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水槽

作者: 藤原定価
掲載日:2023/06/22

 七月は死が普段より馴れ馴れしく感じる季節である。これは何も特別な事ではなくて、冬の静電気のようにああこの時期かとふと思う程度のことであって、何も非常事態だとか心の準備をするものではない。

 あれは小学生に上がりたての頃の夏だった。何か生き物を飼いたいと思って、小さな熱帯魚を飼うことにした。魚は感情が読み取れないうえ、熱帯魚なら美しい模様と泳ぎに心が洗われるだろうと思ったからだ。しかし、どんな模様の魚が良いかとか、何匹にしようかとか、どんな砂利を敷こうかと数日悩んで、苦労して作った水槽に魚を離した途端に魚への関心が消えてしまったのである。それは下準備に熱が入っていざ飼うときに燃え尽きたとか、そのようなものではなかった。自分の水槽に魚が放たれたときに、その魚が死んだように見えたからである。

 魚は何不自由なく泳いでいたが、その姿を見ているとなんだか気分が萎えてしまった。自分がうまく飼っていくことができないと半ば諦めを持ったからである。自分に飼われることが無ければ、もっといい水槽で、もっといい餌をもらえる飼い主に出会えただろうに。もっと長生きできるだろうにと、そう思ってしまったのである。

 しかし魚は店の水槽にいた頃と変わらず泳いでいた。このふてぶてしく、鈍感で、無垢な魚を見ている時間は、魚と自分とを重ねて死生観について思いを耽る時間になっていった。死は自分の運命に沿って存在する唯一無二の終着点であって、避けるも何も無いということを考えるようになった。

 我々は自分の人生においての行事の一つに、死を想像する者が居なくなってしまった。病院で生まれ、また病院で死ぬような、いわば仮退院状態であるとは微塵も思っていないのである。明日は必ず来るものであって、死は病院や寺や教会でしか触れることのない特別な存在だと思っている。七月の魚はどう思うだろうか。それはめでたいことだと嘲るだろうか。

 生まれた場所である病院も、実家も、結婚して建てた夢のマイホームも、死を迎えるであろう病院も、姿形が変わるだけでただの水槽であることに変わりはないのである。よって病院であっても実家であっても、生と死の位置は同じで、死の近さに気が付いていないだけなのだ。

 しかし私はどうも七月になるとその比率が壊れ、死についての意識が強くなるのである。

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