35 生き残り⑤
「アルコルが、アラステア・ケメーニュ・ノイラート?」
アラステア・ケメーニュ・ノイラート。
名前の通りノイラート国の王族であり、現在行われているノイラート国の王位継承権争いにおいて王位の候補者であるランドル・カーベイン・ノイラートの補佐として名前が挙げられている人物。ランドルの叔父で、つまりはノイラート王の子。それ以上の情報はない。
ダグラスはちらりとフィリベルトに視線を送り、フィリベルトが小さく頷く。頷いたのを確認してから、ダグラスは開口した。
「私もフィリベルトも、君はノイラート国の王位継承権争いをはじめとする諸般について基本的なことは知っているとみている。この認識であっているか?」
今、この問いに肯定したとして、通常ならばアリアがノイラート国についてどの程度知っているのかはダグラスとフィリベルトには推察できない。
だが、相手はフィリベルトだ。フィリベルトは、アリアの情報源が同時期に騎士見習いとして過ごした四人——テディ・バルバーニー、ラース・スカンラン、ルーシャン・ワイラー、オーレリア・シェルマンなのだと気付いているだろう。
そして、その四人の中でもノイラート国の情報に明るいテディとラースが、どの程度の情報を有しており、その情報の中でも現時点で何をアリアに伝えているのか見当がついている可能性が高い。
下手な誤魔化しは悪手に思えた。ある程度情報を開示した方が、新たな情報を得られるだろう。
アリアは逡巡の後、「ああ」と頷いてみせる。
アリアが頷くのを確認したダグラスが、言葉を続けた。
「ノイラート国におけるアラステアの立ち位置はかなり特殊だ。そのことについては?」
「知らない」
わかった、とダグラスがぽつりと言う。それから深刻な表情で何かを考え込んだ後、重い口を開く。
「詳しく話すことはできないが……要点を押さえて簡単に言うと、アラステアは『誰も手出しができない』立場にある。王族どころか王でさえも、アラステアの成すことに異を唱えることができず、奴が何をしても止めることができない。そういう立ち位置にある男だ」
「なぜ?」
アリアの問いに、ダグラスはもう一度フィリベルトを見やった。フィリベルトは頷く。
(——さっきから一体、何の確認をしている?)
アリアはフィリベルトに視線を送った。
フィリベルトの口元は穏やかに微笑んだままだ。囚人の面の下の目元も穏やかに笑っていることだろう。相変わらず何も読み取れない。
ダグラスはフィリベルトから『何か』の許可を得て、アリアに向き直る。
「アラステアが、ある条件を満たした王族間で行われる特殊な儀式を執り行うための唯一の執行官だからだ。故に誰一人としてアラステアの成すことに口を挟めない」
「儀式……?」
「悪いがこれ以上は話せない」
何の儀式だろう。聞いたところで答えないであろうことは目に見えているし、恐らくこれはテディやラースも知らないことだ。だから許可を出したのだろう。アリアが後からテディやラースに確認しても、詳細について知ることがないから話した。
「元々、アラステアは王位とは全く無縁の王族だった。おまけに、誰にもどうにもできない厄介極まりない悪癖がある。今回の王位継承権争いで補佐に任命されたのは異常事態と言えるだろう」
「厄介極まりない悪癖というのは?」
アリアが問うと、ダグラスは露骨に嫌な顔をした。嫌悪の滲む表情だ。
「人を、殺めることだ」
ダグラスは重々しく言い放つ。
「アラステアは生来の殺人鬼だ。奴にとって人を殺めるのは日常生活の一齣にすぎない。我々が食事を取ったり、睡眠をとったりするのと同じだ。息を吸うように命を奪う。私たちは空腹になったら食物を食べ、睡眠を取らなければ活動できないな? アラステアにとってはそれと同じで、殺したいと思ったら殺さなければならない。ノイラート国では王族といえど殺人を犯したら裁かれるが、例外がアラステアだ。誰も奴を止めることができない。アラステアがどれほど命を奪おうとも、誰の命を奪おうとも、奴が儀式の執行官である限り誰にも罪を裁くことができないんだよ」
ダグラスの言葉の節々には嫌悪と怒りが滲む。
どれほど命を奪おうとも、誰の命を奪おうとも、決して裁かれることはない『儀式の執行官』。アリアの中で疑問がますます膨れ上がる。一体、何の儀式の執行官なのだろう。
「さらに厄介なのが、奴の持つ魔法だ。その魔法を持つのがアラステアただ一人であるために、奴から儀式の執行官の役割を取り上げることも叶わない」
「何の魔法を?」
「わからない」
——即答だ。
わからないと言う割には何の魔法かわかっているような口ぶりだったように思えて、アリアは思わず眉間に皺を寄せそうになる。すんでのところで堪え、無表情を保つ。
「わからない?」
「アラステアが何の魔法を持っているのか、知る者はいない。おおよその予想はできるが……」
「おおよそでいい。アラステアが何の魔法を持っていると思われるのか教えて欲しい」
わかった、とダグラスが頷く。
「アラステアにはどんな魔法も効かない。恐らく、魔法を打ち消すか、魔法を吸収するかのどちらかの魔法だ」
「他人の魔法を打ち消す魔法か、他人の魔法を吸収する魔法……」
つまり、どちらにせよ相手の魔法を無効化させる魔法だということになる。
そんな魔法が存在するとは聞いたことがない。その効果も対処法も、当然ながら不明。厄介な魔法だ。
「よろしいでしょうか」
小さく手を上げて、フィリベルトが開口する。アリアと目が合うと、話を続けた。
「アラステア殿下の持つ魔法が他人の魔法を消すか吸収するかして無効化する魔法だという点には異論はありませんが、僕はさらに効果が遅効性であるか、あるいは他人の魔法を奪う魔法である可能性もあると思っています」
「理由は?」
「これがアラステア殿下にありますので」
そう言い、フィリベルトは首にある囚人の紋を指で示す。
「これがアラステア殿下にあるということは、アリアの魔法が『かかった』ということになります。即時で打ち消すのなら、そもそもこの囚人の紋は浮かびません。つまり、アラステア殿下はアリアに魔法をかけられる直前に魔法を使ったものの、アリアの魔法もきちんとかかったということになります。魔法を即時で消滅させるような魔法ではない、ということになりますね」
「そもそも魔法を使っていない可能性もあるんじゃないか」
「いいえ」
フィリベルトは静かに首を横に振った。
「アラステア殿下の性質を考えるとその可能性は低い。殿下は、僕たちが食事を取ったり休息のために睡眠を取ったりするのと同じ感覚で人を殺すお方です。アラステア殿下にとって、アリアの魔法は後々足枷になります。アリアがグリニオン監獄全体を覆う結界につけた条件と、僕たちに個々でつけた囚人の契約では、囚人同士の殺戮を禁じてはいませんが、逃走を禁じています。ということは、アラステア殿下が殺せる相手は僕たち囚人のみになります。僕たち囚人はたった六人。一日一人だとすると、六日分しかありませんね。アラステア殿下が僕たち囚人以外を手にかけるには、ここから出るしかない。アリアを何とかしなければならないということです」
一度言葉を切り、フィリベルトは笑みを深めた。
「結界につけられた条件ではアリアの殺害を禁じられてはいませんが、囚人の契約では禁じられています。どちらが優先されるのかはわかりませんが、仮に囚人の契約が優先されるとして考えると、アラステア殿下はアリアを手にかけることができない。そもそも、アリアを殺したとして囚人の契約が解かれるかはわかりません。ですから、アラステア殿下がここから出て人を殺すには、アリアの魔法を無効化するように自ら魔法を使うしかない」
「だから、囚人の契約時に魔法を使った?」
「そうです。朝食時に確認しましたが、アラステア殿下の首と手首には囚人の紋がありました。ですから、打ち消すか吸収するかに時間がかかる遅効性の魔法であるか、自分の体にかけられたアリアの魔法を奪い、意のままに管理しているかのどちらかである可能性がある。いずれも、アラステア殿下に魔法は効かないということになります」
「なるほどな……」
憶測の域を出ないが、警戒するに越したことはないだろう。以後、アラステアには魔法が使えないと思っていた方が良さそうだ。
ただ打ち消すか吸収するかに時間がかかる遅効性の無効化の魔法ならまだしも、アリアの魔法を奪い、利用できる魔法だった場合、アラステアに魔法を使えば使うほど己の首を絞めることに繋がりかねない。
アリアはダグラスに視線を送る。
「アラステアがここにいる経緯は?」
アリアの問いに、ダグラスは静かに首を横に振った。
「わからない。恐らく三十年ほど前からここにいるはずだが。三十人を殺害した罪で投獄されたとヴィリバルトに聞いている」
「そうか」
三十年前、三十人が殺害された事件。
凄惨な事件であることは間違いないのに、なぜ該当する事件が思い浮かばないのか。一度書庫を調べた方が良さそうだ。
「ヴィリバルトは、君がアラステアに狙われることを危惧していた」
物思いに耽りそうになっていたアリアの意識を、ダグラスの言葉が引き戻す。
「アラステアが君に興味を持たないように、ヴィリバルトは君との関わりを最小限にした。君を愛していないふりをしていたんだ。アラステアが君に興味を持ってしまったら、万が一のことが起きて君が看守になった時にアラステアに殺されてしまう」
まるで、ヴィリバルトの代わりにアリアに許しを乞うようだ。ヴィリバルトが本当は我が子であるアリアを愛していたとでも言いたげな口ぶりだった。
何が言いたい、だからなんだ、と言いかけて、アリアは結局黙った。
突如、自分のことではないのに、まるで自分のことのように苦しそうな——今にも泣き出しそうな顔をしているダグラスに困惑する。
今更、どうしろというのだろう。
ヴィリバルトはもういない。死んでしまった。アリアの中に残った、父であるヴィリバルトへの感情は『無』だ。ヴィリバルトが亡くなったと知った時ですら何も感じなかった。
全てが遅すぎた。真実がどうであろうと、アリアとヴィリバルトの関係性はもう二度と改善しないまま、終わった。
「……そう」
あらゆる思いを押し込めて、アリアは短く答えた。ダグラスの視線に耐えきれなくなって目を逸らす。
ダグラスはアリアに、何と答えて欲しいのだろう。どんな反応をして欲しいのだろう。ダグラスが期待しているような言葉は何も言えないし、ろくな反応もできないというのに。
「ヴィリバルトは、私たちをアラステアから守るために対価を払い続けた」
と、絶望に満ちた声が耳に届き、アリアは視線をダグラスに戻した。
「対価?」
ダグラスは思い切り顔を顰める。
「要は生贄だ。アラステアが望む者をグリニオン監獄に投獄して好きにさせる代わりに、私たちには手を出さないように約束を取り付けた」
アラステアが殺したいと望む者をグリニオン監獄に投獄し、その代わりに自分たちの安全を保証させる。投獄された者はアラステアによって命を奪われたのだろう。
「グリニオン監獄は、アラステアにとって都合の良い狩場だ。獲物を容易に得られるし、殺しても看守が処刑したことにできる。アラステアには魔法が効かない上に、何をどうやっているのか物理的に攻撃しても効かない。拘束しても解除され、独房に鍵をかけても無駄で、勝手に開錠して出歩く始末だ。ヴィリバルトはダールマイアーの権限で奴を解放しようとしたこともあったが、無理だった。グリニオン監獄が最も人を殺しやすい場所だと認識しているせいか、アラステアはここから出て行こうとはしなかった。挙句、対価を払えばお前たちに手を出さないようにしてやると持ちかけてきた。ヴィリバルトは悩んだ末に対価を払い続けることを選んだ。だが……」
ダグラスはそこで言葉を切り、テーブルの上に乗せた手をぐっと握った。たっぷり間を開け、硬い表情で言う。
「四年前、アラステアがヴィリバルトにある取引を持ちかけてきた。自分に特定の人物を渡せば、次に看守が交代して一ヶ月経つまでは誰も殺さない、と言う取引だ」
「四年前……父が行ったという、当時のオルブライト侯爵を含んだ大量粛清のことか? あれは、アラステアの取引条件を父がのんだ結果起きた?」
ダグラスは俯き、小さく頷く。テーブルの上で握られた拳に、さらに力が込められる。
「破格の条件だった。そんな提案をしてくるのは初めてで、明らかに不審だったが、ヴィリバルトはこれで『大幅に時間が稼げる』と判断した。今度こそアラステアを何とかする算段を立てることができる、と」
「そして……手段を講じる前に予想外の事態により父は死んでしまった。アラステアは取引通り、私が看守としてここに来た一ヶ月後からまた殺しを開始する。手始めに囚人たちを手にかける可能性が高い。次は私だ」
「グリニオン監獄に獲物を呼び込むには君が必要だが、アラステアはまともではない上に、なにより君に興味を持ってしまった。このままでは我々も、君も、アラステアに殺されるだろう」
ダグラスが唸るように言い、重苦しい沈黙が落ちる。
アラステア——アルコルとは、ただ顔を合わせただけで、特に会話らしい会話もしていない。興味を持たれる要素はないように感じる。実際、アルコルもそれらしい素振りは見せなかった。
しかし、ダグラスは『興味を持たれている』と断言した。ダグラスには、アリアにはわからないその理由がわかっているのだろう。
「アラステア殿下を止める方法はあります」
「何……?」
沈黙を破ったのは、フィリベルトだ。ダグラスが弾かれたかのように顔を上げ、フィリベルトに視線を送る。
フィリベルトは笑みを崩さず、言葉を続ける。
「アラステア殿下にとっての『極上の獲物』を差し出す代わりに、ここにいる限り永続的に凶行を止めさせます。ここから追い出すことも可能です。『極上の獲物』はアラステア殿下にとって、それほどの価値があります」
なぜなのだろう。急速に嫌な予感がした。変わらないフィリベルトの笑みが、嫌な予感を加速させる。
「『極上の獲物』というのは?」
アリアは静かに問いかけた。嫌な予感は消えない。問いの答えを知らないのに、穏やかに笑うフィリベルトのその表情が全ての答えに見えた。否定したくて問いかける。体が急速に冷えていくような気がした。
フィリベルトは容赦なく答えを口にした。
「僕です」
「……は?」
自分の口から漏れた低音の声に、アリアは気付けなかった。うっすら答えを予想していたというのに、フィリベルトが発した言葉が理解できずに頭の中が真っ白になる。
「アラステア殿下にとって、僕は喉から手が出るほどに欲する『極上の獲物』。僕を引き合いに出せば、こちらがどんな条件を提示しようとアラステア殿下は必ず条件をのみます」
すなわち、フィリベルトを生贄に捧げるということだ。
「……っ、駄目だ!」
気付いた時には、アリアは声を限りに叫んでいた。次の瞬間には自らが発した大声に驚いて我に返り、そこで初めて自らの表情が歪んでいることに気がついた。慌てて無表情に戻すが、もう遅い。
フィリベルトは驚いているのかぽかんと口を開け、ダグラスは驚愕に満ちた表情でアリアを見ていた。
「君は、この子を」
ダグラスが何かを言いかけた、その時だ。独房の出入り口の扉が、ドン、ドン、と二度、外側から叩かれた。




