19 幕開け①
「待たせたな」
「ほんとだよ」
談話室に入り、中にいた男に声をかけると、無気力な返事が返ってくる。
アリアは魔法を使い、室内全ての扉を開かないようにした。さらに、音を遮断するようにする。これで、外部から談話室には入れず、音が漏れることもない。
「楽にしていいぞ、カペラ」
「それ、まだ続けなきゃだめ?」
「いや、もういい。誰も入れないようにしたし、会話も聞かれないようにした。囚人の面もとっていい」
「じゃあアリアもカペラって呼ぶなよ」
「わかったわかった。悪かったよ、テディ」
気だるそうに話すカペラ——テディ・バルバーニーが、囚人の面を外して背後に放り投げる。盛大な音を立てて囚人の面が床に落ちた。
「おい」
「いいだろ別に」
はあ、とテディが大きなため息を吐く。ソファーの背もたれにだらりともたれた。
「その声と髪と目の色はどうした」
アリアが問いかけると、テディは再び大きなため息を吐いた。
「見てわからない?」
「わからないから聞いているのがわからないか?」
テディが心底面倒そうな顔をして、おもむろに口を開く。
「ほら、これ」
あ、と舌を出して見せる。
テディの舌には、銀色の小さな石の付いたピアスがあった。アリアが確認するやいなや、テディは舌を引っ込める。
「変身の魔法が付与されたピアスか?」
「そう。取れば元に戻る。髪は切った」
「どのくらい持つ?」
「一ヶ月くらい。まあ、かなり予備持ってきたから心配するなよ。声と髪の色と目の色を変えるくらいの変身魔法の使い手は結構いるから、この程度の物だったら簡単に手に入るし」
アリアは改めてテディの姿を見る。
普段は肩より少し長いくらいの灰色の髪をゆるく結っていたが、今は栗色の髪になっている上に、長さも短くなっている。元々琥珀色だった瞳も、今は青緑色の瞳になっていた。
少しつり上がった目に、口元左側にはほくろが一つ。思わず目を見張るほど目鼻立ちの整った青年だ。
テディは笑いさえすれば愛嬌のある好青年だが、今は目元の印象か、無表情に妙に迫力があるからなのか、あるいは不機嫌そうだからなのか、かなり無愛想で気が強そうに見える。
その声は低く、聞き慣れない。普段のテディの声はもう少し高くて良く通る。
「何? 見すぎだろ。見惚れてるのか?」
わずかにからかうような響きを含んだ声音に、アリアはふっと小さく息を吐いて、無表情のまま鼻で笑う。
テディは自分自身の見目の良さを商売道具だとしか思っていない。現に今も、アリアが見惚れるくらいならこの髪色と髪型、瞳の色も『使える』くらいにしか思っていないだろう。
「似合ってないなと思っただけだ」
「うるさいな。そもそもこの変装もアリアのせいだろ」
「悪かったって」
「まあいいけど」
はあ、と億劫そうに息を吐いて、テディは天井を仰ぎ見た。面倒そうな態度を隠そうともしないのは相変わらずだ。
バルバーニー商会の次期会頭と目される愛嬌のある好青年、商人テディ・バルバーニーの本性がこれだ。
常にだるそうで、喋り口調も態度も面倒臭そうにする。商人としての外面の反動なのかまず笑わないし、口も悪いし態度も悪い。あえて人の神経を逆撫でするようなことも平気で口にする。
テディがこの本性をさらすのは限られた者にだけだ。本性をさらしている時点でこちらにかなり気を許しているということになるが、それにしても厄介な性格だ。
テディが悪い人間でないことだけは確かだが、接するにはコツがいる。
「見えないように口の中にしたんだろうが、気を付けろ。それがフィリベルトに見つかったら面倒なことになる」
「あいつとなんて喋りたくもないに決まってるだろ。頼まれても大口開けて笑ったりなんかしない」
「ならいい。では、そろそろ報告してくれ。無駄話をする時間がなくなってきた」
「いや、その前に結婚って何だよ」
「ああ……」
やはり気になるか、と頭を抱えた。説明が面倒だ。
「『兄殺し』の罰として陛下に婚姻を命じられた」
「あのフィリベルト・ジンデルと?」
「そう」
「へえ……」
テディが視線を天井からアリアに向けた。
「あいつ、まともにしか見えないのが気持ち悪いな。拷問されてもひたすら黙秘で、殺したとも殺してないとも言わなかったんだろ。アリアから見てどうなんだ? 殺してるか、殺してないか」
アリアは黙った。一度床に視線を落とし、それからテディを見る。
「フィリベルトの犯行にしては疑問が残る。かといって無関係ではないように思える、とだけしか言えない」
「限りなく白に近い黒?」
「それでいい」
「急に投げやりだな。別にいいけど」
興味が失せたとでも言わんばかりに、テディが再び天井に目をやる。
アリアはその様子を眺めながら、言う。
「フィリベルトは頭が回る上に観察力に優れている。下手すると正体がバレるから気を付けた方がいい。そうだ、さっきの変な挙動はなんだ? お前のせいで笑いたくてたまらなくなった。フィリベルトの前でああいう言動は止めろ」
「は? 適当に頭のおかしい罪人のフリでもしてろって言ったのはアリアだろ」
「それはそうだが、あれはただ私を笑わせようとしているだけだろう。そういうのを止めろと言ってるんだ」
「はいはい」
「報告」
アリアが急かすと、テディは小さく息を吐き、ズボンのポケットから何かを取り出した。金色の地に青い線が二本入った、次席騎士であることを示す徽章だ。
「あいつら呼んでからの方がいいだろ。連絡待ってるだろうし」
テディは徽章の外枠をぐるりと二回りひねる。すると、途端に徽章全体が淡い光を放ち始めた。
「ラース・スカンラン、ルーシャン・ワイラー、オーレリア・シェルマン」
徽章に向かって、テディが名前を呼ぶ。
騎士の徽章には、通信の魔法が付与されている。この通信の魔法により、どのくらい距離が離れていたとしても、徽章を持つ者同士で会話をすることができる。
徽章の外枠を二回りひねり、通信したい者の名前を呼べばその者に繋がる。複数人での会話も可能だ。
『遅い!』
途端に、徽章から男性の一喝が響く。
東部の沿岸一帯を治める領主、スカンラン伯爵の次子ラース・スカンランだ。
ラースは三席の騎士だが、騎士見習いから正式に騎士になったころに後継者争いが勃発し、結局騎士団には所属していない。
散財と賭博に傾倒したろくでもない長子と、優秀だが領民を顧みず金を生み出す駒だとしか思っていない三子と、スカンラン伯爵家の財産を狙う庶子の四子と熾烈な争いを繰り広げた末に勝利し、後継者になった。
スカンランは表向き違法の奴隷売買に手を染めているように見えて、その実『奴隷』の名目で海の向こうのリンガイル国から亡命する者を手助けし、保護している。
そうして保護した者たちに技術や知識を与え、スカンラン領の職人の一員として生活させていた。
その者たちを含んだあらゆる技術者をまとめ上げたスカンラン職人連合の代表を務めるのもラースだ。
『どうしてこんなに遅いんだ!? 何かあったと思ったじゃないか! 僕はすぐに駆けつけることができないんだからな……! 君たちに何かあっても、間に合わないんだ!』
焦りと苛立ちに震える声と同時に、荒い足音が聞こえてくる。どうやら、居ても立っても居られずに室内を行ったり来たり歩き回っているらしい。
「ラース、心配をかけてすまない。私もテディも無事だ」
『アリアか。君もテディも無事ならいいんだ』
「ラースはあいかわらず心配性だな。お前を見てると本当に疲れる」
『テディ! 君はどうしていつもそう』
『話が進まない。小言は後にしてくれないか』
冷ややかな声音でラースをぴしゃりと遮ったのは、宰相を務めるワイラー公爵の長子ルーシャン・ワイラーだ。
ルーシャンは四席の騎士だが、代々宰相を務めるワイラー公爵家の後継者であるため騎士団には所属しておらず、今は王城で宰相補佐をしている。
『ひとまず無事でよかった。だが、危険なことには変わりない。くれぐれも気を付けるように』
「ああ。ありがとう、ルーシャン。気を付けるよ」
『アリア、あなたが強いことはわかってるけど……テディもいるからって無茶しないでよ』
諭すように言う女性は、西部の天才と称される学者一族のシェルマン子爵家、シェルマン子爵が次子のオーレリア・シェルマンだ。
シェルマン子爵家は全員が各分野の研究の第一人者であり、特に知られるのが、金黒石の毒素を発見した医学者であるオーレリアの祖父と、鉱物学者の祖母だ。
さらに、オーレリアの父シェルマン子爵は海洋学者、母は地質学者、兄は植物学者、妹が神童との呼び声高い海洋生物学者だ。
オーレリア自身は歴史学者でありながら、ガルデモス帝国では研究を禁じられている魔法について秘密裏に研究している。
オーレリアは五席の騎士だが、研究に打ち込みたいからと騎士団には所属していない。
『アリアは時々思い切りが良すぎるから不安だわ……』
「大丈夫だって。俺が止めるから」
『テディ……それが一番不安なのよ。あなたはアリアに似てるところがあるから……』
彼らは皆、アリアが長い年月をかけて関係を築いた友人であり、『兄殺しの令嬢』のアリアを『ただのアリア』として見てくれる者たちだ。
クラウスを殺したとされたあの時から徐々に壊れていったアリアの心を、ぎりぎりで救い上げてくれた者たちでもある。
あの日——クラウスに呼び出されて真夜中に大滝の滝口まで出向いた後、気付けばアリアはその場で倒れていたらしく、日の出と共に目を覚ました。
その時にはすでに過去の記憶が失われており、昨日何があったのか、なぜ自分が大滝の滝口近くの地面に横になって眠っていたのか、何一つ思い出せなかった。
周囲の踏み荒らされた下草を見ても、自分一人で踏み荒らしたにしては範囲が広いような気がする、くらいにしか思わなかった。
周囲には何も落ちておらず、誰もいない。
疑問に思いながら邸に戻ると、早朝にもかかわらず邸中が騒がしかった。
使用人たちの恐怖に塗れた目が一斉にアリアを見て、凍り付く。
誰かが呼んだであろう母が、夜着のまま慌てて玄関ホールまでやって来て、凄まじい形相でアリアに向かって「お前がクラウスを殺した! この人殺しめ!」と絶叫した。
記憶がないからと、誰かにクラウスのことや母親の言葉の意味を確認できるような雰囲気ではなかった。
母親はアリアを人殺しだとひたすらに喚き散らし、使用人は化け物を見るような目でアリアを見る。
何もわからず、クラウスのことを思い出せないアリアが、呆然となりながらもどうにか自室に戻って始めにしたことが、日記を確認することだった。
そこに書かれた最後の日記が、『クラウスに大事な話があるって言われた。二人っきりで話がしたいから、夜中に大滝のところまでこっそり来いって。どうしたんだろう?』だった。
焦りと不安と恐怖で震えながら、すがるように必死に日記をさかのぼって読む。そうしてようやく、クラウスが自分の双子の兄であることを知った。
クラウスのことを必死に思い出そうとしても、兄のことが大好きだったという感情しか思い出せない。
昨夜のことを思い出そうとすると、何も思い出せないのに、両手で何かを強く押した感覚がよみがえってくる。耳の奥で、「アリア!」と自分の名前を呼ぶ男の声が聞こえてくる。
アリアはひどく混乱しながらも、二つの疑問を抱く。
——なぜ、邸中の者たちがアリアとクラウスが夜半に滝口にいたことを知っているのか?
——なぜ、クラウスが死んだのに防護結界が発動していないのか?
邸中の者たちが、アリアが邸に帰る前の早朝から、『アリアがクラウスを滝壺に突き落とした』のだと騒いでいたということは、アリアとクラウスが夜中に邸を抜け出して滝口に行ったことを皆が知っているということになる。
アリアが昨日書いた日記には、二人っきりで話がしたいから、夜中に大滝のところまでこっそり来いとクラウスに言われたと書いている。
『二人っきりで』『こっそり来い』と言われているからには、アリアは一人で滝口に向かったはずだ。
屋敷を抜け出すことには慣れている。そもそも、この邸の使用人たちはアリアに関心がないか、黒紋を恐れているかのどちらかで、必要以上に関わろうとしない。それは双子の兄クラウスに対しても同じだったはず。
ましてや時刻は皆が寝静まった夜中だ。昼の時間帯に抜け出してもバレないのに、夜中に抜け出してバレるわけがない。
それに、アリアは夜中に一人で滝口に行くことを『怖い』とは思わなかった。
日記にも、アリアが度々夜中に蓄光石を明かりにして一人で邸を抜け出していることが書かれている。
夜の暗闇が怖いから誰かに付き添ってもらう、などといったことをアリアがするはずがない。
一体、誰が、『アリアがクラウスを滝壺に突き落とした』のだと話を広めたのだろう。
そして、クラウスが本当に大滝の滝壺で死んでいるのなら、滝壺を中心に防護結界が発動しているはずだ。
アリアの日記には、黒の筆記具で絵が描かれているページがあり、その一部にアリアとクラウスの絵が描いてある。
長袖の服から覗くアリアの右手は黒く塗り潰され、クラウスは左手を黒く塗り潰されていた。黒紋だ。
クラウスは、左手に黒紋がある。
だとすると、クラウスが死ねば防護結界が発動するはずだ。
だが、アリアが大滝のそばで目を覚ました時も、今も、滝壺はおろか川沿いのどこにも防護結界は見えない。
つまり、クラウスは、死んでいない可能性があるのではないか。
しかし、それらの疑問を口にしたところで、この家ではどうにもならない。アリアの言葉に耳を傾けてくれる人間は存在しなかった。
そうして、『兄殺しの令嬢』としての日々が始まった。
多くの者たちの糾弾と誹謗中傷、心無い言葉の数々、毎日のように母親から浴びせられる「お前は人殺しだ」という言葉、看守教育の名目で行われる拷問、暴力、他人と交流のない環境、あらゆる全てがアリアの精神を狂わせた。
——クラウスは死んでいないかもしれない。でも、アリアの手には誰かを押した感触が今も残り、耳の奥で男の子がアリアの名前を呼ぶ声が聞こえる。クラウスを滝に突き落としたに違いない。殺そうとした。こんなにも愛する兄を殺そうとした。死んでいないのなら、どうしてクラウスは戻ってこないのだろう。いや、当然だ、戻ってくるわけがない。アリアは、クラウスを、殺そうとしたのだから。戻ってくるわけがない。そもそも本当に生きているのだろうか。母親や皆の言う通り、アリアがクラウスを殺したのではないだろうか。だとしたら罰を受けなければならない。クラウスの命を、人生を、何もかもを、奪って生きるこの身に、罰を受けなければ——。
味方のいない異様な状況下で、アリアにまともな思考などできるはずがなかった。
看守の教育とやらで、何度も死ぬ思いをした。ひどい怪我で虫の息になりながら、このまま死んでしまえばいいのではないかとも考えた。
凄まじい死への恐怖と痛みに震えながらも、そう思わざるを得ない状況にあった。
だが、生まれた環境が易々と死ぬことを許さない。
アリアが黒紋を持つ唯一の後継者だったために、どうしても生きなければならなかった。
怪我は専属の治療師によって手当てされ、あまりにもひどい怪我は治癒魔法で治された。苦しみだけが、延々と続いた。
転機が訪れたのは、アリアが十二歳の時だ。
アリアの元に、一羽の伝書鳥が訪れた。
自室の窓を何度も突いて開けるよう促す伝書鳥を見た時、最初は間違ってやって来たのだと思った。母親に運んできた手紙を、誤ってアリアに届けてしまったのだと。
アリアが窓を開けると、伝書鳥が室内に入り込んでくる。そうして、アリアの前でぴたりと止まった。
伝書鳥の足にくくり付けられた小さな筒の中から手紙を取り出すと、伝書鳥はさっさと窓から飛び去ってしまう。返信を筒に入れるのを待たずに去ってしまったが大丈夫だろうか、などと考えながら、アリアは手紙を開いて文面を見た。
『身辺に気をつけろ。もうすぐ助けに行く。』
それだけの手紙だった。
宛名も、差出人もない。走り書きされた、短い文面。
どうしてか、その時のアリアには、それがクラウスからの手紙に見えた。
瞬間、堰を切ったように涙が止まらなくなる。一度クラウスからだと思い込んでしまうと、もう止められない。
こぼれ落ちる涙が文面を滲ませ、あっという間に読めなくなってしまった。
確証はない。
これが本当にアリアに宛てたものなのかもわからず、差出人もクラウスなのかはわからない。
けれど、それで十分だった。アリアはこの手紙を、自分に宛てられた手紙であり、クラウスからのものだと自らに言い聞かせた。
そうすることで、クラウスが生きているのだと思い込んだ。
仮にクラウスからではなかったとしても、自分を気にかけ、この苦しみから救い出そうとしている誰かが確かに存在する。
アリアは生まれたわずかな希望にすがり、活路を開く方法を探ることにした。