41時限目
「デビット・グエン。貴方には歳の離れた妹がいますね」
ずたぼろになってぐったりと両手を床についたままの哀れな姿に向かってエリゼ様が厳かに聞いた。聞かれた方は何故いまそんな事をと思いつつ、素直に頷き「います」と答えた。
「可愛いですか?」
少し考える様子を見せた後、デビットは「一般的に見てお世辞にも可愛いとは言えない容姿ですが…赤子だった頃のことを覚えているので、守らねばならぬ大切な存在だと、そう思っています。勿論、いつかはグエン伯爵家の当主として、一族を守る存在にならねばならぬ身なのですが」そう、だんだんと小さくなる声で答えた。
その返答を受けて、冷たい笑みを浮かべたエリゼ様が更に問いかけた。
「その妹が、ケルビン殿下、いいえ、他国の王子に同じような目に遇ったと泣いていたとして、貴方は『光栄と思え』と言えるのですか?」
カッと目を見開いて、デビット・グエンはいま言われた言葉の意味を考えていた。
「……それは、いや…、しかし…」
もごもごと呟かれたそれは、いつまで経っても意味のある文となって口から出ることはない。
「不可抗力だから許せ、もないんですよ。女性にとっては。
お互いの尊厳を認め合い尊重しあってこそ人としての交流があるのです。
そこに王家への忠誠を押しつけるなど許される事ではないと思いますよ」
敬愛するエリゼ様の言葉だからだろう。言われた言葉の意味を自分なりに解釈しようとしているのか、ぶつぶつと言われた言葉を繰り返している。
「今すぐ納得は出来ないかもしれません。
それでも、共にこれからのこの国を支えていく人材として、ケルヴィン殿下や私達と同じ場所を目指して欲しい、そう思います」
より善い国を作ろうといって集まっても理想というものは人それぞれ違うもんね。
せめて理想を形作るための理念というか基本的な考え方だけでも共通するものだったらいいよね。
「そして…」
すっかり打ちひしがれてしまった様子のデビット・グエンから、くるりと視線を外したエリゼ様の次の標的は、すぐ横で、うんうんと頷きながらエリゼ様のご高説に聞き入っていたケルヴィン殿下だった。
「いい加減にノックの意味を覚えられたら如何かしら、ケルヴィン・ラノーラ王太子殿下。
女性の部屋に勝手に入り込んで騒ぎを起こすなど。破廉恥極まりない。
りんたんを泣かしていいのは、私だけ。100歩譲っても私の前でだけですわ」
おい、こら。最後の部分はいらないだろ。さらっと変なことを付け足さないでくださいよ、エリゼ様。
タジタジになりながらコクコクと肯くだけの存在と化したケヴィン殿下と、うんうんと「…いやでも、…しかし」とぶつぶつ唸り続けるデビット・グエンを引き連れて、私たちはリビングへと移動した。
メイデンさんが用意してくれていた紅茶とドライフルーツ入りシナモンケーキが配られて、改めて無事到着できたことを喜ぶ。
この国、特にゴードン公爵家の領地内では野盗に襲われるという報告はほとんどないという話だったけど、それでもゼロではない訳で。何もなくて本当に良かった。
ここに来てからの件はまったくの別物だ。うん。
「きちんと紹介し直しておくわね。
先ほど副所長と紹介したけど所長である私はほとんどこのなん研にはいないから実質的には所長として頑張ってくれているペイジ・ショッチョさん。
このカントリーハウスを取り仕切ってくれているメイド長のメイデンさんと、その夫で下働きをしてくれているソージンさん。
そして石鹸部門を担当している責任者のヘスぺさん。今度の廃油石鹸を担当して貰う事になるファーマさんよ」
名前を呼ばれる度に並んでいた人達が一人ずつ頭を下げていく。
うん。間違いない。私はきっと最後まで名前を覚えきれないままここから帰ることになるに違いない。
とはいっても、メイデンさんとファーマさんだけはなんとなく覚えられそうだけど。メイデンさんはどことなく月の灯り亭の女将さんに似ているおっかさんタイプの人だった。濃紺のお仕着せと白いエプロンを身に着けて、赤茶の髪をフリルの付いた小さな白いキャップに纏めた髪を押し込んでいる。なんだか大昔のメイドさんみたいだ、と考えたところで、その通りだったんだっけ、と恥ずかしくなった。うー、慣れない。異世界とかホントなんで私ってばこんなところに来たんだろう。
転生なら少しは落ち着くんだろうか。変わんないか。
「ファーマです。この度は新しいプロジェクトの責任者に抜擢して貰って光栄です。誠心誠意努めます。よろしくお願いします」
周囲から促されてぺこりと頭を下げたその人は、緋色の髪をツンツンと跳ねるほど短く切り揃えた浅黒い肌の女性だった。二の腕の筋肉が眩しい。腹筋もシックスパックに割れていそうだ。逆三角形体形そのもの。恰好いい。
「早急に試作を行う必要があるということでしたので私たちはこれからアルカリの抽出を行い、そのまま鹼化を行うつもりで現在準備を始めています。
皆様におかれましては見学をなさいますか?」
エリゼ様が頷くのに合わせて私も頷いた。コトラ姿に戻ったガーランド様も「当然だ」と頷いたのをみて、ファーマさんがちょっとビクッてしてて笑った。
「ではご案内しますね。見学される方はこちらへどうぞ。
お疲れのようでしたら、こちらでもお部屋でも、ご自由にお過ごしください」
そう促されて席を立った。
まだぶつぶつと悩んでいたデビット・グエンをリビングに置き去りにしたまま私達は、なん研へと足を踏み入れた。とはいっても、各研究室自体は渡り廊下に隣接するように建っているので中に踏み入れるというには語弊があるかも。
迷路のような渡り廊下を歩いて行きながら、「所内で出た木の灰も集めて2種類に分類してみたので計5回分の試作を行おうと思うんです」「そうね、全ての種類の灰を混ぜたものからもアルカリを抽出してみましょうか。それで6回分にするというのはどう?」「いいですね。実際には灰の種類を指定することはできないかもしれませんから、有益なデータが採れそうです」「廃油は敢えて種類を分けず、公爵様が手配して下さった王都からの持ち込み分と公爵邸からのもの、そして所内で出たものすべて均一にして混ぜで使おうと思います。実際にはもっと品質が安定しない筈ですから実験の条件としては少し上質すぎるかもしれませんけどね」「そうね。私もそれがいいと思うわ」などと試作についてエリゼ様とファーマさんが意見を交換していく。
幾つかの角を曲がり移動して中庭へと到着する。
そこには、あの分離ろ過器が2台に増えて設置されていた。
それと、不思議な形の取っ手がついた大釜4つが乗った竈と水瓶が2つ。
おぉぉ。なんか謎の迫力。ただ置いてあるだけなのに緊張してきた。
すでに大釜2つには廃油が半分くらいの量まで入れられて弱めの火で温められ始めていた。
「設備と人員それと安全性も考慮して、一度に作るのは2種類、計3回に分けて試作を行います。大変申し訳ありませんが、こちらの安全防具を頭からすっぽりと被り、手袋も必ず着用して下さいできるだけ皮膚が出ないようにきちんと着用して下さい」
そういって、配られた安全防具は、これは…
「目出し帽…」
しかも鍔付きだよ。強盗かよ、とツッコミを入れたくなったけど、そりゃね。防毒マスクと防塵メガネだっけあのプラスチックでできた作業用のメガネを配る訳にはいかないんだろうけどさぁ。わはは。エリゼ様もケルヴィン殿下も躊躇いなく被ってる。すごい絵面だ。まぁ、私も被ってるんだけどね。ムーアさんもね。
そうそう。目出し帽が配られた時に、「試作が始まるなら戻るか」といってコトラからガーランド様になった時の所員の仰天具合と、恐る恐る目出し帽を差し出したファーマさんに「俺は現身ではないからいらん」と断った時の仰天具合、どちらも横で見ていて可哀想になるくらいの反応だった。
あんまり使い魔を遠隔で操作できる人っていないっぽいしね。判る。
そして、実際に作業する人達は目出し帽の上からメガネを掛けていた。
やっぱりメガネも掛けるんだ。度は入っていない単なるガラスらしい。鹼化して粘度が高くなってきたモノが跳ねて目に入ったりでもしたら失明間違いなしだもんね。見学中は私も気を付けよう。できるだけ離れておかないとね。
「それと、くれぐれも風下には行かないように。湯気や煙を吸い込むと喉の痛みの原因になります。お気を付けください」
研究所の中央付近に立っている見張り台らしき場所に設置されていた吹き流しを指さしながらファーマさんが注意する。なるほど。あれを見上げれば風向きが判るのね。
「それでは、”廃油と竈の灰から石鹸プロジェクト”開始よ!」
エリゼ様がそう号令を掛けると、水瓶に灰を投入して撹拌用の棒でぐるぐるとよく混ぜる。それが終わると、すぐに中の灰汁をろ過器に通した。
下の漏斗部分からあっという間に透明になったものが流れ出てくる。
「こんなにすぐに単なる灰からアルカリ液になるものなのでしょうか」
ムーアさんが作業を見つめながら疑問を口にする。そうだよね。なんとなく1時間とか1晩とか、ゆっくりと抽出するのを待つイメージだった。
「水に入れると即反応が開始するわ。そして放置しておくと今度は分解してしまうのよ。だからすぐに使わないと駄目なの」
エリゼ様が疑問を即解説してくれた。そうなんだ。知らなかった。
桶で受けられたアルカリ液(予想)になにやら試薬を使っていた。まさかリトマス試験紙みたいなものが存在してるのかと私が吃驚していると、
「あれね、こっちでピーコック草って呼ばれている草の色素なんだけどアルカリに触れると色が消えていく事が判ったのよ。
固形石鹸が作れるだけのアルカリだと完全に無色、そこまでいかなくてもアルカリと反応すると普段のエメラルドグリーンから少しずつ色が抜けていく感じになるの」
へー。PHどうやって調べているのかって思ったけど、そういうのも見つけてたんですね。すごいや。
「ちなみに。古代の石鹸作りでは舌で舐めてたらしいわよ」
私にだけ聞こえる小声でエリゼ様が教えてくれた。ひぇっ。それは痛そう。拷問並みに痛そうだ。
「試薬が見つかってなによりです」
ほっとして呟くと、ホントよね、とエリゼ様も一緒になって頷いていた。
「どちらも色は少し残りましたが、ちゃんとアルカリ液になっているようですよ、エリゼ様」
今回抽出したのは、公爵邸の焼却炉の灰とお風呂場の灰の2種類だ。
どちらかというとお風呂場の灰の方が色が消えているように見える。
「では、抽出が終わったら、すぐに大釜に移して火にかけてください。
アルカリ液も廃油も、固形石鹸を作成する時と同じ60度前後まで温めてから合わせましょう」
零さないように落ち着いて、でも迅速に。エリゼ様の指示通りに作業が進められる。
つんとする臭いが鼻につき始める。ハンカチを取り出して口元に当て作業を見守った。
ふつふつと鍋底から泡が上ってくるようになったところで、最初のクライマックスシーンですよ。
「すみません。非常に危険なので、一旦、中庭から移動して戴いてもよろしいでしょうか」
ファーマさんが申し訳なさそうに言いに来た。
やっぱりね。危ないし、大人数が傍でうろうろしてたら気が散るよね、うん。
私たちはエリゼ様に誘導されるまま、屋根付き渡り廊下まで移動した。
作業している中庭側の、一番近くに見える窓辺へ皆で鈴なりになって見守る。
火で熱されて熱くなっている大釜に2本の木で出来た棒が取り付けられていた。
どうやらあの不思議な形をした取っ手に丁度組み合う形に削りだされているらしい。それはズレることなく大人2人掛かりで持ち上げられ、中に入っていた熱した油はするするともう1つの大釜へと移されていった。
もう片方の大釜の中身も無事移し終えた時、そこにいた全員が詰めていた息を一気に吐き出した。
「こんなに遠くからなのに、すっごい緊張したな」
一人だけ目出し帽を付けていないガーランド様がそういった。なんかずるいけど、現身じゃないんだもん、要らないよねぇ。
「私もだ。何度見てもこの時は緊張してしまうな」
ケルヴィン殿下も同意していた。そっか。固形石鹸作りの見学はしたことあるよね。
「初めて見学に来た時は、もっとすごい臭いだったな。今まで嗅いだことのない獣臭もしたし」
ん? 獣臭??
「最初の頃は、肉の脂を精製して使ったのよ。たくさん採れる油がそれしか思いつかなくて。今はオリーブを育てているから大丈夫なの」
なんと。来る途中にあった森に見えたのはほとんどオリーブの樹なのだそうだ。一大産地だね。
「固形石鹸作る時に消石灰使うっていったでしょう。オリーブを育てる時も土に苦土石灰や消石灰を撒くのよ。なんだか不思議よね」
エリゼ様はそう笑って教えてくれた。




