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檻の中の君  作者: 二井星子
第1章 大罪人
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4 最もおぞましい結婚

 アリアは皇帝陛下を見上げた。


 これは王命だ。断ることなど許されていない。


「謹んでお受けいたします」


 アリアが淡々と発したその言葉に、どよめきが広がる。


 隣の男からは動く気配が感じられない。微動だにしないフィリベルトが今何を思い、どんな表情をしているのかは不明だ。


 間もなくして、アリアの返答を聞いた皇帝陛下の指示で婚姻誓約書に署名するための台が運び込まれた。それから、婚姻誓約書と筆記具が用意される。


 アリアは静かに驚嘆した。

 まさか、この場で婚姻の儀を行おうとしているのか。


 ガルデモス帝国での婚姻の儀は、通常は教会で行われ、一名以上の神官の立ち会いが必要だ。

 神聖な儀式とされているため、参列するのは立ち会いの神官と、結婚する二人のみ。

 それ以外の者は、たとえ家族であろうとも参列が許されていない。礼装も決まっていて、決まった手順で身を清める必要もある。


 それらを一切守ることなく、この場で、立ち会いの神官もおらず衆人の好奇の目に晒されながら、隣に立つ大罪人フィリベルト・ジンデルと婚姻を結ぶ。


 この辱めも罰のうちということだろうか。

 ならば、アリアはこの罰を受け入れなければならない。これが、クラウスの命を奪った罰だというのなら。


「署名を」


 皇帝陛下に命じられて、フィリベルトが動く。ゆっくりと台の前に移動し、左手で筆記具を手にした。


 婚姻の儀の手順は決まっている。

 通常は、立ち会いの神官が誓約書の内容を読み上げ、それから誓約書に署名しなければならない。

 署名は身分に関係なく、夫になる者が先に署名し、続いて妻になる者が署名する。

 署名が終わったら、互いに手を取り合い、誓約書の上にかざして宣誓を行う。それから口付けを交わせば、誓約が成る。


 いつの間にか広間は静まり返っていて、フィリベルトの手枷の鎖が擦れる音だけが聞こえてくる。


 間もなくして、署名を終えたフィリベルトが後退して元の位置に戻る。次はアリアが署名する番だ。


 アリアは台の前に移動し、左手で筆記具を手に取ると同時に誓約書に視線を落とした。


 内容はごく一般的な誓約書と同じで、互いに愛し敬うことを誓う内容だ。

 だが、そこに紛れるようにして、『妻アリア・ダールマイアーは、夫フィリベルト・ジンデルが二十歳になった時に処刑を行う』との一文があった。


 よく見ると、その一文だけ微妙な光の加減で文字が虹色に見える——制約の魔法が使われている。

 恐らくはインクに制約の魔法が込められているのだろう。こうして視認できるということは、よほど強い制約の魔法が使われているということだ。


 この一文が適応されるのはアリアのみであり、もしも二十歳を迎えたフィリベルトをアリアが処刑できなかった場合、恐らくは命を失う。


 制約の魔法を破った時に何が起きるかは魔法の強度にもよるが、弱い制約の魔法でも破れば四肢のいずれかを失う。視認できるくらいに強い制約の魔法がかけられている以上、死は免れないに違いない。


 魔法は血で受け継がれる。

 魔法が使えるかどうかは先天的に決まっていて、後から習得することができず、かつ魔法が使える家系だからといって必ずしも魔法を持つ子が生まれるわけではない。

 また、使える魔法は一人につき一つの魔法のみだ。別々の魔法を持つ者同士が婚姻した場合、それ以後の子孫にはどちらかの魔法が発現する。


 さらに、魔法が使える者の大半が、ささやかな火を起こすだとか、わずかな水を出すだとか、弱い風を起こすといった微弱な魔法しか持たない。

 ダールマイアーの結界の魔法のように特殊な魔法や強力な魔法を持つ者はごく稀で、希少さや危険さ、有用性などを加味して王家が魔法を持つ者を把握する仕組みができている。

 その過程で王家は、各家の受け継ぐ魔法と魔法が使える者を公にしており、誰でもどの家の誰がどんな魔法を使うのかを知ることができる。


 ガルデモス帝国には制約の魔法を使える血筋は存在しない。

 制約の魔法が使える血筋が存在するのは、今は国交を断然している隣国、ノイラート国のみだったはず。

 国交を断絶して十年以上が経過しているから、この制約の魔法が込められたインクは、それ以前に入手した物なのだろう。


 制約の魔法が付与されたインクは貴重な物であるはずだが、それをわざわざ使用し、アリアとフィリベルトを結婚させ、婚姻誓約書にフィリベルトが二十歳になったら処刑しなければならないとの制約を課した。


 アリアは丁寧に名前を書きながら、筆記具のインクが光の加減で虹色に見えるのを確認し、フィリベルトの署名に目をやった。


 流麗な筆跡だ。

 予想に反して美しく、癖のない、手本のような文字。筆圧は弱くもなければ強くもない。

 当然だが、フィリベルトの署名も光の加減でわずかに虹色に見える。


 署名を終えて、アリアは筆記具を置いた。


 アリアがこの誓約書に名前を書いた時点で制約の魔法は発動し、アリアの身に制約がかかる。

 何か変化があるかと思えば、体には何ら変化がない。つまり、それは、このインクに込められた制約の魔法がよほど高度であるということに他ならない。


 やはり、この制約を破ればアリアは死ぬ。


 署名を終えたアリアの右隣に、フィリベルトが並ぶ。アリアはフィリベルトと少し距離を空けて立つ。


 フィリベルトは婚姻誓約書の真上にくるように左手を上向けて差し出す。


 静まり返る広間に、フィリベルトの手枷の鎖が擦れる音だけが響く。


 アリアはフィリベルトの左手に自らの右手を重ねようとして、触れる寸前で反射的に動きを止めた。

 日頃、他人と接する必要がある時は黒紋のある右手をなるべく使わないようにしているせいで、無意識にためらってしまった。


 フィリベルトは微動だにしない。拒否する様子もなく、ただ黙って手を差し出している。


 アリアはそっと右手をフィリベルトの左手に重ねた。その手に、フィリベルトは平然と指を絡ませる。


 アリアはその様子を観察した。

 布地を挟めば効果は無いと知りながらも、黒紋を恐れる者が大半である中、この男は黒紋を恐れていない。


「私、フィリベルト・ジンデルは、伴侶アリア・ダールマイアーを敬い、信頼し、この命が朽ち果てても、永遠に愛し守り抜くことを誓います」


 凪いだ湖面のように、あるいは果てしなく広がる雪原のように、静謐で穏やかな低音の声。


 さして大きな声ではないのに、よく通る。不思議と耳に入る声だ。広間中が静まり返っているせいかとも思ったが、それだけでは説明のつかない響きを含む声音だった。


 婚姻の儀で行う宣誓は、『愛することを誓う』という内容が含まれてさえいれば、宣誓内容を自由に決めることができる。定型文は存在しない。


 フィリベルトの宣誓の言葉は、思いの外普通だった。まるで、まともな婚姻の儀のようだ。


 アリアは一拍置いて、開口する。


「私、アリア・ダールマイアーは、伴侶フィリベルト・ジンデルを、命が尽きる最期の一瞬まで愛し敬い、共にあることを誓います」


 眼前の皇帝陛下はおぞましいものを見るような目でアリアとフィリベルトを見ている。

 背後にいる多くの聴衆も、きっと似たり寄ったりの表情をしているに違いない。


 どちらからともなく、繋いだ手をゆっくりと離す。


 残す工程は口付けだけだ。アリアは体の向きをフィリベルトの方に向けた。


 フィリベルトは緩慢な動作でアリアの方を向く。互いに向き合った状態になったが、フィリベルトが俯いている上にフードを深く被っているため、顔が見えない。


 顔を上げるように促さなければいけないだろうかとアリアが声をかけようとした時、見計らったかのようにフィリベルトが顔を上げた。


 そうして、アリアはフードの奥に隠れていたフィリベルトの顔を見た。


 その瞬間、目が離せなくなる。


 薄茶色の髪に、吸い込まれそうなほどに澄んだ深い青の瞳。左目の下にはほくろが一つ。通った鼻筋に、薄い唇。

 ひどく整った顔立ちの男だった。優しげに微笑むその表情には、何の悪意も害意も感じられない。


 やけに穏やかな空気を纏う男だ、と思った。


 目元の柔らかな印象のせいなのか、あるいは優しい表情のせいなのかなんなのかはわからないが、この男の周りだけ緩やかで暖かい空気に包まれているような気がした。

 こちらの警戒心を一瞬で消し去り、懐に潜り込んでくるような、体から力が抜けるような安心感と柔和さがある。


 何も知らない者がただ見ただけでは、まさかこの男が二百二十人をも殺害し首を落として火を放ったとされる人物だとは夢にも思わないだろう。


 フィリベルトは柔らかな笑顔を浮かべたまま、距離を詰めてアリアに近付く。


 アリアは無表情でその様子を見ていた。内心では驚きながら、フィリベルトを食い入るように見つめる。


(この男が、フィリベルト・ジンデル?)


 すぐ目の前に立ったフィリベルトが、フードをさらに深く被り直し、それから両手を伸ばした。アリアに触れる寸前で一度手を止める。


「あなたに触れることをお許しください」


 声を潜めて、アリアにだけ聞こえるように言う。


 フィリベルトは断りを入れてから、アリアの頬をそっと両手で包み込むようにして触れた。壊れものを扱うような手つきだ。


 一呼吸置いてから、そっと上向かされる。フィリベルトが身を屈めた。


 フードがアリアの顔にかかり、視界が暗くなる。アリアは夜目が効くが、それでもフィリベルトの顔が近すぎてよく見えない。

 直に息遣いが感じられるくらいに、他人とこんなに接近したことはない。


「……内緒ですよ」


 何が内緒なのかと質問することはできなかった。

 ふっと小さく笑うフィリベルトの吐息が唇にかかり、とっさに身構えて唇を固く引き結ぶ。


 そうして次の瞬間、アリアの鼻先にフィリベルトの鼻先が触れた。


 それから、ややあってフィリベルトがゆっくりと離れていく。

 フィリベルトが顔を離したことで視界に光が戻る。名残惜しそうにアリアの頬を撫で、フィリベルトの手が離れた。


 フィリベルトはフードの奥で、茶目っ気たっぷりに微笑んで見せる。

 声を発さず、フィリベルトの口元が「しーっ」と動く。


 口付けを交わさなければ、婚姻の誓約は成立しない。


 フィリベルトは、口付けを交わさないことを内緒だと言ったのだろう。傍目には、フードに隠れて口付けを交わしたように見えるに違いない。


「ガルデモス帝国皇帝ベネディクト・リヒト・ガルデモスの名の下に、アリア・ダールマイアーとフィリベルト・ジンデルの婚姻が結ばれたことをここに宣言する」


 重々しく言い放つ皇帝陛下の言葉に、フィリベルトはただただ微笑んでいた。アリアから目を離さず、笑っていた。

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