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29時限目

 


「ごめんなさいね、りんたん。私が遅刻したばっかりにぃぃいぃぃっ」

 カフェテラスに足を踏み入れた途端、その影は突進してきた。

 速すぎて避けられんかった。首元に抱き着かれぎゅうぎゅうに締め付けられて息が止まる。

「っく。あのっ、…ぐえっ」

 死ぬ。気が、遠くなって、いくぅ…がくり。

「エリゼ。りんが死ぬ前に離してやれ」 

 ケルヴィン殿下のその言葉で、ようやくエリゼ様の腕から力が緩まった。

 息ができる。死なずにすんだよ。げほげほ。

「あぁっ。りんたんが…りんたんに、なんてことを!」

 いや、下手人はエリゼ様ですからね? なに他に真犯人がみたいなこと言ってるんですか。

「こことこことこことこことここ。あ、こんなとこにまで。なんてことでしょう。

 こんなに沢山あいつ等の魔力の痕跡が残っているなんて。

 りんたんを苛めたのね。絶対に許さないんだから、覚えておきなさいよ」

 ゴゴゴゴゴ…という文字が背中に見えそうな勢いで、エリゼ様が怒っていた。

「ムーア様、貴方様ともあろうお方が、りんたんを守り切れないなんて。見損ないましたわ」

「えぇっ?! 全然気が付きませんでした。申し訳ありません。

 でも、一体どこでそんなことが」

 エリゼ様に責められて、ムーアさんが真っ青になって焦っていた。

 ん? なんのことだろう。足跡事件はすでに解決済なんだけど…あ。

「あぁ、更衣室で着替え中にちょっと。痛くもないし大丈夫でしたよ。

 でもやっぱりあれって魔法だったんですねぇ。千切った消しゴムかなにか投げてるのかと思ったんですけど何も落ちていないし。変だなーって思ってたんです」

 更衣室でのあれか。足跡事件のインパクトで記憶から消去済だったわ。

「ごめんなさいね、りんたん。午後のマナーの授業までに戻れば大丈夫だなんて思わなければ良かったわ」

 しょんぼりしていう姿はいつもの完璧美人というより少しだけ幼くみえて可愛く見えた。

 いいなぁ。こんだけの美形に生まれるのって、どんな気持ちなんだろうな。勝ち組もいいところすぎだよね。公爵家って臣下の中で一番上というか王族扱いだっていうし。地位も名誉も全部持ってるって、転生してなくてもチート並みのスペックだもんなぁ。

 そういえば、エリゼ様ってばなんで午前中いなかったんだろ。公爵領のお仕事とかいう話だったから内緒かな。

「そういえば、あちらは恙なく終わったのか? あいつゴネたろ」

 むむん。ケルヴィン殿下め。指示語だらけの内緒の話なんかわざわざ他人の前でしないで欲しいものだよね。仲良しアピールなんだろうけど、気になっちゃうじゃないかっ。

「うふふ。ゴネても知らないわよ。私のりんたんに嫌がらせする方が悪いのよ」

 ん? なんで私の名前が出るんだろう。

「領地の運営だって上手く回せない癖に、私のりんたんに嫌がらせなんかするから悪いのよ。役立たずの領主なんて早めに代替わりさせた方が領民のためだわ」

 前半と後半には完全同意しますが、中盤になにか意味不明な一文が混ざっているみたいなんですけど。どういうことだってばよ。

 その時、カフェテラスのメイドさん達が頼んでおいたランチメニューを持ってきてくれた。

 前菜に生ハムのマリネサラダ、主菜(肉か魚か選べる。今日はステーキパイかスズキのポワレ)、パンかマッシュポテト、デザートにチーズアイスクリームが付くランチコース。私はステーキパイってどんなものか食べてみたかったけど食べ切れる自信がまったくなかったのでスズキのポワレにした。といいつつポワレってどんな調理法なのかも判んないんだけど。

 果たして出てきたのは、「…焼き魚」私のその呟きにエリゼ様が微笑んで教えてくれた。

「単に焼いた訳じゃないのよ。ポワレはフライパンで焼き上げる途中に、少しだけフュメを使って蒸し焼きにするの。だから単に焼いただけのものより身がふっくらしてるでしょう?」

「”ふゅめっ”てなんですか?」

「魚で取った出汁よ。ちなみにフォンは子牛の出汁ね」

 そうなんだ。なんとなくフランス料理っぽい。昨日、ムーアさんが作ってくれたのは完全にイタリア料理だったし、目の前でケルヴィン殿下とムーアさんが食べているステーキパイに至ってはアメリカの料理っぽい気がする。なんというか圧倒的ジャンク感だ。

 ステーキ肉を角切りにして作ったビーフシチューのパイ包み焼きとでもいうのだろうか。これ1つでお腹いっぱいになるだろうなーってメニューだった。

 それを器用に口に運びながらケルヴィン殿下が話を続けた。 

「りん。銀行は国営だがな、この国にはそれ以外にも融資を行っているところがあるんだ。

 というか、我が国の銀行自体は、その組織を参考にさせて貰ったというのが正しいんだがな」

 それはもしかしてもしかしなくても、あれですね? エリゼ様ですね。

「最初は災害時における個人事業への貸付業という位置づけだったのよ。

 いろんな事業の立ち上げに関わった関係で私の個人資産が結構貯まっちゃってたから、その有効利用を考えた時に領内で大きな台風がきて大きな被害がでてしまったの。それで倒産を防止するために領内向けに始めたんだけど、それの規模が大きくなっちゃって。

 個別の案件まで関わってなかったんだけど、あのチョビ髭のことを調べさせたら私のところからかなり貸し出していることに気が付いたのよ」

 片手を頬に当てて、ほう、と息を吐いた。そして、にやりと悪い笑いをした。

「だから…全部貸し剥がしを宣言をしたわ。奴が家督を私が指名した遠縁の優秀な人間に今すぐ継がせない場合は即執行するってね」 

 うわぁ。隠居させるだけじゃなくて後継者指定ですか。容赦ないですね、エリゼ様。

「だって、あそこの嫡男も父親そっくりの高圧的馬鹿なんですもの。元々返済も滞り気味だったようだし、丁度いいかなって」

 にっこり笑う顔はとても魅力的だけど、口から紡ぎだされる言葉はかなりエゲツナイですね。

「でもライエルが後継者になることを受け入れてくれて良かった。あいつが平民になるのも勿体ないなと思っていたしね。ニールズ家は古い家柄だし、先代まではとても優秀だった。だから優秀な後継を迎えることができて私も嬉しいよ」

 落としどころとしては最良のものになったようで何よりです。全然私にはわかんないけど。

 ポワレについていたソースを最後のパンでふき取るようにして口に放り込む。お魚の凝縮された旨味が口の中に広がって至福の味がする。

「美味しい」

 ほわわんって口の中に残る美味しさの余韻に浸る。美味しいって本当に幸せだ。

「私のりんたんを泣かせるような真似をした奴には地獄を見て貰うことに決めてるの。

 だから、さきほどの更衣室であったという一件…いえ、二件ね。それについても、絶対に許したりしないわ。約束するわね、りんたん」

 にっこりと笑う目の前に座っている美女がトンデモナイことを宣言した。

 それが耳に届いたカフェテラスにいた生徒たちに静かなる激震が走ったようだったけど、そんな恐ろしい言葉なんてこの美しい人がいったりする筈がないのだ。きっと空耳だ、聞き間違いだと思うことにして私は配られてきたアイスクリームを味わうことに集中した。


「そんなことよりも。石鹸なんだけど増産する方策が見つからないのよ」

 ごく一部の生徒達を疑心と恐怖の渦に突き落とす復讐を誓った女神は、どうやら復讐だけでなく、昨日の石鹸についての約束もちゃんと果たそうとしてくれているようだ。

 本当によかったよ。あのまま怒りを滾らせ続けるようなことにならなくて。

 美味しいご飯に、復讐の言葉は似合わないと思うんだよね。うん。

 チーズアイスの乳製品らしい濃厚な味わいが舌の上に広がる。美味しい。濃くて甘い。しつこいと感じてしまいそうなそのぎりぎりの味わいがたまらなく癖になりそうだ。

「材料って何が必要なんだったかな」

 ケルヴィン殿下がアイスクリームのお替りをメイドさんにお願いしながら訊いた。

 私も欲しかったけど、もうすでにお腹いっぱいだ。パンの最後はコトラに上げちゃうべきだったかも。美味しく食べたけど。

「油と消石灰と灰汁よ。工程はかなり危険な作業になるから、工場での作業自体も増産が難しい原因なのよね」

 質問に答えながらアイスクリームの最後のひと匙を幸せそうに食べ終わったエリゼ様が、ため息交じりに愚痴をこぼした。何をしても絵になる人だ。見た目だけなら。

 それにしても石鹸かぁ。安くて増産できるといえばあれでしょ。

「エリゼ様、廃油使いましょう」

「いきなりどうしたの? 廃油?」

 理科の実験でおなじみ廃油石鹸ですよ、エリゼ様。

「そうです。飲食店で出た古い揚げ油を集めて使えば安く石鹸が作れるんじゃないですか?」

 環境にもやさしいし、廃油集めたりする新たな事業も堀り起こせるかもしれないし。

「それで汚れは落ちるのか?」

「かえって汚れそうな気がしてしまいますね」

 ケルヴィン殿下とムーアさんが口々に疑問を口に出す。ですよね、私も自分で作って使ってみるまで同じこと考えたもん。

「大丈夫ですよ。私、理科の実験で作ったことがあるんです」

 牛乳パックに入れて切り分けたんだよね。作ってから2か月後だったから、作ったこと自体忘れそうになったっけ。

「そうね。人に直接使用するのは品質が安定しないからやめておいた方がいいと思うけれど、洗濯とかお掃除といった家事で使う分にはいいかもしれないわ。

 人体用と家事用という選択肢ができれば価格を下げることができるかもしれないわね」

 あれ? 選択肢が増えるだけなのかな。材料の油が安く手に入っても増産にはならないのかなぁ。

「廃油を使っても供給量は増やせないんですか?」

「油はそれでもいいんだけど、石鹸を増産できない理由はね、油を鹸化できるだけの強アルカリを作るのがむずかしいのよ」

 あぁ、そっちか。PH14だっけ、石鹸作るのに必要なのって。これってかなり強いもんね。学校で作った時は先生が水酸化ナトリウム水溶液を作ったのを配ってくれたからなぁ。

「今はどうやって作っているんですか?」

「公爵領で獲れるある海藻を干して燃やした灰と消石灰の2つの水溶液を合わせて加熱分解させているわ。

 でも当然だけど強アルカリの取り扱いがね、大変で。目や粘膜がやられないよう長時間の作業は無理なのよ」

 加熱分解。それはそれはシミる煙がでるだろう。無理に増産するとか失明したり喉をやられちゃわないか不安になるね、たしかに。

「それに、その海藻を取りつくしてしまう訳にもいかないから増産するのが難しいの」

 なるほどねぇ。この世界にあっちの知識や技術を持ち込むのってやっぱり大変なんだなぁ。

「んー。塩水を電気分解して作れませんでしたっけ?」

「…電気どうするの? あとそれにはイオン交換膜が必要だったと思うわ」

「やだ、エリゼ様ったら。私達、魔法使いでしてよ?」

「!!」

 にやり。

 水属性のムーアさんに電子についての知識のあれば簡単だった気がするけど、光の私にも誰かの魔力を使わせてもらえば行けるはず。

 そして、たぶんだけど、その魔力を使わせてもらう相手を水属性のこの仕事についてくれる人にすれば、次から”こういう変化”として力を行使することができるんじゃないかなぁ。

 経験で足りなければ、イラストでも描いて『こんなイメージでやってみて』とか追加で授業でもしてみてもいいかも。いや、これは先にやっておくべきかしら。

「そうだ。電気の部分は、レモンとかグレープフルーツに亜鉛と銅板差した方が早いですかね? そうしたら魔法でなんとかするのはイオン交換膜の部分だけになりますよね」

「あー。果物電池! その手もあったわね。クエン酸があればいいんだっけ?」

「たしかそうです」

「でも、酸とアルカリを近づけるのは危険かしら」

「そっか。それもそうですね。毒ガス発生は怖いですよね。やっぱり魔法かな。あっ。魔石にイオン交換の方法を組み込むことができれば、誰でも作れるようになりませんか?!」

 これができれば、かなり手軽になる可能性があるんじゃないの?!

「それは凄いアイデアね、りんたん! …でも、イオン交換、電子についての知識を与えていいのかも考えなくては」

 ? どういうことだろう。

「…私ね、大量破壊兵器を作ることに繋がってしまうかもしれないような知識を、ここに齎したくないの」

 !! 確かに。それは考えておかないと駄目な奴だ。

「電子についての基礎知識を普及させるのは怖いの。いつかそれが原子爆弾に繋がりそうだと思うのは考えすぎなのかしら。それに、電気がもたらす便利さに溺れ、電気を得る為に化石燃料を掘りつくし環境を破壊しまくった世界から来た私達はその怖さも知っている」

 原子爆弾に環境破壊。そうか、そういうことも考えた上で転生チートって使わないといけないのか。私なら考えなしに使っちゃいそうだわ。

 実際に教える気満々だったし。てへ。

「人間は、中庸では満足できない存在だから。どこかで線引きしておかないとね」

 中庸かぁ。偏らず、大きすぎず小さすぎず、多すぎず少なすぎない、まったくの中だったっけか。足るを知る徳って道徳で習った気がする。あれ、雑談でだったかな。どっちでもいいか。

 確かに、自分が今その手に持っている物が、もうちょっとこうだったら、ここがこうなっていたら良かったのにって思わずにいられないのが常かもね。

 鏡みてる時の顔とかな。瞳の大きさとかね、眉の角度とか、鼻の高さとか。そういうのって限がないよねぇ。

「そうですね。ちゃんと考えて知識は使わないと駄目ですよね。気を付けます」

 でもそうなると、スタートラインに戻っちゃうのねん。

「……そうね。家事用と決めたのなら、強アルカリによる固形化はいらないんじゃないかしら。ねぇ、固まり切ってない、ソフトタイプのままでもいいと思わない?」

「十分ですね」

「それなら竈から出た普通の灰から取った灰汁でも作れるはずよ」

「それいいです! 最高ですね」

 油と強アルカリが廃棄物で賄えるならかなり安価にできる。これだ!!

「ありがとう、りんたん。私ひとりでは思いつかなかったわ。やっぱり一緒にアイデアを出して考えてくれる人がいるって素晴らしいことね」

 ふんわりと、とても嬉しそうに目の前の美女が微笑んだ。その笑顔を見ていると自分がすっごく役に立つ人間のような気がしてこそばゆい。

 なんて。実際には私はあまり役に立たなかった気もするけど。でも考えを纏めるのに、一人で悶々と考えるより誰かに相談しながら別の角度の意見を貰いながらだと有益なものを組み立てられるってことはなんとなく判った。

 相談できるっていい。うん。一人じゃないってやっぱりいいな。


「なにを話しているのかまったく判らないが、うちの女性陣はすごいんじゃなかろうか」

「異世界からの転生者と異世界からの転移者コンビですからね。1人ではできないことも2人いると知識が加算ではなく乗算になるようですね」

「しかも知識量の、元の数字が大きいからなぁ」

「すごいですよね」

「怒らせないようにしよう」

「はい」



「ケルヴィン様、りんたんのお陰で、この王国の衛生面は更なる向上ができそうです。

 このままお父様に相談に行きたいところですが今日こそりんたんのカーテシーを形にしないといけませんものね。ヒールのある靴での美しい歩き方もお教えしたいですし。

 まずは今夜中に起案書に纏めて、明日明後日のお休みの間に計画を実行に移せるよう取り計らいますわ」

 ド変態でポンコツなところもあるけど、こうやって未来の王太子妃としての務めを果たす姿には尊敬しかない。ずっとこの姿だけ見ていたいなぁ。

「エリゼ様、カーテシーの練習なら一人で自主練してますよ」

 そうだ。ある程度形になってから直して貰うんでもいい筈だ。

 傍から見た感じのチェックさえして貰いながらなら、多分そんな変な形にならないで済むだろうし。

「そうですね。私が一緒におりますし、練習に協力出来ると思います」

 ムーアさんがしっかり頷いてくれた。ありがとうの気持ちを込めて、目を合わせて微笑んでみる。さっきのエリゼ様の微笑のイメージ。

「ふむ。では午後は私も一緒に行って王宮側でサポートできることはないか立案に協力しよう。これから冬に向かって流行り病が蔓延る季節となる。その前に衛生面が向上できるならなによりだ。

 りん、本当にムーアと2人で大丈夫か?」

 その時、コトラが「うなん」と鳴いた。そうだよね。

「ムーアさんと2人じゃないです。コトラも一緒に午後のマナーの授業、頑張りますね」

「うにゃ」

 任せろと言わんばかりに胸を張るコトラに、みんな笑顔になって頷いた。



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