38 戸惑い①
アリアの内心を知ってか知らずか、フィリベルトが「どうぞお座りください」とソファーへの着座を促す。アリアは言われた通りソファーに座った。フィリベルトはというと、ソファーに座ることなくアリアの横に立った。
アリアは意図的に前を向き、フィリベルトの方を見ないようにしたが、横顔に視線を感じる。どうやら、フィリベルトがじっとこちらを見つめているらしい。
何か言いたいことでもあるのだろうか。アリアは、フィリベルトが口を開くのを待った。しかし、待ってみたところでフィリベルトは何も言わない。口を開く気配すらなかった。
視線がうるさい。早々に耐えきれなくなったアリアは、こちらを見るなと文句の一つでも言ってやろうかとフィリベルトの方を向く。
目が合うと、途端にフィリベルトが嬉しそうに笑った。目が合うのを心待ちにしていたとでも言いたげな表情に、思わず見入ってしまう。
「ようやく僕の気持ちを信じていただけたようで嬉しいです」
返す言葉がない。何を言えばいいのかも、どうするべきかも、何もわからなくなってしまった。
沈黙が落ち、一方的に妙な緊張を感じた。フィリベルトはただ微笑んでいるだけだというのに、視線の熱でじわじわ溶かされていくような気がして落ち着かない。
「アリア」
ふいにフィリベルトが身を屈め、アリアの耳元で囁く。
「これからはもっと親しくできたらと思います」
直接息を吹き込むかのように囁かれて身じろぎしそうになるが、ぎりぎりのところで耐えた。しかし、体はこわばる。この距離ではフィリベルトにも気付かれているだろう。
「親しく?」
「はい。もっと親しく、です」
あ、と思った次の瞬間には、フィリベルトの唇がアリアの頬に軽く触れ、すぐに離れた。
(……は?)
一瞬、何をされたのかがわからず、呼吸を忘れた。呆然としたまま、身を起こすフィリベルトを凝視する。
フィリベルトは照れくさそうに微笑み、言う。
「やることが山積みかとは思いますが、まずは一緒に少し休みましょう。僕はお茶を用意してきます」
「ああ」
それどころではなかったが、かろうじて返答した。フィリベルトが執務室兼書斎から出て行くのを見送る。
そうして室内に一人残されたアリアは、大きく息を吐いた。
フィリベルトの唇が触れた箇所に手をやる。今更だが、頬にじわじわと熱が集まるのを感じた。認めたくはなかったが、自分は今、激しく動揺している。
(まさか、本当に好かれているとは……)
追い打ちをかけるように、先程愛していると告げられた時のフィリベルトのはにかんだ笑顔を思い返して、叫び出しそうになる。
テディの忠告は正しかった。
フィリベルトは、本気でアリアに惚れているのだ。演技ではなく、本当に恋情を抱いている。
——あいつは、好きでも目的のためにお前を殺せる人間だと思うぞ。全部終わったら跡を追う類いの野郎だ。
テディはそうも言っていた。
多くの者たちと接してきたテディが、アリアには気付けない何かをフィリベルトから感じ取っていたとしても何らおかしなことではない。
実際、テディの言う通りフィリベルトは本気でアリアに惚れていた。ますます、そんなはずはないと一蹴することができなくなった。テディの忠告を念頭に置いておいた方がいいだろう。
アリアは大きく息を吸い、ゆっくり吐き出す。
テディの忠告を思い出したおかげで、だいぶ頭が冷えた。冷静さが少しずつ戻ってくる。
(絆されるな。気を許すな……)
心のうちに広がる奇妙な感覚を鎮めようと、必死に自分に言い聞かせる。この場にフィリベルトがいないからか、何度か深呼吸を繰り返すと普段の自分が戻ってきた。
改めて先程の出来事を思い返す。
やはり——フィリベルトの行動には違和感を覚える。
ダグラスの独房にアラステアが訪れてからここに戻ってくるまでが、あまりにも性急だったように思えてならない。
アリアをアラステアの危険から遠ざけたいにしても、フィリベルトならば先程のように有無を言わさず退室するような真似をしなくても何とかできたのではないだろうか。
さっきの様子を見る限り、アラステアは自らの発言に他人が翻弄されている姿を見ることに愉悦を覚える。
アラステアがアリアたちの話を初めから聞いていたとすれば、フィリベルトとダグラスがアリアに対して様々なことを隠していると理解できたはずだ。そうして理解した結果、アラステアはフィリベルトを見て真っ先に『坊ちゃん』と呼んだ。
アリアの前で『坊ちゃん』と呼ばれることが、あの時のフィリベルトにとって『最も嫌なこと』だと判断した。『坊ちゃん』と呼ぶことで、フィリベルトが何らかの反応を示すのを楽しもうとした。
あの時、フィリベルトは反応しなかった。穏やかに微笑んだまま何も言葉を返さず、平然としていた。
しかし、『坊ちゃん』と呼ばれることがフィリベルトにとって絶対に避けたいことであったなら、どうだろうか。
会話を聞かれ、自らを『坊ちゃん』と呼んだアラステアを前にして、フィリベルトは焦った。このままこの場にいれば、アラステアがアリアに余計なことを話してしまう。アリアの前で、これ以上の何かを話し出すかもしれない。そう判断したのだとしたら。
(だから、あれほどまでに急いで退室した?)
だとすれば、アラステアの発言には嘘偽りがない可能性が高くなる。
嘘偽りであるなら、フィリベルトが焦る必要も、早急に退室する必要もない。
その場で言い返し、後々アリアに、アラステアの発言は全て嘘偽りであるから信じるな、と言えばそれで済む。
フィリベルトがあの場でアラステアに何も言い返さなかったのは、言い返せばフィリベルトの反応を楽しむアラステアがさらに余計なことを口走るからだ。
フィリベルトが絶対に知られたくない『何か』を、アリアに知られてしまう可能性があった。そのため、フィリベルトは黙るしかなかった。
アリアが腕を切り落とされたのは予想外だったはずだ。
フィリベルトがアリアを本気で好いている以上、アリアの身を案じる気持ちは本当なのだろう。だが、フィリベルトは、身を案じると同時に退室する口実ができた、とも考えたのではないか。
元々、早々に退室しようとしていたところに、フィリベルトが何もせずともそれらしい口実が舞い込んだ。腕を切り落とされたアリアに凄まじく動揺するふりをして、上手くその場を切り抜けた。
ところが、アラステアも後を追うように退室し、恐らくはフィリベルトが避けたいと思っていた事態が起きた——アラステアが余計なことを口走ったのだ。
フィリベルトはアリアに言及されることを恐れた。もしかするとかなり動揺していたのかもしれない。アリアに言及された時、どうかわすべきか考えあぐね、考えるための時間を稼ごうとしたのではないだろうか。
だから、執務室兼書斎に戻ってきた時、今まで隠していたはずの自分の死よりも恐れる『何か』を唐突に口にした。
今後、アリアがアラステアを相手に無茶するのを見越して釘を刺すための話題の選択として違和感はないし、一度は答えなかったことによって『なぜ、今になってあっさり話したのか』という部分に嫌でも気を取られる。
そのまま、アリアに自分の想いをはっきりと認識させることでさらなる動揺を誘い、この甘ったるい空気でアリアの意識を逸らした。
フィリベルトの気持ちは本物だ。だからこそアリアは空気に飲まれ、動揺し、先程アラステアが口走ったことについてフィリベルトに聞くことができなかった。
戻ってきたフィリベルトに聞いたところでもう遅い。お茶を携えここに戻ってくるフィリベルトは、武装を完璧に整えたフィリベルトだ。アリアが何を聞こうが、フィリベルトの穏やかな笑みは揺るがないだろう。
アラステアはアリアに、殺しを止めたければフィリベルトの他にもう一人、五人の囚人たちから一人を選んで差し出せと言った。
その際、アラステアは五人の囚人たちを『兄』、『兄のようなもの』、『母親』、『義父』、『兄の大切な人』と呼んだ。アラステアの発言はアリアに向かって投げかけられた言葉であるから、アリアから見た関係性のことを言っているのだろう。
わかるところから考えていく——『母親』は性別からして、この監獄内で唯一の女性、ポラリス。
『義父』はアリアとの年齢差からしてダグラスだ。
『兄』、『兄のようなもの』、『兄の大切な人』はわからない。これら三つは、リゲル、カストル、テディがそれぞれ該当する。
アラステアの発言がどの程度信用できるかは明確にわかっていない。だが、フィリベルトの反応を見る限り、虚言が混じっていたとしても限りなく真実に近いに違いない。
ポラリスが、『母親』。
アリアの実母。
恐らくは執務室兼書斎に飾られた肖像画の、顔がズタズタに切り裂かれた女性。
やっぱり、こうして考えてみたところで特段どうということもない。
母親に何かを期待する段階はとうの昔に通り過ぎてしまった。
アリアを拷問した義母からどうして助けてくれなかったのだ、どうしてこれまで黙っていたのだ、と責める気持ちすら沸かない。怒りもない。
囚人である以上、アリアを助けることなどできるわけがないし、名乗り出ることもできなかったのだろう。
名乗っていたところで、過去のアリアの状況が好転していたとは到底思えなかった。
かといって、喜びもない。『無』だ。父親に対しての感情と同じで、何も思わない。ただ、そうだったのか、と思うだけだ。
どうりで、とも思った。ダールマイアーの邸でアリアを拷問していた義母は、書類の上でのヴィリバルトの妻であり、自分の夫がよそで産ませた子供を押し付けられていた立場だったのだ。
義母はひょっとすると、ヴィリバルトを愛していたのかもしれない。だから、アリアに憎悪をぶつけた。
そして、ダグラスが『義父』。
アリアにとっての父は、ヴィリバルトのみだ。恐らくこの場合の義父は、アリアの養い親としての義理の父という意味ではなく、配偶者の父という意味なのだろう。
つまり、アラステアは、ダグラスをフィリベルトの父だと言ったのだ。
ダグラスがフィリベルトの実父だとすると、これまで抱いていた疑問のいくつかに答えが出せる。
ダグラスは先刻の朝食の席で、カペラの隣の席に座ったフィリベルトを守るかのように、フィリベルトの逆隣の席に座った。アリアの目を気にするよりも、フィリベルトの安全を優先するかのような行動を取った。
あの時、アリアの頭を掠めたのは、『一介の従者にそこまでするか?』という疑問だった。
ダグラスからすれば、フィリベルトは自分の息子の従者とはいえ使用人の一人だ。フィリベルトがロニーの従者である以上、確かに顔を合わせる機会は多かったのかもしれない。だが、それだけだ。
他の使用人たちと比べ、多少は親しくなっていたとしても、ダグラスは侯爵でありフィリベルトの雇い主。己の身を挺してまで守ろうとするほどではないのが普通ではないだろうか。
現に、市井ではエントウィッスル侯爵は公明正大な人物だと言われていたが、慈悲深いだとか身分分け隔てなく親しく接するといった話は一度も聞かなかった。かといって、エントウィッスル侯爵家に勤める者たちから広まったと思われるような悪い話もない。
それらが意味するのは、使用人には使用人らしく接していたということではないだろうか。可もなく不可もなく、特段親しくすることもぞんざいに接することもなく使用人に接していたということだ。
それに、先程アラステアが独房の扉をノックする前、ダグラスが何かを言いかけた。「君は、この子を」と言っていたが、その時の『この子』の言葉の響きがやけに親しみのこもったものに思えて、どうにも気になっていた。
ダグラスの行動や発言の理由が、フィリベルトが自分の息子だったからだとすれば、腑に落ちる。
今更だが、フィリベルトとダグラスの瞳の色が同じであることに思い至る。特段珍しい色ではないから、注視していなかった。
フィリベルトは、ダグラスの実子。ロニーとバートはフィリベルトの兄弟。異母兄弟である可能性もある。
だから、アラステアは、フィリベルトを『坊ちゃん』と呼んだのだろう。
エントウィッスル侯爵子息の二人がフィリベルトと同腹の兄弟だった場合、ロニーとフィリベルトは年齢が同じであるから、双子だ。そして、何らかの理由でロニーのみを長子として育て、赤子のフィリベルトを手放した。
アリアはロニーに会ったことがないために顔を知らないが、もしも二人が似ていたら、成長したフィリベルトが現れた際にエントウィッスル侯爵家の使用人の間で噂の的になっていたに違いない。『エントウィッスル侯爵家のあれ』の後、生き残った使用人から何も話がなかったということは、二人の顔の造形は似ていない。
耳に開いた穴や、ガルデモス帝国にはフィリベルトの年齢や身体的特徴と符合する貴族がいないことが、フィリベルトがノイラート国の貴族であることを示している。
すると、エントウィッスル侯爵夫人、あるいはフィリベルトの母親となるダグラスと関係を持った女性は、必然的にノイラート国の貴族だということになる。いずれも何らかの理由で赤子のフィリベルトをノイラート国に送った後、成長したフィリベルトが平民の孤児のふりをしてガルデモス帝国に戻ってきた。
エントウィッスル侯爵夫人は西部のウィルクス伯爵家出身だったはずだ。ウィルクス伯爵家がノイラート国の貴族と関係があるとは聞かない。エントウィッスル侯爵家の交友関係の中にも、ノイラート国の貴族はいなかったと記憶している。そもそも、ノイラート国とは数百年も国境を断絶したままだ。
すなわち、自らの身の上を偽ってダグラスに近付いたということになるのではないだろうか。
なぜ、身の上を偽ってダグラスに近付いたのか。
ダグラスから、エントウィッスル侯爵領、ひいてはガルデモス帝国の情報を得ようとしたからではないだろうか。
だとすると、エントウィッスル侯爵夫人、あるいはフィリベルトの母親となるダグラスと関係を持った女性は、ノイラート国の間諜であり王族だ。
(つまり——)
脳裏に今朝のフィリベルトの言葉が蘇ってくる。フィリベルトは、料理ができるのかというアリアの問いに、料理を生業とする者と同等に調理できると断言した。
それだけではない。
——乗馬、剣術、弓術、刺繍や裁縫、ダンス、楽器、描画、カリグラフィー、造園、宝石の鑑定や美術品の鑑定、伝書鳥の調教、読唇術なども心得ています。掃除も得意ですよ。あとは褒められたことではないのですが、文書の偽造なども得意です。他にもありますが、きりがありませんので回答は差し控えます。
そう言ったのだ。
元々貴族だったとして、平民のふりをしてエントウィッスル侯爵家にやってきたのだとしても、できることがあまりにも多岐に渡りすぎていると思った。
フィリベルトは、アリアがこれまでに見た者の中で、最も腹の底が見えない人間だ。鉄壁の表情管理に、本物だとしか思えない演技力。笑顔の下に全ての感情を隠す男。
あまりにも痛みに強く、毒にも耐性がある。出会う人間の特徴を完璧に記憶することのできる恐ろしい記憶力。ガルデモス帝国各領の産業、文化、植物の分布、過去の出来事を熟知し、大罪人の身でありながら城中の複数人を懐柔し情報を得る能力がある、鋭い観察力を持つ男。
これまでフィリベルトに対して抱いた『どうして』という疑問に対する答えが、アリアの中で導き出されていく。
フィリベルトは、平民にも貴族にもなる必要があった。あらゆるものについて熟知し、何者にでもならなければならなかった。そういった立場にある人間だったのだ。なぜなら——。
(フィリベルトもノイラート国の間諜。王族だ)




