフィリベルトは、心からの言葉としか思えない様子であなたを守ると言い、挙句本気でアリアに恋情を抱いている。


 何が嘘で、何が本当なのだろう。


 アリアの内心の困惑を感じ取ったのだろうか。フィリベルトはアリアを安心させようとしてなのか、柔らかな笑みを浮かべる。


「アリアは、ここから出たら何がしたいですか?」


 アリアは、テディやラース、ルーシャンやオーレリアと知り合うまで、ダールマイアーの役目を果たすことしか考えていなかった。


 約束の魔法により、逃げたいと考えただけで命を失うことになるし、実際に行動に移せば制約の魔法により命を失う。受け入れる他なかった。


 四人と知り合ってからは、クラウスが生きている可能性が浮上した。それからはクラウスの生死を確認することだけがアリアの望みであり、ダールマイアーの役目から解放されたいと望むようになった理由もクラウスの生死を確認するためだ。

 アリアは、クラウスのためにダールマイアーを縛り付ける制約の魔法と約束の魔法を破棄しようとしている。


 フィリベルトの問いに対するアリアの答えは、『クラウスを探しに行き、生死を確認したい』だ。


 叶うならばクラウスと普通の生活がしたい。何に縛られることもなく、その日の天気に一喜一憂するような、些細な生活を送りたい。それ以外には何もない。


 アリアには、グリニオン監獄に入り、看守として一生を監獄で過ごすという選択肢しかなかった。『逃げたい』と考えさえしなければ、約束の魔法を破ることにはならない。もしもダールマイアーから抜け出せるなら、という妄想は好きなだけ考えることができた。

 だが、他の生き方を考えてみたことはない。考えたところで無駄で、虚しくなるからだ。ダールマイアーの役目からは逃れられない。


 クラウスのことを、フィリベルトにどう説明するか。


 フィリベルトは、アリアがクラウスを滝壺に突き落としたとされる事件が起きた直後、クラウスが生きていたことを知らない。世間で言われているように、アリアがクラウスを殺したと思っているだろう。


 アリアは返答に詰まり、黙り込む。


 閉口したアリアに何かを察したらしいフィリベルトが、優しげな笑みを向ける。


「アリアには、双子のお兄さんがいますね。やはり、お兄さんに会いに行きたいですか?」


 予想外の話題を切り出され、思わず過剰に反応しそうになるが、平生を装う。


(——『お兄さんに会いに行きたいですか?』だと?)


 フィリベルトの発言は、クラウスが死んでいないことを知っていないと出ない発言だ。


「兄に会いに行きたいか、だと?」

「ええ。クラウス・ダールマイアー。あなたが殺した、お兄さんです」


 アリアは黙り込んだ。


 今度はアリアが殺したのだと断言したフィリベルトの腹の内が読めない。一体、何のつもりだろう。何を思い、何の目的があって、クラウスの話題を切り出したのか。


 真意を探ろうとアリアが視線を向けるも、やはりフィリベルトの優しげな笑みは微塵も揺らがない。ただただ穏やかに、アリアを労るように微笑んでいる。フィリベルトの内心は読み取れない。


「あなたがお兄さんを滝壺に突き落としたと、世間ではそう言われていますね。ですが、僕はあなたが殺したとは思っていません」

「なぜそう思う」

「簡単な話ですよ」


 フィリベルトは穏やかに笑う。


「あなたが兄を殺したとされる事件以降、彼はエントウィッスル侯爵家にいたからです」

「……は?」


 驚愕を取り繕うことができない。表情を気にすることもできない。魔力作用で動かしにくい顔面が、驚きに染まっていく。


 アリアは呆然とフィリベルトを見つめた。


 フィリベルトはただただ温和な笑みを浮かべている。


「ロニー様が彼を連れて来られたため、エントウィッスル侯爵家で保護していました。クラウスと僕は良き友人、親友でした」

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