1 兄殺しの令嬢
双子の兄のクラウスは、十歳で死んだ。
私がクラウスを殺したのだ、とみんなが言う。
私が、クラウスを大滝の上から突き落としたのだ、と。
私にはその時の記憶がない。前後の記憶もない。
それどころか、クラウスについて思い出そうとしても、靄がかかったようにぼんやりとしか思い出せない。
思い出せるのは、クラウスのことが大好きで、大切に思っていたという感情だけ。
事件の衝撃で記憶を失い、クラウスのこともあやふやになってしまったのだろうと医者は言った。
私はやっていない。
クラウスを殺してなんていない。
でも、だとしたら、クラウスを思い出そうとすると感じる、両手に残る『何かを強く押したような感触』は何なのだろう。
耳の奥に残る、「アリア!」と私の名前を叫ぶ男の子の声は、何なのだろう。
私はやっていない。
そう、思いたいのに。
きっと、私が、クラウスを殺した。
だから、これは、私が受けるべき罰なのだ。
これまで罰を受けてこなかった私が、受けなければならない、兄殺しの、罰。
「アリア・ダールマイアー伯爵令嬢。お前に、そこの罪人フィリベルト・ジンデルとの婚姻を命じる」
それがたとえ、二百二十人の命を奪った大罪人との結婚だったとしても。
▽
「私、お嬢様が怖くて怖くて」
「そんなの全員でしょ。みんな怖いって思ってるわよ」
「やっといなくなってくれて清々するわ。あんな、無表情で何しても冷めてるみたいに淡々と話す気味の悪い人形みたいな人、いつまで世話すればいいのよってずーっと思ってたのよ」
「私、お嬢様が怖すぎて、お茶を出す時に思いっきりお嬢様の膝の上にこぼしてしまったの。でも、お嬢様は全く表情を崩さなかった……。熱湯なのよ!? 熱湯を浴びたのに、眉一つ動かさないなんて異常だわ!」
「お嬢様が異常なのは今に始まったことじゃないでしょ。これだからダールマイアーは気持ち悪いのよ。本当、こんな職場、お金が貯まったらとっとと辞めてやるわ! 早くしないと私まで呪われるもの」
廊下の先で、複数人のメイドたちが大きな声で話しているのが聞こえた。
アリアはメイドたちの会話を聞き流しながら、途中で廊下を曲がり、その先の自室に入る。
いつものことだ。こんなことには慣れている。心を痛める段階はとっくの昔に通り過ぎた。
荷造りを済ませた自室で一人ベッドに腰掛け、アリアは幼い頃に付けていた日記帳を開いた。ゆっくりとページをめくり、目を通す。
日記にはたわいもない日々の出来事が書かれている。
双子の兄、クラウスと共に庭を駆け回ったり、本を読んだり、食堂からおやつを盗み食いしたり、内容は様々だ。
しかし、日記には父母が出てこない。出てくるのはクラウスだけだ。
それも当然で、父親はアリアとクラウスが生まれた時から『役目』のために別の場所で暮らしていたし、母親はアリアとクラウスを憎む勢いで嫌っていたからだ。
日記からは、クラウスが聡明で思慮深く、冷静で、大人びた子供であることが伝わってくる。アリアの方が活発で、悪知恵が働き、度胸があった。
日記に出てくる外遊びや悪巧みは大抵アリアが主導して無理やり行っていたようだし、勉強や読書はその逆でクラウスが主導し、嫌がるアリアを上手く宥めて二人で行っていた。
正反対と言っていいほど異なる双子であるのに、アリアもクラウスも母親のことは諦めている。文字では記されていないにも関わらず、それが日記全体から伝わってきた。
日記が最後に書かれた日に近付くにつれ、クラウスが何か思い詰めている様子を見せるようになる。元気がない日が増えていく。
アリアはそんなクラウスを元気付けようとして、クラウスを連れて頻繁に無断で屋敷を抜け出すようになる。
クラウスは渋々といった様子だったが、最終的には必ず折れてくれた。
昼の時間帯に、母親や使用人の目を盗み、屋敷を抜け出して森へ行って遊ぶ。ダールマイアーの邸の周囲は深い森に覆われ、他には何もない。森で遊ぶしかなかった。
そうして書かれた日記が途絶える、最後の日。
『クラウスに大事な話があるって言われた。二人っきりで話がしたいから、夜中に大滝のところまでこっそり来いって。どうしたんだろう?』
これが、この日記帳に書かれた最後の日記だ。
アリアがこの日記を書いた後、クラウスは死んだ。
アリアが殺した。
滝壺に突き落として、クラウスを殺したのだ。
クラウスの遺体は見つからなかった。大滝は、滝壺に転落すると、体が上がってくるまで数年かかると言われるほどの滝だ。水量が多く、落差も相当で、さらに滝壺の水深が深い。見つからないということは、つまり、そういうことだ。
アリアは日記を最後まで読み終わると、そっと閉じた。
日記帳の表紙をひと撫でし、小さく息を吐く。
(——駄目だ。やっぱり、あまりよく思い出せない)
書いたのは自分であるのに、他人の日記を読んでいるかのように実感がない。
アリアには、十歳以前の記憶が全くと言っていいほどない。
特に、クラウスが亡くなる前後の記憶は一切思い出せなかった。
気付いた時には、クラウスを殺したのだと糾弾されていた。アリアがクラウスを突き飛ばし、滝壺に落としたのだと。
医者の話では、クラウスを殺してしまった衝撃で記憶が失われてしまったとのことだ。記憶が戻るのかは医者にもわからないらしい。
アリアが思い出せるのは、クラウスという双子の兄が確かにいたことと、クラウスに対する感情だけだ。
何度も何度も、必死に兄の姿を思い出そうとした。
その髪の色を、目の色を、どんな風にアリアを見つめていたのか、共に過ごした日々を、思い出そうとした。
けれど、アリアは何一つはっきりと思い出すことができなかった。
薄ぼんやりと顔が瓜二つだったような気もするが、定かではない。
アリアはクラウスが大好きだった。
その感情だけは思い起こせる。たった一人の兄。自分の半身。アリアにとって、たった一人の家族も同然の存在だった。
それなのに。
アリアはクラウスを殺した。
なぜ、と問いかけたところで答えは出ない。
嘘だと思いたかった。
こんなにもクラウスを深く愛しているのに、どうして。殺していない、何かの間違いだ、私がクラウスを殺すわけがない、そう叫びたかった。
でも、アリアにはそれができなかった。
あの日、クラウスが死んだ日、大滝の滝口であった出来事を思い出そうとすると、何も思い出せないのに両手に『何か』を強く押した感触が蘇ってくる。
誰かが——幼い少年が、「アリア!」と切羽詰まった声で自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
押しやった何かの感触は、明らかに人間の感触で、アリアはこの感触がクラウスを突き飛ばした時の感触に思えた。自分を呼ぶ幼い声は、きっとクラウスのものだ。
そう思うからこそ、殺していないのだときっぱり否定ができなかった。
お前が殺したのだと言われて、押し黙ることしかできなかった。
アリアはやっていない。でも、わからない。断言が、どうしてもできない。
アリアはクラウスを殺したとされたが、年齢が十歳であったこと、記憶がないこと、さらにはアリアが唯一の『ダールマイアー伯爵家の後継者』になってしまったことを考慮して、罪に問われなかった。
そうして一切が不問になった。だが、世間はアリアを『兄殺しの令嬢』と呼び、決して許さなかった。
アリアは全ての非難を、糾弾を、誹謗中傷を、罵詈雑言を、受け入れた。
それが罰だと思ったからだ。
罰せられなかったアリアが、受けるべき当然の罰。深く愛していたはずの兄の命を奪い、その未来を奪ったアリアが、受けなければならない罰。
だから、アリアは全てを受け入れた。
ダールマイアー伯爵家が担う『役目』の教育と称して母親に拷問されても、辛くあたられても、厳しい戦闘訓練が行われても、使用人から恐れられ避けられても、それら全てが罰なのだと自分に言い聞かせて耐えた。
ダールマイアー伯爵家の後継者は、『役目』のために残虐性を持ち、血に慣れるように育てられる。
アリアが正気を保てたのは、この日記帳に綴られた日々とクラウスへの親愛の情があったからだ。
クラウスならきっとこうする、クラウスならこう思う、そう思うことで自分を保った。
辛く、痛く、苦しい思いを何度もした。死にかけたことは一度や二度では済まされない。
けれど、クラウスは、アリアが感じる以上の恐怖と、絶望と、苦痛を味わったはずだ。だから、アリアも、同じかそれ以上の恐怖と絶望と苦痛を味わわなければならない。
クラウスを本当に殺してしまった可能性がある限り、アリアに易々と死ぬことは許されない。
生きて、罰を受けなければならない。
アリアは母親に、『役目』のために必要だからと常に無表情で淡々とした声音で話すようにと強要された。
十六歳を迎える頃には、己の心の内を完全に押し込め、顔にも態度にも感情を一切出さないことができるようになっていた。
そのおかげでますます恐れられることになったが、それは仕方ないことだ。
母親に突如「騎士になってきなさい」と言われた時も、一通りの戦闘訓練を終えた自分にそれははたして必要なのだろうかと疑問に思いはしたが、騎士になるための厳しい訓練や、『兄殺しの令嬢』の自分に対する周囲の扱い、それら全てが罰になるからと受け入れた。
恐らくはアリアの顔を見たくない母親が、アリアを追いやるためにしたことだろうが。
アリアは日記帳を、まとめた荷物が入った鞄に入れた。それから立ち上がった。
ふと鏡が目に入り、そこに映る自分の姿を見やる。
背の高い、中性的な顔立ちの少女。
肩までの長さの黒髪を首の後ろでひとまとめにしている。切れ長の黒目。薄い唇。均整の取れた、精巧な人形のような顔立ち。
化粧をすれば増して輝き、美しくなるであろう整った顔立ちだが、アリアにさして化粧への興味はない。必要がないからだ。
服装も、アリアはダールマイアー伯爵家の『役目』の制服である黒の軍服に身を包んでいる。
ドレスに身を包んだ記憶は、数えるほどしかない。ドレスを着るような日常を送ってはいないし、他家と交流するような、そんな暇などアリアには存在しなかった。
少年と言われても納得するような見た目の自分を見て、クラウスが生きていたらこんな顔をしているのだろうかと考える。
やっぱり、髪の色も目の色も思い出せない。だが、クラウスとそっくりの顔をしていた気がしてならない。
アリアは鏡から無理やり目線を逸らすと、荷物をまとめた鞄を一つ手に、自室から出た。
見慣れた廊下を歩く。この邸で過ごすのもこれが最後だ。
もう二度と、生きているうちに足を踏み入れることはないだろう。
しかし、アリアには何の感情も湧いてこなかった。
せめてクラウスとの思い出を明確に思い出せるならば何かしらの感慨もあったのかもしれない。だが、何も思い出せないアリアにとってこの邸はただの身の置き場であり、罰を受けるための檻のような場所でしかなかった。
母親は血縁上『お母様』と呼んでいるだけの、アリアを害する他人。
父親はアリアとクラウスが生まれた時から『役目』のために邸におらず、クラウスが死んだ時ですら何の音沙汰もない空気のような存在。
使用人はアリアを空気のように扱い、怯え、時に蔑ろにする存在でしかない。
何らかの感慨を抱けという方が無理だ。かといって清々するかというと、そういうわけではない。罰を受けることができなくなるからだ。
アリアは一つの部屋の前で足を止めた。母親の部屋だ。扉の前に立ち、ノックする。
「お母様。アリアです」
室内からの返答はない。鍵はかかっていないだろうが、中に入る気は最初からなかった。
アリアはそのまま言葉を続ける。
「私はこれから王都へ行き、陛下に着任のご挨拶を申し上げたのち、グリニオン監獄に入ります。今までありがとうございました。この邸のことはお母様にお任せします。皆をよろしくお願いします」
「さっさと出ていって、二度とその忌々しい顔を見せないでちょうだい。お前なんて監獄にいる蛮族どもに八つ裂きにされればいいわ」
室内から、低く唸るような声が聞こえる。続いて、扉に何かがぶつかって割れる音がした。
花瓶かグラスか、何かしらの割れ物を扉の向こうのアリアに向かって投げつけたのだろう。いつものことだ。
「では、さようなら。お母様」
アリアは音もなく扉から離れる。再び廊下を進み、階下に降りて玄関ホールへ向かう。
玄関ホールには、このダールマイアー邸に勤める数少ない使用人全員が並び、アリアに頭を下げる。
「いってらっしゃいませ、アリア様」
これから『役目』に向かうアリアへの——ダールマイアー家当主、伯爵位を継承したアリアへの最低限の礼儀を尽くした態度。
アリアは無言で歩みを進める。
やはり、何の感慨も湧かない。何も感じない。
クラウスのいないこの邸には、アリアの心を動かすものは存在しなかった。