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檻の中の君  作者: 二井星子
第2章 檻の中
37/47

37 来訪者②

 状況からして、そうだとしか思えない。


 アリアは再び手元に目を向けた。左手を握り、それから開く。難なく動く左腕は、先程までの出来事が嘘のようにいつも通りだ。確かに治っている。


 フィリベルトに傷を治癒してもらったのはこれで二度目だ。一度目の時も、剣で切った手のひらはフィリベルトの魔法によって元通りに治った。流れた血はそのままだったが、傷は確かに塞がっていたのだ。


 これが治癒の魔法でないのなら、一体何の魔法だというのだろう。


 アリアは治癒の魔法以外の魔法を禁じている。フィリベルトの持つ魔法が治癒の魔法ではなかった場合、そもそも魔法が使えないはず。


 アリアの魔法により制限されたこの状況下で魔法を使うには、アラステアのような例外を除くと方法は一つしかない。


 アリアよりも強い支配の魔法により魔法を許可されることだ。


 同種の魔法を同時に受けると、より強い方の魔法の効果のみが現れ、弱い方の魔法の効果は相殺される。


 アリアではない誰かが、フィリベルトに支配の魔法を使い、魔法を許可した。だから、フィリベルトは治癒の魔法ではない『なんらかの魔法』を使うことができたというわけだ。


(だが——フィリベルトには、私以外の紋がない)


 支配の魔法を個人に使った場合、対象の体には紋が浮き出る。

 紋には正式名称があるのかもしれないが、ダールマイアーでは『囚人の紋』と呼んでいるそれのことだ。

 

 アリアの紋は大小の星を散りばめたような紋だった。今も、フィリベルトを始めとする全ての囚人の首、両手首、両足首にはアリアの紋が浮かんでいる。


 アリアは一度フィリベルトの裸体を見たが、その体には他に紋らしきものはなかった。


 だが、結局のところ、アリアが支配の魔法についてわかるのは、自分の持つ魔力の強さに見合った程度のことだ。それ以上に強い支配の魔法がどのようなものなのかは知らない。アリアよりも強い支配の魔法では紋が浮かばない可能性もある。


 問題は、この予想が当たっている場合、フィリベルトはアリア以外の支配の魔法を持つ者——つまりはリンガイル国の王族と接触していることになる。


 支配の魔法をかけられているからには、何か取引をしている。あるいは一方的に利用されているかだろう。いずれにせよ、フィリベルトの目的がますますわからなくなる。アリアにとって敵なのか、味方なのか。


「失礼します」


 唐突に声をかけられ、思案していたアリアの意識がフィリベルトに向く。顔を上げようとした瞬間、フィリベルトの腕が膝裏と背に回り、体を持ち上げられた。


 驚いて息を呑みそうになるのを堪え、何のつもりかとフィリベルトを見つめた。


 フィリベルトはアリアに視線を送り、ふわりと微笑む。ごく自然な穏やかな笑み。フィリベルトの武装の笑みだ。


「顔色が優れません。僕の魔法で傷は治りましたが、念のため休んだ方が良さそうです」


 全くをもって体調など悪くないが、これもフィリベルトの考えあっての行動だろうとそれとなく察した。

 アリアは黙って頷く。


「では、僕たちはこれで」


 フィリベルトは笑みを崩さず、出入り口の扉の方へと向かう。


「なら、私もおいとますることにしましょう。ダグラスは私と話したくないようですからね」


 フィリベルトはアラステアに一切の反応を示すこともなければ、ダグラスに声をかけることもなく、無言で部屋から出る。その後にアラステアが続いた。


 フィリベルトは特に急く様子もなく、アラステアの存在を無視して廊下を行く。


「ああ、そうだ、看守様」


 廊下の向こうから、アラステアが話しかけてくる。


 アリアを抱き抱えるフィリベルトの腕にわずかに力がこもり、アリアはちらりとフィリベルトを見た。


 揺らがない微笑を顔面に貼り付けて、フィリベルトはアリアを見つめている。


 ただそれだけだったが、どうしてか「反応しないで無視してください」と言われているような気がした。アリアは黙り込む。


「私を止める期間を延長されたいのでしたら、先程お話しされていた通り、坊ちゃん……あなたの夫『フィリベルト・ジンデル』を所望いたします。そしてもう一人」


 アラステアの声が愉悦に震える。


 フィリベルトの歩みは止まらない。不自然なほど穏やかな表情をアリアに向け続けている。


「坊ちゃん以外の五人の囚人の中からもう一人、所望いたします。看守様は、『兄』、『兄のようなもの』、『母親』、『義父』、『兄の大切な人』の中から一人をお選びください。合計二名を私にお渡しいただければ、我が国の『誕生の儀』が行われる場合以外の殺生を二度と行いません。私は約束は違えませんので、ご安心ください」


(——何?)


 思わず反応しそうになるアリアに、耳を貸すなと咎めるようにしてフィリベルトがわずかに首を横に振る。


「私は今あげた者以外は所望しません。どうか、前向きにご検討を」


 アラステアはそれだけ言うと、アリアの反応を待たずに踵を返した。足音はフィリベルトが向かう中央棟とは逆方向、階段のある方へと向かっている。どうやら地下から自分の独房のある南棟へ戻るつもりらしい。


「ああ、そうだった。私としたことが、言い忘れておりました」


 急にぴたりと足を止め、わざとらしい口ぶりで、アラステアが言う。


「坊ちゃんについて知りたいのなら、いつでも私のところへおいでくだされ。坊ちゃんは看守様に何もお話にならないことでしょう。私は坊ちゃんについて、それはそれはよく知っております。看守様の疑問にお答えできるかと」


 アラステアはそれだけ言い残し、尾を引くような低い笑いと共にこの場から離れて行った。


 フィリベルトは歩みを止めなかった。温和な笑みを崩さず、アリアを腕に抱えたままゆっくりと中央棟へ戻る。

 そのまま執務室兼書斎に入ると、ようやくアリアを下ろした。


「僕の意を汲んでいただきありがとうございます」


 アリアが何かを言うより先に、フィリベルトが開口する。


「アリアの魔法は自分が原因となる傷しか治せないのだとアラステア殿下に知られるのは非常にまずいと判断しましたので、あのような対応を取らせていただきました。見苦しい姿をお見せして申し訳ありません」

「別にいい。気にするな」


 つまり、先程の取り乱した言動はわざとしたことなのだろう。アリアがアラステアに腕を切り落とされた瞬間から、アリアがまずは止血しようとすると読んで、他人につけられた傷は治せないのだとアラステアに悟られないよう立ち回ったのだ。


 凄まじく動揺する演技をすれば、アリアが何かしようとしたのを遮ったり、アリアを連れて無理矢理退室しても、『動揺してまともな判断ができなかったから』で済ませられる。


 フィリベルトの演技は自然だったが、難点があるとすれば、フィリベルトに対して元々多大な興味を抱いている様子のアラステアが、フィリベルトが感情をあらわにする特別な相手としてアリアを認識してしまったということだろうか。


 フィリベルトは困ったように笑い、言う。


「アリア。これでお分かりいただけたかと思いますが、アラステア殿下は非常に危険です」


 言いたいことはわかる。いくら剣に長け、戦闘能力の高いアリアであろうとも、アラステアと対峙して勝てるかは話が別だ。


 先程腕を切り落とした『何か』が具体的にどのような魔法なのかもわかっていないし、アラステアの魔法の効果がそれだけなのかもわからない。回避する術もわかっていない。正面から戦えば負ける確率の方が高く、下手をすればあっさりと命を失う。


「ですから、どうかアラステア殿下の前で無謀なことはなさらないようにしてください。期限の一月後までは誰の命も奪わないとの約束があるとはいえ、僕のいないところで先程のようなことがあれば、最悪の場合アリアの命に関わります」

「わかった。だが約束はできない」


 正直に答える。アラステアと対峙する必要がある場合には、あの未知の魔法を相手に戦うほかない。


「アリア」


 フィリベルトは険しい声でアリアの名前を呼び、その顔から一切の表情が消え失せた。

 元々の顔立ちや雰囲気が柔和であるために、無表情であってもさして凄みはない。

 そのままアリアとの距離を詰め、両手を取る。


「僕は先日、『自分が死ぬことよりも怖いことがある』と言いました。覚えていますか?」

「ああ。それがどうした」


 王城からグリニオン監獄までの道中で、フィリベルトが語ったことだ。あの時は結局、自分の死よりも何を恐れているのかまでは口を割らなかった。


「アリア」


 焦燥に駆られているかのような声音で、もう一度名前を呼ばれた。

 フィリベルトは真っ直ぐアリアを見つめてくる。真剣な瞳だ。目を逸らすなと言われているような気分になる。


 フィリベルトはアリアの名前を読んだきり何も言わず、ただただアリアを見つめた。


 夕方と夜の境目の空のような深い青色をした瞳が、アリアの心の内を覗き込もうとしているかのようにひたすらに見つめてくる。


 じりじりする。そんな目でこちらを見るなと、フィリベルトの目を手で覆いたい衝動に駆られる。


 フィリベルトは長々と黙った後、大きく息を吸い、意を決したように言う。


「僕は、自分が死ぬことよりも、あなたが死ぬことが怖い」


 思わず大きく息を吸い込みそうになるのを、すんでのところで堪える。


 演技だとは到底思えない切迫した様子に、アリアは内心で戸惑う。


 一度は黙秘した『自分が死ぬことよりも怖いこと』をようやく話したかと思えば、それは『アリアが死ぬこと』だという。


 理解できない。


 フィリベルトに会ったのは、建国祭の舞踏会の日が初めてだ。あれから今日まではほんの数日しか経っていない。


 互いのことも深くは知らない。アリアはフィリベルトに心を許したわけではないし、それはフィリベルトにも言えることだ。


 いくら婚姻を結んだ夫婦であるとはいえ、アリアとフィリベルトの関係は心を伴わず、あくまでも書類上だけのものに近い。


 フィリベルトが囁く愛の言葉は虚言で、全てが演技。少なくともアリアはそう思っていた。それであるのに、どうしても今のフィリベルトが嘘を言っているようには見えなかった。

 だが、自分の死よりもアリアの死を恐れる心が恋情から来るものであるのなら、数日で抱くには重すぎる感情に思える。


「どうして」

「僕は……」


 アリアが問いかけると、フィリベルトは何かを言いかけて黙った。逡巡するかのように、その目がアリアから逸らされる。


「なぜだ。なぜ、私の死を自身の死よりも恐れる? 私と君はそこまでの関係ではないだろう。君にそれほどまでの気持ちを抱かれる理由がわからない」


 フィリベルトは、人を好きになるのに一瞬あればそれで十分だと言っていた。人を好きになるのと同じようにして、一瞬で自分の死よりも相手が死ぬことが怖いなどと重い感情を抱けるものなのだろうか。


(あるいは——)


「ひょっとして、私と君は、昔会ったことがあるのか?」


 気付けば、頭に浮かんだ疑問が口から飛び出していた。


 表立ってはいないが、エントウィッスル侯爵家とダールマイアー伯爵家には交流がある。アリアが記憶を失っている十歳以前に、歳の近い子息二人——兄のロニー・エントウィッスルや弟のバート・エントウィッスルと交流していた可能性は無いとは言い切れず、その際に従者のフィリベルトとも会ったことがあるのかもしれない。


 と、フィリベルトがアリアに視線を戻す。フィリベルトの顔には困ったような笑みが張り付いていた。


 その表情だけで、フィリベルトの答えを察した。これまでに幾度となく見た、こちらの質問に黙秘する時のフィリベルトの表情だ。どうやら答えるつもりはないらしい。

 この、フィリベルトの申し訳なさそうな困った笑みが、一見付け入る隙がありそうでいて、その実微塵も揺るがない鉄壁の防壁なのだとアリアはよく知っている。思い知らされたというべきだろうか。


 フィリベルトは先程、アリアの「どうして」という問いに対し、答えを言うか言わないかを逡巡していたように見えた。

 わざとなのか、そうではないのか。いずれにせよ、フィリベルトが迷いを見せたのは初めてだ。


「僕はあなたを深く愛しています。だから、あなたの死が何よりも怖い。申し訳ありませんが、それ以上の理由をお話しすることはできません」


 フィリベルトからは予想通りの返答がある。


 これ以上の追求は無駄手間だとわかっていたが、先程迷いを見せたことがどうにも気にかかる。


「本心か?」


 アリアが問いかけ方を変えると、フィリベルトはふわりと穏やかに笑う。問いに答えることなく距離を詰め、アリアの肩に顔を埋めた。


 昨日も触れた、柔らかな髪が頬をくすぐる。よくわからない甘やかな匂いがして、触れた箇所から急速に熱が広がっていく。呼吸が乱れる。やや遅れて、アリアは自分が動揺していることに気がついた。


 拒もうと思えば容易に拒める。一歩、そう、一歩後ろに下がればいい。それだけでフィリベルトから逃げられる。握られた両手も、フィリベルトはさして力を込めていない。振り払おうと思えば簡単に振り払える。それなのに、体が動かない。どうしてもフィリベルトを拒むことができなかった。


 どのくらいそうしていただろう。時間の感覚がゆっくりと麻痺していく。


 フィリベルトは長いことそのまま動かなかったような気もするし、すぐに動いたような気もする。フィリベルトは無言で、一度両手を離し、それからアリアの左手を掴むと自らの胸元に当てさせた。


 手のひら越しに、フィリベルトの心臓が早鐘を打っているのがわかる。


「フィリ」


 名前を呼ぶと、のそりとフィリベルトが動く。緩慢に顔を上げ、程近い距離からアリアを見つめてはにかむように笑った。


 確かな熱を伴った、甘ったるい笑み。好きでたまらないのだと語りかけるような深い青の両眼に吸い込まれてしまいそうだ。


「愛しています。心から」


 その瞬間、理解してしまった。


 嘘偽りのない、フィリベルトの純然たる想いを。


 この男は、本当に——アリアを好いて、愛しているのだ。


「フィリベルト」


 驚いて息を呑む。動揺せずにはいられなかった。演技ではない。これまでされたこと、言われたこと、全てが、気持ちを伴った確かな好意だったのだ。


 アリアの動揺をよそに、フィリベルトは胸に当てさせていたアリアの左手を自らの頬に持っていく。


 触れたフィリベルトの頬は熱い。その熱がフィリベルトのものなのか、アリアのものなのかはわからない。


 フィリベルトはゆっくりと擦り寄るようにして、アリアの手のひらに口付ける。視線はアリアをとらえたままだ。そうして、言う。


「お許しいただけるのなら、あなたの唇に触れたいのですが……」


 思わず黙り込む。流石に意味がわからないとは言えない。唇に口付けしたいと乞われているのだ。


 黙り込むアリアを見て、フィリベルトがふっと息を漏らして笑う。


「まいったな。あなたにそんな顔をされたら、これ以上は何もできない」


 フィリベルトの口からは砕けた言葉が飛び出し、楽しそうに無邪気に笑う。


 それが作り物ではない素のフィリベルトの表情なのだと直感する。


 終始無表情のアリアに対してそんな顔をされたらとは、一体どんな顔だと問いただしたくなるが、それどころではなかった。


 心臓が変な跳ね方をする。胸が苦しい。熱い何かが体の奥底から迫り上がってきて、無性に泣きたくなる。こんな感情は知らない。どうすればいいのかもわからない。自分は一体、どうしてしまったのだろう。


「失礼しました」


 フィリベルトが観念したように手を離し、アリアから離れて距離をとる。


「そんなわけで、僕はあなたに、みすみす命を投げ出すような危険に飛び込んで欲しくありません。勇敢なのは良いことですが、どうか勇気と無謀を履き違えないようにしてください。アラステア殿下と話す必要がある時は、必ず僕を連れて行ってください。いいですね?」

「わかった」


 フィリベルトの言っていることが何一つ頭に入ってこないのに、わかった、としか言えなかった。


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。


 アリアが理解したのは、目の前のこの男が、自分に対して本物の恋情を抱いていることだけだった。

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[良い点] なろうに5年ほど入り浸っていますが、初めて感想を書かせていただきます…! まず、こんなにも面白くて完成度の高い作品を書いてくださってありがとうございます。夢中で最後まで読み続けました。 …
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