33 生き残り③
フォーマルハウトは答えなかった。その口元はぴくりとも動かない。
アリアの背後にいるフィリベルトも何も言わなかった。
互いの出方を探り合うような沈黙が続いた後、フォーマルハウトが「とりあえず中に」と、入室するよう促す。
アリアとフィリベルトは促されるまま室内に入る。
フォーマルハウトの独房は整然としていた。
向かって左手奥に寝台があり、寝具は整えられている。左手の手前には簡素な棚がある。右手奥には丸テーブルと揃いの意匠の椅子が二脚。さらに、右手側には扉が二つあった。一つは浴室への扉で、もう一つはトイレへの扉だ。バルコニーはなく、窓には鉄格子がついていない。
フォーマルハウトの独房は、独房というよりも貴族を収監する貴人牢に近かった。華美ではないが質素というわけでもない、ただの部屋だ。
何も知らない人間に一切の説明もなくこの部屋を見せたら、牢獄だと思う者はまずいないに違いない。
まさかこれがグリニオン監獄の独房だとは露ほども思わないだろう。
アリアはフォーマルハウトに促されて、右手奥の窓際にある椅子に座る。テーブルを挟んで向かい側にフォーマルハウトが座った。フィリベルトはフォーマルハウトの斜め後ろに立つ——従者の立ち位置だ。
呼吸するかのようにごく自然にフォーマルハウトの斜め後ろに立ったフィリベルトの口元は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。
フォーマルハウトもフォーマルハウトで、フィリベルトが斜め後ろに立ったことに対して何も言わない。気にする様子もなくアリアの方を向く。
フィリベルトとフォーマルハウトの行動と様子が、何よりの答えに思えた。加えて、二人とも弁明する気がないことも知れた。
「フィリ」
「はい」
「一応聞くが、椅子を出そうか? 君も座るか?」
「いいえ、僕はこのままで結構です。お気遣いありがとうございます」
即答だ。着座を拒否したフィリベルトは、フォーマルハウトの斜め後ろに控えたまま、言う。
「アリア、すみませんがこの独房内の会話が漏れないようにしていただけますか?」
「わかった」
アリアは頷き、指を鳴らすと同時に魔法を使った。会話が漏れないようにするついでに、部屋に誰も入ってこないようにする。
「言われた通りにした」
「ありがとうございます」
沈黙が落ちる。フォーマルハウトがアリアの一挙手一投足を注視しているのがよくわかった。
しばらくの間、互いに互いの動向を窺うように見つめ合う。そうして長々と続いた沈黙は、フォーマルハウトが大きく息を吐いたことで終わった。
「なぜわかった?」
「認めるということでしょうか?」
フォーマルハウトは無言で囚人の面に手をかけた。そのまま、ゆっくりと囚人の面を外す。
「いかにも」
面の下から現れた深い青の両眼が、射るようにアリアを見据えた。
「私がダグラス・エントウィッスルだ」
多少やつれてはいるが精悍な顔立ちだ。きちんと手入れをしているためか無精髭は生えていない。
「閣下」
「やめてくれ」
アリアの言葉を、フォーマルハウトことダグラスが鋭く遮る。
「私はもう侯爵ではない。ここではただの囚人だ。君が敬意を払う必要はない」
「しかし」
「呼びにくければこれまで通りフォーマルハウトでいい。口調も普段通りでいい。この場で最も立場が上なのは看守である君だ」
アリアは開きかけた口を閉じた。この短いやり取りだけで、ダグラスが絶対に譲らないであろうことがわかった。説得するだけ無駄だと早々に諦め、アリアは小さく息を吐いた。
「とりあえずわかった。これが私の本意ではないことだけ覚えていてくれ」
「ああ。君がどのような口調や態度だろうと無礼だとは思わない」
再び沈黙が落ちるが、先ほどのような緊張感はない。
アリアはちらりとフィリベルトを見やる。
フィリベルトは口元に笑みをたたえたまま、口を挟む気配もなくアリアを見ている。
「それで、先ほどの疑問に答えてもらえるだろうか」
「なぜ、君の正体がわかったかということだな」
「そうだ」
ダグラスは頷く。
「公には私は死んだことになっているはずだが」
そう、エントウィッスル侯爵は『エントウィッスル侯爵家のあれ』でフィリベルトに殺害され、死んだとされている。本来ならば囚人たちの正体の選択肢としては浮かばないはずだった。
「私が初めに疑問を抱いたのは、昨日グリニオン監獄に入った後、フィリベルトと一緒に中央棟の執務室兼書斎を見た時だ。フィリベルトは室内の様子から、前任看守の父が一年以上前に亡くなっていることを推理した。だが、フィリベルトは、知っているはずのある一点について触れなかった。それがこれだ」
アリアはパチンと指を鳴らし、テーブル上に十三本の橙色のバラが描かれたティーカップとソーサーを出す。
エントウィッスル侯爵の長子、ロニー・エントウィッスルの誕生を祝して開催されたお茶会で、参加者に配られた記念の品だ。
お茶会の参加者ごとに意匠が異なるティーカップとソーサーは、エントウィッスル侯爵自らが手がけた品であり、この世にたった二組しか存在しない。
「執務室兼書斎のテーブルに放置されていたティーカップとソーサーだ」
ダグラスはティーカップとソーサーを見て目を細めた。一方、フィリベルトは微笑んだまま微動だにしない。
「私はこれが何かを知っている。騎士見習い時代の遠征でスカンラン領に赴いた時、縁あってスカンラン伯爵に実物を見せてもらったことがあるからだ。意匠は異なっているが、持ち手の上部とソーサーの底にある刻印が同じ」
アリアはティーカップとソーサーを手に取り、ソーサーを裏返して底についている刻印を晒す。
ダグラスとフィリベルトの反応はない。
アリアはティーカップとソーサーをテーブルに置き直し、構わずに話を続ける。
「フォーマルハウトはこのティーカップとソーサーが何なのかわかっているはずだな?」
「もちろん。私が作った物だ」
「そう。これは君が子息の誕生を祝って作った、この世に二組しかないティーカップだ。貴重な物だが、その子息当人の従者をしていたフィリベルトがこのティーカップを知らないとは思えない。しかし、フィリベルトはこのティーカップとソーサーを見ても何も言及しなかった。なぜ、何も言わなかったのか? 考えられる理由は、私に知られると不都合だったからだ」
視線をティーカップとソーサーに落とす。
「このティーカップとソーサーが何かを知られると、知られたくない事実を説明しなければならなくなる。あるいは私が勝手にその事実にたどり着いてしまう。だからフィリベルトは、ティーカップとソーサーについて何も言わなかった。このティーカップとソーサーがグリニオン監獄にある以上、私が知っている可能性はないと踏んだんだろう」
アリアは視線を上げ、フィリベルトの方を見る。相変わらず表情は変わらない。
「フィリベルトは私に何を知られたくなかったのか……」
アリアはティーカップを手に取り、ダグラスの方に差し出す。
「まずはティーカップの内側を見てほしい。どうなっている?」
「どうとは? 綺麗だが」
発見当初こびりついていた飲み物の痕跡は魔法で消してある。それ以外の手は加えていない。ティーカップの内側は汚れ一つなく、真っ白だ。
「そう、このティーカップは綺麗だな」
アリアはゆっくりとティーカップの縁を指でなぞる。
「フィリベルトが何を知られたくなかったのかを突き止める上で、私はまずこのティーカップを最後に使ったのは誰なのかを考えた。このティーカップは内側が綺麗で、茶渋が付いていない。私室の飾り棚の中に茶渋のついたティーカップが一つあったことからして、父はこのティーカップを常用していない。使用頻度は高くないということになる。つまり、来客用に使っていたか、まれに使用していたかのどちらかだと思った」
「アリアのその言い方からすると、どちらでもなかったということでしょうか?」
フィリベルトが穏やかな口調で言う。
アリアはティーカップの縁から指を離し、フィリベルトを見やる。囚人の面越しに目が合い、フィリベルトの笑みが深まる。アリアが追及することに対して、全く焦っていない。
「ああ」
アリアはフィリベルトの言葉に頷いてみせる。
「私室の飾り棚に、橙色の布が敷かれているだけで何も置かれていない段があった。他の段には物が置かれているにもかかわらずだ」
視線を再びティーカップに落とすと、途端に表面に描かれた十三本の橙色のバラが目に入る。飾り棚の二段目、何も置かれていない段に敷いてあった布の色味と似ている。
「恐らく、父はこのティーカップを使用するのではなく、観賞用として大切に飾っていたんだろう。飾り棚の布が敷かれているだけで何も置かれていなかった段は、このティーカップを飾るための段だ。すると、父はいつも使っているティーカップでもなければ他のティーカップでもなく、観賞用に飾っていたティーカップをわざわざ引っ張り出してきて使用したことになる。観賞用に飾っていたからには、父にとってこのティーカップは特別な品だということだろう。その特別な品を使用したということは、相応の理由があるに他ならない。例えば、お茶をする相手が特別な相手だった場合」
一度言葉を切り、顔を上げる。ダグラスは視線をティーカップに向けたままだった。
「気分を害したら申し訳ないが、このティーカップは確かに良く出来た美しい品だ。しかし、素人の域を出ない。成型や絵付けも職人と比べると劣る。特別な相手の『特別』が身分の高さを示す場合、身分の高い相手にこのティーカップを使うことはできないし、自分自身が使うこともできない。だから、『特別』は身分が高いことを示してはいない。しかし、特別な相手の『特別』が父にとって大切な人間を示している場合——お茶をする相手が、十三本の橙色のバラの花言葉である『永遠の友達』が示す通り、友人であるならば使用しても何ら問題はない。このティーカップの送り主であるあなたが相手なら尚更だ。親愛の意を示すために父があなたの前でこのティーカップを使ったというのなら納得できるし、フィリベルトがこのティーカップについて何も言わなかったことにも説明がつく。フィリベルトは君を庇った。君が『エントウィッスル侯爵家のあれ』で死んでいなかったこと、父が亡くなったその場に君がいたことを、私に知られないようにしたんだ」
「なるほど」
ダグラスはぽつりと呟き、あごに手をやる。
フィリベルトは無言だ。否定もしなければ肯定もせず、それどころか口を開く気配すらない。ただ、アリアの方を見て微笑んでいるだけだ。
「私は君たち囚人と顔を合わせた時から、君とフィリベルトには何らかの関係があると思っていた」
「なぜ?」
「君が談話室に入ってきた時、私に意識を向けたのは一瞬だったが、フィリベルトにはそれ以後ずっと意識を向けていた」
「武に秀でていることは察していたが……君は、そんなことまでわかるのか」
半ば独り言のようにぽつりとダグラスが呟く。
アリアは答えず、少し間を置いてから言う。
「理由はまだある。私がフィリベルトを紹介した時、『フィリベルト・ジンデル』の名前を聞いた瞬間の反応が君だけ違った。他の囚人たちは皆、驚愕と同時に恐れをあらわにした。程度の差はあれど確かに恐怖していた。それも当然だ。『エントウィッスル侯爵家のあれ』を知る者なら、誰もが凶行に及んだ『フィリベルト・ジンデル』を恐れる。だが、君だけはフィリベルトの名前を聞いた瞬間、息を呑んで驚愕した。そこに恐怖はなかった。あるのは純然たる驚きだけだった。どうしてお前がここにいる、とでも言いたげな反応だったな」
フィリベルトは無反応だが、ダグラスの視線がわずかにさまよう。表情は変わらないが、『何か』に動揺した。今のアリアの言葉の何に動揺したのだろう。
(——何だ?)
疑問には思ったが、そのまま話を続ける。
「反応を示したからにはフィリベルトを知っているということになる。しかし、恐怖を抱いていない。ということは、『エントウィッスル侯爵家のあれ』を知らずにそれ以外でフィリベルトを知っているか、知っていても恐怖を抱かないくらいにフィリベルトとの仲が深いかのどちらかではないかと思った。フィリベルトはエントウィッスル侯爵家の使用人の一人で平民だが、対する君は明らかに貴族。明確な身分差があるにもかかわらずフィリベルトを知っているから、エントウィッスル侯爵家の者か、近しい家門の者だろう。私が君たち囚人の前でフィリベルトの罪状を告げた後も、君からは恐怖を感じなかった。ただ近しいだけの家門の者なら、君の子息の従者としてフィリベルトの名前を知っていても人となりまでは知らない。フィリベルトが『エントウィッスル侯爵家のあれ』で何をしたのかを告げれば大なり小なり恐れを成すはず」
「恐れなかったからエントウィッスル侯爵家の者だと?」
「他にもある。囚人たちとの顔合わせで、君は他の囚人たちには警戒を向けていたのに、フィリベルトには終始警戒を向けていなかった。先ほどの朝食の席では、カペラの隣に座ったフィリベルトの逆隣に迷わず座ったな。まるで、カペラからフィリベルトを守るかのように。君がカペラに意識を割き、フィリベルトに何かがあればすぐ動けるように警戒しているのが丸わかりだった。私の目を誤魔化すことよりも、カペラからフィリベルトを守ることを優先していた。君は、明らかにフィリベルトとある程度の親密さを持つ人間だ」
ダグラスはアリアから目を逸らし、ティーカップに視線を落とした。何かを言いかけて口を開き、結局何も言わずに閉じる。表情は変わらないが、やはり動揺している。
「判明しているフィリベルトの来歴からして、親密な間柄になり得るのはエントウィッスル侯爵家の者しかいない。君が貴族であること、見た目からわかるおおよその年齢を加味すると、君の正体はフィリベルトの雇い主であるダグラス・エントウィッスルその人になる」
アリアが言い切るとダグラスが静かに息を吐く。そうして、ようやく視線がアリアの方に向いた。——安堵している。
「私がなぜここにいるのか、なぜ生きているのか、疑問には思わなかったのか?」
「そのことについてはおおよそ予想がついている。父と君の関係性についてもだ」
アリアはダグラスを真正面から見つめる。
ダグラスが先ほど見せた動揺と、突然の安堵。
ダグラスは自らの正体を隠す気がない。だが、恐らく——動揺した時と安堵した時の話の内容からして、フィリベルトに関する何かを隠している。そして、それをアリアに知られたくないと思っている。
フィリベルトが無反応なのも気にかかる。しかし、今はそれらを明らかにするより先に、はっきりさせておきたいことがある。
「率直に言おう、フォーマルハウト。君は、結界の魔法を持たず黒紋のない父に代わって、本当の『結界の魔法』を用いてこの監獄に結界を張っていた。そうだな?」




