40時限目
「ずっと馬車の中にいたから、外に出ると気持ちいいな」
その言葉に同意しつつ、んーっと声を出しながら背を伸ばす。
はぁ。固まりかけていた腰を伸ばすと気持ちいい。風が通ると気分までよくなった。
高台からの眺めは開けていてなかなかの見応えだ。この丘に登ってきたのも、わざわざこの景色を私たちに見せいからとエリゼ様たっての要求によるもので、下を見れば、太い街道がこの丘をぐるっと避けるように通っていた。
でもね、丘であって山じゃないからね。そんなに大変でもないし。
見渡す景色は、森や川はあるものの土地自体はなだらかな平原だった。
関東平野っぽいかなぁ。海が近いだけあって川幅も広く、山の稜線は遠くに見えるのみだ。
「りんたん、ようこそ我がゴードン公爵領へ。
あそこに見えるのが我がゴードン家が誇る”なんでも研究所”があるイリオの街よ。
遠くに光って見えるのは海で、港のあるサリエルの街があそこにはあるわ」
指し示されるままに視線で追う。なるほど。少し先には高い塀に囲まれた小さな街が確かに見えた。その塀の外側にも住居らしき建物が建っている。ちょっと不思議な構造だ。
塀の中にある建物はどれも屋根付き通路らしいもので繋がっていて、なんとも奇妙な街という印象を受ける。そして、そこかしこに区切られた中庭でなにやら湯気か煙か判らないものがもうもうと立ち上っていた。
あそこで石鹸やら塩を炊いているのかもしれない。
そして視線をずっと先、遠くの方を見遣ると、きらきらして見える水面が確認できた。しかし、もやっとした影は判るものの、どんな街なのかまではここからは判らなかった。
それにしても。えーっと、なんかこう、思っていたのと違う名前が聞こえた気がするんですけど。聞き間違いかな。
「エリゼ様、研究所の名前は、それが正式名称なんですか?」
皆の注目を浴びるその人は、腰に手をあてて自慢げに頷いてみせた。
「そうよ! 私が作ってみたいものをなんでも作ってみる、やってみる。”なんでも研究所”、略して”なん研”よ!」
ばばーんとね。堂々と説明されても、その微妙すぎるネーミングセンスに脱力しかない。もうちょっとこう、何とかならなかったのかな。
「本当はね、”大好きりんたん愛してる研究所”が良かったんだけど、皆に『そういう思いは秘めてこそですよ』って言われてね。秘めとくことにしたの」
瞼を閉じて朱に染まった頬に片手を当ててうっとりと言われても、どう反応するのが正しいのか。
「エリゼ様、全然秘められてないし、秘めるつもりもないですよね?」
「あら。それはあれかしら。秘めなくてもいいってことかしら。私の全力全開の想いを、受け止めてくれるの? りんたん♡」
すんませんでしたっ。無理ですっ。
ひぃっ、とばかりにコトラを抱きかかえてムーアさんを盾に取る。閉じていた瞼を開いてこちらを見つめるエリゼ様の瞳が、怖いほど光って泣きそうなほど怖かった。変に煽ったりしないよう気を付けよう。
「さぁ、もう少しで到着よ。これなら日が暮れる前に部屋でゆっくりできると思うわ」
その言葉を合図に、私たちは再び馬車の中に乗り込んだ。
「研究所っていうから、なんとなく3階建てとか大きい建物を想像してました」
目の前にある建物もその規模の大きさは誇れるものではあったが極一部、それもこれから私達がお世話になるカントリーハウスを除いてほとんどが平屋だ。
大きな建物というのも当てはまらないかもしれない。基本は小さな平屋の家屋のような単位で、それが屋根付き通路で繋がれている。その通路に区切られるように幾つかの中庭が存在しているようだった。
「ここね、少しずつやりたいことを増やす度に増築していったら迷路みたいになっちゃって。正直、私にもよく判らなくなっちゃったのよね」
てへっと笑ってるけど、所長が把握してないってどんだけだ。おい。
「物々しくてごめんなさいね。この街というか研究所しかない街なんだけど、取り扱っているものが危険物なことが多いので塀で囲っているのよ。この中には研究所員しか住んでいないわ」
塀を作ることにしたのは、ある日、研究員の子供が所内を探検して遊んでいるという事件があってせいらしい。以後、人の出入りについては厳重に管理するようになったそうだ。
その時は事故には繋がらなかったそうだが、強アルカリが煮立つ煙を吸うだけで子供なら重体にだってなるだろう。医療について充実しているとは言い難いこの世界においては死に至る可能性だって少なくない筈だ。
「子供じゃなくても、出来立てというか型に移したばかりの固まり切っていない石鹸を盗み出して使って身体中がかぶれて大変なことになった悪徳商人とか、煮炊き中に目を離した隙に盗もうとして釜の中身をぶちまけて全身に浴びた泥棒とか。
探検事件以外にも、いろいろあったのよ、いろいろね」
ほう、とエリゼ様はため息を吐いた。 それは怖い。でもエリゼ様、それどっちも泥棒では?
それにしても、盗まれることに対する警戒じゃなくて、所内で大きな事故を起こされない為の警戒っていうのもあるんだねぇ。
そして、結婚して家族を持つ場合は塀の外に一戸建てを持つことが取り決められ、そのご家庭向けの商店が少しずつ集まってきて、いつの間にやら今のように街がひと回り大きくなっていたそうだ。
「お疲れさまでした。ようこそおいで下さいました」
ようやく門番からの連絡が届いたのだろう。副所長だというショッチョさんとメイド頭のメイデンさんが建物から出迎えしに出てきて、
「まずはお部屋に案内しますね。お嬢様方におかれましては軽く身だしなみを整えたいでしょう」
そういって、この街の中で数少ない2階建ての建物へと先導してくれた。
階段を昇った先にある右手一番奥の部屋に招き入れられ、「ここを使って下さいね。身だしなみが整え終わったら、1階のリビングでお茶を用意しておりますので降りてきて下さい」と、私とメイさんを置いてメイデンさんが部屋から出て行った。
「りん様、荷解きは私が済ませておきますので、よろしければあちらの浴室でシャワーだけでもお使いになって軽く汗を流しては如何でしょう」
”ニトキ”ってなんだろう。説明きけばいいんだろうけど、なんか疲れちゃったし甘えちゃってもいいだろうか。
そして、申し出は嬉しいけれど身だしなみを整えるのにシャワーまで使っちゃっていいのだろうか。
「大丈夫ですよ。殿方たちも使われると思います。
馬車の中にいた私たちより騎士様たちはもっと汗と埃に塗れて大変な思いをされている筈でございますから」
なるほど。そういえば御者台にいたムーアさんも、単騎で馬車のすぐ横を並走していたデビットさんも、そのまま殿下たちと一緒にお茶を飲むわけにはいかないよね。
私はメイさんの言葉にようやく納得して、お礼をいってシャワールームへと向かった。
魔石に手を近づけると、温かな湯がさっと上から降り注いできた。
さすがに石鹸で頭を洗ってオイル付けたり色々してられないので、汗を流すだけにする。でも、顔だけは石鹸で洗っちゃおう。
そこに置いてあったバラの香りのする石鹸を手に取り、その滑らかな泡を堪能した。
──つい、全身隈なく洗ってしまった。
滑らかな泡の気持ちの良さに、我慢できなかった。なんという誘惑だ。
毎日お風呂に入って髪までゆっくり洗うのが当然だった、あちらの世界での生活を思い出すのは簡単だった。
顔だけだって思ってたのに、一カ所清潔にしたら他の部位の汚れを強く自覚してしまってどうにもならなかった。その流れで、ちゃっかり横にあったリンス剤というかレモングラス入りのお酢も使ってしまった。なんという自堕落さだ。自分にがっかりだ。
肩を落として浴室の入り口から部屋を覗くと、すでにメイさんの姿はなく、ベッドの上に新しい着替えが並べて準備されているだけだった。
メイさんを待たせているのでなければ、もう少しゆっくりしてもいい気がする。
私は気落ちした心を落ち着けようと、浴室に戻ってゆっくりと髪を乾かし始めた。
ぽんぽんと叩くようにタオルで水分を取り、木製の櫛で慎重に梳かして細かな三つ編みを沢山作っていく。
ぎゅっぎゅっと編む度に、タオルで取り切れなかった水分がぽたぽたと床に落ちていく。7本ほど不器用な三つ編みを作ったところで上からまたタオルで水分を吸い取っていく。
上から三つ編みを触って水分がかなり採れていることに満足した私は、着替えを取りに部屋に戻ることにした。
無心でこの作業をしていたので、この時点で「ちょっと身繕い」にしては時間が経ちすぎていたことがどうなるか、私には思いついていなかった。
「トントン。おい、りん。うわっ」
その一連の声が流れるように耳朶に届いた時には、私の部屋には殿下が立っていたのだ。
「なんだ、その頭は?!」
ぶわっはっはっ、と腹を抱えて大笑いする馬鹿殿下と後ろから「なにかあったんですか?」と走り込んできたムーアさんをちゃんと認識できた時には、枕やらクッションやら室内履きやら、手元にあった全ての物を投げつけた後だった。
「大変申し訳ありませんでした」
私に宛がわれた客室の扉の前。その廊下に土下座しているのが、この国の王太子様だという事実。
巻き込まれてムーアさんまで一緒になってしているのが、なんとも居た堪れない。
今はちゃんと用意して貰ったワンピースドレスに着替えているものの、なにしろ、先ほどの私は髪を乾かすまではと思ってちゃんとしたものを着てすらいなかったのだ。バスローブ1枚だ。なんということだ。
シャワー真っ最中だった前回よりは若干マシではあるものの、50歩100歩もいいところだ。
なんでノックと同時に部屋を開けるのか、そのまま勝手に入ってくるのか、入ってきた上に扉を全開にして人を笑い者にするのか。そのすべてが許せん。
この変態エロ王太子め、女性の敵すぎる。許せん。
どう八つ裂きにしてくれようかと悩んでいるところに、選りにも選って蛍光グリーン頭ことデビット・グエンがやってきたのだった。
「殿下、どうされたのですか。具合でも悪いのでしたら、今すぐ友木りんに治させましょう」
ムカッ。
デビットさんは私に土下座しているケルヴィン殿下の腕を強引に取り、早く立ち上がるように促していた。
「馬鹿止めろ、おい」とかケルヴィン殿下が止めているのにもまったく気が付かずに、治療をしようとしない私を一方的に責め続ける。
「おい、何をしている。早く殿下をお治ししないか」
怒鳴りつけるように言い募られて、説明しようにも言葉が出てこなかった。
エロ王太子の行動が私の魔法で治るなら苦労はしないっつーの。くそう。
頭の中では反論が渦巻くけれど、イライラが重なりすぎて言葉にうまく出来ない。むっきー。
「そこまでだ、デビット・グエン。りんから離れろ」
いつの間にか、ガーランド様が来て私からデビット・グエンを魔法で引き離してくれたのだった。
「え、あ。なんだと?!」
宙に縫い留められるように動けなくなったデビット・グエンは、その身体の自由をなんとか取り返そうと躍起になっていたけれど、そのうちケルヴィン殿下とムーアさんに助けを求めだした。
「な、何とかして下さい、殿下。む、ムーア・ロッド子爵、助けてっ」
ようやく立ち直ったケルヴィン殿下とムーアさんが、その足元でため息を吐きながら諭すように話し出した。
「デビット、先ほどの私は具合が悪かった訳ではない。
ちょっとこう…りんに、女性に対してだな、失礼な行動を起こしてしまったのを、詫びている最中だったのだ。その詫びをお前は台無しにしたんだ」
「話し合いをしている最中に、理由も聞かずに割って入るなどそれこそ不敬というものだ、デビット・グエン。りんさんにきちんと謝ってください」
部屋に閉じこもってやろうかと思ったけれど、それでは私の行動もお子様すぎるだろう。ぐっと睨みつけるようにしてデビット・グエンから顔を背けずにいることにする。
「…女性として失礼な行動。それはあれですか、むしろ殿下から受けるそれは栄誉と受け止めるべきでは?」
殴ろう。
そう思った時には、すでにガーランド様とムーアさん、それに、いつの間に合流したのかエリゼ様にまで、デビット・グエンは総攻撃を受けていた。




