2 舞踏会へ
馬車に乗り込み、ダールマイアー邸を発つ。
ここから王都までは馬車で約七日ほどかかる。
面倒だが、これが『役目』と伯爵位を引き継いだ際の慣習であるため致し方ない。
ダールマイアー邸を出てから、切り立った崖沿いの道を行く。
ダールマイアー邸の周囲は深い森に覆われていて、他に人家はない。崖下も深い森だ。森を切り裂くように大きな川が伸びている。
程なくして、巨大な滝が見えてくる。大滝だ。
きちんとした名前がついた滝なのかもしれないが、アリアは知らない。昔から大滝と呼んでいるから、『大滝』だ。
具体的な計測はなされていないが、大滝は幅も落差もあり、滝壺は深い。落ちたら命はない。
クラウスの遺体は、六年経った今も見つかっていなかった。
大滝の滝壺から川が伸び、少し離れたところに、『それ』がある。
深い森の中に聳える、五つの棟で形成された白亜の砦。
並の監獄では手に負えないような大罪人が国中から集められる大罪人専用の監獄、グリニオン監獄だ。
ダールマイアー伯爵家は、古の建国当時からこのグリニオン監獄の看守の役目を担う一族だ。
それもこれも、ダールマイアーの血筋の者が罪人を管理するにはうってつけの魔法と能力を持っているからだった。
強力な結界の魔法と、触れたものの命を奪う能力。
ダールマイアーの血筋の者は、局地的ではあるが強力な結界の魔法を継承する。
さらに、結界の魔法を継承する者には黒紋と呼ばれる紋が左右どちらかの手に現れる。
黒紋は紋だとされるが、実際には紋様は現れず、ただただ片手が黒く染まる。この黒紋はただ黒いだけではなく、直接触れたものの命を奪う。
結界の魔法と命を奪う黒紋を持ってして、王命により、遥か昔から今に至るまでグリニオン監獄の看守になることを定められた特殊な一族、それがダールマイアーだ。
ダールマイアー伯爵家では、当主になる者が看守となり、一生をグリニオン監獄で過ごす。
一生をかけて監獄に結界を張り続け、時として罪人の処刑も行う。
罪人を見張り、逃さないために監獄からは出られない、グリニオン監獄のたった一人の看守。
全てが古の時代からの王命で決まっているため、逃げることが決して許されない『役目』だ。
監獄と呼ぶにはあまりにも美しいその建物を、アリアは見下ろした。虹色をした透明な膜が建物を覆っているのが見て取れる。防護結界だ。
防護結界は、グリニオン監獄に入っている看守が亡くなった時に、看守の遺体と引き換えに自動で発動する強力な結界の魔法だ。
この防護結界がある限り、監獄内の罪人は結界より外に出ることができず、外部の者が監獄内に入ることもできなくなる。
防護結界がどのくらい保つかは個人差があるものの、概ね一月ほどは保つ。
新しい看守がグリニオン監獄に入るまでの間、この防護結界が囚人を閉じ込める大きな檻となる。
眼下の監獄を覆う防護結界は、看守であったアリアの父、ヴィリバルト・ダールマイアーが亡くなったことを示している。
こうして見ていても、生まれた時から顔も知らない父親の死に対して何の感情も湧いてこない。
交流らしい交流など皆無で、時たま手紙で事務的なやり取りを交わすのみだった。父親の人となりすら知らない。悲しめという方が無理だ。死因が何だったのかすら気にかからない。
ダールマイアーの結界の魔法を受け継ぐ者は、例外なく、死ねばその遺体の全てを対価に自動で防護結界が展開され、骨の一つですら残らない。
アリアがこれからグリニオン監獄に入ったところで、父親の死因を知ることはできないだろうが、それも致し方ないことだ。
ダールマイアー伯爵家に生まれ、結界の魔法を受け継いだ時点で逃れられないことだ。
防護結界の発動を確認した後は、速やかに看守の引き継ぎと当主の引き継ぎを行い、王城に出向いて当代の王に挨拶をしなければならない。
ダールマイアー伯爵家当主と看守は必ず同一でなければならず、かつ結界の力と黒紋を受け継ぐ者でなければならない。
全て、古の時代からの王命で決まっていることだ。
いかなる場合も、必ず従わなければならない。
父親の亡き後、当主兼看守となり得るのは、クラウスの亡くなった今ではアリアしかいなかった。
アリアは窓の外の景色を眺め続ける。
王都に行くことに関して、とにかく気乗りしない。
何せ、今の時期が悪かった。
運悪く、アリアが王都に着く頃に建国祭が始まる。
そのせいだろうか。当主兼看守の引き継ぎに伴う謁見を皇帝陛下に申し込んだところ、舞踏会に出席するようにとのお達しがあった。
アリアは生まれてこのかた、舞踏会はおろか人目につくような行事に一度も出席したことがない。
なにせダールマイアー伯爵家は、『当主が看守となり一生を監獄で過ごす』という特殊さから、どのような行事でも欠席しても良いとあらかじめ許可が下りている唯一の家門だ。
母親は何の行事にも参加しようとせず、アリアはというと、母親からお前は出席するなと言われていた。だから、今まで何かしらの行事に出席したことはない。
皇帝陛下からの手紙には、舞踏会用のドレスやら靴やらはこちらで用意するとまであって、ドレスがないからと断るわけにもいかなくなってしまった。
そもそも、皇帝陛下の命令に逆らえるわけがない。
舞踏会には、何が何でも必ず出席しなければならない。最悪だ。
アリアはダンスが踊れない。
他の令嬢が礼儀作法を学んだりダンスを学んだりしているころ、アリアは剣を振るい槍を振るい、罪人を肉体的にも精神的にも追い詰める方法を学んでいたのだ。
やれと言われてすぐに踊れるわけがない。
どうするかは追々考えるとする。王都に着くまではまだ日数がかかるから、その間にどうやり過ごすか考えておけばいい。
アリアは一つため息をつき、窓から見える景色に集中することにした。
▽
当初の予定通り、七日目の昼を過ぎた頃に王都に到着した。
まずは王城に出向き、代替わりの挨拶のための謁見を済ませる。
舞踏会の準備は全て王城のメイドが手伝ってくれるとのことで、舞踏会が開催される夜までは客室で待機しても構わないし、外出しても良いとのお達しがあった。
どうするかを考えた結果、アリアは客室から出ないことにした。
城下町に出たところで、ダールマイアーの者だとバレて不要に人々を怖がらせることになる。
何せ、アリアに付随する『兄殺しの令嬢』の二つ名は社交界のみならず市井にも広く広まっている。必然的にアリアの容姿の特徴も知られていた。
ダールマイアーの『兄殺しの令嬢』が出歩いては、人々は怯えて逃げ出すだろうし、店々は開けた店を閉めることになるだろう。
これは大袈裟でも何でもなく、人々の間で囁かれるアリアに関する噂を鑑みれば十分起きる可能性があることだ。
巷でアリアは、『歴代のダールマイアーの中でも特に残虐で、血と悲鳴を好み、手当たり次第に殺戮を楽しんでいる』と噂され、元々あったダールマイアーの悪い噂との相乗効果でひどく恐れられていた。
外がだめならと城内を見て回ることも考えたが、結局はすれ違う者たちを怖がらせるだけだと考え直した。
今は大人しくしていた方がいい。
アリアはやむなくバルコニーから外に出て、眼下の景色を眺めた。
バルコニーからは王都の西側が見える。商店が建ち並び、多くの人々が行き交っている。
これからグリニオン監獄に入り、そこで生涯を終えるアリアには、最初で最後の光景だ。
一度でいいから、クラウスと買い物をしたり色々な街々を見てみたかった。決して叶うことのない願いだということはよくわかっているはずなのに、そう思わずにはいられない。
平民でも貴族でもいい、もしも自分が『普通』の家に生まれていたなら。
兄のクラウスを殺すことも、看守として生涯を監獄の中で終えることもなかっただろう。
眼下の通りを行き交う人々と何ら変わらず、笑顔を浮かべてクラウスと通りを歩いていただろう。
——なぜ、どうして私が、こんな目に遭わなければならないの。
そう考えるのはとうの昔にやめた。
自分の境遇を恨んでもクラウスは帰ってこないし、グリニオン監獄の看守である立場は変わらない。
ならば、現状を嘆き悲しみ恨むよりも、これからどうするのかを考えた方がマシだ。
アリアは右手をかざす。
白色の手袋の下には、黒紋で真っ黒に染まった右手がある。
アリアは歴代のダールマイアーの者の中でも最も強い結界の魔法を持つとされている。
それというのも、アリアの黒紋が、右手全て——指先から腕の付け根までに及んでいるからだ。
黒紋の範囲が広ければ広いほど魔法の力が強い。
黒紋が命を奪う力も強くなり、アリアが右手で触れたものはその瞬間に絶命する。
ただし、いくら力が強くとも、間に布地などの何かを挟めば効果は発揮されない。直に触った時だけ、命を奪う。
多くの者は、直に触った時だけ効果があることを知らないか、あるいは知っていても手袋をしていることなどお構いなしにアリアの右手をひどく恐れる。
市井で囁かれる数多の噂の中には、アリアとすれ違っただけで死ぬ、というものもあるくらいだ。
これから何時間か後にアリアの支度を手伝いに来るであろう城使えのメイドたちの気持ちを思えば、さぞ怖いだろうなと同情してしまう。
相手はダールマイアーの中でも最強たる力を持つ『兄殺しの令嬢』のアリアなのだから。
怖がらせたくないとは思うのだが、上手くいった試しがなかった。
むしろ、アリアが口を開いただけで怯えられる。どうにかして危害を加える気はないのだという意思を見せなければならないと思うと、憂鬱な気持ちが増す。
そして、それ以上に気になるのが、ダールマイアーの『兄殺しの令嬢』をわざわざ舞踏会に参加させる理由だ。
あらゆる行事の欠席があらかじめ許されているダールマイアーを——恐怖の象徴たるダールマイアーを、わざわざ王命で舞踏会に参加させたのだ。
謁見の時に会った皇帝陛下は、アリアに対して嫌悪感を露わにするような人物だった。
ダールマイアーの黒い手をよっぽど嫌悪しているのか、穢らわしいものを見るような目でアリアと黒紋のある右手を見ていた。
ダールマイアー伯爵が登城するまたとない機会だから舞踏会に誘った、というようなものではないのは明らかだった。
そもそもこれは王命、命令だ。
強制的にアリアを参加させる『何か』が舞踏会で起きる。
そのためにあえてアリアを舞踏会に参加させたと考えるのが自然だろう。
アリアはかざした手をぐっと握り込んだ。
何かが起こる気がしてならない。なぜだろう。やけに胸騒ぎがした。