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42時限目

 


 そのまま渡り廊下で10分ほど待っただろうか。

 ファーマさんが声を掛けてくれたので、私達はお互いに目出し帽の位置を確認しあって(勿論、お互いを確認する際に、もう一度みんなで笑い出した)、渡されたタオルを口に巻く。

 そうして準備ができると、大釜の中身を確認させて貰うべく中庭へと移動した。

 なんというか、タオル越しでも感じる饐えた油の臭いが凄い。うへぇ。

 促されるまま移動式の監視台に上る。風向きとか考えると常設は厳しいんだろうね。いろいろ大変だ。

 大釜の横でずっと中身をかき混ぜ続けている人は目出し帽の上から私達と同じように口元にタオルを巻きつけていた。肉体労働なのに息苦しくて大変そうだけど、臭いやアルカリの煙に粘膜をやられたらもっと大変だもんね。

 恐る恐る覗き込んだ大釜の中身には確かに粘度が生まれだしていた。

 船を漕ぐ櫂のような大きな穴あき木べら擬きで混ぜると、ちゃぷちゃぷという音はなく、櫂の後を残すように渦が水面に残るようになってきている。

 すごい。

 轟轟と竈で燃やす薪の煙の臭いと、大鍋の底を掬うようにして全体を混ぜ続ける、陶器の鍋と木の櫂がぶつかり擦れる音、そして人の掛け声が祈りを込めた呪文のように響き続ける。

 すごい。なんかもう一言しか出ない。

「このまま8時間、混ぜながら強火で炊き続けます」

 ファーマさんのその解説に吃驚してしまった。

「えぇっ! 強火にかけて、それを混ぜ続けるんですか? 

 それを8時間も?! ぶっ続けでやるんですか?!」

 思わずタオルを引き下げて叫びまくってしまった。

 それにファーマさんが笑って違いますよ、と訂正してくれる。

 振り向くと後方にいた笑顔のファーマさんが手招きしてくれた。

「あはは。勿論1時間ごとに交代しますよ。薪をくべる者1人と混ぜ続ける者2人で1釜につき3人ずつ。それを4交代で1組2回です」

 よかったー。でもそうだよね、ぶっ通しで8時間なんて過酷な労働をエリゼ様がさせる訳がなかったよ。でも1時間でも十分過酷な気がする。大変な作業だ。

「…ここに勤めているほとんどの人間が、親しい存在を流行り病や食中毒が原因で失った経験をしています。そんな者ばかりです。

 ですから、どんなに過酷であったとしても私達はここで働きます。

 ここには救いがある、そう思っています」

「ファーマさん…」

 そう言ったきり黙ってしまったファーマさんは今、轟轟と燃え盛る竈の火の向こう側に誰の姿を思い浮かべているのだろう。

 目の前で過酷な作業を続けているこの人達も大切な誰かとの思い出の為に頑張っているのだろうか。

 自分には差し伸べられなかった救いの手を、誰かに届ける為に。

「そうして今、棄てるしかなかったものから更なる一手を講じる可能性を掴もうとしている。

 そのお手伝いができることを、私は…、私達は本当に光栄に思っているのです」

 炎に赤く照らされながらそう言い切ったその人の顔には、強い決意が宿っていた。

 …ほとんど顔なんて見えないけど。でも目出し帽で隠されていても、そこには間違いなく覚悟があったと感じているから。

「…絶対に成功させなくちゃいけないわね」

 エリゼ様の篤い思いの篭った言葉が胸に響いた。


「さて。正直、この後やることと言えば、薪をくべ続け、釜の中身を焦がさないように混ぜ続けることだけです。

 見ていてもツマラナイでしょうし、お疲れもあるでしょうから見学は一旦中断ということで如何でしょう」

 まぁぶっちゃけ邪魔しかできないしね。

「今が16時ですから日付が変わる頃に煮詰め作業が終わる予定ですね。

 勿論、これまでの石鹸とは、使う素材も違いますし目指すもの自体が違いますから乳化するまで8時間要らないかもしれませんし、本当は10時間以上必要になるかもしれません。

 その辺は経験と、私達のカンとエリゼ様の知識次第といったところでしょうか」

 此処にいても今のところ意見を出せる部分もなさそうだし、煮詰め作業が終わる夜に備えて休んでおく方が良さそうだ。

「一旦部屋に戻って休憩を取りましょうか。

 お夕食は20時開始にして貰いましょう。22時頃からは作業の様子を確認できるように待機していたいわ」

 エリゼ様のその提案により、私達は鹼化作業の続く中庭を後にした。


「どうします? このまま部屋に戻って仮眠を取るのもいいですし、少し外を見て回るのもいいと思うのですが」

 リビングまで戻ってきた時、ムーアさんにそう話し掛けられた。

 ちなみにガーランド様はすっかりコトラに戻ってしまい、今は私の腕の中で眠っている。

「そうですね。少し眠っておきます。

 私に何ができるのか判りませんけど、必要にされた時に眠くて役に立たないなんてみっともない事をいうのは嫌ですから」

 そうですか、と笑顔でムーアさんは部屋まで送ってくれた。

 ついでに、腕の中にいたコトラを取り上げられる。

「いつガーランド殿下に戻られるか判りませんから。

 りんさんがこれから仮眠を取られるなら、私が責任をもってお預かり致しますね」

 これでも護衛なので、そう片目を瞑ってお茶目に言われた。

 そういえばムーアさんは、私付きっていう名目のガーランド様付き護衛でしたね。すっかり忘れてました。てへ。

 お礼をいって部屋に入ろうとしたところで、躊躇いがちにムーアさんが口を開いた。

「あの…、デビット・グエンの事なのですが」

 そう言ったきり次にいう言葉を探して迷う内に、彼は考えを伝えようとすることを諦めてしまったようだ。

「…いえ、なんでもありません。失礼しました」

 そっと頭を下げて廊下を戻ろうとする。

「ムーアさん」

「ゆっくり休んでくださいね」

 そういって背を向けてしまった人に声を掛けた。

「デビットさんが、ケルヴィン殿下やこの国に対して寄せている敬意に対して私は否定するつもりはないです。むしろ凄いなと思うこともあるくらいです。

 そして敬意を持っている相手が苦しんでいたらそれを取り除きたいと思う、その気持ちも判ります」

 私が自分の気持ち、考え方について口にするのを、ムーアさんはじっと聴いていた。

「心の動きは納得できるんです。彼の事を頭から否定するつもりはないです。

 相手にだけ自分を理解しろというつもりもないんです。それは甘えというものでしょう?」

 こちらの世界に来て、一番私が変わったとすればそこだ。

 自分の気持ちにだけでいっぱいいっぱいだった、あちらにいた頃の私。

 今は、自分以外の人の気持ちの動きにも頭が廻る、廻せるようになった。と、思う。少しは。

 ムーアさんの腕の中に移っても、まだ寝たままのコトラを見る。

 うん。私の世界は広がった。それは幸せを感じやすく、見つけやすくしてくれた。

 そして、自分以外の人の苦しみや悩みも。

「まぁ、敬意の対象にそれを表現したいなら、自分でやれ、人に命じてやらせて当然という態度に出るな、とは思いますけど」

 しれっと毒も混ぜておく。

 自分でやらないで安易に人に頼るな、押し付けるなっていうんだ。

「…はい。それについては、きちんと言い聞かせておきます。

 りんさん、ありがとうございます。そのお気持ちを聞かせて貰えて安心しました。

 きっとまだ色々と問題を起こすとは思いますが、よろしくお願いしますね」

 ふっと肩に入っていた力を抜いて、ムーアさんがそう言った。

「正直、そんな問題なんか起きて欲しくないですけどね」

 そう言うと、ムーアさんはぷっと小さく噴き出した。

「はい。私もそう思います」

 その言葉を合図に、ムーアさんはもう一度頭を下げてから自分に割り当てられた部屋へと戻っていき、私は自分の部屋へと入った。

 そのままふらふらとベッドの上に座り込み、上体を後ろに倒した。

 疲れた。

「デビット・グエンか。ああいう、状況を理解しないで脊髄反射で行動する人間は苦手なんだよねぇ」

 図体でかいし、声も無駄に大きいし、偉そうだし、って偉いのか。近衛の上に、伯爵家の跡取りっぽかったし。

 ぶつぶつと、苦手な理由をあげ連ねる。うん、元々苦手なタイプではあるんだな。

 だから、一層近寄りがたいって、敬遠しがちになっちゃうのかもね。

 ベッドサイドのテーブルに用意してあった水を一杯注いで口にする。

 甘い。こちらの水は、あっちで飲んでいた水道水よりずっと甘くて美味しい。

 同じに見えて違う味。きちんと口にして味わってみないと違いは判らない。

 人間も、同じなのかも。

 見た目や上辺ですぐに判断しないこと。そんなのよく聞く言葉だけど、本当は判っていなかったんだなって思う。

 水と違って、人を理解するのは大変だ。本当にそう思う。

 私だって、あなたの事はすべて理解してるなんて簡単にいわれたら不快になるし。

 理解できるまではぶつかり合うのも仕方がないのだ。

 だってどこにぶつかり合うほどの違いがあるのか、許せないと思うような考え方の違いがどこにあるのか、まったく判らないのだ。

 そうやって違っている部分を知り、ぶつかり合って意見の相違を磨り潰し歩み寄っていかないと、いつまで経っても理解なんてできないのだろう。

 それだけお互いを知らないのだから。

「完全な決別を決めるには時期尚早、ってことだよ」

 そこまで考えたところで眠気がピークになってきたので、私は着ていたワンピースドレスをかろうじて脱いで、ベッドの中へと潜り込んだ。



「友木りん様、お食事のお時間が近づいております。そろそろ準備をなさいませんか?」

 ランプを片手に持ったメイさんに、やさしく起こされた。

 目を開けると、すっかり日が暮れて窓の外は真っ暗だった。

「…はい、ありがとうございます。起きます」

 目を擦ろうとして止められた。

「これから晩餐の準備をされるのに目が腫れてしまいますよ?」

 お待ちしているので、どうぞ顔を洗ってきてください」

 やさしくガウンを着せ掛けられた。

 洗顔まで手伝うって言われないで済んでよかったけど、その後はまたあれなのだろうか、晩餐用の正装をさせられるのだろうか。面倒臭っ。


「ちょっとホッとしました」

 また大仰なドレスを持ち出されるのかと思ったけれど、用意されていたのはクリーム色に見えるほど淡い金色をしたシンプルなシャツドレスだった。ウエストには金茶のサッシュを巻き、そこにシンプルな黒い細身のパンツを履くように言われる。動きやすい。でも着てみるとやっぱり派手だね。

「女性でもこういう服装で良かったんですね。昨夜の晩餐もこれで良かったのに」

 そう恨みがましくいうと、メイさんに笑って否定された。

「いえ。今は単なる旅行ではなく、なん研での視察ですから。

 エリゼ様もなん研にいらっしゃる間は、同じようなもので過ごされるのです」

 あぁ、なるほど。いつ実験中の場所に呼び出されるか判んないもんね。正装してたら拙いか。

「さぁ、できましたよ。あの防護マスクをつけるかもしれないと思うとお化粧ができないのが残念ですね」

 私の肩の少し下までしかない髪は細いリボンと一緒に複雑に編み込まれていた。

 なるほど。リボンで髪のほつれを抑えるのね。これなら目出し帽を脱いだ後もボサボサになりにくいのかも。

 そして化粧なし。顔が軽いってホントいいよね。私だけかな、お化粧すると顔が重くなるというか、蓋されて苦しい気がするのって。

 目出し帽のお陰で塗りたくられなくて済んだのか。

 でも、化粧しないで済むのと、目出し帽を被らなくて済むの。

 どっちがマシなのか私には判断がつけられなかった。正直どっちも嫌だあ。


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