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 かちゃかちゃと汚れたボウルを洗う。横では人参や肉が入った鍋がコトコトと煮えている。一番最初にレンジを掛けておいたじゃが芋はまだ熱くて触るどころではない。もう少し経たないと皮を剥くことは難しそうだ。

 午後6時。そろそろ母が帰ってくる頃だ。私は急がないと7時から始まる塾に遅刻してしまう。そう考えて焦りだす。

 吸水時間も取れたし、炊飯器のスイッチを入れる。この間、つい押し忘れて塾に行ってしまい、帰ってきてから散々怒られた。その日、布団に入れたのは夜中の1時過ぎで、翌朝も「お前のせいで睡眠時間が短くなった」と母からまたなじられて大変だったのだ。だからそれ以来、炊飯器のスイッチだけは忘れないように気を付けている。

 慌ててトイレ掃除を済ませて洗濯物を畳む。家族毎に積み上げたところで、台所に戻った。

 まだ熱の残るじゃが芋の皮を包丁で剥がすように剥く。もうすぐ剥き終わりそうだと思った時、ぴりりと親指に痛みが走った。

「…やっちゃった」

 油断した。つい手が滑って包丁が刺さってしまった。それほど深くはないけれど、真っ赤な血が垂れてくる。いけない。じゃが芋を汚さないよう慌てて流れ出した血を水道で洗い流してティッシュで押さえる。そのまま居間へ移動してTV台の中に入っていた救急箱から絆創膏を探していると、弟に後ろから背中を蹴飛ばされた。

「邪魔」

 母が帰ってきてしまう前に準備を終わらせないとと思うあまり焦りすぎてTVの前に陣取ってしまっていたらしい。弟に手でシッシッとされて慌てて台所に戻る。

 母が義父と再婚した時に購入したこの中古住宅は広いけれど間取りが古くて台所と居間は狭い廊下で隔たれている。だから私が家事をしている間に異父弟がTVを観ていようとも漫画を読んでいようともそれを視界に入れることはない。それだけは救いだ。

 片手で貼った絆創膏は少し歪んで、流れ出した血を上手く抑えることができなくてあっという間にそれは真っ赤になった。

 その時、玄関のドアがガチャリと音を立てた。

「ただいまー。あぁ、疲れた。誰も迎えに来てくれないなんて。冷たい家族ばっかりね」

 母のいつもの愚痴が聞こえる。前に、チャイムを押したりもしないで入ってくる母をどうやったら出迎えることができるのかとそう伝えたら「まったく。冗談も通じないんだから」と不機嫌に言われてから何も言わないことにしている。

 その母が、珍しく台所に顔を出した。

「…おかえりなさい」

 先に言わないと、なにを言われるか判らないのでとりあえずそれだけは言っておく。

「はぁ。お母さん、今日は疲れちゃった。ご飯作ったら洗濯物もちゃんと箪笥にしまっておいてくれない?」

 今日は、じゃなくて毎日ではないか。母の作ったご飯など、もうずっと食べたことはない。大体が、りんが作るか買ってきた総菜だ。ちなみに母の手作りはレトルトか冷凍食品のことを指している。

 それでも、文句をいったところで改善される訳でもないし、むしろ「冷たい娘だ」となじられるのがオチだ。受け入れることしか、できない。

「判った。ゆっくりしててね」

 なんとか皮を剥き終えたじゃが芋を鍋に入れてカレールウを溶かし入れる。

 固形ブイヨンを入れてあるので塩辛くなりすぎないようにすると全体が緩くなりすぎるので最後に水溶き片栗粉を混ぜ込んで全体に透明度が出てきたら出来上がりだ。水溶き片栗粉を使うと後で洗う時に皿にカレーがこびりつかなくて楽なのだとネットで知って以来、ずっとこうしている。

 塾から帰ってきてから1人で食事を取り、それからシンクに残されたままの皆の分の食器と一緒に洗うので少しでも楽に済ませたい。

 居間から楽しそうな声が聞こえる。

 弟と母の笑う声。学校であったことを嬉しそうに母に報告する弟の声と、それを褒める母の声が、実際の距離以上に遠く聞こえる。

 手を洗って居間に積んで置いた洗濯物の山を取りに入ると、ちゃんと畳んでおいた筈のそれが崩れてぐちゃぐちゃになっていた。

 思わずため息が漏れる。

「ちゃんと畳んでないから自然に崩れちゃったんでしょ」

 弟がにやにや笑っている。そうか。蹴飛ばして遊んだのか。じろりと睨んだ私をみて、弟が大袈裟な身振りで母の後ろに回り非難する声を上げる。

「おかあさん、おねえちゃんが自分がちゃんとやってなかったのに僕のせいにする」

 その言葉を本気で信じている訳でもない母が、それでも私にこういうのだ。

「おねえちゃんなんだから、ちゃんとやりなさい」

 私は黙って洗濯物を畳み直すことにした。

「……っ」

 私の血を吸い取ってすっかり重くなっていた絆創膏がずれて血が再び流れ出す。洗濯物の上に、ぽたりとそれが流れ落ちた。

「うわっ。汚ったねぇ」

 横目で私の姿を監視していた弟が嬉しそうに囃し立てる。

 私は慌てて汚れた洗濯物を持って立ち上がると、洗面所でその血を洗い流した。

「あんたって子は、本当にドジで役立たずね」

 いつの間にか後ろに顰めっ面をした母が立っていた。大げさなため息を吐きながら絆創膏を貼りなおしてくれる。

「ありがとう」

 ふん、と鼻で息をした母は、「ごめんなさい、が先じゃないの?」と説教を始めた。その顔を見上げることすら、意気地のない私にはできない。

「…ごめんなさい」

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。生まれてきて、ごめんなさい。お母さんの子供が私でごめんなさい。



「──ん、りん」

(…さん、ごめんなさい)

「りんさん、大丈夫ですか?」

(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい)

「りんたんりんたんりんたんりんたん!!」

「ごめんなさいっ」

 ばっ、と目を開けると、3人分6つの瞳が私を見つめていた。

 そのどれもが心配しているのだと、必死になって伝えてくる。

「……えっと、おはようござい、ます?」

 そう言った自分の頬が、乾いた涙と流れつつある涙でぐしょぐしょだった。

 ──えっと。あぁ、そうだ。久しぶりに、あの日の夢を観てたのだ。

 そう、夢だ。だって、実際には涙なんか流せなかった。

「悪い夢でも見てたのだろう。寝かせておいてやりたかったが、ずっと泣きながら謝っているから起こした方がいいだろうと判断した」

 ガーランド様がそう説明してくれる間に、そっと、ムーアさんが濡らして固く絞ったタオルで顔を拭いてくれた。

 私は、ぼうっとしながらされるがままだ。

 よかった。私はあちらの世界に戻された訳じゃなかった。こちらが長い夢でなくて。よかった。そう思うと安堵からまた涙が溢れた。

 ムーアさんが頬を拭いてくれるタオルを奪い取ってそこに顔を埋めた。

 よかった。この世界が、夢でなくて本当に良かった。

 タオルに顔を埋めたまま、しばらく泣き続けている私の肩を、エリゼ様がそっと抱きかかえてくれた。その温かさにまた涙が出る。誰かに抱きしめて貰ったのはいつ以来だろう。

 ようやく涙がおさまってきた。だいぶ泣いてしまったけれど、その間、ずっとエリゼ様は私を抱きしめてくれ、ガーランド様は私の頭を撫で続け、ムーアさんはそっと傍にい続けてくれていた。

 ふわふわの羽毛布団。綺麗で肌触りのいい寝間着。そしてなにより優しい仲間。

 その全てが、私を甘やかす。

「……あちらの世界での、夢を見ていたんです」

 家族との記憶です、ちゃんとそこまで声に出せたかは、自信がなかった。

「起こしてくださってありがとうございます。すみません、もう少し寝ます」

 だから、1人にしておいて下さい、そう言って私は布団を被った。


 本当は、見守ってくれていたこの優しい人達にきちんと説明しないといけないんだろうとは思う。

 けれど、私はあちらでの家族の事を、口にしたりできなかった。

 それほど消化できていない。本当の家族にすらあれほど邪険にされ続けてきた。私という人間がどれほど無価値な存在か。それを説明する勇気はまだ私の中になかった。

 価値がある人間になってみせると思ってはいるけれど、それが未だに全然できてないのは私が一番よく判っている。私は何もできない。得ていない。それが悔しくて惨めだった。

 黒い獣に対してだって、自分で言い出した作戦だったのに途中で怖気づいて肝心な時に魔法は解けてしまった。役立たずだ。

 そんな私を、なんで皆が優しくするのか。

 強くなりたいと願う。誓う。その思いは確かにあるのに。

 実際の私は、自分の実母にも、異父弟にも、義父にも歯向かえなかった。そんな情けない存在だ。

 黒い獣とだって二度と相対したくないとも思っている。できれば次は即逃げ出したい。そう思ってしまう気持ちも、また本当のことなのだ。

 自分の事なのに何もわからない。どうしたら、本当に価値のある人間になれるのかも。

 判らない。


「りんたん」

 潜り込んだ布団の中で、目を固くつぶる。

 一人にしてくれ、部屋から出て行ってくれと言ったのに、まだ誰も部屋から出て行ってくれる気配はしていない。

「りん」

 被っている布団の上から、大きな手が頭を撫でていく。

 ずるい。

「りんさん。大好きですよ」

 ホント、ずるい。引き籠りたいのに。弱くてみっともない自分に向き合う気力なんか、今の私にはないのに。ううん、元々そんな強さは持ってないのかも。

 持てると思ったんだけどな。

 変われると思ったのに。

「だいすきよ、りんたん」

「好きだ、りん」

「私は、りんさんの事が、大好きですよ」

 ぎしり、と体重を掛けられたベッドの端が軋む。

 (布団の上から)耳元で、(布団の上から)頭の上で、(布団の上から)肩口に頭を乗せられて、何度も何度も告げられる、その言葉。

 甘やかされすぎて、茶化してないとぐずぐずと融け出しそうだ。

「っもう。なんなんですか、一体」

 自棄になって布団を撥ね退ける。

「私は、一人にしてくれってお願いしてるんですっ! 私は、…私がどれだけ駄目で役に立たないかちゃんと知ってます。判ってます。わかってるもん。…なのに、そんな私を肯定しないで!!」

 我ながら、言っていることがぐちゃぐちゃだ。自分でも、なにを伝えたいのか、何に対して苛立っているのかも判らないのだから。

 でも、それでも。

「私はみんなに、す…好きだなんて、言って貰えるだけの価値はないのにぃ」

 それだけは、判っていた。

 何も持っていないこの手に、いつか何かを掴んでいたいと思う。その努力はするつもりでいる。

 でも、今の私は何もこの手に持っていない。

 いつか、誰かに認めて貰えるだけの、何かを手に入れたい。その思い以外は。



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