4時限目
「おいしかった? 残さず食べたんだね、よかった」
機嫌よく毛繕いをする猫の様子に頬が緩む。
食べているところをゆっくり見ていたせいだろうか。落ち着いてみると前にここで一緒に暮らしていた時とは、なんだか様子が前と違っている気がしてきた。
まぁいい。そんなどうでもいい事を考えるよりも先にしないといけないことがある。
「じゃあ…、じゃあさ、タイガ。オマジナイしよっか」
毛繕いも終わって満足そうにベッドに自分の寝床を確保しようとしていた猫をそっと抱き上げた。
「あのね、光魔法って私が使うんじゃなくて、私が祈って起動して、タイガの魔力を使って発動するんだって。知ってた?
だからね、前回のもこれからするのも、私じゃなくて、タイガが自分で解呪するんだよ」
我ながら往生際が悪いのである。1秒でも遅くしようと思うなんて。セコすぎる。
ベッドの上に座ってタイガを膝に乗せる。久しぶりに腕の中にタイガがいる感触になんだか胸がきゅっとなった。すべすべのふわふわだ。タイガは温かいねぇ。
左腕で背中を支えて、右手でタイガの左腕を持った。
笑顔を作って、瞳を見つめた。
もしかしたら、タイガを抱っこできるのも、これで最後かも。
「一緒に心の中で唱えてね。
『いたいのいたいのとんでけー』」
効果があるとはいまだに信じられないけれど、その呪文を唱え終えて、タイガの頭をなでるのもこれで最後かなーって思った。
「タイガの呪い、これでちゃんと解けるといいね。
何度も戻っちゃったら困るよねぇ」
前回は、解呪の効果が出るまで半日位掛かった気がする。
今回、どれくらいの時間が掛かるか判らないけれど、明日学校に行っている間にタイガがいなくなったら寂しいな、と思った。
でも、実際にタイガがいなくなる瞬間を見送るのも嫌だとも思っている。
「まだお外暗いね。もうちょっと寝ようか、タイガ。おやすみ」
もうお布団の中には入れないけどね。目が覚めたらイケメン皇太子さまと添い寝してるとか、どこの少年漫画のラッキースケベよ、それ。
もう夏が近いんだなーと思いつつ、まだぬくもりの残る布団に潜り込む。
陽が昇る前に起きて仕事をする必要はなくなったし、始業は9時半からなので(お貴族のご令嬢様は早起きできない&朝の準備に時間が掛かるんだってさ)、それほど早起きをする必要はなくなった。
でも、学園までの道のりは、帰りが下り坂でちょっと楽な気がする反面、行きは軽い上り坂になっているので歩くと1時間近く掛かるので、それほどゆっくりできる訳でもなかった。
まだ道に迷う可能性もあるしね。
ほとんど大きな通りだけでたどり着けるけれど、曲がるべきところで曲がりそこなったら危険だ。タウンハウスが連なっている貴族エリアはどこも変わり映えがなくて、りんにはまるで迷路のようだ。
不安はたくさんあるけれど、一番寂しいと思った日にタイガが来てくれたのは天恵だったかもしれない。まぁ、タイガ的には災難だろうけどさ。
呪い、完全に解呪できているといいね…。
私は、布団の上にある温かな重さに安心して、ゆっくりと意識を手放した。
『おきて、わたしのりんたん。おきて、わたしのりんt…』 バシッ
「…朝か」
耳障りな声に起こされる。便利なんだけどさぁ。はぁ。
エリゼ様から入学祝いとして貰ったのは、目覚まし時計だった。
働いていた頃はタイガがいたから、ちょっと早めではあるものの毎朝同じ時間に起こされていたので遅刻することは考えないで済んだけれど、一人暮らしになった今、たしかにちょっと心配だったので喜んで受け取ったのだが。
『これがあれば、お寝坊して遅刻するなんてことはしないですみましてよ』
だからって、こんな声が入ってるとか……さすがに予想してなかった。
この声、普通のベルの音とかに入れ替えられないものだろうか。
やるせない気分で、それが動く様を見つめる。
ドーム状のガラスでできたそれの中で、くるくると金色に光る金属のボールが渦を巻く細い筒の中を転がり落ちていく。
とてもゆっくりと動くそれは30層もあって、一番下までくると、かつんと軽い音を立ててバネが外れて一番上までボールは一気に運ばれる。そのボールを運ぶ小さなエレベーターのような箱に、ガラスの中の液体がかき混ぜられ、中に仕込んであったキラキラ光る小さくて薄い金属片が舞い踊る様がとても美しい。
そうしてまたゆっくりと時間を掛けてくるくるとそれは渦の中を落ちていく。その繰り返す様子はとても美しい。
ガラスの底辺部には48に区切られて目盛がついていて1個置きに数字が24まで割り振られている。これが時計の文字盤で、よく見るとその時間だけほんのりと光っている。
目覚ましは、起きたい時間の文字盤のところを軽く押し込むとセット完了だ。切る時はドームの天辺にある金属部分を触ると切れる。
金色のボールがくるくると落ちていく様は見ていて飽きないし、30分ごとにキラキラ輝くし。なんというか芸が細かすぎるというか。なんというピタッとくるスイッチなアレだろうか。プラス乙女心をくすぐる圧倒的スノードーム感。これが小さな掌に収まるサイズになっているとか。
で。そこに入っているアラームは、あれなのがねぇ。なんという圧倒的残念感。
ほんと、あのお嬢様の転生チートの使い方には異議ありだよ。はぁ。
ベッドから起き上がり、そこに見知った姿を見つけて笑みが浮かぶ。
「おはよ、タイガ」
布団の上で丸くなって寝ている姿に声を掛ける。
カーテンの隙間から細く差し込む朝日を受けて、青と黒のブチ模様という元の世界では絶対に見ない被毛が輝いていた。
声を掛けても身を起こしたりはしなかったけれど、身体にくるりと巻き付いていた尻尾の先がピコピコと動いて「ちゃんと聞こえてるからね」と伝えてくる。かわいい。でも
「まだ、解呪できてなかったんだね」
オマジナイが4時過ぎだったから、人に戻れるのはだいたい学校から帰ってきた辺りかな。
「人に戻れたら、……早く、またアーリエルに帰らないとね」
目を閉じたままのタイガの頭を撫でると、その手に、温かな毛玉がすりすりと頬を擦り寄せてきた。可愛すぎかよ。
いつまでだって撫でていたいけれどお金を貰って学校にいく契約をしたのは私だ。
遅刻する訳にもいかない。
「ごはん食べて、学校いかなくちゃね」
だから気合を入れるつもりでそう小さく呟いてベッドから降りた。
その足に、するりと小さな姿が纏わりつく。
「にゃー」
「起こさないように気を付けたつもりだったんだけど、起こしちゃったね。ごめんね」
ピンと上に伸びた尻尾が付いて来いといっているようだった。
その足は、まっすぐ台所に向かっていた。
「…まだ食べるつもりだね?」
笑って、その後ろを追った。
「本当は、お弁当用だったんだからね」
ちょっと勿体つけて、チーズを切り分けた。さすがにまたオートミールなのは可哀想なので奮発してあげることにする。
小鍋に水を沸かしショートパスタを茹でる。軟らかくなってきたら茹で汁をちょっとだけ残して捨てて、その鍋にミルクを注ぎ入れる。ふつふつしてきたらチーズも入れて中火で煮る。チーズが溶けて一体化したら出来上がりだ。
火を入れすぎて沸騰させちゃうと、チーズから油が分離して美味しくなくなるから注意が必要だ。
「冷めてチーズが固まる前に召し上がれ」
もう猫舌に配慮するのは止めた。でも身体はちいさいので塩分は控えることにして取り分けた私のお皿にだけ、塩と胡椒、粉末パプリカをふって味を調整した。
「タイガの中身というか本体は、本当は猫じゃなくて人間なんだから塩分もチョコレートとかも食べても大丈夫かもしれないけどね。一応は配慮しないとね」
本当は人間用のチーズを食べさせるだけで猫の身体には塩分過多なのかもしれないけど常食にしている訳じゃないしセーフでしょ。
朝から食べるにはちょっと重かったけど、1人分作ってそれを2人で分けて食べる。
仲良しっぽくて嬉しいし、楽しい。
というか、ごはん作るのも、自分の為だけより、一緒に食べてくれる人がいる方が嬉しいし、楽しいんだねぇ。
本当の独り暮らしを1か月してみたからこその実感だ。
「たぶん、これまで私がタイガの為に作ったご飯の中で一番ゴージャスだね、今日の朝食」
ガツガツと勢いよく食べる後頭部に苦笑する。
下手するとミルクなし蜂蜜もなしで作ったオートミールの時もあったもんね。
まぁね、今朝は特別だよね。最後かもしれないんだし。
そう思ったら、ついさっきまでとても美味しかったご飯から、美味しさがちょっと減った気がした。
歯を磨いて、念のためにタイガを寝室から締め出してから着替えることにした。
制服に袖を通しながら、そういえば学校にいってるんだってタイガに伝えていなかったことに気が付いた。
「タイガに話してなかったんだけど、昨日からね、私、学生になったんだ」
猫を前に正座して、タイガが帰ってからの1か月間にあったことを説明する。
光魔法が暴発したらとても危険なこと、そうならない為にも正しい魔法の知識と対処法を知るために学園に通うことになったこと、
「でさ、学校に通ったら働けなくなるから日当も寄こせって請求したらさ吃驚満額で通ったんだけどさぁ、学園を卒業したら王立の魔法院に勤めなくちゃいけなくなっちゃったんだってさぁ。いやぁ、我ながら迂闊だよねぇ。失敗したよ」
えへへと笑う。とほほの方が合ってたかな。
お弁当は、今日もチーズサンドとピクルスだ。昨日は家で食べたから同じメニューで十分だと判断した。…嘘だ。多分明日もチーズサンドとピクルスを持っていくと思う。身の丈にあった生活。それが大切だ。
問題は、
「タイガのご飯にも、チーズサンド用意した方がいいかなぁ」
この子の呪いがいつ解けるか、なのだ。猫なら帰ってくるまで放置もありだろう。元々1日2食だったんだし。
でも解呪が成功して、皇太子に戻ったら? お腹空いちゃうんじゃないだろうか。
それとも、人間に戻ったら即ここから出て行ってしまうだろうか。
「…そうだね。人間に戻ったら、もうここにいる必要ないもんねぇ」
皇太子という地位にいる人がどんな仕事をしなくちゃいけないのか、普段なにをしているのか知らないけれど、前回、アーリエルから迎えにきた大臣さまは、「仕事が溜まって大変なんですよ」って泣いてた。この国の王太子をみてると、とてもお仕事が詰まっているようには思えなかったけど、国が違えばいろいろと違うんだろう。きっとそうだ。
「まぁいいか。人間に戻れたなら、自分の面倒は自分でみれるか。
他国の皇太子様だもんね。貧乏な平民からご飯の心配をされる必要ないよね」
つい、自分の飼い猫というか友達というか、家族目線で見ちゃった。なんて恐れ多い。
「何時に帰れるかわかんないんだけど、遅くても暗くなる前には帰ってくるからね。
でも…、もし解呪成功してたらさ、私が学校から帰ってくるまで待ってなくても、いいからね」
そう頭を撫でながら声を掛けて、私は家を出た。