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母親から赤子を取り上げた鬼の話

作者: 一唐

 昔々ある所、一軒の飴屋がございました。

 飴屋と申しましても、現代のような華美な飴細工をするような店でもなく、今ではとんと見かけなくなった水飴を竹筒に入れて売るような店でございます。

 そのような飴屋にある時から夜な夜な幽霊が現れるようになりました。

 店仕舞いもした夜の遅くに、戸を叩く音がして、起き出して来た飴屋の主人が戸を開くと、わずかな戸の隙間から腕が伸びて、銭をチャリンと落とす。客は何も言いませんから、困った飴屋の主人は飴が買いたいのだろうと合点して、筒に入れた水飴を戸のそばに置きます。すると、銭を置いた時と同じように戸の向こう側から腕が伸びて来て、水飴の入った筒を静かに持っていくのです。こんな事が夜毎に何度も続くのです。

 これだけならば客商売で時折行き当たる変わった客でしかないでのですが、あえて幽霊と申しましたのは、随分と色白な女の細腕だなあと、水飴を受け取ろうとした腕を飴屋の主人が見て取っておりました所、星月の明かりでぼんやりと照らされますと、それが腐れた肉が削げ落ちてところどころに白骨があらわになっている姿であると分かってぞっとしたためでございます。

 飴を買いに来る幽霊は特に悪さはいたしませんでしたが、このような事がしばらく続きますと、飴屋の主人としても気味が悪くもなります。今は取り立てて何か不都合が起きる事もございませんが、ひょっとして何事かの恨みを買っていて祟られてでもいるのかと思うとどうにも気が気でなくなります。

 ですから、ある時飴屋の主人は、近くに逗留している侍に、飴を買いに来た幽霊のあとをつけて、どのような事情があるのか調べるように頼んだのでございます。

 この侍は武者修行の旅の者でございまして、行く先々にて時と場合と都合に合わせて、牢人衆だの用心棒だのと肩書きを変えて荒事含みの割のいい仕事を引き受けて、日銭を稼いでいるような男でございます。夢は一国一城と大望はあれども、今の身分は何でも屋のようなものですから、このような飴屋の主人の奇妙な頼み事も二つ返事でこころよく請け負ったのでございました。

 さて、いつもの通りに夜もふけて、幽霊が飴を買いに来る時間になりました。いつもと異なる事は、飴屋の軒先を見渡せる草むらに、侍が伏せて見張っている点でございます。

 すると、そこに通りをずるりずるりと身を引きずるように飴屋に向かって歩いて来る影が現れます。そして、その影は飴屋の戸を叩き、起き出して来た飴屋の主人が開いた戸の隙間に腕を差し込みます。チャリンと音がして、いつものように飴を買う手順が踏まれている様子です。

 幽霊は女でありました。髪は長く肘まで伸びて、とかされもせず結われもしない髪が、だらりとすだれのように影を作っています。しかし、頭皮のいくらかが剥げ落ち頭骨がうっすらとのぞいてもいましたので、それが生ある者でなく、屍霊の類である事が夜目に見る侍にも見て取る事ができました。

 飴を受け取った幽霊は、体を引きずりながら来た道を帰り始めます。侍はその背中を見失わないように、草むらから抜け出して、こっそりとついて行きました。

 しばらく歩きました所、たどり着いたのは村から少し離れ、街道からも少し逸れた雑木林の中でございました。

 するとそこで、侍は声を聞きます。泣き声でございました。赤ん坊が泣く声です。しかし、その声は元気な赤ん坊が発する火のついたような泣き声でなく、どこか力なく弱りきったような声でありました。

 侍が赤子の声を頼りにして雑木林を進みますと、赤ん坊を愛おしげに抱く幽霊の姿を目にします。

 幽霊は泣く赤ん坊に買って来た飴を飲ませようとします。赤ん坊は飴を口にしてひと心地ついたのか、少し泣く声を和らげますが、しかし、欲しいのは母が与えるお乳であるのか、またぐすぐすと力なくぐずり出します。

 暗闇によく見れば、幽霊の周りには汚れた旅の荷物が転がり、侍にも少しだけ事情が察せられたのでした。

 赤子を連れた見知らぬ土地の旅の道、道に迷い、疲れ果て、どこともしれない場所でもう動く事もままならなくなり、それでーー。どこへ行こうとしていたのか、あるいは行く当てすらあったのかも侍には分かりませんでしたが、ずいぶんと経年のほころびとへたれの見える旅道具に、頼れる者のいない孤独な道行きが見て取れたのでした。

 赤ん坊は自らを抱く母親の胸元へ本能がそうさせるのか手を伸ばしますが、乳房の肉は朽ち落ちたのか硬い肋骨があるだけです。そんな赤ん坊に幽霊はせめてもの代わりとまた水飴を飲ませるのでした。

 半ば白骨になりつつある腕で、母親は愛おしそうに赤ん坊を抱いています。そんな親子の姿を侍はどこか善悪の秤にかけるように暗闇の中からじっと見据えています。母がこうして朽ちながら赤ん坊にはまだ息があるのも、我が身よりも先んじて赤ん坊に愛を注いだ母親がいたからこそではありました。しかし、それももう限界であると侍は理解します。赤ん坊のやせ細り頭と腹ばかりが大きくなった体を見て、遠からず赤ん坊もまた母親と同じ道をたどる事が見て取れたのです。乳離れしていない赤ん坊には、水飴ではだめなのです。母親から与えられるお乳でなければ命は繋ぐためには足りないのです。

 そして、それはもう屍霊となった母親からは与えてやれるものではありませんでした。生者と死者に引かれた境界はどこか残酷であるほどにはっきりとしたものでした。例え、どれほど愛していようとも、母親の腕に抱かれている限り、赤ん坊には同じ死出の道を歩むしか選択の余地はないのです。

 侍は事の解決をいかに運ぶのかという事について飴屋に指示をされていたわけではありませんでした。言伝られていた事は、善きに計らって欲しい、ただそれだけです。

「善きに、か」

 言葉はいつも簡単です。しかし、何をもって善きとするのか、侍の心には様々に考えが巡ります。

 やがて、侍は夜闇の中で決意を眼光にたぎらせて、伏せていた草むらの中から姿を現しました。

「承り候」

 侍は闇の中に寄り添う親子の元につかつかと歩み寄って行きます。

 そして、眼球がこぼれ落ち、驚きの表情を作る頬の肉すらも腐れ落ちた母親がじっと様子を伺うように侍の姿を見つめる中で、侍は母親から赤ん坊を力づくで取り上げたのでした。

 母親はとっさに声にもならぬうめき声を発し、腕を空にばたつかせて侍から赤ん坊を取り戻そうとします。そんな母親を侍は足蹴にして、乱暴に突っぱねます。そして、獣のように歯を剥いて、威嚇するように唸り声を発しながら、四股を踏むように地ベタを強く踏んづけて鳴らし、ここに力がある事を示します。力とは暴力です。赤ん坊を取り戻そうとする母親の願いを、理不尽なまでに踏み潰す暴力がある事を示します。耳も目も腐り、機能しているかどうか定かでは無い屍霊に、言葉と道理ではなく直感で力を伝えるための行為です。

 侍のその姿はさながら鬼面と呼べるものでした。しかし、鬼であるのは形相に限りませんでした。

 赤ん坊を抱いて来た道を帰ろうとする侍を、這いずりながら追いかけて来る母親を、殴り、蹴り、言葉の体もなさない悪罵の声を浴びせます。その醜く乱暴な振る舞いはまさしく鬼の所業であります。

 そうやって、殴られても、蹴られても、赤ん坊を求め闇を這う母親を追い返します。何度も、何度も。人里へと至る道中で、何度も、何度も。

 親子の愛情を踏みにじり、唾を吐き、脅しの言葉をを吐きかけて、愛に抱かれた屍霊の世界から、鬼は赤ん坊を人の世界へと連れ去ろうとするのでした。

 侍は断たねばならぬと思っていました。赤ん坊の生を願い飴を買い求める一方で、赤ん坊を飴屋に託す事はしなかった母親の、愛情の中に紛れた何ものかを、そんな死してなお捨てられぬ人としての何ものかを、断たねばならぬと思っていました。それが、侍にとっての善きに計らうという事であったのです。

 だから、侍は鬼になれと思っていました。形なきものを断つ刃となる暴力の化体けたいである鬼です。荒ぶる抗えない無慈悲な暴力そのものといえる鬼です。

 母親は侍の暴力によって、腕は折れ、脚は曲がり、わずかに残った腐れた肉も削げ落ちます。それでも、赤ん坊を求め、悲しみにすすり泣きながら、侍に挑んできます。しかし、やがて遠くの山に太陽が昇り始めると、魔性の時間は終わりを迎え、死霊の抜け落ちた肉体は一個の行き倒れの亡骸となって動かなくなりました。

 赤ん坊を連れて飴屋に辿り着いた侍は見て取った事情を飴屋の主人に話します。そして、母親の亡骸の供養を主人に頼むと、急ぎの足で飴屋のある集落から少し離れた所にある寺へと向かいました。寺には下働きの女がおり、その女は近頃乳飲み子を亡くしたばかりという話を飴屋の主人から聞いていたからです。

 久しぶりのお乳を与えられた赤ん坊は、貪欲に下働きの女の乳房に吸い付いて、痩せた体に少しでも命の源を注ごうとするかのようでした。言葉はまだ発せずとも、生きんとする意思が確かにそこにはありました。侍は赤ん坊をそのまま下働きの女の子どもとして、寺で養ってもらえるように取り計らいました。

 なすべき事をなし、寺を去ろうとする侍に下働きの女は名を尋ねました。将来、この赤ん坊が自分の由来を知りたがった時の事を考えての事でした。

 しかし、侍はただこう述べるだけでした。

「俺はなりは人ではありますが、鬼です。血も涙もない非情の鬼なのです。鬼との縁などというものは、あったところでその子の人生に何の益をもたらす事もございますまい」

 そう言って、侍は赤ん坊が自分の事を知りたがったならば飴屋の主人を訪ねるようにだけ言付けて、自分はどこへともなく去って行ったのでした。

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