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「AI絵師」の「描く」に伴う現段階の違和感を日本語学の意味方面で見たら

作者: 板久咲絢芽

おいしそうな火中の栗を拾ったかもしれんがヤケドはしたくない(わがまま)

大学時代、日本語学の言葉の使い分けについて考察する講義取ってたというわくわくな顔をしております。

いうて、日本語学は全然専門ではないんですけど……特に音韻系はもうちょっとやっときゃ良かったなと思うこともなくもない(他言語でも応用がきそうだから)

まあ、面白いのノリで火遊びするなと言われたらそうかもしれない、火遊びかはわからんけど……本人的には火遊びよりマシュマロ焼いてるとか餅焼いてるというノリのが近い。どんど焼きか? まあそんななのでまともに相手する方が損だよ、たぶん。


なお私はこの件については「()()違和感覚える」派です(「()()」の理由は後述)



とりあえず、「描く」という語の定義なのだけど、手元の新明解国語辞典(小型版)第五版には


「か・く (くと同原)

 一 【書く】 (他五) (あとに残すために)表そうとする何かを目に見える形で示す。〈例文略〉

 二 【描く】 えがく。〈例文略〉」


と定義されてて、「えがく」の方は


「えが・く 【描く】

 ① (事物の形・様子などを)絵にかく。〈例文略〉

 ② (事物の形・様子、気持などを)文章・音楽などで表わす。描写する。〈例文略〉」


となっとります。

……いや、本当ならさー、小学館の『日本国語大辞典』(全十三巻)から引くべきかもしれないんだけど、そこまでアカデミックに話すつもりでないし(マシュマロ焼くノリだし)、早々家にあってたまるかなものだし……いや『本朝ほんちょう法華験記ほけげんき』(マイナーめ仏教説話集)を持ってる奴の言でもないと言われちゃ、それはそう……


とりあえず、原義に沿うなら、「書く」も「く」も「く」に通ずる、ということで、こう実際に記された文字や絵でなく、それを作成する過程の引っ掻く動作をメインとして出来た語ということになります。

基本、「く」なら、アナログもデジタルもこの引っ掻く動作は付随しますわね。

引っ掻く対象が、紙かペンタブか液晶かという差でしかなく、「く」の原義が対象を選ばず、またその「く」動作によって作成されたものが「書く(文字)」と「く(図形)」のどちらを選ぶのかに影響するだけで。


なので、あくまで原義的には「AIで生成された絵」に対しては、「引っ掻く動作が保証されない」ので「くを使うべきでないのでは」の方向に振れる。あくまで原義的には。あくまで原義的には(重要)

うん、言語って原義だけでねーからな。



というわけで、「かく」関連で原義の「く」を離れたものというと、今私の目の前にあるわけです。

いや、昨今、小説とか書くのにPC他デジタルデバイス使わない方が少数派でしょ?

というわけで、PCの打鍵だけん、スマホのフリック他デジタルデバイスの文字入力というのは、往々にして「かく」と表現されるが、原義からは離れたものなわけです。

……フリックは一周回って「く」と言われるかもしれないけど、フリックの感覚って「く」より「引っ張る」じゃない? 英語のflickは「はじく」みたいだけど、まあ少なくとも「く」ではなさそう。


ただ、スマホ・ケータイはPCからの延長、PCはワープロからの延長、ワープロはおそらくタイプライターの延長と先祖をたどれるわけです、主にキー配置。うん、スマホはQWERTY配置。

と、先祖を辿っていくと、主にタイプライター〜ワープロまで、かつては「専用性」があったと考えられます。

じゃあこの専用性って何よっつったら、「文章を書く」ことに対しての専用性なんですよね。


タイプライター自体は1700年代前半から改良を重ねながら存在していた(参考:ウィキペのタイプライターのページ)けど、まあ文字種の多い日本ではワープロでのかな変換が可能になるまでは、使用自体は一般化されなかったと考えてしかるべき(ただし、テレビドラマや映画、文学等で存在の認知度自体はそれなりにあった)

だから、「タイプライターで打つ」、「ワープロで書く」に違和感は覚えなくても、「タイプライターで書く」はちょっと違和感あるんじゃないかな、一般的には。


うん、タイプライターについては「打つ>書く」という感覚にならない?

タイプライターもワープロも、共に先述の通り、「文章を書く」という「専用性」を保持している一方、タイプライターとワープロだと、日本においてはワープロの方が、使用するという観点からは「一般性」があるわけです、文字種の関係考えると。

となると、日本語上、タイプライターよりワープロの方が、より馴染みがいいツールなわけです、手足の延長ととらえるのに。

何が言いたいかというと、ワープロ時点では「文章を書く」という専用性があったので、ワープロのキーボードに関して言えば「〈打つ〉と〈書く〉は同等だった」と言えるのです。


……まあ、これをさらに突き詰めると、じゃあ無限の猿定理の状況みたいなデタラメに打つのは書くと言えるのか、となるんだけど、ここで辞書定義の「書く」における「(あとに残すために)表そうとする何かを目に見える形で示す。」という文がじわーっといてくるんですね。

つまり「書く」においては「表そうとする」が重要な点の一つであると。

それを踏まえてより正確に言うと、「〈目的を踏まえて打つ〉と〈書く〉は同等だった」とか、「〈意識的に文章を打つ〉と〈書く〉は同等だった」とかなるわけです。

つまり、打鍵だけん、キーボードにおいては「書く意思があること」もまた重要と我々は無意識に考えている、と言えます。


そして、ワープロで一般化したキーボードが、更にPCにひっついて普及し、結局のところ、PCでもよっぽどでなければ「〈文章を打つ=書く〉事に使()()()()」ということもないわけです……いや、いわゆる汎用系ホストとかは個人レベル超えてるから一般とは言わないよ、うん(本職SEの顔)

で、スマホ・ケータイもまあその延長線上にあると考えられます。

というか、ケータイでメール出来るようになったのがその延長線ができたきっかけでは?(意識的に文章を作るという点において)



というわけで、同原義の語が「専用性」と「一般性」の二点を踏まえて、原義を伴わない場合で使われるようになった理由を考えてみたわけですが、本題に戻りまして。


まず、「専用性」は「AI」というツールには「ない」。

学習データと出力が期待される分野に合わせて、色んなことに使える十徳ナイフ的なものが「AI」である以上、「AI」に「専用性」は「ない」。

というか、「AI」という語句には定義上、どこまでがAIなのかという問題がもともとあってだな……「Artificial-Intelligence」だからなー、漠然としてるんだなー。学習データから0/1ではないものを弾き出すのがAIなら、OCRもまたAIとも言えるんじゃないかみたいなのを、前に展示会の講演で聞いた記憶があります、はい。

となると、「専用性」が適用されるのは「絵師」の方になるんだが、「絵師」の定義が「絵をく人」であって「く」の原義は以下略なので、原義的には以下略となるわけですね、全部前述の通りだよ。


ついで、「一般性」。

これは、特にSNSしか守備範囲がないと視野にかたよりが出ちゃう(いわゆるサイバーカスケード的な)やつなんだけど、siriとかAlexaとか音声認識系はそれなりに普及してるけど、画像生成AIってまだ日本的には普及率、「一般性」は低いと思うのですよ。

そもそも、プロンプトと言われる呪文を生成しなきゃいけない上にそれが英語ベースである時点でそれなりの壁ができて、一定の「専門性」が必要なわけで「専門性」とは「一般性」の対義語であるからして……音声認識系がより自然言語を処理するようになってるのに対して画像生成AIはまだそうでないし……。

……この「一般性」って「広範である」より「浸透する」だと思われるから、まだ広がってても表層だけの段階だと思うんだよなー。


つまり、「絵を描くツールとしてのAIが一般的に普及しているか」という問いに対して、AIというものの「専用性」的には(「絵を描くツール=AI」、「AI=絵を描くツール」という等式が常に成り立たない以上)常に「NO」であり、「一般性」においては現段階では「NO」と見えるので、「原義を伴わない事」に拍車をかけてしまうと考えられるわけですね。

この「一般性」の現段階が私の違和感につく「()()」の理由でもある。


この「AI絵師」の「AI」を「Midjourney」とか限ってしまえば、「専用性」は出てくるんだけど、そうすると「AI絵師」という表現自体に「AI」を使うことが違ってて、「Midjourney絵師」とか個別で名乗るべきという方向に行ってしまう。

でもそれも違うし、「画像生成AI絵師」ってなると、もうなんだ? 語彙ごい捨てたというか、「白い白馬にまたがった〜」になっとらんか? になってしまう。これについて、私にこれ以上切れる手持ちの札はないぞ。



あと、「AI」自体の問題もあるかもしれない、と思うのです。

ぱっと考えられるのは次の二点。


一点目は「AI」という語の文法的問題。

「AI絵師」って順当に言うなら「人工知能絵師」になるんですよ。

ぶっちゃけ、それがAI=人工知能を指すのか、人を指すのか、現段階で馴染みがない語だから余計そのあたりのニュアンスがまだ馴染んでない。

一般にAIは「Artificial-Intelligence」という名詞の略なのでなー……これが「Artificial-Intelligent」という形容詞の略でもあるが根付く、なおかつ形容詞的使い方が根付けば芽はあるんじゃないかな。今は一般的に名詞的扱いのが多いでしょ、AI。

まあ、持ち出されてる論踏まえるなら、「AI絵師」より「デジタル絵師」が違和感なく受け入れられたのは、「く」の原義問題だけでなく、「デジタル」が形容詞であることもあると思うのですよ、という話。

そこまで考えてないだろというと、ちょっと違うのですよ。違和感は当然感覚であって、文法は言語感覚を起点に論理的・体系的に言語の組み立てを紐解いたものなんで、語句の細かい使い分けにおいて実は(特にネイティブとしての)感覚というのは超重要。

その無意識の差異を言語化するというのが最初に書いた、私が大学時代にとった講義なわけで、その時の応用で私はこれを書いている。とはいえ、やるのは違和感を覚えた点を「どういう言い方なら違和感がないのか」と考えて、「その場合と比較した時に何をもって違和感を覚えたのか」を突き詰めて考えてくだけなんだけどね、少なくとも内向型人間にとっては楽しい。



もう一点が、我々自身に根付いた「AI」概念に伴う幻想。

まあ、現時点で幻想であるというだけだけど。


多くSF始め、創作上では「AI」が「自我」というか「人格」を持つものとして描かれる事が多いわけですよ。ということは共通観念として「AIに人格を」という幻想が生まれやすいし、擬人的な目を向ける率も必然高くなるはず。

……SFの引き出しが少ねー私もそう思ってるぐらいには一般的だと思うのですが、真のSFファンに言わせるとそうでないのかもしれん。いやでも、一般性とファンは乖離しがちだからな、わからんな……


勿論、AI絵師の方々が「何かの図像を描きたいと思ってそれをAIに代行させている」事自体は否定すべくもないのです、そこに付随する目的の正/邪、是/非は別として。それを「描く」と表現すべきかどうかも一旦置いといて。

行為のトータルをより客観的に文にするなら現状コレというだけなので。


ただ、その行為を、植え付けられてしまったAIの人格幻想という共通観念を無意識に置いてAIを見る場合、つまりその行為をAIを擬人的にとらえた場合、「AI絵師はAIに描かせる者」であって、できた絵は「AIが描いたもの」であってAI絵師はそれを「描く」本人ではないとなるわけです。あくまでAIを擬人的にとらえた場合、あくまで。

要は、同じ「かく」でも「く」方には意識的定義がなかったし、「そのように動いたもの=動作の主体(この場合「生成=描く」したのはAIとなる)こそ主語であるのでは」という話になってくる。それが本当にそうあるべきかどうかはまた別の話。

「洗濯する」がもはや「洗濯機を稼働する」とイコールなのは、洗濯という行為における洗濯機の「専用性」と「一般性」の高さと、「動作する主体」に対して身体の拡張性が適用できるかって話になるか。

AIは単独で人格を見出されかねないから、身体の拡張が及びにくいという理論。コーヒーメーカー使って自分で色々放り込んでカスタムしたコーヒーと、スタバのカスタマイズ呪文で頼んだコーヒーと、前者がれたと言えて、後者がれたと言えないのは、間に自由意志を持つ別の人間が介在するからでしょ。

……まあこの擬人でとらえた場合の話、筆の擬人法が基本「走る」なこと考えると、「専用性」があればそこから多少離れた動詞で擬人を行ったところで伝わり得るけど、「AI」ほどそれだけじゃ目的わからんもんもないからそれそのものの動詞で表すしかない、というのもあるかもしれない。「AIが走る」だと、もはや機械・ソフト系の駆動・稼動の一般的な擬人化でしかないんよ、「プログラムが走る」的な。




というわけで、「AI絵師」を主語とした述語の「描く」に違和感を覚える要素というのは



①「く」の原義を伴わない


②同様の原義を伴わない事例と比べると、メインとなるAIにその動作への「専用性」がなく、また現時点で「一般性」が低い


③「AI絵師」という言葉自体が「AI」、「絵師」という現在広まった各単語の意味上(名詞+名詞)、人と人工知能のどっちがメインと言えない曖昧さがまだある

(引き合いに出される「デジタル絵師」は形容詞+名詞なのでこの曖昧さがない&すでに浸透してる)


④我々に根付いた「AI」という概念上、人格を見出だせる余地がまだあり、その観点を含め、この場合の「描く」という動作の主体は「AI絵師」から働きかけられた「AI」であって、この「AI」を身体の拡張性で手足の延長線上(同時に人格性の否定)ととらえることに忌避感がある



となりますでしょうか。

まあ、ぞろぞろと考察してはみたんだけど、個人的に腑に落ちるだけの言語化を四つぐらいした程度でしかなく、逆に言えば、他にも違和感のある表現に対しては大体こんな感じで詰将棋的というか、方程式的に逆算で考えるとたぶんみんな解像度は上がると思います。

大学時代の講義は友人2〜3人程度でのグループワーク必須なぼっちにはつれー講義だった(のを今多少1人ブレストみたいなことでどうにかしてる)ので、他の人と意見を交換し合うのも考えるコツの一つだよ。


まあ私はあくまで「()()違和感覚える」派であって、日本語の進化と思えば頭ごなしには否定できねーな、ここから一般に浸透できるかどうかが分水嶺よ(他人事)という視点でしかないので、こうして少なくとも覚えた違和感の正体とそこに影響与えてそうなものだけ上げて終わりますわよ。

ちなみにこういう細かいのを気にして考えてると、「タピオカは飲むのか食うのかタピるのか」とか真顔で言い出すことになったりするから気をつけた方がいいです。最終的に妹に「タピるでいいよもう」って言われた。


さて……マシュマロがキレイに焼ける程度になってればいいなあ。

件の講義では「登る」と「昇る」の違いとかやりましたね。

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