25 幕開け⑦
ぽつりと呟いたアリアの言葉に、全員が息を呑んだ。空気が凍り付くような緊張が走る。
「……それはないだろ。いくら何でも」
強張った表情でテディが言う。
「エジーテの規模を考えてみろよ。仮にそうしようとしても、騒ぎになって、必ず誰か逃げおおせるだろ。真夜中でも営業してる酒場もあるし、娼館もある。必ず大騒ぎになる。でも、エジーテから命からがら逃げてきたっていう奴はいない」
『それに、王城からも調査隊を派遣してる。仮にエジーテの民がフィリベルト・ジンデルによって全員殺されていたとしたら、調査隊が事件の全貌を隠蔽し、調査結果を捏造したことになる。そうしなければならない理由もない。あり得ないことだ』
ルーシャンが硬い声で否定する。
テディの言うことも、ルーシャンの言うことも、どちらももっともだ。フィリベルトがエジーテの民を皆殺しにしたにしては疑問点が多い。
「それもそうだな。変なことを言ってすまない」
杞憂だろうか。しかし違和感は消えない。
ひとまず、疑問を頭の片隅に置いておくことにした。
「ラース、至急確認して欲しいことがある。君のところの職人のロホス・ディンケルに、この半年以内に他の予約に横入りして本棚を二台購入した者がいるか確認してくれ」
『わかった』
「オーレリア、魔力染みについて確認しておきたいことがある。治癒の魔法の魔力染みは何色だ?」
『言葉では表しにくい色よ。なんて言ったらいいのかしら……乳白色……じゃないわね……青みがかった肌色みたいな色なのよ』
フィリベルトは治癒の魔法で腕を生やしたら色が変わったなどと顔色も変えずに平然と嘘をついたが、身体検査を兼ねた湯浴みの時に見たフィリベルトの右腕には、確かに魔力染みがあった。
魔力染みの範囲の広さはアリアと同じだ。
となると、フィリベルトはかなりの魔力を持ち、強力な治癒の魔法が使えるということになる。強力な治癒の魔法が使える、と言っていたことだけは嘘ではなかったということだ。
「魔力染みに直接触れるとどうなる?」
『遅効性の毒が体に侵食していって、最終的に死ぬわ。触られた箇所から体が壊死していくの』
「どのくらいで死ぬ?」
『確認されている限りもっとも範囲が広い、指先からヒジまでの魔力染みで一年半くらいね。手首までで三年よ。ただ、治癒の魔法の魔力染みは特殊で、触られても助かる方法が存在する』
「その方法は?」
『触られたのと同じ人物に、もう一度同じ箇所に触れた状態で治癒の魔法をかけてもらうと治るわ』
「他の治癒の魔法の使い手では治らないということか?」
『ええ、そうよ』
「わかった。ありがとう」
婚姻の儀の口付けの際に、フィリベルトはアリアの顔に両手で触れた。
アリアは、フィリベルトの右手——魔力染みがある方の手で、直接左頬を触られている。
指先から肘までの魔力染みで死亡するのに一年半ということは、アリアに残された時間は半年もないとみていいだろう。
残されたわずかな時間のうちに、フィリベルトにもう一度顔に触れさせて治癒の魔法を使わせなければ、アリアは死ぬ。
(やはりそうだったか)
フィリベルトからの密かな殺意に気付いても、アリアの心は不思議と凪いでいた。
動揺はしない。フィリベルトが自分を殺そうとしていることは、あらかじめ予想していた。
フィリベルトは皇帝陛下にアリアの殺害を命じられているとみていいだろう。
孕ませろ、などと命じられたというのは嘘で、同衾するよう制約を結んでいるというのも嘘なのだろう。
魔力染みのある手でアリアに触れたのは、保険のようなものだろうか。アリアの殺害が上手くいかなかった時に備えた仕込みのようなものなのかもしれない。
あるいは、アリアが死んだ時に起きる魔力爆発から逃れるために、あえて時間がかかる殺し方を選択したかだ。
どちらにせよ、フィリベルトが何を考えてそうしたのかは、これからフィリベルトを観察して判断するしかない。
「とりあえず、これで話は終わりだ。何かあれば徽章で連絡を。私も何かあれば連絡する」
各々から了解の答えが返ってくる。そのまま、挨拶もそこそこに通信を終えた。
アリアは談話室の周りにかけた魔法を解除する。それから監獄全体に意識を向けると、ちょうど四階の書庫から一人が出たところだった。
それがフィリベルトなのか、他の囚人たちの誰かなのかはわからない。
「そろそろ戻らないと」
「はあ……」
テディはうんざりした顔で盛大にため息をつき、緩慢な動作でソファーから立ち上がった。
のろのろと床に落ちた囚人の面を拾い、軽く汚れを払うくらいにして装着する。
「今なら談話室の周りには誰もいない。早く出ていけ」
「言い方ひどくないか?」
「今さら気にしてどうする」
「はあ……わかったわかった。すぐ出ますよ」
テディがアリアに背を向け、食堂に繋がっている南側の扉に向かう。
「テディ」
「ん?」
アリアが呼び止めると、テディが足を止めて振り返る。
「『エントウィッスル侯爵家のあれ』が起きる前にフィリベルトと顔を合わせたことはあるか?」
「? ないけど」
「そうか」
「なんで?」
「フィリベルトがお前をやけに目の敵にしている。最初から良い印象を抱いていなかった。どうやら恋敵だと思っているらしい」
「あはっ」
堪えきれないと言った様子で、テディが笑い出す。
「あははははは! 正気か!? 俺がアリアを? っふ、あはははは! それは絶対にないね!」
「私もお前は願い下げだ。とにかく、フィリベルトが『カペラは私に気がある』と言ってきた。根拠があるわけではなく直感だと言っていたが安心はできない。フィリベルトには気を付けろ。あの男は普通じゃない」
「はいはい。そっちこそ気を付けろよ。フィリベルト・ジンデル、あいつ本気でお前に惚れてるぞ」
「フィリベルトが? あり得ない。あれは全て私を懐柔するための演技だろう」
「アリア、お前は色恋だの何だのとは全く無縁の世界にいたからわからないだろうが、あれは本気のやつだ。さっき集まった時、あいつが俺たちにアリアに色目を使わないように牽制してるって言っただろ? あの時のあいつの顔、凄かったぞ。お前には見えなかっただろうが……」
テディの口元が歪む。囚人の面に遮られて目元は全く見えないが、思いっきり嫌な顔をしているらしい。
「あいつは、好きでも目的のためにお前を殺せる人間だと思うぞ。全部終わったら跡を追う類いの野郎だ」
「勘か?」
「ああ」
「お前の直感は馬鹿にできないからな。気をつけるよ」
「頼むぜほんと。絆されるなよ」
「わかってる」
アリアの返答を聞くと、テディがさっさと談話室から出ていく。
アリアは監獄全体に意識を向けたまま、その場に立ち尽くした。
テディが食堂を通り抜け、廊下を通って南棟に帰っていくのをぼんやりと確認する。
フィリベルトのこちらに対する好意は演技ではなく、本心からくるものだと言われてもにわかには信じられなかった。
これまでずっと、随分と演技が上手いとしか思っていなかった。しかし、アリアと違って格段に多くの者たちと接してきたテディが言うからには、きっとそうなのだろう。色恋に対するテディの経験値はわからないが、少なくともアリアの判断よりは信憑性がある。
うっかりこれまでのことを思い返してしまい、顔面が燃えるように熱くなる。咄嗟に左手で顔を覆った。
テディの言うことが本当だとしたら、フィリベルトにはアリアに対する恋情と殺意が同等に存在しているということになる。
(どうしろと言うんだ……)
と、アリアの制服の胸元につけていた徽章の縁が金色の光を放ち始めた。誰かからの通信が入っている。
アリアは徽章の表面を指先で軽く二回叩く——通信に応じる時の動作だ。
「はい」
『すまない。アリアに内密に話したいことがあって』
「ラースか」
ラースは切羽詰まった様子で、声をひそめて言葉を続ける。
『周りにに人は? テディはまだそこにいるのか?』
先程からずっと監獄全体に意識を向けているが、談話室の周辺、会話を盗み聞きできるような場所には誰もいない。
「誰もいない。テディは帰った」
『なら、早速本題に入らせてもらう。アリア、誰も信用するな』
——どういうことだ。
アリアは静かに混乱した。一度大きく息を吸って、吐く。もう一度繰り返し、ラースの言葉を完全に飲み込んでから、開口する。
「誰も?」
『ああ。ルーシャンも、オーレリアも、テディもだ。特にテディには気を付けろ』
ラースはひどく緊張した口調で言う。冗談を言っているような話ぶりではない。
「なぜだ? 確かに、バルバーニー商会は元はリンガイル国の商会だが。今はどの国にも属していないはずだ」
『僕だってみんなを疑いたくない。でも疑わしいんだ』
「どうしてそう思う」
『ルーシャンは『エントウィッスル侯爵家のあれ』が起きた後のエジーテの中に何度も入っているはずなんだ。エジーテに入り込む機会をうかがって潜んでいるうちの記者と調査員たちが、お忍びでルーシャンが何度もエジーテに出入りしているのを目撃してる。それなのに、ルーシャンはさっきの場で何も言わなかった。他の調査員たちからはオルブライト侯爵とワイラー公爵が密かに会っているという情報も入ってる』
「ルーシャンはさっきの場でエジーテがどうなっているのか知らないと言った。明らかに何かを隠している。おまけに中立派筆頭のワイラー公爵家が中立でなくなったかもしれない?」
『そうだ……』
ラースの声は尻すぼみになり、かき消える。
重苦しい沈黙が落ち、ややあってラースが再び開口した。
『オーレリアは、スカンランが保護してる者じゃないリンガイルの人間と頻繁に会っている。これもうちの調査員たちが見ている。オーレリアと会っていた人物の衣服についていた家紋をうちの者に確認させたら、リンガイルの魔法研究の名家、レクラム侯爵家の家紋だった。オーレリアがレクラム侯爵家と接触している目的がわからない。それに……レクラム侯爵家は、クレア殿下の夫の生家なんだ。彼らからしたらアリアは不義の子だ。よく思うはずがない。そんなやつらとオーレリアは接触してるんだ、何度も何度も……』
「テディは?」
『テディは……』
ラースの声に、明確な怯えの色が浮かぶ。震える声を落ち着けようとしているのか、大きく深呼吸する音が聞こえた。
二度、三度と深呼吸した後、ラースは話を続ける。
『テディは、どうしてノイラート国の国内情勢について僕たちに話すことができたんだと思う?』
「……? どういう意味だ」
『アリアは、商会が国を跨いで商売を許されるのはなぜだと思う? 国内の色々な情報を他国に漏らされるかもしれないのに』
「一切の情報を他国に漏らさないという制約を国ごとに結んでいるから?」
『当たりだ。バルバーニー商会のように国を跨ぐ商会は、それぞれの国と最も強い制約の魔法を使って、情報を漏らさないという制約を結んでいる』
「なら、テディは?」
テディは先ほど、ノイラート国の国内情勢について話していた。もっとも強い制約の魔法を使用して制約を結んでいるとしたら、とっくに死んでいる。しかし、テディは生きている。
『……テディには、もう一つ名前があるんだ。僕たちの知るテディ・バルバーニーが偽名だ』
制約の魔法を使って制約を交わす際に、偽名を使うことは可能だ。
偽名を使うと、文言通りに作用する制約の魔法が上手く働かなくなる。その名前を持つ人物が実際には存在しないために、制約がかかることはない。
もし、テディ・バルバーニーという名前が偽名で、その名前を使って制約を結んでいるのだとすると、ノイラート国で交わした制約はテディにとって無意味だということになる。
先程の場で、ノイラート国の国内事情について話しても、テディの身に何も起こらなかったことに説明がつく。
それより気になるのが、ラースが断定の口調だということだ。
「まるで、本名が何か知っているような口調だな」
『……ああ』
絶望を吐き出すかのように、ラースが肯定する。恐怖に染まった声だ。
『テディは、』
ラースが言葉を続けようとした瞬間、凄まじい爆発音と共にグリニオン監獄が揺れた。
『なんだ……!?』
ぎょっとしたラースが、半ば叫ぶような声を発する。
「ラース。すまない」
アリアは、ラースとは対照的に声を潜める。
「一度切る。連絡できるようになったらこちらから連絡する」
そう言うが否や、ラースの返答を待たずに徽章の表面を一度指で叩き、通信を終える。
監獄全体に意識を向けたままにしていたが、監獄内で建物の崩壊はみられない。監獄内のどこかが爆発したわけではなさそうだ。
(そうだとすると——)
アリアは魔法を使い、東側の窓の一部を大きなものに作り変え、そこに面した外に上方へと伸びる螺旋階段を作る。
作り終えると、その窓から外に出た。螺旋階段を駆け上がり、屋上に出る。
屋上はもともと立ち入りができるようには造られておらず、当然ながら柵のようなものはない。ひらけた屋上からは周囲の景色がよく見えた。
連なる山脈とは逆方向、南側の森から火の手が上がっている。もうもうと煙を上げ、燃え盛る炎が周辺を明るく照らす。
その方向に何があるのか、アリアはよく知っている。
——ダールマイアーの邸だ。
と、その時だ。周辺の空気が重くなったかのようにずんと体にのしかかる。かと思えば、突如頭の中に言葉が浮かんでくる。
(これより、グリニオン監獄からの逃走を禁ずる。自害を禁ずる。外部と連絡を取り合うことを禁ずる)
アリアが監獄全体に張り巡らせていた魔法に付与していた条件が勝手に変更された。
アリアが定めていた、『これより永続的に、看守を殺害することを禁ずる。逃走を禁ずる。自害を禁ずる。外部との連絡を禁ずる。治癒の魔法以外の魔法の使用を禁ずる』という条件から、『看守の殺害の禁止』と『魔法の使用の禁止』を剥がされた。
さらに、『外部との連絡を禁ずる』としていたところを、『外部と連絡を取り合うことを禁ずる』に変更された。
これまでの『外部との連絡を禁ずる』は、実のところ、監獄内部から外部に連絡することのみを禁じていた。外部から監獄内部への連絡は可能だ。
説明しなかったのはわざとだ。気付いたところで、監獄内部から外部に連絡はできないし、外部から連絡が来ることを止めることはできない。通信の魔法は一般的ではなく、民衆の主な連絡手段は伝書鳥を使うか人に運んでもらうかのどちらか。囚人たちが双方向で連絡が取れなくなったと勝手に勘違いして、外部からの連絡に気付かずにいてくれたら、その隙をついて誰と連絡を取っているか確認するつもりだった。
それを、『外部と連絡を取り合うことを禁ずる』に変更された。要するに、双方向での連絡を禁止されたということだ。
アリアは、もう一度条件を上書きしようと試みたが、まるで手応えがない。
アリアの定めた条件を上書きできるのは、アリアより強い支配の魔法を持つ者のみ。
この監獄内に、リンガイル国の王族がいる。
アリアを殺しに来たのか、連れ去りに来たのか、それはまだわからない。探し出して真意を探る他ない。何を思ってここに来たのかがわからない以上、話が通じるような相手なのかも不明だ。
アリアは監獄全体に張り巡らせた魔法を確認する。
どうやら、上書きされたのは条件だけのようだった。監獄に張り巡らせた魔法は依然としてアリアの制御下にある。
「始まったか」
アリアが呟くと同時に、再び腹の底に響くような爆発音がして、轟々と燃え上がる炎の柱がダールマイアー邸から立ち上る。
不自然なくらいに火の手が強い。炎のゆらめきが時折虹色に光り、これが強力な火の魔法による火災なのだと知れた。
皇帝陛下の手の者の仕業か、リンガイル国の手の者の仕業かはわからない。いずれにせよ、この火の勢いでは母親だと思っていた義母も、使用人も、何人たりとも生きてはいないだろう。
こうなることはあらかじめ予想していた。
ダールマイアーを絶やそうとする者の手により、遅かれ早かれ邸の者たちが皆殺しにされるだろうと。
アリアの頬を撫でる風は、火災の熱を帯びて生ぬるく、焦げ臭い。何の感慨もなく、これまで過ごした邸が燃える様を見つめる。
清々したわけでもなければ、こうなる可能性を教えなかったことに罪悪感を覚えるわけでもない。
何も感じない。
そう、ただ『邸が燃えている』と思うだけだ。今もなお、大勢の者が炎に焼かれていると言うのに何も感じない。
アリアには、邸の者たちに警告することもできた。火を放たれる可能性が高いから気を付けろと、言い残す機会があった。しかし、それをしなかったのは、邸の者を見殺しにする選択を取ったのは、アリアだ。
情を、抱けなかった。
悲しみや憎しみを通り越し、義母の存在はアリアの中で自分を害する他人になり、やがて無になった。使用人たちもだ。
ダールマイアーの邸の中で、ほど近い距離にいるはずの者たちは、長い時間をかけてアリアの中で無になっていったのだ。
だから見捨てた。
結果的に見捨てるような形になった、と言った方が正しいかもしれない。
初めから無いのと同じだったから、そのままにした。その結果が、目の前の光景だ。
ダールマイアー邸から立ち上る炎の柱を見つめながら、ふとフィリベルトのことが頭をよぎる。
『エントウィッスル侯爵家のあれ』で大勢の遺体に火を放ったフィリベルトは、何を思い、炎を見て笑っていたのか。
「大罪人なのはどちらだろうな」
自嘲の笑みと共に放たれたアリアの言葉は、誰の耳に届くことなく、生ぬるい風に溶けて消えた。




