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檻の中の君  作者: 二井星子
第1章 大罪人
14/47

14 違和感のある部屋③

「ああ……そのことですか」


 フィリベルトの視線が肖像画に向けられる。


「アリアにお伝えする前に、確認させていただきたいことがあります。絵に直接触れてもよろしいでしょうか?」

「構わない」


 アリアが許可を出すと、フィリベルトは「ありがとうございます」と礼を言い、絵の前まで行く。

 そうして絵をじっと見つめてから、人差し指で黒色の背景に触れた。ゆっくりとキャンバスをなぞり、それからクラウスらしき男の子の髪をなぞる。


 険しい顔のまま、フィリベルトは順繰りに全員の髪をなぞり、服をなぞった。大きく黒で塗られた部分を一通り触ると、肖像画から手を離す。人差し指に視線を落とし、なぞったことで黒く汚れた指先を嗅ぐ。それから、舌先で舐めた。


「何をしている?」

「甘いにおいがするのでもしやと思っていたのですが、舌先に刺激がありました。この絵の黒い部分は毒石を使った絵の具で描かれています」


 毒石というのは俗称で、正確には金黒石という名前の鉱物だ。

 金黒石は黒い色の石だが、ごく稀に美しい金色を帯びていることから『金黒石』と呼ばれるようになった。


 三十年ほど前に発見された金黒石は、当時はすり潰して黒色と金色の絵の具として利用されていた。

 黒色も金色も鮮やかな発色の絵の具になると流行し、特に貴重な金色の絵の具は貴族間でも好まれていた。


 ところが、数年後にある問題が発覚する。

 金黒石から作られた金色の絵の具で描かれた絵が、黒く変色したのだ。


 事態はこれだけでは収まらなかった。

 金国石から作られた金色の絵の具が経年劣化で黒く変色することが判明しただけでなく、金黒石の鉱山で働く鉱夫、画家、絵を所有している者たちが立て続けに亡くなり始めた。


 専門家が数年がかりで原因を探り、ようやく金黒石には毒素があるということを突き止めた。


 金黒石は脆く、砕いた瞬間から目に見えない細かな粒子が飛び散る。この金黒石の粒子を吸い込み続けると、末端から徐々に体が壊死して最悪死に至ってしまう。

 直接触れるのも駄目で、即効性はないものの、触れ続けていると粒子を吸い込んだ時と同じ症状に陥る。


 原因の究明まで数年の時間を要し、あまりにも多くの命が失われた。

 それ以来、金黒石の絵の具の使用は固く禁止され、金黒石の鉱山も閉山された。


 一連のその出来事から、金黒石は『毒石』の俗称で呼ばれることが多い。


「毒石……」


 アリアはぽつりと呟き、改めて絵を見る。

 描かれている五歳くらいの男の子と女の子がクラウスとアリアで、絵から得られる情報が正しいとするのなら、この絵は約十一年前に描かれたということになる。


 十一年前の時点では、すでに金黒石から作られる絵の具は流通しておらず、それどころか製造方法の一切が葬り去られている。この絵を描いた者は、一体、どうやって絵の具を入手したのだろう。


 ——何から何まで気味の悪い絵だ。


「この絵を描いた者は、義父上に殺意を抱いている気がしてなりません。描かれた義父上の表情に対し、アリアも義兄上も義母上も表情はありません。幸せなのはおまえだけだ、幸せな幻想の中で現実にも気付かず生きている間抜け、と揶揄しているような印象を受けます」

「そうだな……」


 そう言われると、そのように見えなくもない。少なくともこの絵は幸福な家族の肖像画には見えない。


「この絵を描いた者が、義父上を殺したのでしょうか?」

「わからない。看守は囚人から恨みを買うし、ダールマイアーの家門はあらゆる不幸の元凶にされやすいから、各所からあらゆる恨みを買う」

「アリアにも心当たりはないということですね」


 アリアは無言で頷いた。じっと絵を見つめる。


 毒石の絵の具で描かれた妙な絵。


 経年劣化で金色が黒色に変わる絵。


 これに描かれているのがアリアとクラウス、父親のヴィリバルトと母親なら、この女性は母親ではない。


 アリアとクラウスを憎む勢いで嫌い、看守教育と称してアリアに拷問を施した母親の髪色は、赤褐色だからだ。


 この絵に描かれているのは、母親ではない女性だ。あるいは、この女性が本当の母親なのかもしれない。

 だから、ダールマイアーの邸にいる母親はアリアとクラウスを憎む勢いで嫌っていたと考えれば辻褄が合うような気がする。


 この女性がアリアとクラウスの本当の母親ならば、この絵に描かれている女性は、囚人。グリニオン監獄に収監されている大罪人の一人。


 父親のヴィリバルトは、アリアが生まれる前からグリニオン監獄で看守を務めていた。

 監獄から出ることのできない男が子供を作るとしたら、それは監獄内部でのことだろう。

 だから、この女性は囚人のうち一人。今もなお生きてここに収監されているのなら、推定三十代から四十代といったところか。


 さらにいえば、この絵に描かれたアリア以外の三人の髪色は黒か金のどちらかだ。

 この絵が正しければ有益な情報を得られた。


 アリアは絵から目を離し、フィリベルトに視線を移した。


「それより、君はさっき毒石の絵の具の粉末を口にしたが、大丈夫か?」


 金黒石の毒は経口で摂取すると、量によっては数時間で死に至る。助かったとしても後遺症が残ることが多い。


 アリアの問いに、フィリベルトが嬉しそうに笑った。


「大丈夫です。僕は耐性がありますので」

「耐性がある?」

「はい。大抵の毒に耐性ができてしまいました」

「それは、拷問で毒が使われたということか?」

「ええ」


 フィリベルトは平然と頷く。まるで他人事だ。


 一つ息を吐き、アリアは気を取り直して言う。


「アリアがこの部屋を使うのなら、この絵は処分した方がよろしいかと思います」

「それは問題ない。私も大抵の毒に耐性がある」


 フィリベルトは途端に悲痛な顔をする。


 アリアは内心で舌打ちした。


「その不快な顔をやめろ。君に憐れまれたくない」

「申し訳ありません」


 アリアは無言でフィリベルトを見る。しょげかえった様子でアリアを見つめ返すフィリベルトは、本当に落ち込んでいるように見えた。


「私は私の生い立ちを受け入れている。誇りには思っていないが、その結果得られた自分の能力を心から信じているんだ」


 フィリベルトが目を見開く。驚きに満ちた目が、アリアを見る。


「あなたが僕と同じような経験をしたのなら、あの苦しみの果てに得たものを自分の能力だと仰ることのできるあなたはとても強い人だ。こんなことを思うのはおこがましいかもしれませんが、あなたが自分を誇りに思わないのだとしても、僕はあなたを誇りに思います」

「そんなことは思わなくてもいい」

「どうしてですか?」

「後悔することになる」


 フィリベルトはわからないとでも言いたげな顔で小首を傾げた。


「それは、あなたが善人ではないからですか?」


 アリアは黙った。無表情でフィリベルトを見返す。


 しばらく見つめ合い、先にしびれを切らしたフィリベルトがふわりと笑う。


「完全な善人はあまりいないと思いますよ。僕も、善人ではありません。もっとも、この問答は何を基準に善人とするかにもよりますが」


 フィリベルトは、アリアが黙ったことを肯定だと捉えたようだった。


 アリアにはこれ以上この問答を続けるつもりはない。どうでもいいことだ。


 それよりも、目の前の男がますますわからなくなる。


 フィリベルトは、自分が『知っている』のだということを隠さないことにしたようだ。投獄されていたはずの期間のことを、まるで普通に過ごしてきたかのように話した。

 アリアを挑発しているのか、出方を見るつもりなのか、何か目的があってのことなのか。


 フィリベルトは家具や織物、書物に詳しい。つまり、ガルデモス帝国の各領の動きと産業、民衆の動向を把握しているということになるのではないか。


(——この男は、一体、何のために)


 フィリベルトの知る情報は近年の出来事を含む。牢獄の中で、一体何のためにガルデモス帝国の情報を収集していたのだろう。単なる暇つぶしだとは、とてもではないが思えない。そこまで楽観的には考えられない。


 挙句、フィリベルトは今では流通していない金黒石についても詳しかった。詳しいどころではなく、金黒石の絵の具で描かれた絵の見分け方を知っている。


 そして、だからこそ、理解できないことが一つある。


 フィリベルトが、今もテーブル上に残るティーカップとソーサーが何であるかを言わずに無視したことだ。


 アリアはもう一度室内を見渡すふりをして、テーブル上のティーカップとソーサーに視線を落とす。


 このティーカップとソーサーは、エントウィッスル侯爵子息——長子のロニー・エントウィッスルが誕生した際に、その誕生を祝して開催されたお茶会で配られた記念の品だ。

 エントウィッスル侯爵が自ら作成した物で、当然ながら市場には出回っていない。お茶会の参加者ごとに意匠が異なるこのティーカップとソーサーは、この世に二組しか存在しない貴重な物だ。


 アリアは、エントウィッスル侯爵が自ら作成した別の意匠のティーカップとソーサーを、騎士見習いをしていた時に実際に目にしたことがある。

 エントウィッスル侯爵が自ら作成したティーカップとソーサーには、持ち手の上部とソーサーの底にエントウィッスル侯爵の刻印が入っていた。

 一度実物を見たことがあるから、刻印に気付くことができたのだ。


 お茶会に参加したのはエントウィッスル侯爵と親しいごく少数の者で、これを持っている者は限られている。

 ヴィリバルトがまさかこれを持っているとは思わなかった。エントウィッスル侯爵と親しい間柄だったとは一度も聞いたことがない。


 いや、今はそんなことよりも、フィリベルトがなぜ反応を示さなかったのかが問題だ。


 アリアが騎士見習いをしていた際に実物を見た時、その持ち主から、エントウィッスル侯爵はそれぞれのティーカップとソーサーと揃いの一組を持っているのだと聞いた。

 エントウィッスル侯爵家でロニーの従者を務め、侯爵家の者たちと親しくしていたフィリベルトが、このティーカップとソーサーの存在を知らないなどということがあるだろうか。


 フィリベルトは、ティーカップをまじまじと見ていたし、ソーサーの底も見ていた。気付かないはずがない。何らかの理由で、あえてそのことを言わなかったのだろう。


 ——なぜ。一体、どうして。


 答えの出ない疑問が、アリアの胸中を駆け巡る。


 アリアは小さく息を吐き、意識を監獄全体に広げた。

 延々と答えの出ない疑問について考えるより、今はやるべきことをやらなければならない。


 各棟の独房内の囚人たちに動きが見られる。全員の意識があることを確認し、アリアは出入り口の扉に向かう。


「フィリ。行こう」

「はい」


 執務室兼書斎から廊下に出る。次の部屋を見るべく歩き出した時、フィリベルトがアリアの手を取った。やんわり握られる。


「どうした」


 横目でちらりと見ると、フィリベルトが柔らかな笑みを浮かべてアリアを見ていた。


「僕は、アリアのご期待に添えましたか?」


 こちらの意図を理解している。アリアが自分を試したのだと、わかっている。


「ああ。十分すぎるくらいに」

「よかった」


 握る手に力が込められる。アリアは手元に視線を落とした。


 この男は危険だ。

 利用する価値はあるが、頭が回りすぎる。気を抜けば、利用していたつもりが利用されていたなどという事態になりかねない。


 こちらの懐に入れるふりをして、様子を見続けた方がいいだろう。

 フィリベルトには、『何か』がある。恐らくこの男は、ただの従者ではない。

 突き放すより、受け入れた方がこの男の『何か』が見つけられるかもしれない。


「君に手伝ってもらいたいことがある」

「なんでしょう? 僕がお役に立てることであればなんでも手伝います」

「君は、先ほどの執務室兼書斎で、絵がある方の壁側奥の本棚を見ただろう」

「囚人の名簿が並んでいた棚ですね。三十年前から今にかけての分はありませんでしたが」


 やはり、把握していたらしい。この分だと、他の本棚に置かれていた本やら書類やらも把握しているに違いない。


「そう。三十年前から今にかけての囚人の名簿がなかった」


 囚人の名簿があった本棚に差されていた名簿は、年代順に整頓されていた。ヴィリバルトが整頓してそこに置いていたことがうかがえる。空間にも余裕があり、三十年前から今にかけての名簿だけ別の場所に置いていたということはないだろう。


 念のために執務室の本棚を一通り見たが、どこにもなかった。もちろん、執務机にもなかった。


「この監獄のどこかにある可能性もある。だが、私は今ここにいる囚人の誰かが処分したのではないかと思っている」

「なぜそんなことを?」

「単純に考えて正体を知られたくないからだろうな」

「なるほど」


 この部屋に無いとすれば、誰かがあえて抜き取って隠すなり処分するなりをしたということになる。

 ヴィリバルトがそれをしたという可能性は低い。看守である彼が囚人の情報を処分するなどという、そんなことをする理由はないように思える。


「だとすると、囚人たちは偽名を名乗るはずだ。君には、囚人たちが『どこの誰なのか』を暴く手伝いをして欲しい」

「わかりました。三ヶ月以内に、ですね」

「そう」


 『ノエル・エティガト・ノイラートを三ヶ月以内に解放しなければ皆死に絶える』、というあの書き置きの真偽がわからない以上、念には念を入れた方がいいだろう。


「アリアの魔法で本名を吐かせられないのですか?」

「私の魔法は身体的な制限のみで、精神に働きかけることはできない」

「自白を強要することには使えない?」

「そう」

「アリアは先ほど結界内の全てを掌握すると言っていましたが……つまり、結界内の人間の行動を操って身体に影響を与えることはできても、心を操ったり読んだりすることはできない。この認識で合っていますか?」

「合ってる」

「自力でどこの誰なのかをつきとめるしかないということですね」


 フィリベルトは考え込むように黙り込んだ。同時に無言で指が絡まる。


 無駄に気を取られる。気が散って仕方がない。冷静に考えてみても、手を繋ぐ意味が全くわからなかった。


「フィリ。手を繋ぐ必要があるか?」

「こういうのは必要か必要ではないかではないんですよ、アリア」


 諭すようにフィリベルトが囁く。


「あなたに触れたいと思ったから手を繋いだんです」

「時と場合を考えろ」

「それはそうですね」


 ふふ、とフィリベルトが面白そうに笑う。


「ここで手を繋いでも、すぐに離さないといけないですから」


 名残惜しそうにフィリベルトの手がアリアの手を撫でて離れる。


「収監されている囚人のうち一人はガルデモス帝国の暗殺兼諜報部隊だと思われるハーヴィー・ノークス。先ほどの警告の紙の言葉を信じるのなら、さらに囚人のうち一人がノイラート国の王族、ノエル・エティガト・ノイラートだということになります。囚人が何人いるのかはアリアの魔法で把握できるのでしょうか?」

「いや」


 アリアは首を横に振る。

 把握できないということにしておいた方がいいだろう。この男に手の内を全て明かすのは危険だ。しばらく様子を見た方がいい。


「義父上から囚人について何か聞き及んでいたりは?」

「特に何も聞いていない。父とは監獄の食料の発注や生活必需品の発注、消耗品や衣類の発注で手紙のやり取りをしていたくらいだ。発注の量で囚人の人数を割り出そうにも、そもそも何日分の発注なのかがわからないから無理だ。わかるのは囚人が一人ではないということだけ」

「何もわからないのと同じですね」


 はっきりと言い放つフィリベルトに、内心で失笑する。そう、何もわからない。


 フィリベルトは何かを考えるような顔をした後、アリアに微笑みかけた。


「義父上を殺した者を探しますか?」

「いや、探さなくてもいい。そもそも一人の犯行ではない可能性もある。『誰が』ではなく『なぜ殺したか』を探った方がいい。探れば自ずと誰の仕業かわかる」

「わかりました」


 フィリベルトは素直に頷く。


「あなたの信頼に必ず応えます」


 アリアは無表情にフィリベルトを見返す。


 目が合うとフィリベルトは嬉しそうに笑った。


 やはり、何も読み取れない。フィリベルトの笑顔からは、ただアリアへの好意だけが透けて見えた。

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