14時限目
ムーアさんはぎゅっと目を瞑ったままの私を宥めるように、まだゆっくりと髪を撫でていた。
「甘えていいのに」
髪を撫でられるのがこんなに気持ちがいいなんて知らなかった。
私にはまだ知らないことがたくさんある。ありすぎる。
「いっそ依存してくれてもいいんですよ?」
「それは駄目っ」
自分で立てなくなるのは駄目なのだ。
私は私でいなくてはいけないの。もう誰かのちょっとした言葉で右往左往したり、その言葉を怖がって生きていくのは嫌だ。
「ようやく顔をあげてくれた」
いつも甘く優しい笑顔をしていたその人の瞳に、いまは少し苦みが混じっている。
「りんさんの、その自分で立てるようになりたいという強さを尊敬してます。
でも、辛い時は少し休んでもいいんです」
そうだろうか。そんなことをしたら、二度と立てなくなったりしないだろうか。
「よし、りんさん、あれに乗りましょう!」
ぐいっと手を引かれて、ムーアさんが目当てのそれに向かって大きく手を挙げた。
その隙に、零れ落ちそうになっていたものをそっと袖で拭う。
気づかれているんだろうけど、気づいていない振りをしてくれる優しさが嬉しい。
目の前で停まったそれの迫力にちょっと顔が引きつってしまったけれど、変な声を出すのはなんとか我慢することができた。近くで見るとこんなに大きいんだ。
「この辺で、いろいろな食材を取りそろえているお勧めの店に連れて行ってくれないか」
足を止めた”あれ”に乗っていた御者は快く頷いてくれて、私達の前にちいさなステップが下ろされてきた。
ステップに乗ると、それはすーっと上に昇っていき、背中に取り付けられている屋根付きの輿へ乗り移れるようになっていた。
その高さに動揺しつつも、ムーアさんに支えて貰ってなんとか席に着いた。
席にはちゃんとシートベルトと手摺りもあったよ。ちょっと安心。
「うわぁ。ムーアさん、これ、高いですよっ」
思わぬ視線の高さに変な声がでた。
座っているのに足が竦むような感覚なんて初めて味わったよ。
「お嬢ちゃん、もしかしてタクシーに乗るのは初めてかい」
御者というより運転手さんというべきかしら。その問いに素直に肯定しておく。
「そうですー。すごいですね、これ」
「そうだろ、恰好いいだろ」
おじさんは自慢げにそういうとスピードを上げた。
それにしても、たくしー? これはまさか。
「発案、命名エリゼ様ですか?」
恐る恐る聞いてみるとやっぱりそうだった。
「よく判りましたね。あぁ、もしかして?」
こくこくと肯く。
「なるほど。エリゼ様が7歳の頃だったでしょうか。
馬は稀少ですからね。馬車にしろ貴族の乗り物です。
そこでエリゼ様が、庶民が街中を移動するのに便利で気楽に乗れるものをと発案されたのです。
テイム自体は前からある土魔法でしたが、どちらかというと狩りのパートナーとしてや、愛玩用や見世物用として使われていた魔法でした。
それをこうして交通網に使うという構想が発表になった時は国内外で大きな反響が起こりましたよ。
それだけでなく、エリゼ様からは運営方法や交通整理など地域との取り決めに関してもご提案があったとお聞きしています。
御者の着ている服が赤いものはタクシーで好きな場所に連れて行ってくれるトカゲで、青いものはバスといって目印になるような場所が決めてあってこの王都の中を定時巡回している少し大型のトカゲです。
バスの方が安い料金で乗れるようになってますね」
エリゼ様って、転生する前の年齢幾つだったんだろう。
なんというか、知識や事業として成り立たせる為の提案力とでもいうのだろうか、そういうものが多岐に渡って豊富過ぎる気がする。ちゃんと仕事をしていた大人の女性って感じ。事業として成り立っているのは公爵家に生まれたことも大きいんだろうけどさ。
「あのような素晴らしい方が未来の王太子妃、そして未来の王妃として、ずっと殿下を傍で支えて下さると思うと、この国の未来は明るいと思いますね」
「私も同意します」
さすがにここでド変態だけどな、なんて落とす必要はないだろう。
本当に私もそう思ったのだから。
この国を素晴らしいものにしていく為の努力を惜しまないその姿勢は尊敬に値すると思う。
転生チートの知識だけじゃない。
あのダンスの軽やかさも、カーテシーの細やかな美しい動きも。
貴族のお手本として、尊敬を集める存在そのものになる為に積み重ねてきた努力と時間はどれほどのものなのだろう。
今日たった1日真似事をしただけでへたっている私にはどれだけ練習をしたらあのレベルにたどり着けるのか想像もつかない。そんな脅威的なレベルの高みにエリゼ様はいる。
王太子様も、エリゼ様も、この国のことを考えて行動しているんだなーって、今日1日一緒にいただけで何度も思った。
すごいなーって。
私もそんな風に、誰かのためになることができるようになりたい。
目の前に広がる街の、活気ある姿を見て心からそう思った。
「幾ら何でも買い込みすぎですよね」
お店の人にいろいろと説明して貰っている内に、ムーアさんは愉しくなってしまったようで勧められるままかなりの種類のものを買い込んでしまった。
小麦粉だけで4種類も買った。
セルフレイジングフラワーというホットケーキミックスもどきと、デュラムセモリナ粉というパスタを作る時に向いている粗挽きの小麦粉と、パンに向いている強力粉と、普通の薄力粉だ。
本当は薄力粉と強力粉もあと2種類買われそうになったけど「他の食材が持てなくなりますよ」といって止めたのだった。
あと、ふくらし粉も2種類。ベーキングパウダーと重曹だって。使い分けられるのかな、私。
その他に、マッシュポテトの素、干し鱈、干し肉、乾燥チーズ、黒砂糖、バターミルクパウダー等の乾物類だけじゃなくて、牛乳とバターとキャベツとトマトまで買ってしまった。たまねぎは猫に危険なので諦めた。それでもこんなに大量に買ってしまって、腐る前に食べ切れるかちょっと心配だ。
全部お店での最小単位での購入だったけど抱えるほどの量になってしまっていた。
あ。あとおまけで干し杏と干し林檎を貰った。おやつ嬉しい。
「いいんですよ。だってこの猫、滅茶苦茶食べるじゃないですか」
ムーアさんは、ぼすんとその猫が寝ているであろう鞄を無遠慮に上から叩いてみせた。
それはそうなんですけど、なんで叩くんですか?
「前回も居候の癖に遠慮なしだったようですし。
どうせ今回も、今日のお昼のように勝手に食べ散らかすに決まっているんです。
人間に戻ったらまたあの国から分捕ってやりましょう」
普段の彼からは想像もつかない口調で言い切る。
なんだろう、ムーアさんがまるで別人のようだ。
「でも、私だけじゃ運べない量というのは、やはり買いすぎだと思うのですが」
「ですから私が一緒に運んでいるじゃないですか」
早く帰りましょうね、そんな風に、にっこりと笑って言われてもですね。
一人暮らしの乙女には、いろいろと秘密があるんですよ?
なんて、いまの私の部屋には生活していく為の最低限のものしかないですけどね。
「あぁっ!」
しまった、忘れてた!!
「どうしました?」
「絹長靴下買ってないです!」
って。しまったぁぁぁ。
「………りんさん、もしかして?」
ムーアさんが真っ赤になっている。私も多分真っ赤だろう。嘘です。多分じゃないです。絶対です。いろいろスミマセン。ごめんなさい。
「…すみません」
だって知らなかったんですもん。あっちでは生足普通だったから! 痴女じゃないですからっ!!
「今ならすぐ商店街に戻れますね。行きましょう」
「はい。お世話をお掛けしますぅ」
私は元々小さい体を更に小さく屈めてムーアさんの後ろをついていった。
「もう買い忘れたものはありませんか?」
つい絹長靴下を買ったお店の隣にあったお店で、フライパンとか泡だて器とかボールとザルのセットといった調理器具類なんかも少し買ってしまっていた。
部屋のキッチン、コンロ1個しかないミニキッチンなのに。どうしよう。
お店のおじちゃんてばお勧め上手すぎだよ。声を掛けられてつい覗いたのが運の尽きだったね。
でもさ、『セットだとすっごくお得だよ』ってあの言葉は魅力的すぎだよね。
「はい、もう大丈夫です。あの、重いものだらけですみません」
買い忘れというよりも、買いすぎたとしか言いようがない。
お財布の中身からっぽだよ。はぁ。靴を買おうとお金下ろしたばっかりだったのに。またお金下ろしてこなくちゃ。
この国にも銀行業はあって、ちゃんとお金を預かってくれるのだ。
銀行っていっても業務内容は昔の郵便局とそっくりで、国営で郵便物と貯金と両替や融資を取り扱っている。
窓口で身分証と掌による認証を行ってお金を預けたり引き出したりできるようになっていた。
学園に通う前、日当を要求した時に、そこに口座を開設して貰って初めて知ったんだけどね。
毎月分がそこに振り込まれることになっている。
「そういえば、今日の買い物代は後で口座に補填されるので安心して下さいね」
「なんでですか?」
そんな取り決めなかったと思うんだけど。あとで契約書を引っ張り出して読み直さなくっちゃ。
「部屋についたら詳しく説明しますね。
さすがに外で話す内容ではありませんから」
それもそうか。でも…そうか、やっぱりムーアさんを部屋に上げないといけないのか。
ドアの前で追い返すのもなーって思ってはいたんだけど。
でも、でもどうしようっ。
「ここの4階に部屋を借りてるんです」
悩んでいる内に下宿先の前まで着いてしまった。すでに辺りはすっかりオレンジ色に染まっている。今更部屋に上げない訳にはいかなさそうだ。
でも、部屋に上がってもらうには、1階で大家さんに声を掛けてからじゃないと駄目なんだけど。
そんな風に私が阿呆な葛藤でぐるぐるしている間に、ムーアさんはあっさりと大家さんに手土産つきで挨拶をしていた。
…いつの間に買ったんだろう。なんと抜け目のない。
「後見のロッド子爵様ですね。
皆様、お先にお着きになって上でお待ちになっております。お急ぎください」
壮年といった感じの大家さん夫婦の、ご主人の方が今日は管理人室に陣取っていた。
普段は奥さんが詰めていることが多いんだけど珍しいな。
「ありがとう」
ムーアさんが鷹揚に頷く。…ん?
「あの、後見ってどういうことですか?
それに先に上でお待ちって? え??」
混乱して頭の中が???で一杯になっている私に軽く笑いかけて
「急ぎましょう。
りんさんのお城が大変なことになる前に」
ど、どういうことだろう、なんてもう言わない。大体想像はつく、こんな阿呆な私にも。
「はい、がんばります」
私たちは顔を見合わせて頷きあうと、両手に抱えた荷物をしっかりと持ち直して階段を昇りだした。
「りんたん、お帰りなさーい」
「ぐえっ」
ドアを開けるまでもなく、開放されたままになっていたそこから顔を覗き込ませようとした途端、突進といえる勢いで抱き着かれて尻餅を着いた。
「いたたたた」
持っていた荷物が足元に散らばる中、ドアの向こうに見える私の部屋の、その様変わりに気が遠くなる。
呆然としている私の頭の上から大きな声が掛かった。
「遅い!」
仁王立ちした王太子だった。うん、知ってた。
「大丈夫ですか?」
笑顔で手を差し伸べてくれたムーアさんに、つい八つ当たりしてしまった。
「…知ってましたね?」
立ち上がって、服についた埃を払う。
「すみません、一部は知ってました。
ただ、こんな感じに仕上がるとは思いませんでしたけど」
私の、必要最低限以外なんにもなかった部屋は二人の手によって大きく様変わりしていた。
主にピンクと白、アクセントにちょっぴり黄色。
カーテンもフリフリだ。窓の上に丸く弧を描いてふんわりと3カ所纏めるように開いている。左右に横へと開くんじゃなくて横にある紐を引っ張ると上にあがる仕組みになっていて、バルーンシェイドっていうんだって。これが艶のあるピンク。
その下に、白い紗のカーテンが掛かっている。ちなみにタッセルは淡い黄色。
カーペットはシルク製でこれも白基調でピンクで花模様が入っていて黄色が差し色として使ってある。
テーブルも椅子が6個並べられる大きいものになっていた。
もちろん椅子自体も布貼りの背凭れも座面もクッションのいいものに変わっていたし、数も6脚と大増殖していた。
あと3人掛け用のソファも窓の近くへ強引に置いてあった。その前にはミニテーブルも。
ちなみに、私が縫った雑なカーテンらしき布は端にレースが縫い付けられてテーブルクロスに生まれ変わっていたよ。有効利用されていてなによりだ。
キッチンのコンロは2台に増設されていたし、冷蔵庫も大きくなって、なにより食器棚があった。あんまり大きくないけどそれでも据え付けになっていた棚しかなかったミニキッチンはファミリー向けアパート並みの装備といえる位にグレードアップされていた。
「…はっ!」
慌てて最後の砦、寝室に移動する。
居間に置いてあったちいさなテーブルと椅子がベッド脇に設置されていて、一回り大きくなったベッドの下には毛足の短いラグが敷かれていた。
お布団も、ふわふわふかふかのそれに替わっていた。
もちろんこの寝室も居間と同じピンクと白とアクセントに淡い黄色でトータルコーディネートされている。
そのピンクと白と黄色の部屋の中央部分に、青と黒の塊がいた。
「…タイガ」
ふんわりもこもこベッドの中央で、猫が丸くなって欠伸をしているのを見つけた私は、思わずその場で頽れた。




