甘口辛口甘辛口? 兄貴とカレーでケンカしたんだけど、、、
天羽圭吾は昨日の夜、兄の慎吾と喧嘩した。
原因は母の瑠美が作るカレーの辛さだった。
圭吾は高一、慎吾は高二とそんな歳にもなって実にくだらないと両親は呆れていたのだが、圭吾は慎吾が主張する辛さの要望にどうしても腹を抑えきれなかった。
最近瑠美が使用しているカレールーはどこのスーパーにでも売られている一般的なシリーズのもので、甘口・中辛・辛口の三種類がある。いつも瑠美は中辛を買ってくるのだが、そのシリーズは香辛料が効いているいわゆるスパイシーなルーだった。
辛さの中にもまろやかな甘みがあるカレーが好きな圭吾にとって、尖った辛みが際立つカレーには物足りなさがあった。
「もっと辛くしてくれ」
昨日、慎吾はカレー鍋をかき混ぜている母・瑠美に注文をつけた。
瑠美は辛みを増すため、クツクツと煮えた鍋に香辛料のガラムマサラを加えてかき混ぜた。
ガラムマサラはクミンやコリアンダー、唐辛子などをブレンドした香辛料だ。少量足すだけで香りと辛みを強くできる。
母・瑠美は慎吾と圭吾の意見が中立になるよういつも中辛にしているのだが、今回は慎吾の要望を取り入れて香辛料を足した。以前、圭吾にまろやかさをプラスしてほしいと言われたが、圭吾の言うまろやかさのニュアンスがよくわからなかったので要望を却下した。なので今回の騒動以降、瑠美はもうカレーは作らないと宣言した。
そして圭吾はその後も慎吾と気まずい関係が続き、お互いが口を聞かず、よそよそしい不穏な毎日を送っていた。圭吾はそのことでもイライラが増していった。
そんなある日、圭吾は下校途中に宿題で必要な教科書を忘れたことに気がつき、急いで取りに戻った。来た道を戻っていると、どこからかいい香りがしてくる。カレーの香りだ。つい香りに誘われて道を折れ、漂うカレーの香りの方へ足を向けた。
すると小さな公園があらわれ、どうやらその公園と小道を隔てた向かいにある小じんまりとしたカフェらしきお店から漂ってきているのがわかった。三月といっても夕方六時を回ると肌寒さが増して寂しさを感じる。やわらかなオレンジ色の明かりに照らされた店内は、外から様子を窺っている圭吾に安心感とあたたかさを与えた。
突然ドアが開き、制服を着た女の子が出てきた。
「天羽くん?」
「は、早瀬さん? どうしてここから……」
「ここ私んち。今から買物にいくの。なんで天羽くんがこんなとこに突っ立ってんのよ」
「いやその、いい香りがしてたんで……」
そうなのか。ここは同じクラスの早瀬美香んちだったのか。その発見と同時に圭吾のお腹が鳴った。圭吾は恥ずかしくなり下を向いた。美香はそんな圭吾をクスッと笑う。
「お腹すいてんだ。よかったらウチでカレー食べていかない? 買物は後にするから」
飢えた犬のような顔つきをしていたのだろうか。圭吾は心とは裏腹に興味がないふりをしようとしたのだが再び腹が鳴る。
「何してんのよ。顔に食べたいって書いてあるわよ」
美香は圭吾の後ろに回り、圭吾の背中を押してお店に入れた。
「いらっしゃい。美香のお友達?」
「同じクラスの男子よ」
「いつも美香がお世話になってます。姉の七海です」
お姉さんか。気が強そうな美香とは正反対だなと思いつつ、圭吾は言葉に出さなかった。
「天羽くん、姉と私の器量でも比べてるんでしょ」
「そんなことしないよ。そんな失礼なこと」
「してるんでしょ?」
「はい……」
つい本音を言ってしまい、圭吾は顔を赤らめた。
「いいのよ、自分でもわかってることだし。それよりさ、早く食べよう」
美香がキッチンへ入って行った。七海が皿を取り出しご飯を盛る。ツヤツヤして粘りがあるコシヒカリのようだ。
「姉さん、天羽くんも私の分も大盛りでお願いね」
七海がさらにご飯を足す。ご飯をたんまりと持ったお皿が重そうだ。
美香がカレールーの鍋蓋を開けてかき混ぜる。蓋を開けた途端にカレーの香りがふんわりと漂い食欲がさらに増す。圭吾は口の中が唾液であふれ、生唾を飲み込んだ。
「はいどうぞ」
大盛りのご飯にカレールーがたんまりと盛られ、美香が圭吾の席に運んできた。何とも言えないこの香り。ルーの中から牛肉やにんじん、じゃがいもが所々に顔を出していて、圭吾の食欲を誘った。
「いただきまーす! 天羽くんも一緒に」
「いただきます……」
美香につられて圭吾も手を合わせた。食事の前に手を合わせていただきますを言うなんて。圭吾は今までまったくそんなことをしていない生活習慣に今更ながらに気がついた。
圭吾はスプーンでルーとご飯を軽く混ぜ口に運んだ。辛みの中にもフルーティな甘みがあり、ツンとしない柔らかな香りと辛みが鼻を抜けていく。
これだ!
圭吾は自分がどんなカレーを食べたかったのか、瞬時に覚った。決してスパイスだけではない複雑で深みのある味わいだ。一気に平らげた圭吾の目は呆然と宙を彷徨っていた。
「んふふふふっ。天羽くんかわいい」
つい自分世界に浸っていた圭吾だったが、美香が笑っているのに気がついた。
「ごめん、おいしくて夢中で食べてたよ」
「それ褒め言葉だよね。最近はスパイスが効いた辛いカレーが流行ってるけど、私は辛さだけでなく、カレーの中にしっかりと野菜やフルーツのおいしさが感じられるカレーが好きなの。姉さんと私が作るこのカレーのようにね」
「これ、早瀬さんとお姉さんの合作なの?」
「そ。私こう見えてもカレーにはうるさいの」
「仲いいんだね。僕なんてカレーで兄さんと喧嘩してずっと気まずい毎日なのに」
「カレーで喧嘩?」
圭吾は先日のカレー事件(圭吾の中ではそう呼んでいた)のことを美香に話した。
「ふうん。お兄さんを呼んでこのカレーを食べさせてあげたら?」
「あれから全然しゃべってないのに急に誘うなんて変だよ」
「うーん。じゃあさ、天羽くんがウチのカレーの作り方をマスターしてお兄さんに食べさせてあげるってのはどう?」
「僕が?」
「天羽くんなら一、二度作れば絶対マスターできるよ。放課後お店で一緒に作ろう」
そんなこんなで圭吾は美香のお店でカレーの作り方を教わることになった。包丁もろくに使えないのに本当に大丈夫なのだろうか。
「なかなかじゃん。手つき見てたら包丁にもすぐ慣れると思うよ」
先に玉ねぎを薄くスライスして炒めていく。玉ねぎはかなり多めだ。玉ねぎだけをじっくりと炒め、そこへ昨日炒めておいた玉ねぎのペーストを加えてさらに炒める。次にじゃがいもとにんじんの皮をむき、カットしていく。
「兄さんはにんじんがあまり好きじゃないんだ」
「それならにんじんを小さくカットするといいわ。嫌いだからって量を減らすよりもその方がいい」
美香が言うには、にんじんもこのカレールーの重要な要素だけに外せないらしい。肉は国産牛肉のモモ部分を使う。国産を使用するのは美香のこだわりで肉のほか野菜もそうだ。美香の祖父母が農業をしており、年々国産需要が減っていることで農作の大切さや食のありがたみなどが失われるのではないかと幼少の頃から聞かされてきた結果なのだそうだ。
鍋にローズマリーやローリエなどの香草に胡椒、ガラムマサラなどの香辛料も加えてさらに炒める。ガラムマサラも入ってるのか。慎吾との喧嘩を思い出し、その香辛料が使われていることが意外に思えた。
「炒める段階で香草や香辛料を入れると、クセが和らいで中和していくの」
そうだったのか。圭吾は大きくうなずいた。
美香が固形のスープキューブにカットトマトを加えて煮込んでいく。そして蜂蜜、すったリンゴなどを加えてさらに煮込む。これだけでもいい香りだ。最後に美香がルーを割って加えていった。驚いたのは業務用などではなく、母の瑠美がいつも使ってる市販ルーを使ったことだ。
「これがウチの看板カレーなの。あとはクツクツと煮込めば完成よ」
美香が一晩寝かせた方が味がなじんでおいしいと言うので、あすの放課後試食することにした。
結局この工程を美香のお店で二回させてもらった。どちらにせよ美香のお店で必要なメニューだからかえって助かったと礼まで言われ、圭吾は恐縮した。
次の土曜日、圭吾はあすの晩ご飯は自分がカレーを作ると言い、そのままキッチンを使い始めた。母の瑠美はポカンと圭吾を見ていたが、自分が食事を用意しなくてもいいことがわかると喜んで圭吾に任せた。
圭吾は慎吾がどんな反応を見せるのか不安だったが、久しぶりに自分の家でカレーの香りが漂うことにうれしさが込みあげた。
「いただきます」
手を合わせてそう言う圭吾に、母も父も慎吾も驚いた。キョロキョロとお互いがお互いを見つつも圭吾にならって手を合わせた。
「いただきます」
カレーを口に運んだ母と父の顔がおいしさでほころんだ。
「何これおいしい! すごいじゃない圭吾!」
慎吾はまだ口に運んでいない。手に持つスプーンを宙に回してためらっていたが、香りに誘われたのかスプーンをルーの中に入れ、ご飯と合わせて口に運んだ。
慎吾の顔色がパッと明るくなった。ひと口ふた口と食べるリズムが早くなっていく。
圭吾は慎吾の様子が気になってまだカレーを食べていなかったが、慎吾が食べ始めたことにひとまず安堵し、自分も食べ始めた。
「おかわり」
慎吾が圭吾に空の皿を突き出した。
圭吾はおそるおそる慎吾の方へ目をむけた。目と目が合い、慎吾が圭吾に笑いかけた。圭吾は照れながらも慎吾から皿を受け取り、おかわりを注ぎに席を立った。