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檻の中の君  作者: 二井星子
第1章 大罪人
30/47

30 悪夢②

「待たせたな」

「いえ、全然待っていませんよ」


 入浴を終えたアリアが寝室に戻ると、フィリベルトは大人しく椅子に座ってアリアを待っていた。


「寝よう。フィリ」

「はい」


 名前を呼ばれたフィリベルトが椅子から立ち上がり、アリアに促されるがまま寝台に向かう。


 フィリベルトは寝具をめくり、奥側に詰めるようにしてアリアに背を向け、横になった。


 アリアは一度指を鳴らし、魔法で小さなランプを出す。それから、同じく魔法で弱い明かりを点ける。


 ランプをテーブルの上に置き、もう一度指を鳴らして室内の照明を消した。


「明るさは大丈夫か?」

「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」


 アリアの方を振り返らずにフィリベルトが答える。


 わずかに明かりを点けるのは、フィリベルトへの配慮だ。


 王都からグリニオン監獄までの道中で宿屋に宿泊した際、フィリベルトは明かりがないとよく眠れないのだとアリアに打ち明けた。地下牢を思い出してしまうからなのか、生来の性質なのかはわからない。


 アリアは寝台のところまで行くと、フィリベルトに背を向ける形で横になり、寝具をかけ直した。


「そういえば、十時に消灯すると仰っていましたが、今就寝しても大丈夫でしょうか?」

「時間が来たら勝手に明かりが消えるようになっている。心配はいらない」

「なるほど。そうなのですね」


 沈黙が落ちる。


 心なしか、フィリベルトがまだ何かを話そうとしているような気がした。


 アリアはフィリベルトが話し出すのを待つ。しかし、待てども待てどもフィリベルトは一向に何も言わない。


「……おやすみなさい」


 フィリベルトがようやく開口したかと思えば、今にも消え入りそうなくらいの小さな声で挨拶をしてきた。


「ああ。おやすみ」


 アリアはほんの少しの違和感を覚えつつも、挨拶を返す。


 それきり会話は終わった。フィリベルトが完全に眠る体勢になったのを背中越しに感じる。


 王都からグリニオン監獄までの道中で何度か寝台を共にしたが、フィリベルトは何もしないとの宣言通り、アリアには指一本触れようとしなかった。それどころか、アリアの方を向いて眠ることすらしない。

 狭い寝台だったとしても思い切り端に寄り、背中がアリアに触れないよう配慮する。


 アリアは目を閉じた。


 多少でもきちんと寝た方がいいだろうか。いずれにせよ、何かあれば勝手に目は覚める。寝首をかかれる心配はない。


 一日で色々ありすぎた。考えることが多すぎてうんざりする。面倒だ。心の底から面倒だが、考えを止めると死に直結する。だから、アリアは今後について考え続けなければならない。


 大きく息を吸い込み、静かに吐く。


 隣で誰かが眠っているという状況——フィリベルトの気配には慣れつつある。


 不思議と落ち着く気配だ。そう感じるのはなぜだろう。フィリベルトが大罪人か否か、敵か味方かすらわからないというのに。





 ふっと意識が浮上して、アリアは自分がいつの間にか眠っていたことに気が付いた。そうして気付くと同時に、ある異変を感じ取る。


「……め、……っ、……の……せい……」


 ぼそぼそと誰かがすぐそばで呟く声が聞こえる。加えて、何かと何かがカチカチとぶつかり合うような音が聞こえた。


 アリアは弾かれたかのように上体を起こし、周囲を確認する——異変はない。それから、隣で寝ているフィリベルトに目をやる。


 瞬間、アリアは息を呑んだ。


「フィリ?」


 フィリベルトは頭を抱えるようにして体を丸め、目に見えるくらいに激しく震えていた。


 何かと何かがカチカチぶつかる音は、激しく震えるフィリベルトの歯と歯がぶつかり合う音だ。


「……めん、ごめん……っ、ごめん、僕、の……僕のっ、せい……で……、君……っ、がっ、……許して……、ごめ……っ、ごめ……」


 激しく震えながら、フィリベルトは嗚咽する。


「フィリ」


 声をかける。反応はない。


 フィリベルトが己の体を庇うようにして自分自身を抱き締める。抱き締める腕に力がこもり、二の腕に爪が食い込む。


 しかし、フィリベルトの震えは止まらない。閉ざされた両目からとめどなく涙がこぼれた。


 ——悪夢にうなされている。


「フィリ」


 もう一度呼びかける。目が開くことはなく、フィリベルトの震えと涙は止まらない。


 『ごめん』、『僕のせい』、『君が』、『許して』、フィリベルトはひたすらにその言葉を繰り返す。フィリベルトが『君』と呼ぶ誰かに謝罪し、許しを乞うているのだと察した。


 フィリベルトがこれほどまでに泣きじゃくり、恐怖からなのか体を震わせる悪夢とは、一体何なのだろう。


「フィリ」


 呼びかけながら、体を揺する。


「ごめっ……、ごめ、ん、僕が、……っ、僕のせい……、ごめん、ごめ……っ」


 駄目だ。目覚めない。震えが激しくなる。ぐしゃぐしゃに泣きはらすフィリベルトに焦りが募る。


 こんなフィリベルトは知らない。笑顔で武装したフィリベルトしか知らない。


 弱った姿を想像してみることすらしなかった。あのフィリベルトが悪夢にうなされてこんなことになるなんて、予想できるはずがなかった。


 王城からグリニオン監獄までの道中では普通に就寝していたはずだ。こんなことは今までなかったというのに。


「フィリベルト! 起きろ!」


 動揺と焦りで震える声を張り上げ、フィリベルトの体を激しく揺する。


 しかし、フィリベルトは唸るばかりで起きる気配が全くない。


 どうして。なぜ起きないのだろう。


「フィリベルト!」


 アリアは激しく動揺しながら、無理やりフィリベルトの体を起こした。名前を叫びながら、肩を掴んで揺らす。


 すると、ようやくフィリベルトの目が開いた。虚ろな青い瞳がアリアを見る——いや、違う。


 アリアを見ているようでいて、アリアではない何かを見ている。


 フィリベルトがゆっくり瞬きすると、瞳からこぼれ落ちた涙が頬を伝う。


「フィリベルト……」


 その瞬間、フィリベルトはアリアに向かって、声を発さずに何かを言った。


 唇が四度動いたことから、フィリベルトが四文字の言葉を発したことだけがわかる。


「何……?」


 アリアは咄嗟に聞き返したが、フィリベルトはわずかに首を横に振るだけで何も言わない。


「今、何て」

「ごめん……ごめ、ん……」


 もう一度聞き返そうとしたアリアを遮るようにして、フィリベルトはごめん、ごめん、と謝罪を繰り返す。


 フィリベルトの震えは止まらない。


 目を開けて起きているはずなのに、その虚ろな瞳にアリアは映らない。


「君、を、死……っ、な……った、のに……僕の、せい、で……っ、……て、くれ……、ごめ……っ、ごめ、ん」


 小さくかすれた声で、しゃくり上げながらフィリベルトは謝り続ける。


 アリアを見つめているのに、アリアではない『何か』を見て、ひたすらに涙をこぼす。


「フィリ」


 泣くな、と続けようとしたのに、言葉が上手く出てこない。


 喉の奥が、目の奥が、ひりつくように熱い。胸が苦しい。


 アリアは、両手で包み込むようにしてフィリベルトの顔に触れた。


 涙でぐしゃぐしゃに濡れた頬を、指で拭う。右手の手袋が涙を吸い、濡れて肌に張り付く。今はそんなことはどうでもいい。


(どうして、起きているのに起きない。なぜ私を見ない。どうして)


「フィリベルト」


 頼むから泣き止んでくれと懇願するような、祈るような、そんな響きを持った声が口から出た。


 フィリベルトはアリアの呼びかけに答えない。


 アリア越しにアリアではない何かを見て、ひたすらに震え、涙し、謝り続ける。


(どうすればいい。どうすれば)


 何か、衝撃を加えれば我に返ってくれるだろうか。頬を引っ叩けばいいのだろうか。だが、こんなにも弱りきった状態のフィリベルトの頬など叩けない。


 震えながら嗚咽するフィリベルトを見れば見るほど、両手がフィリベルトの涙に濡れれば濡れるほど、アリアの胸が締め付けられるように苦しくなる。まともな思考力が失われていく。焦燥と、困惑と、切なさが心の内で暴れ回り、時間の経過と共にどうすればいいのかがわからなくなっていく。


 と、フィリベルトがゆっくり目を閉じた。涙がこぼれ落ちるのと同時に、アリアは反射的に動いた。


「すまない」


 囁くと同時に、アリアはフィリベルトの唇を自身の唇で塞いだ。


 聞いているこちらの胸を抉るような謝罪を止め、かつ正気に返るように衝撃を与える方法が、これ以外に思いつかなかった。


 唇のあたたかさも、柔らかさも、フィリベルトと口付けした事実も、何もかも今はどうでもよかった。


 ただただ、フィリベルトに泣き止んでほしいと思った。なぜそう思うのかもわからないままに、フィリベルトには泣くのではなく心から笑ってほしいと、そう思った。


 フィリベルトが我に返るまで解放しないつもりで、アリアは唇を重ね続ける。


 ややあって、フィリベルトの体の震えが治まり始めた。かと思えば、フィリベルトの両手がアリアの両手首を掴んだ。結構な力でフィリベルトの頬に触れる手を引き剥がされ、顔が離れる。


「アリア……!」


 うろたえた声で名前を呼ばれた。


 視線が交わり、フィリベルトの瞳に自分の姿がきちんと映っていることを確認して安堵する。


 ——元のフィリベルトだ。


「目が覚めたか」

「どうして……」

「気付けのつもりでしただけだ。悪かったな」

「いえ……」


 アリアは袖口でフィリベルトの唇をそっと拭う。


 途端にフィリベルトが目を丸くしてわずかにのけぞる。


「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」

「そうか」

「あの、誤解しないでいただきたいのですが、僕は嫌なわけではなくて……その……」


 フィリベルトは言い淀み、続く言葉が見つからないのか、黙り込んだ。フィリベルトの目が泳ぎ、ひどく動揺しているのが見てとれた。

 ここまで露骨に感情が表に出るところを初めて見た。


 フィリベルトは口元に手をやり、次の瞬間はっと息を呑んで自分の目元に手をやる。顔面が涙でぐしゃぐしゃに濡れていることに気が付いたらしい。


「あ……申し訳ありません。お見苦しいところをお見せしてしまったようです」


 フィリベルトは泣き顔を隠すように目元を隠したまま、アリアから顔を逸らす。


「本当に申し訳ありません。どうか、今見たことはお忘れください」

「フィリベルト」

「すみません、あなたの前で情けない顔を晒し続けたくありませんので、落ち着くまで僕は外に行きます。申し訳ありません。僕のことは、どうぞお気になさらずお休みになってください。しばらくしたら戻りますので」


 アリアの言葉を遮り、フィリベルトは早口に言い放つ。寝衣の袖で乱雑に顔を拭い、そのまま寝台から出て行こうとする。


 アリアは反射的にフィリベルトの肩を掴んで引き寄せ、勢い良く抱き締める。


「フィリベルト、大丈夫だ」


 抱き締めて初めて、フィリベルトの体がわずかに震え続けていることに気付く。


「大丈夫だから」


 なだめすかすような、穏やかな響きを持った声が自分の口から出たことに驚く。


「大丈夫」


 フィリベルトに言い聞かせるように、大丈夫だと繰り返し、ゆっくりその背を叩く。


 フィリベルトは初めこそ体をこわばらせていたが、徐々に体から力が抜けていった。


 肩のあたりが湿り出したことには、気づかないふりをすることにした。片手でゆっくりとフィリベルトの頭を撫でる。滑らかで手触りの良い髪だ。見た目より柔らかく、ふわふわしている。


 フィリベルトは抵抗しない。だらりと両手を投げ出したまま、されるがままアリアに抱きしめられ続けている。身じろぎすることも、声を発することもしない。


 どのくらいそうしていただろうか。


 ふと、フィリベルトが身じろぎし、「もう大丈夫です」とぽつりと呟く。


 震えが治っているのはわかっていた。フィリベルトの言う通り、もう大丈夫なのだろうとゆっくり解放する。


 随分と長い間、フィリベルトを一方的に抱き締めていた気がする。


「ありがとうございます。落ち着きました」

「本当に大丈夫か?」

「はい」


 フィリベルトはふわりと笑ってみせる。不思議と本心からの笑みに見えた。アリアを心配させまいとする気遣いの感じられる優しい笑みだ。


「顔を洗うか?」

「いえ、大丈夫です」


 アリアはパチンと指を鳴らすと同時に魔法を使い、冷えた濡れタオルを出すと、それをフィリベルトに渡した。


「冷やせ」

「ありがとうございます」


 アリアが差し出したタオルを受け取ると、フィリベルトはそれを目元に押し当てた。


「気持ちいいです」

「そうか」

「こういう時、冷やせばいいんですね。知りませんでした」

「いや、私も知らない。なんとなくそうかなと思っただけで」


 ふふ、とフィリベルトが控えめな笑い声をあげる。


「笑うな」

「申し訳ありません」


 フィリベルトはしばらくの間目元を冷やし、それからタオルを取る。礼を言ってアリアにタオルを返す。


 アリアは再び指を鳴らして魔法を使い、タオルを消した。


「どうする? 眠れそうにないなら話し相手になるが」

「いえ、もう落ち着きましたので眠れると思います。お気遣いいただきありがとうございます」

「わかった」


 わかったとは言ったが、フィリベルトが本当に大丈夫だとは思っていない。アリアはフィリベルトを窺うようにじっと見つめた。


 フィリベルトはアリアの視線を受けて、小首を傾げてみせる。その笑顔が崩れることはない。先ほど泣きじゃくっていたのが嘘のように、アリアに微笑みを向ける。


 なぜなのだろう。その微笑みに、今までにはなかった隔たりのようなものを感じた。


 一線を引かれたのだと直感する。どうして、と疑問に思ったところで、フィリベルトに直接問いをぶつけるわけにはいかないし、ぶつけたところで答えないのは目に見えている。


「寝ましょう」

「ああ」


 フィリベルトがアリアに背を向け、寝台に横になる。


 アリアも寝台に横になった。フィリベルトの方を向いて、それから寝具をかけ直す。


「フィリベルト」

「はい」


 続く言葉が見つからないのに、声をかけてしまった。

 言いたいことは沢山あるはずなのに、それらは言葉にならない。


 結果、アリアは押し黙った。


 フィリベルトは先を促すことなく、アリアの言葉を待っているようだった。


 アリアは長々と沈黙し、それから言う。


「なんでもない」

「そうですか」


 結局無理やり話を終わらせたアリアに、フィリベルトは穏やかな口調で応じる。


「アリア、明日僕が酷い顔になっていたとしても、笑わないでくださいね」

「どうかな。約束はできない」


 アリアが素直に答えると、フィリベルトがわずかに体を揺らして控えめに笑う。


「お願いします」

「笑わない努力はしてみる」


 気安い会話。和やかな空気。しかし、やはりこれまでにはない隔たりがある気がした。具体的に何がということまではわからないが、アリアとフィリベルトの間で、『何か』が変わった。


「アリア。先ほどの僕は……何か、変なことを言っていませんでしたか?」


 言いくそうにフィリベルトが言う。


 どう答えればいいのだろう。どこまで正直に伝えるべきか。


 アリアは逡巡し、謝罪を口にしていたことだけを伝えることにした。


「いや、君は変なことなど口走っていない。泣きながら謝っていただけだ」


 少しの間を置いて、フィリベルトが開口する。


「そうですか。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」

「気にしていない。謝るな」

「ありがとうございます」


 そこで会話が途切れる。フィリベルトが続けて何かを言う気配はない。


 夢の中でごめん、ごめんと繰り返し謝り、僕のせいだと嗚咽したフィリベルトは、過去に何を経験したのだろうか。


 はたしてこの男が、二百二十人もの人間を一晩で殺害する凶行に及んだのだろうか。


 わからない。四年前の『エントウィッスル侯爵家のあれ』で何が起きて、フィリベルトは何を見て、何を感じたのだろう。


 アリアは、こちらを向くことのないフィリベルトの背中を見つめる。


 そうして唐突に悟る。


 この男は、助けなど求めていない。だから、弱った時でも誰かにすがることをしない。


 先ほどの出来事を思い起こす。アリアが抱き締めても、フィリベルトは抱き締め返さず、アリアにすがろうとはしなかった。


(そうか。きっとこの男は)


 アリアと同じなのだ。


 強烈な体験により、誰かに助けを求めても、都合の良い助けの手など永遠に差し伸べられないと知ってしまった。助けを望んでも、望むだけではどうにもならないのだということを痛いほどに知ってしまった。


 どんなに苦しくても、自分がどうにかしなければ、誰も助けてなどくれやしないのだと理解してしまったのだ。


 深く考えるよりも先に、体が動いた。フィリベルトににじり寄り、背後から手を回して抱き締める。それからフィリベルトの手を探り当て、握った。


「アリア」


 フィリベルトが息を呑み、ぎくりと身じろぎする。


「嫌なら振り払え」


 何か言われる前にアリアは言い放つ。


 フィリベルトは長々と黙り、それから諦めたように小さく息を吐いた。


「ずるい方ですね。僕がそんなことはできないと知っているでしょうに」


 フィリベルトの手は冷たい。先ほど冷たいタオルに触れたからだとしても、それにしては異様に冷えていた。


「君の手が温まるまでだ。我慢しろ」

「……あなたが何を考えているのか、僕にはわかりません」


 そんなことはアリアにもわからない。


 自分のことであるのに、どうして、今こうしてフィリベルトを抱き締めてしまったのかがわからない。


 フィリベルトは二百二十人もの人間を殺害したかもしれない男で、アリアの命を狙っている男だ。


 わかっている。頭では、わかっている。この男に、心を寄せてはいけない。信用してはいけない。情を抱いてはいけない。


 でも、きっと、恐らく、この男に明確に裏切られたら、自分は深く傷付くような気がする。


 フィリベルトが自分を殺そうとしている事実に、今になって目を逸らしたくなる。


 そして、現実を思い知る。アリアはいずれ、フィリベルトの命を奪わなければならない。


 胸の内に広がる正体不明の感情に叫び出しそうになって、フィリベルトの背中に顔を埋める。

 あたたかい。生きている。途端にフィリベルトが生きていることに安堵する自分に気付かされて、心がざわつく。自分は一体、どうしてしまったのだろう。


 フィリベルトの手が温もりを取り戻しても、握る手を離すことができない。


 アリアは目を閉じる。


 ——気の迷いだ。こんな感情は、ぐしゃぐしゃに泣くフィリベルトを見てしまったために湧き上がった、一時的な感情だ。


「私には君がなんなのかがわからない。フィリベルト、君は本当に大罪人なのか?」


 返答がないことは百も承知だ。それでも、問いかけずにはいられなかった。


 しばらく待ってみたが、やはりフィリベルトは答えない。返ってくるのは沈黙のみだ。


 フィリベルトは今、どんな表情をしているのだろう。穏やかに笑っているのだろうか。それとも、全く違う表情をしているのだろうか。


 アリアはフィリベルトの手を握る手に、わずかに力を込める。


 反応はない。


 結局、アリアの手が握り返されることはなかった。

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