3 罰
(素晴らしい衣装……)
アリアは鏡に映る自分の姿を、どこか他人事のように一歩引いた目で見ていた。
濃紺と黒のドレスは、散りばめられた宝石も相まって星空のように見える。アリアの髪色や目の色にもよく合っていた。
王城のメイドたちによって整えられた髪に、化粧、ドレス、鏡に映るのはいつものアリアではなく、ただの美しい令嬢だ。
ただ一点、黒く染まった右腕を除けば。
用意されたドレスには、袖がなかった。
袖があって手を全て覆えるものにして欲しいと言ってはみたが、用意された衣装はこれしかないと断られてしまった。
どうにか肘までの手袋と透ける素材のストールは用意してもらったが、そこまでだ。ストールは透けるために、腕の付け根にまで及ぶ黒紋がどうしても見えてしまう。
仕方がないと諦めると同時に疑問が深まる。
黒紋を嫌悪する皇帝陛下が用意させたドレスが、その黒紋を思い切り晒すような意匠のものだったのだ。何か理由があるとしか思えなかった。
ひとまず、時間だ。アリアは鏡から目を離し、会場に向かうために部屋を出た。
▽
「なんでダールマイアーが……」
「不吉な……」
「恐ろしい……」
「兄殺しの……」
「なぜここに?」
舞踏会に参加している者たちの怯えきった囁きが聞こえてくる。
アリアは会場の端、目立たない場所を選んで立っていた。誰もがアリアを遠巻きに見ていて、近寄ろうとする者はいない。
わかっていたことではあるが、あまりにも居心地が悪かった。
元々社交界にも出ていないために知り合いもいないし、ダールマイアー伯爵家が所属する領の領主であるオルブライト侯爵家とは多少の交流があるものの、毛嫌いされていて、わざわざ話すような仲ではない。
本来であればさっさと帰るところだが、恐らく帰ることを許されないだろう。アリアを巻き込んだ『何か』が起きるまで、黙って大人しく会場の隅でやり過ごすしかない。
アリアは一つため息を吐いた。その時だ。
「アリア・ダールマイアー伯爵令嬢!」
大声で名前を呼ばれた。
呼んだのは、ガルデモス帝国皇帝のベネディクト・リヒト・ガルデモスだ。
大勢の者たちが集い、ざわついていた広間がしんと静まり返る。
正確にはアリアは『伯爵令嬢』ではなく『伯爵』なのだが、訂正できるような雰囲気ではない。早足に皇帝陛下の御前まで行き、跪いた。
「お呼びでしょうか」
「アリア・ダールマイアー伯爵令嬢。お前は、自らの兄であるクラウス・ダールマイアーを手にかけた。相違ないな?」
(ああ、なるほど)
そういうことか、とアリアの思考が急速に冷えていく。
アリアを強制的に舞踏会に参加させた目的がわかった。
この場で——国内から大勢の貴族が集まるこの場で、アリアを断罪しようとしているのだ。
アリアが十六歳になり、重い罰を与えても問題ない年齢になったから、この場で裁こうとしている。
ただ、アリアへの断罪をわざわざ衆人の前で行う理由はわからない。辱めようとしているのだろうか。
クラウスを殺めたのかという問いかけに、アリアは押し黙った。
広間の沈黙が、こちらに向く視線が痛い。ひどく静まり返り、わずかな呼吸の音すら響きそうな中で、誰もがアリアの答えを待っている。
答えようとしないアリアに、皇帝陛下が苛立ち始めているのが見てとれた。
その様子を、アリアは冷静に見据える。そうして、自分には『兄を殺した』と認める選択肢しか与えられていないのだと悟った。
これから何の罰を与えるつもりなのかはわからないが、ダールマイアーでただ一人黒紋を持つ唯一の看守であるアリアに、死罪は言い渡せない。懲役刑や禁固刑も無理だ。せいぜいが片目を潰すか、片足もしくは片手を切るか、鞭打ちか、罰金を取るかだろう。
アリアは一度口を開け、息を吸ってから言い放つ。
「相違ございません」
アリアの冷え切った声が、静寂を切り裂くように広間に響く。
その瞬間、ざわめきが広がった。
人を散々『兄殺しの令嬢』などと呼んでいたくせに、今更アリアの肯定の返答に驚き、動揺し、怯える声が聞こえてくる。
あまりの騒ぎに、皇帝陛下が静まれと命令したところで、ようやく広間に静寂が戻った。
「お前は兄であるクラウス・ダールマイアーを滝壺に落として殺害するという重罪を犯したにも関わらず、十六歳に満たなかったためにこれまで何の罰も受けずにいたな。よって今、お前に兄殺しの罪を償ってもらおう」
重々しく言い放ち、皇帝陛下が側に控えていた従者に合図を送る。すると、従者が慌てた様子ですぐ傍の出入り口から出ていった。
何かと思えば、従者はすぐに戻ってきた。ただし、一人ではない。従者の後から、五人の兵士に囲まれた何者かが入ってくる。
何者かがゆったりとした足取りで歩くたびに、その足を拘束する足枷の鎖がじゃらじゃらと音を立てた。
足枷の他にも手枷をされていて、更には腕ごと胴体を拘束具で拘束されている。
身に付けているのは、粗末な茶色のローブだ。フードを深く被り、俯いているために顔は見えない。背は高く、体格からして男だ。
一目でわかる。罪人だ。
それも、ただの罪人ではない。
ここまで厳重に拘束されているということは、かなりの凶悪犯——大罪人だ。
兵士の一人が、大罪人の男の胴体の拘束具から伸びる鎖を引き、歩かせる。
早く歩かせたいようで鎖がピンと張り詰めているが、大罪人の男の足取りは依然としてゆったりとしたものだった。悠々と歩くその姿からは、不思議と優美さすら感じる。
兵士に連れられて、大罪人の男がアリアのそばまで来る。
兵士の一人に「止まれ」と命令されて、大罪人の男が立ち止まった。アリアの隣、人一人分くらいの間を空けて立ち、玉座の方を向く。
アリアの位置からはフードで横顔が見えないが、男が真っ直ぐ皇帝陛下を見上げた。
アリアは横目で大罪人の男を見やった後、玉座の方に視線を戻した。
(この男、随分と肝が据わっている)
大罪人の男が、これからここで行われることについて詳しく説明されるわけがない。一歩室内に入っただけで、これが何らかの『催し』であり、自分が『見せ物』であることに気付くだろう。何かをされるのは確実だ。
それがわかった上での、この余裕たっぷりの態度。
恐らく、この大罪人の男は何も恐れていないし、事態に困惑もしていない。
隣の大罪人の男が何をしたのかはわからないが、この異様な状況下でこうしていられるということは、間違いなく普通の男ではないだろう。
大罪人の男を囲んでいた兵士たちが、胴体の拘束具を外して傍に下がる。
逃走を試みるなら今が絶好の機会だが、大罪人の男は微動だにしなかった。ぴくりとも動かず、玉座の方を見上げている。
(これは一体、どういうことだろう)
アリアの思考は混乱を極めた。
皇帝陛下の真意がわからない。
皇帝陛下はアリアに、兄殺しの罰を与えると宣言した。
直後に連れて来られたのが、隣に立つ大罪人の男だ。アリアへの罰に関連があるのは間違いないが、この大罪人の男がアリアへの罰にどう関連するのかがわからない。
この場で大罪人を処刑しろということだろうかとも考えたが、それでは罰にならない。
わかることといえば、この、茶番劇としか言いようがない一連の出来事が、貴族たちに向けた趣味の悪い『余興』であることくらいだ。
ややあって、皇帝陛下が玉座の椅子から立ち上がった。そうして、重々しく言い放つ。
「アリア・ダールマイアー伯爵令嬢。お前に、そこの罪人、フィリベルト・ジンデルとの婚姻を命じる」
皇帝陛下がその名を出した瞬間、この場にいる貴族たちに動揺が広がった。
あちこちから怯え切ったざわめきが聞こえる。広間中に恐怖が蔓延していくのがよくわかった。
(——フィリベルト・ジンデル)
アリアは思わず静かに息を呑む。
まさか、隣に立つこの男が。
フィリベルト・ジンデル。
このガルデモス帝国でその名を知らない者などいない、紛れもない大罪人。
あまりのおぞましさに『エントウィッスル侯爵家のあれ』とあえて曖昧に呼ばれる大量殺人を犯したとされる、史上最悪の殺人犯だ。
今から四年前、フィリベルトは国境沿いの領地を統括するエントウィッスル侯爵家住み込みの使用人の一人で、当時十五歳だったエントウィッスル侯爵令息の従者だった。
ところがある日、一夜にしてエントウィッスル侯爵、侯爵夫人、二人いる侯爵令息、使用人、私兵、エントウィッスル侯爵家にいた二百二十人の首を落として惨殺し、遺体を燃やした。
警備隊が駆けつけた時、フィリベルトは遺体の胴と首をそれぞれ分けて山のように積み上げ、それを燃やしてできた二つの炎の柱の前に佇んで全身血まみれで笑っていたという。
そして、この事件の恐ろしさに拍車をかけているのが、フィリベルトが当時十五歳の少年だったことだ。
十五歳の少年が二百二十人を殺害し、首を落とし、遺体に火を放ったのだ。
この二百二十人を殺害したというのも、正確にははっきりした人数がわかっていない。
遺体の損傷が激しかったり、火を付けたことで骨まで焼けてしまったりと、被害者の人数を割り出すのは困難を極めた。
二百二十人という数は、事件当日から全く連絡がつかず、行方不明になっている者の人数を元にした予測の犠牲者数だ。
フィリベルトは一切抵抗せずに捕まった後、王城の地下牢に投獄され、直後に異例の速さで死罪が決まった。
ところが、ここである問題が浮上する。
フィリベルトの死罪が決まったものの、ガルデモス帝国の法では死罪は十六歳以上の成人のみに執行されるものであり、そもそも十六歳以下のまだ成人していない者に死罪の判決が下ったことがこれまでになかったのだ。十五歳のフィリベルトをどうするかで、意見が割れた。
前代未聞の凄惨な事件に、特例で即座に死罪を執行するべきという者と、法に則り十六歳になるのを待つべきという者とで法廷は荒れた。
結局、最終的には後者の意見が採用され、フィリベルトが十六歳の成人を迎えた時点で死罪が執行されることとなった。
それから成人を迎えるまでの約一年間、事件を明らかにするべく厳しい尋問を行った。
しかし、フィリベルトが語ったのは、自分の名前と年齢、エントウィッスル侯爵令息の従者であったということのみ。
動機や経緯については一言も口を割らず、犯行を否認することも認めることもしなかった。
フィリベルトがあまりにも口を割らないことで、彼が成人を迎える頃には、有無を言わさず即座に死罪を執行するべきという者と、全てを自供させてから死罪を執行するべきという者とで再び意見が割れた。
再度法廷が荒れ、結果的に全てを自供させてから死罪に処す、ということになった。
成人してからは厳しい拷問も行われたが、それでもフィリベルトは決して口を割らなかった。
そうして、捕えられてから今までの四年間、フィリベルトは『エントウィッスル侯爵家のあれ』について黙認し続けている。
通いであったために難を逃れた使用人によると、フィリベルトはエントウィッスル侯爵がどこからか連れてきた身寄りのない平民だった。
同年代の子供と比べて聡く、優秀であったために、エントウィッスル侯爵家で家令を務めるモーリス・ジンデルの養子になり、侯爵令息の従者になった。
勤務態度や対人関係に何ら問題はなく、人柄は穏やかで、勤勉で、真面目。細やかな気遣いのできる優しい人物であったらしい。
それでいて、自分の意見をはっきり口にできる人物だった。
それだからか、侯爵にも侯爵夫人にも、二人いる侯爵令息にも気に入られていて、従者を務めていた嫡男の侯爵令息とは親友のような仲であったらしい。
雇用主であるエントウィッスル侯爵家との関係も、養父との関係も、使用人仲間との関係も全て良好で、悪い話は一切聞かないし、フィリベルトを悪く言う者はいなかったとのことだ。
それであるのに、彼は数年後、雇用主であるエントウィッスル侯爵、侯爵夫人、二人の侯爵令息も、養父のモーリス・ジンデルも、使用人仲間も、邸にいた者を皆殺しにした。
いまだに沈黙を貫き続けているために動機は不明で、事件が起きた日の夜に邸で何があったのかも不明、殺害方法も不明、首を落として燃やした理由も不明。
この事件について、正確に言えば犯人を含めた真相は何一つわかっていない。
『エントウィッスル侯爵家のあれ』で生き残っていたのがフィリベルトただ一人であり、警備隊が駆けつけた時に全身血濡れで凶器と見られる剣を手にしていたこと、燃える遺体の山を見て笑っていたこと、お前がやったのかという問いに肯定もしないが否定もしなかったこと、それら状況証拠の全てがフィリベルトが犯人であると示していた。
何より、どんなに厳しい拷問を受けても、フィリベルトは犯行を認めもしなければ否認もしなかった。
本当に何もしていないのなら、死罪を言い渡され、痛め付けられてまで沈黙を貫く意味などない。
だから、『エントウィッスル侯爵家のあれ』はフィリベルトの犯行だ——というのが、現状での見解だ。
アリアとしては、フィリベルトが口を割らない以上、本当に二百二十人を惨殺したのかそうでないのかは容易に判別できないことだと思っている。
世間一般のようにフィリベルトの犯行だと決めつけることはできない。
だが、こうして沈黙を貫くからには、全くの無関係ではない可能性が高い。
『エントウィッスル侯爵家のあれ』とフィリベルトには何かがある。
もちろん、フィリベルトの犯行の可能性も高い。
彼は現状では有力な容疑者であり、あの日何が起きたのかを知るただ一人の人物だ。
アリアはちらりと隣に立つ男を見やる。
隣に立つフィリベルトは動かない。相変わらず玉座の方を見上げているようだった。
(——なるほど)
この婚姻はアリアへの罰にもなるし、フィリベルトへの罰にもなる。
アリアは望んでもいない大罪人と結婚しなければならず、フィリベルトにとってこの婚姻は自らの身柄をグリニオン監獄に移されることと同義だからだ。
グリニオン監獄に送られるということは、死と同等かそれ以上の仕打ちを受けるということになる。
さらに言えば、フィリベルトは死罪を言い渡された死刑囚だ。
あり得ないことだが、万一アリアとフィリベルトが愛し合った場合、アリアは愛した男を殺さねばならず、フィリベルトは愛した女に殺されなければならない。それは最上の罰になり得ることだ。
そしてこの婚姻は、ガルデモス帝国が建国して以来最もおぞましい婚姻として貴族連中への良い見せ物になる。
何せ、夫は二百二十人を惨殺したとされる大罪人で、妻はダールマイアーの『兄殺しの令嬢』なのだから。