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「りんたん、素敵よ。最高だわ!」

 私はうろ覚えでしかない記憶をなんとか披露できてホッとした。

 作業についての細かい点はあまり思い出せなかったというか最初から持っていなかったので、実際にはエリゼ様とその精鋭研究員様たちに丸投げになっちゃうんだけど、最初の取っ掛かり部分にはなれたと思う。それだけでも嬉しい。

「なんて可愛いの! 葡萄石色のドレスを着た妖精。光の妖精は、りんたんだったのね。りんたんが光の妖精…はぅん」

 おぉーい、そっちかよっ。くそう。なんか勘違いしちゃって恥ずかしいやら、いきなり妖精扱いされて恥ずかしいやら。ほんと、意味わからんぞー。

 今、私たちがいるのはゴードン公爵邸のリビングだ。広い。とにかく広い。エリゼ様の私室を表現した言葉と全く一緒な気がするけど、それしかいいようがないんだから仕方がない。教室より広いんじゃないかと思う。

 オフホワイトに金の模様が入った壁紙、梔子色をしたダマスク模様の重厚なカーテン、天井を照らす豪奢なシャンデリア(なんと吃驚。ちっちゃなランプが一杯集まって出来てた!)、大理石に瀟洒な彫刻が施されたマントルピースと暖炉、その前に敷かれた柔らかなシルクのモロッカンラグ、大理石の床、ふかふかのソファーとオットマンのセット。

 豪奢で歴史を感じさせる家具のひとつひとつまでが完璧に人が生活する場として調和していた。

 博物館クラスの物が並んでいても、ここはエリゼ様のご家族が普通に暮らしている家なんだ。公爵家が普通っていうのもあれだけど。

 着替え終わった私は、エリゼ様に「夕食前に何か飲みながらお父様の帰りを待ちましょう」と言われて、ここに連れられてきたのだ。

 そうしてリビングで待っていたのは、ケルヴィン殿下とムーアさんとコトラと、エリゼ様のお母様であるアマリリス様、そして、ゴードン公爵家嫡男攻略対象ウィリアム君(5歳)だった。その手にはハリセンが握られている。なんということだ。

「ねえさまを悪の変態に引きずり込んだのはお前だな。成敗してくれる、覚悟しろ!」

 部屋に入った途端、ハリセンでぱんぱん叩かれて吃驚したよ。まったく痛くなかったけど。

 アマリリス様がその後ろでおろおろしている間に、音もなく後ろを取った家令さんに一瞬で抱き上げられて連れ去られていった。なんということだ。

「ごめんなさいね。子供とはいえ、公爵家の嫡男として礼儀がなってなくて。マナーの先生にもっと厳しく躾けるように伝えておくわ」

 そうアマリリス様におっとりと謝られた。輝くばかりの金の髪は美しく結い上げられ、幾筋かそこから落とされた金の雫のような髪によって美しい卵型の貌が縁どられている。金茶色の瞳は濃い睫毛に縁どられて優し気に煙り、優美な弧を描く唇が艶やかな花弁を思わせた。瞳の色以外は、エリゼ様とそっくりだ。

 その優美を人の形にしたような方は、ふんわりと笑って「友木りんたん、ね。ようやくお会いできてうれしいわ。エリゼをよろしくね」そう言いながら、私に果実水入りのグラスを手渡してくれたのだった。

 こちらこそよろしくおねがいします、と頭を下げてグラスの中身をぶちまけそうになりなったのには焦ったけれど、家令さんのフォローにより危機は回避できたし、受け取った果実水で口を潤して、そうしてやっと、やっとここまで歩いてくる間になんとかして忘れる前に伝えようとしていたことを皆に説明したのに。説明したところだったのに!

「そんな話してなかったですよね? 私は廃油石鹸の工期を短くする可能性の話をしているんですけどっ?!」

 そうなのだ。理科の実験で廃油石鹸を作った時は2か月ほど放置してアルカリが自然に加水分解されるのを待って使ったけれど、あんまり時間が掛かって忘れてたよと騒ぐ私たちに向かって先生が、「2週間程度で固まっただけの状態でおろし金で細かく下ろしたものに塩水を入れて撹拌して放置、分離した水分のみの排水を2回繰り返すと苛性ソーダが抜けるからすぐ使えるぞ。ただし固形にならなくなるけどな」と笑い話として教えてくれたのだ。

「つまり、元々ソフトタイプで使おうとしている家事用は、食塩水での洗浄という工程を入れるだけで即商品にできるかもしれない、ということか。すごいな、りん」

 ケルヴィン殿下のまとめにコクコクと肯く。

「はい。そして固まらないけど、セスキを降り掛けて乾燥させれば粉せっけんにはできるっていう話だったと思うのですが、残念ながらセスキがなにかまでは覚えていないんですよね、私」

 セスキって掃除とか洗濯に使ってるのは知ってるんだけどね。使ったことないし、それ以上の情報は持ってないのだ。

 汚れの種類により重曹と使い分けるという事は知ってるけど、私のセスキに関する知識はそこまでなんだよねぇ。はぁ。

「セスキ…炭酸ナトリウム、炭酸塩ね。残念ながら我が王国では採掘されないのよね」

 おぉ! さすがですね、エリゼ様。私よりずっと知識量が多い。でもそっか。採掘されてないなら駄目かぁ。粉せっけんにできたら、運ぶの楽になりそうなのになー。残念だ。

「炭酸塩なら、アーリエル皇国で採掘しているな」

「ガーランド様! 本当ですか?」

「なんで俺がここで嘘吐くんだよ。意味ないだろ?」

 思わず聞いただけなのに、メチャクチャ凄まれた。うわん。

「りんが欲しいというなら輸出に同意してやらなくもない」

 おぉ! さすが大国の皇太子様だ。輸出に関する権限も裁定できるんだ。ガーランド様すごい。

「しかし、一つ条件がある」

「りんを嫁に寄こせというなら了承できない。粉せっけんにする事にそこまでの価値はない」

 ガーランド様の言葉に、即応でケルヴィン殿下が言い切った。

 それを聞いて、ふむ、と少しだけ考えたガーランド様は「駄目か」とため息交じりに呟いた。

「りんを提示するというのは考えてなかったな。こちらの条件としては、”粉せっけんの詳しい製法”を教えて欲しい、これだけだ」

 駄目かって呟いたくせに。まぁいいや、そんなどうでもいいことは横においといて。結構エゲツナイこと要求しますね、ガーランド様。

 輸出枠の確保とか安く提供しろじゃないんだ。

「それは、アーリエル皇国での生産を許可しろ、ということか」

 今度は、ふむ、とケルヴィン殿下が考え込んでしまった。そりゃそうだ。

 石鹸工場は、エリゼ様というよりゴードン公爵家の事業だ。その扱いについてケルヴィン殿下の一存でどうこうできるものでもないだろう。

「それについての返答は、後程、私が再び登城して陛下の意向を確認してからでよろしいでしょうか、アーリエル皇国ガーランド皇太子殿下?」

 朗々たる声が、そこに横入りしてきた。うおぅ。美丈夫とはこの人の事をいうのか。

 がっしりとした体躯に、シンプルながら仕立ての良さが窺えるダブルブレストをさりげなく着こなしている。焦げ茶色の艶のある髪と金色掛かった琥珀色の瞳は、さきほど家令に抱えられて退場していったウィリアム君にそっくりだ。

「バーナード・ゴードンです。貴女が、エリゼのりんたんですか」

 がっしりと大きな手で包み込まれるように手を取られた。

 しかし…。公爵様にまで『りんたん』と呼ばれるとか。なんということだ。

「…友木りんです。エリゼリア様には大変お世話になっております。どうぞ、りんとお呼びください」

 手を取られたままなので、子供カーテシーの更に簡易版をとる。片手にグラスも持ってるから不安定極まりない。

「それでは少し失礼して着替えてくる。戻ってきたら食事にしましょう」

 そういって、美丈夫なお父様はリビングを後にした。


 未知の領域である沢山のカトラリーを駆使しなければならないテーブルマナーを覚悟して足を踏み入れた晩餐室には、手皿とお箸が並んで私を待っていた。あ、殿下達用にはちゃんとカトラリーと皿が用意されていたよ。

「いつか、りんたんに使ってもらおうと思って用意してたのよ! 夢にまで見たその日がついにやってきたのね!」

 嬉しそうにくねくねしている娘の姿を、優しく見守る父と母、そして暖かな目をしたメイドさん達一同。そうか、お父さんもお母さんも使用人さん達も全員それでいいんだね。

 ちょっと遠い目になったけど、まぁいいや。

 皆のところには前菜として、私のところにはお箸で取りやすいように小さな一口大にされたそれが美しく盛りつけられた先付けとして配膳された。

「…懐石っぽい」

 食べたことないけどな!

「ほう、綺麗だな。それはあちらの食事を模倣しているのか」

 ケルヴィン殿下が興味津々といった態で私の前の器を覗き込んだ。マナー違反すぎるでしょ、王太子殿下ってば。

「りんとの食事で、このような美しい盛りつけを見たことはないぞ」

 こら、黙れ。余計なことは言うな、猫皇太子め。くっ。中学までの知識しかない貧乏人に無理を言わないで欲しい。

 薄紫色した生湯葉、新鮮な鱒の冷燻、鴨肉の山椒炊き、枝豆餡の寒天寄せ。

 ちなみにそれぞれの色は、前から順に薄紫、チェリーピンク、群青色、ワインレッドである。なので、素材については推測の域を出ない。味と香り、舌触りは同じっぽいんだけど、味って色彩に引っ張られる事って多いよね。うん。

 それらは美しい飾り切りが施され、舌だけではなく目でも味わえるよう一つのお皿の中で美しい調和で盛りつけられていた。どことなく、それは紫陽花を思わせる。

「そんな木でできた棒きれ2本でよく摘まみ上げられるな」

 ケルヴィン殿下とムーアさん、そしてガーランド様が口々に驚嘆していた。

「私からすれば、ナイフとフォークでこれらが食べられる方が驚嘆に値するんですけど」

 箸で摘まめる幸せよ。フォークとスプーンで食べるのにもかなり慣れたけど、やっぱりお箸だと落ち着くね。うん。口に入れた時に唇に感じる木の温かさと柔らかさにほっとするんだと思った。

 しかも、この味。

「どうかしら。私の記憶を基に、日本の味を意識して作ってもらったのよ」

 エリゼ様と部屋の横に立っている料理長の視線が期待と不安に満ちてキラキラしてみえる。

「はい。とても、懐かしい味がします。おいしいです」

 お弁当の時も感じたけれど。この料理には、エリゼ様と料理長、そしてここにいる皆からの好意が詰まっている気がした。それだけで胸がぎゅっとなるようだ。

「よかった。りんたんが美味しいって言ってくれて嬉しいわ。

 ありがとう、皆が協力してくれたお陰よ」

 エリゼ様のその言葉に、この後の食事会の続きはその場にいた使用人たちにとってもより気合の入ったものになった気がした。

 そこここから「美味しい」の言葉が飛び交い、材料を手に入れる為の冒険譚やこの味に辿り着くまでの試行錯誤の繰り返しが笑い話として披露される。それはこの屋敷に勤めるすべての者たちへの賛歌だった。

「初めて食べたものばかりだったがどれも美しくて美味しく食べた。ゴードン公爵、この楽しい時間に感謝する」そうガーランド様は感謝を伝え、

「美味しかった。最後のひと口まで全部興味深いものばかりだった。ありがとう」ケルヴィン殿下が満足そうにお礼を口にして食事会は終わった。


「あちらで珈琲でもどうぞ」そうアマリリス様に促されてリビングに戻る。

 おぉ! こっちにも珈琲あるんだ。初めてだ。紅茶しかないんだと思ってた。

「うふふ。珈琲っていっても、タンポポ珈琲だけどね」

 エリゼ様が内緒話のようにこっそりと教えてくれる。それ、名前だけは知ってる。根っこ使うんだっけ?

「でも味はなかなかよ。カフェインレスだから子供でも平気なのよ」

「なら、りんでも安心して飲めるな」

 ケルヴィン殿下が楽しそうに茶々を入れてくる。むっきー。

「ケルヴィン殿下も、ミルクと砂糖たっぷり使うんじゃないですか?」

 私はミルクだけあればいいですけどねー。だがブラック、お前は駄目だ。

「りんたんは、珈琲も知っているのだな。先ほどの石鹸に関する知識といい、本当にエリゼとりんたんは元は同じ世界で暮らしていたのだな」

 感慨深そうに、ゴードン公爵が珈琲を口に運びながらぽつりと零した。

「そうね。エリゼがちゃんと喋れるようになったのは3歳だったかしら。その日のうちに前世について話し出して。うふふ。『りんたんを守りたいの』って。屋敷の者はみんな夢の世界の、夢のお友達のことだと思ったものね」

 同じく、手にしたカップの中の珈琲を見つめながら、アマリリス様が続ける。

 エリゼ様…、貴女のせいで私はお二人からまで『りんたん』呼ばわりされちゃってるじゃないですか! どうしてくれるんですかっ。

 それにしても、エリゼ様17歳だから14年か。夢の中の世界のことだと思われていた時から、どれくらい掛かって今の地位を築いたんだろう。どれだけの事をやってきたかは少しは知っているけど、信用して貰えるようになるまではきっとこれまで私が考えていたよりもっと大変だったのかも。

『浪費した時間で容易く人の命は消えていくわ』

 あの言葉の重みが更にずどんと私にも圧し掛かって来るようだった。


「それで、りんたんに聞きたいのだ。廃油石鹸、それには本当に流行り病を防ぐ効果があるのだろうか」

 考えに耽っていた所に、力強い声が届いた。そういえば、エリゼ様のお父さんが廃油石鹸について聞きたいっていってたっけ。

「私は、あちらの世界で一度ですが作ったことがあります。出来上がった廃油石鹸は自分で使って、ちゃんと汚れが落ちて石鹸として使えることを確認しています」

 それは大丈夫。うん。自信ある。結構ちゃんとした石鹸だった。

「汚れた油と竈の灰を集めて作ったものに、衛生面の向上を期待できる気がしないと王宮でも不審に思う者が多くてね」

 それは当然だよね。ケルヴィン殿下もムーアさんも同じこと言ってたし。私だって使ってみるまでは信じてなかったんだから。

「では、一度作ってみましょう。バケツ1杯分程度なら今からこの屋敷の厨房から出た灰を使って灰汁を仕込めば明日、実験的に作ることはできる筈ですわ」

 にっこり笑ってエリゼ様が言った。

 その言葉に、すっと公爵様の目が眇められた。

「しかし、石鹸が使えるようになるには最低でも2か月は必要ではなかったか?」

「りんたんのいう食塩水による塩析。これを使えば、すぐに確認できる筈ですわ。今夜、灰汁を仕込んで、明日、廃油と混ぜて、後日研究室に持ち込んで塩析によるアルカリの除去を行いましょう。多分、その場で実際に試せるものができると思いますわ」

 エリゼ様ったら自信満々ですね。塩析ってなんだろ。いつの間に私がそんなことを言ったことになってるんだろう?

「エリゼ。”エンセキ”とはなんだ?」

 うんうん、私も知りたい。

「食塩水を媒体にして行う分離・精製の方法ですわ。通常、石鹸は寝かせることで鹼化の際に残ったアルカリを自然に分解させていくのですが、これを強引に行うのです」

「石鹸として使うのに不必要な成分を洗い流すことができる、という、先ほどりんがいっていたものだな?」

 ケルヴィン殿下が平易な言葉に直す。なるほど、食塩水使って洗うって私がいってた工程の名前が塩析なのね。

「そうよ。りんたんが教えてくれた、あの工程よ」

 エリゼ様が頷く。

「なるほど。時間経過を待たずに使えるのも利点か」

 公爵様がうむ、と唸る。

「では今すぐ試作を開始してくれ、エリゼ。頼んだぞ」

 すっと、美しいカーテシーでそれを受けたエリゼ様は、そのまま横に立っていた侍女たちに頷いてみせると私に「りんたん、また後でね」そう声を掛けてリビングから出て行った。


「さて。先ほどの炭酸塩の輸入と廃油石鹸の作り方がどう関係するのか、廃油石鹸に炭酸塩が必要になる理由を詳しく私に説明してくれないか? なぁ、りんたん」

 やっぱり。エリゼ様が出てっちゃったからには、私が説明役を引き受けるしかないんだよね。はぁ。

 それにしても、公爵様まで『りんたん』呼ばわりか。訂正しても直らないとか。ホント、親子だなぁ。

「長く掛かりそうですから、次は紅茶でも淹れましょう」

 そうアマリリス様が言ってくれたけど、私は紅茶一杯では足りなくなりそうだと覚悟した。今夜はこれから長くなりそうだ。

 そして、学園に通うようになってから初めて迎えるこの週末が、予定していた月の灯り亭で過ごす充実した食堂下働き修業とは全く違ったものになりそうだと諦めてため息を吐くしかなかった。

「廃油石鹸の作り方は普通の固形石鹸と同じです。

 固形石鹸は保存も運搬も取り扱いも楽ですが、固形化するのに必要な強アルカリを作るのは材料を集めるのも、抽出する作業も過酷で、とても大変です。

 そこで、あえて固形化に拘らないことにしようと考えました。家事に使うのなら固形化していない方が使いやすいかもしれないですし、安価に提供できるかもしれないという考えの下、クリーム状のソフトタイプのままでもいいではないかと発想を転換しました。

 固形化を目指さず、抽出の簡単な弱めのアルカリで鹼化できる柔らかい石鹸を作ろうというのが今回の廃油石鹸の主旨です」

 弱めのアルカリっていったけど、PH12以上は必要なので十分すぎるほど強いアルカリなんだけど。まぁね、そこは重要じゃないからいいか。

「うむ。そこまでは今日の午後、エリゼから受けた報告のままだな」

 ですよねー。うんうん。ここからが説明が難しいとこなんだよね。なにしろ実践が伴ってないからね、私に。

「エリゼ様と別れてから気になったのです。なぜケルヴィン殿下が『流行り病が蔓延る季節までに間に合わせたい』と言っていたのか」

 私の言葉に、じっと大人しく耳を澄ませていただけだったケルヴィン殿下が顔を上げる。

「今は初夏です。もうすぐ食中毒が蔓延る夏を向かえるところです。なのになぜ冬に向かって準備を始めるのか。するとエリゼ様が『今からでは夏には間に合わない』と教えてくれました」

 上がっていたケルヴィン殿下の顔が再び落ちる。その視線の先には手から零れ落ちて行った人の命が見えているのかもしれない。救えなかった、届かなかったという無力感。 

「先ほど、エリゼ様は自信ありげにすぐに試せるといっていましたが、私が先ほど口にした製法は、雑談の中で教師から教えて貰っただけの雑学にすぎません。

 廃油石鹸の様に、自分で作った訳ではないのです。それでも、試してみる価値はあると思っています」

 そう長々と前置きを話し終えると、私は食塩水を使ったアルカリの除去方法と、そうして出来上がったクリーム状の石鹸に、炭酸塩を振りかけて粉せっけんにできるかもしれないという話を公爵様に説明した。

「なるほどな。それで炭酸塩の輸入、か」

 粉せっけんにする必要はないと思わなくもないけれど、実際には中に水分が残っているとその水分が、石鹸が劣化する原因になる。手作り石鹸には消費期限というものがあるのだ。

 実際に、粉にすることで軽くなるし運搬も楽になるだろう。いい事づくめだ。

「それで。ガーランド様は、その廃油石鹸の工法を提供すれば炭酸塩の輸出について口を利いてくださるということでしょうか?」

 公爵様が話を振ると、ガーランド様はふらりと立ち上がってケルヴィン殿下の前で立ち止まった。

「…私のアーリエル皇国は、広い。そして、そこには貧しい土地も、まだ整備が整っていない地域も多い。そういったところでは衛生面で不備が多く、流行り病や食中毒で命を落とす者も、ラノーラ王国と同じように多いのだ」

 その言葉に、再びケルヴィン殿下が顔を上げる。二人が見つめ合い、お互いが、そこに同じ痛みを見つけ合った。

「廃油石鹸、それも粉状のものを皇国内で製造流通できれば、どれだけの民草を救えるだろう。どうか、我が皇国にもその手段を教えてくれないだろうか」

 真摯な瞳で、ガーランド様はケルヴィン殿下とゴードン公爵を見つめていた。



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