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檻の中の君  作者: 二井星子
第1章 大罪人
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10 フィリベルト・ジンデル⑥

 湯浴みが済むと、まずはフィリベルトを馬車に戻した。馬車から出ないよう魔法を使って指示してから、アリアは浴室に向かい自らの湯浴みを済ませる。


 湯浴みを終えたアリアが馬車に戻ると、フィリベルトが笑顔で出迎える。


「早かったですね」

「何か不都合でもあるのか?」

「いいえ。アリアは湯浴みに時間をかけない方なんだなと思っただけです。あなたのことをまた一つ知れたな、と」

「どうでもいいことだな」


 よく動く口だ。アリアはフィリベルトの向かいに腰を下ろす。


「馬車で宿泊する場合の同衾はどうするんだ?」

「わかりませんが……とりあえず、くっ付いていれば問題ないかと思います」

「くっ付く?」

「はい」


 フィリベルトが毛布を手に立ち上がり、「失礼します」と一声かけてからアリアの右隣に腰掛ける。


「触れてもいいですか?」

「構わない」


 他に答えようがない。状況的に拒めない。


 フィリベルトはゆっくり距離を詰めた。そっと体が触れ合う。


 フィリベルトの匂いがする。同じ浴室で、同じ石鹸と同じ洗髪剤を使ったのに、自分とは違う匂いがするような気がした。息遣いを間近に感じる。これほどまでに近い距離にいるというのに、不思議と不快感はない。


 互いの体が密着した状態で、フィリベルトはアリアと自らに毛布をかける。


「大きい毛布で良かったですね。寒いですか?」

「別に」

「なら良かったです」


 と、フィリベルトの腕が何の前触れもなくアリアの腕に絡む。


「手を繋いでも?」

「そこまでする必要があるか?」


 アリアの返答に、フィリベルトは心底面白そうに笑い声を上げた。


「ないですね。なんなら、腕を組む必要もないと思います」


 そう言いながら、フィリベルトはアリアの手を握る。やはり、フィリベルトはアリアの右腕——黒紋のある手に触れることを恐れていない。


「君は私の黒紋を恐れないな。怖くないのか?」

「怖くありませんよ。肌に直接触れなければ影響がないとよく知っていますし、僕には死ぬことよりも怖いことがあります」


 死ぬことよりも怖いことがあると語るフィリベルトの口調は軽い。まるで今日の夕食の話でもするかのように気楽だ。


 フィリベルトが恐れることが何なのか、現状では全く見当がつかない。

 そもそもフィリベルトとは数時間前に会ったばかりだ。


「それを教える気は?」

「ありません」


 即答だ。


「君が死よりも恐れる何かが、『エントウィッスル侯爵家のあれ』に関係しているのか?」


 フィリベルトは答えない。

 繋いだ手は微動だにせず、呼吸も先程までと何ら変わらない。密着した体からは何の反応も見られない。


 アリアがフィリベルトに目をやると、途端に目が合う。フィリベルトは物柔らかな笑みをアリアに向けるだけで、口を開く気配すらない。

 答える気ははない、ということだ。


 アリアは視線をフィリベルトから逸らした。


 フィリベルトはなおもアリアを見続けているようで視線を感じたが、無視する。


 ややあって、フィリベルトが囁くように言う。


「アリア、僕に寄りかかってください。その方が楽ですから」

「遠慮する」

「つれないですね」


 フィリベルトは楽しそうに笑い、繋ぐ手にわずかに力を込めた。


「アリアは……自分の行く末がすでに決められていて、絶対に逃れられないのだとしたら、どうしますか?」


 突然の話題の転換に、内心で疑問符が浮かぶ。

 質問の意図がわからない。


 フィリベルトが自分の現状についての問いを投げかけてきているのだろうか。

 その質問にアリアが答えたところで、フィリベルトの現状が変わるわけでもないというのに。


 しかし、どうしてなのか、まるでアリアの現状について——看守として一生をグリニオン監獄で過ごさなければならないアリアの行く末について、どう思うのかと疑問を投げかけられているような気がした。


 それどころか、このまま檻の中で大人しく一生を終えるのかと挑発されているような気すらした。


 アリアは小さく息を吐く。

 表情筋を好きに動かしてもいいのなら、今頃アリアは嘲笑を顔に浮かべている。


 くだらない問答だ。挑発には挑発で返すのが筋だろうか。


「そんなもの決まっているだろう」


 アリアの答えを待つフィリベルトからの視線を強く感じる。

 アリアはちらりと横目でフィリベルトを見た後、開口した。


「全力で抗うだけだ」


 途端にフィリベルトが控えめな笑い声を上げる。


「奇遇ですね。僕もそう思います」


 言葉通り、フィリベルトが何かに抗おうとしているのだとしたら、何に抗おうとしているのだろう。


 死罪がすでに確定していて、それが二十歳の誕生日に執行される。逃れられない、命の終わり。抗ったところでどうにもならないのは目に見えている。


 そもそも、フィリベルトには抗う機会があった。


 フィリベルトが事件について話しさえすれば、違った判決になった可能性もあった。

 しかし、それをしなかったのはフィリベルト本人だ。フィリベルトは黙秘を選択した。抗うことなく、死罪を受け入れた。


 仮に、フィリベルトが抗おうとしているのが死罪になる自らの行く末ではなく別の何かだとしたら、それは一体何なのだろう。


「アリア」


 考え込んでいたアリアの意識を、フィリベルトの真剣な声が引き戻す。


 アリアがフィリベルトの方を見ると、途端に視線が絡まる。真剣な目は、視線を逸らすことを許していなかった。


「婚姻の儀の、僕の宣誓を覚えていますか?」


 いきなりなんだろう。


「『私、フィリベルト・ジンデルは、伴侶アリア・ダールマイアーを敬い、信頼し、この命が朽ち果てても、永遠に愛し守り抜くことを誓います』?」

「流石ですね。そうです。僕はあなたに口付けをしませんでした。僕はまもなく死ぬ罪人ですし、あなたの望まない婚姻を成立させたくなかった。ですが、その宣誓の言葉は、嘘偽りのない僕の本心です。何があっても、その言葉だけは信じていただきたいのです」

「……何があっても?」


 どういうことなのか、全くわからない。


 フィリベルトはこれから先、グリニオン監獄の閉鎖された環境で何が起きると考えているのだろう。


 そもそも、この男の言葉をどこまで信用していいのか。


 フィリベルトは真顔で頷く。


「あなたを守ります」

「自分の身は自分で守れる。君に守られる必要はない」


 アリアが即答して拒否すると、フィリベルトは目を伏せて苦笑した。


「……そうでしたね。あなたはとても強い方だ。あなたに対して『守る』などと言うのは失礼でした。申し訳ありません」

「別にいい」


 と、フィリベルトが目線を上げる。


「ならば、僕と共に戦っていただけますか?」

「何と?」


 率直な疑問を口にする。


 これから向かうのは戦場ではない。監獄だ。


 閉鎖された辺境の監獄では、誰かと刃を交えることもなければ、誰かと対立することもない。


 看守のアリアと囚人のフィリベルトが対立し、戦うというのならまだ話はわかる。しかし、フィリベルトは共闘しようと持ちかけてきた。


 一体、『何と』戦おうというのか。


 フィリベルトは口を閉ざす。アリアの問いに答えず、ただただ困ったように笑う。

 答える気はないらしい。


 しばらく黙った後、フィリベルトがぽつりと言う。


「ハーヴィー・ノークスという名前に聞き覚えは?」

「ない。誰だ?」


 名前も家名も聞いたことがない。


「僕がグリニオン監獄に入り次第、早急に接触するようにと陛下に指示された人物です」


「ハーヴィー・ノークス……」


 名前を繰り返してみるが、やはり聞き覚えがない。名前からして、性別が男であることしかわからない。


「恐らくはガルデモス帝国の諜報兼暗殺部隊の一人です。グリニオン監獄の囚人に紛れて内部を探っているのでしょう」


 グリニオン監獄に潜り込むことは、できないことではない。


 重い罪を犯した囚人は、グリニオン監獄に収監するかどうかを看守のダールマイアーに確認することになっている。


 その仕組みを利用し、大罪人のふりをして潜り込んだか、フィリベルトのように王命でグリニオン監獄に収監したかだろう。


「一つ疑問がある。陛下はダールマイアーを根絶やしにしたいのに、君には私を孕ませようとするのか?」

「陛下が根絶やしにしたいのは、制御できないダールマイアーです。完全制御できるダールマイアーは欲しい。かなりの利用価値がありますからね。だから、僕とあなたの間に生まれた子を取り上げ、赤子の時から育てようとしているのだと」

「陛下自身や王族の誰か、貴族の誰かではなく君を子種にするのは」

「陛下は単純にあなたと交わりたくないのでしょう。お言葉を借りると『おぞましい』そうですから。ダールマイアーの血が混じった者を王族にするわけにはいきません。かといって、ダールマイアーの血が混じった者を他の貴族の所有物にするわけにもいきません。最も都合が良いのは、死罪を言い渡された罪人。手を下さなくても勝手に死にますからね。今回選ばれたのが僕というわけなのでしょう」

「ダールマイアーの血筋全てに結界の魔法と黒紋が発現するわけではないのだが」

「僕とアリアの子にダールマイアーの魔法と黒紋が発現しなかったら、その子を育てて、今度はその子に子を産ませる。発現するまで産ませるつもりだと思います」

「ろくでもない……」


 淡々と吐き捨てる。


 『おぞましい』のはどちらだ。


「ハーヴィー・ノークスの役割は僕の監視と陛下への報告、アリアが子を産んだ後にその子を奪ってアリアを殺すことです」

「不可能だ」


 外部への連絡と、看守であるアリアを殺害することは、アリアの魔法によって禁止されている。

 アリアにその魔法を解かせる以外に実行する方法がない。


「そうです。ですから、あなたの夫として、あなたを籠絡しろと命令されています。こちらの都合の良いように監獄の決まりを変えるために」

「君がそれを私に教える理由は?」

「先程言いました」

「私を守りたいから?」

「ええ」


 フィリベルトの瞳は揺らがない。嘘を言っているようには見えなかった。


「君は、なぜ私を守ろうとする」

「あなたが好きだからです」

「先程会ったばかりだろう」

「人を好きになるのに、一瞬あればそれで十分ですよ」


 フィリベルトが優しく微笑む。相手がアリアでなければ、うっとり見惚れるような笑みだ。


「それに、話してみてますます好きになりました」

「君は女性が得意ではないのに?」


 アリアがそう口にした途端、フィリベルトは目を丸くした。わずかに首を傾げる。


「なぜ、そう思われるのですか?」

「今君から聞いた胸糞悪い話と、伝え聞く最悪の評判とで陛下のやり口を加味すると、史上最悪の大罪人である君への罰がまだ足りないような気がした。女性が得意ではない君に、おぞましい女との婚姻を強要してその相手をさせようとしているのだとしたら罰として納得できる。それに、君が奴隷だったという私の仮説があっていたとして、君がオルブライト侯爵家で何をさせられていたのか予想はつく。あそこの家は娘が四人、それに侯爵夫人、侯爵の妹とその娘が二人いるな。昼夜問わず寝る間もなく相手を強いられたことだろう。君は見目が良く、気性も穏やかで甘い言葉を平気で吐くから、さぞや君の取り合いになったことだろう。その結果女性が得意でなくなるのも当然と言える」


 フィリベルトは相変わらず目を丸くしている。

 その表情からは、なぜ突然突拍子もないことを言い出すのかという驚き以外の何の感情も読み取れない。

 動揺も、焦りも、不快感も、何も見られない。


「当たっているか?」

「いいえ」


 フィリベルトは苦笑し、首を横に振る。


「アリアみたいに賢くて揺るがない、強い女性は好きですよ」


 それ以外の女性は嫌いだと言っているに等しい言葉だということに、フィリベルトは気付いていてあえて言っている。


 この男は失言することがない。何でもない言葉も、きちんと考えて発言している。


「それ以外は嫌いか?」

「いえ、普通です。好きでも嫌いでもなく、どうとも思っていません」

「そうか。もしやと思って鎌をかけてみただけだ。気にするな」

「はい」


 アリアはフィリベルトから目を離し、正面に向き直る。


 フィリベルトが身じろぎして、繋ぐ手に力がこもる。ようやく視線を感じなくなった。


「ハーヴィー・ノークスが、君が一緒に戦おうと言っている『何か』か?」


 アリアの問いかけに、フィリベルトは反応しなかった。

 しばらく待ってみるが、何の回答もない。


 見なくてもわかる——フィリベルトは今、困ったように笑っているに違いない。答えられないことらしい。


 気になるのは、フィリベルトが否定することも肯定することもしなかったことだ。


 フィリベルトが嘘でも肯定しなかったということは、つまり、ハーヴィー・ノークスは『何か』の一端、あるいは『何か』ではない。


 これから向かうグリニオン監獄には、看守のアリアですら危機にさらされるような『何か』がある。アリアを守ると言ったフィリベルトが、それでも黙らなければならない『何か』が。


 フィリベルトがそれらの情報をどのように得たのかも問題だ。

 ガルデモス帝国の深部に関わるような人物が、フィリベルトに情報を渡している。


「わかった。答えられない質問をしてすまない。明日は日の出と共に発つ。このまま早めに休め」

「はい。おやすみなさい、アリア」

「おやすみ」


 フィリベルトの手は離れる気配がない。

 不思議なことに、互いの体温が溶け合う温かさは決して不快なものではなかった。

 フィリベルトが血の通った人間で、アリア自身も血の通った人間なのだと強く実感できる。


 フィリベルトについて改めて考える。


 話すことの全てを、信じたくなる男だ。


 この男は冤罪なのだと、何もしていないのだと、そう思わせる雰囲気がある。


 あまりにも穏やかで、善人のようで、心を許したくなる。暖かな春の日差しのような、和やかな空気を纏う男。


 アリアを相手にしても全く怯まず、触れることを躊躇わない。


 距離が近いように思えるが、決してそうではない。アリアとの距離感を慎重に探っているだけで、フィリベルトの元来の距離感は不明だ。


 表情や声音、言動、視線の動きなどの細かな動作、何もかもが自然で、不審さが一切ない。

 だから、この男の口にする言葉は全てが真実に思えるのだろう。本心が一切表に出ず、何が嘘かもわからない。


 フィリベルトは凄まじく冷静で、状況と相手をよく見ている慎重な男だ。頭の回転も早い。現段階では、この男に何を言っても、アリアに一切の不信感を抱かせず自然にかわすに違いない。


 だからこそ、わからないことがある。


 『エントウィッスル侯爵家のあれ』は、最初の目撃者である通いの使用人が、現場で血塗れのフィリベルトと燃える死体を目撃した後、警備の兵を呼びに行って戻ってくるまでに一時間以上の時間を要している。


 フィリベルトはその間、その場から動かずにいた。

 逃げる時間もあったというのに、その場から逃走しなかったのだ。


 フィリベルトの冷静さと慎重さ、頭の回転の良さを目の当たりにした今、フィリベルトが逃走しなかったこともだが、そもそも邸の人間全てを殺して首を落として火を付けるという手段を取ったことにも疑問を感じる。


 言いようのない違和感が、フィリベルトを探れば探るほど膨れ上がっていく。


 フィリベルトが起こしたにしては、『エントウィッスル侯爵家のあれ』は雑すぎる。


 この男ならば、もっと違う形で——自分に疑いが向かないように、自然な形で邸の人間全ての命を奪える。

 逃走する手段をあらかじめ用意しておくことだってできるに違いない。


 しかし、フィリベルトはそれをしなかった。雑な方法で事件を起こし、逃げもせず捕まった。


 この男が何らかの形で事件に関わったのは間違いない。


 だが、『エントウィッスル侯爵家のあれ』は、本当にフィリベルトが犯人なのだろうか。


 わからない。今はわからないことが多すぎる。


 フィリベルトをどうするかは、もう少し様子を見なければ。


 アリアは隣のフィリベルトに意識を向ける。


 静かな呼吸。繋がれたままの手。起きている。眠ることなく、アリアに意識を向けているのが気配でわかる。


 アリアと同じようにこのまま眠らずにいるつもりなのか、いずれ眠るつもりなのかはわからない。でも、この男はきっと、ぐっすり眠った風を平気で装えるだろう。そういう男だ。


 アリアはフィリベルトに意識を向けたまま、目を閉じた。

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