11時限目
りんはいません。
引き続き、ムーアさんのターンです
「私の名前でドレスを贈られたんですもの、どんな女性なのか確認するくらい許してくださいな。
婚約者だった私は、一度もドレスなど贈られたことはなかったというのに」
そう。ムーアがりんに言った「元婚約者に譲ってもらった」というのは嘘だった。
昼間りんに言った『りんさんに嘘なんか吐きませんよ』というその言葉自体が嘘だ。
りんの勤めていた店の女将に相談して、りんに合う練習着をわざわざ仕立てさせたものだった。勿論、生地はムーアの色を意識して選んだ。
余計なことを口にするなと言外に込めて警告の視線を飛ばす。
それに気づいていながらも、リディアーヌは語るのを止めようとしなかった。
「少し、妬けますわね。私の婚約者だった時の貴方とは全く違うんですもの」
嫌味なその物言いに、すっと目を眇めてムーアは笑ってみせる。心に刺さるような、とても綺麗な笑顔だった。
「これは面白い。それを、貴女が言うんですね。
婚約者だった頃の私が近寄る度に、
それまで侍従とふたりで楽し気にしていた会話を止め、
それでも私が近づくと射殺さんばかりに険悪な視線をぶつけてくる侍従を
叱責するどころかむしろ喜んでいた貴女が? 私に?」
面白いジョークですね、とその声は一層楽しそうに弾んで聞こえた。
ただし、纏う空気はどこまでも冷ややかだ。
「そ…れは…」
自らの過去の行いを思い出していたのだろう。
もしかすると、自分たちの想いがそれほどまでに駄々洩れになっていたことに、いま初めて気が付いたのかもしれない。
しかし、実のところ婚約者として初めて顔合わせをした時、リディアーヌ・ブロイ伯爵令嬢は、婚約者であるムーアヒース・アイゼル公爵令息に一目惚れしたのだ。
5歳上のその人が、にっこりと笑って差し出してくれた手。
抜けるような青空の色、スカイブルーの髪と瞳の優しい笑顔。
そのすべてに一瞬で心を奪われた。ぐっと心を掴まれた気がしたものだ。
しかし好意があればあるほど、その人の事を考えるだけでも緊張してしまいうまく対応できなくなった。
それを一番身近にいた異性であるセレス、自分付きの侍従に相談していただけの筈だった。
それなのに、いつの間にかその信頼は別の物へと変わっていったのだ。
自分に愛情を向けない婚約者と比べて、全力で主への信頼とそれ以上の想いをぶつけてくるセレスに癒された。もうこの手を離すことはできないと今は思っている。
しかし、考えてみれば他の人とは楽しそうに会話しているのに自分とは碌に口を利かない婚約者へ愛情深く対応することなどできる訳がないのだ。当然だ。婚約者に恋をしていたリディアーヌ自身にすら無理だったのだから。
つまり、最初の段階でリディアーヌは間違えてしまったのだろう。
相談する相手を間違えなければ、もしかしたら初恋のこの人との未来もあったのかもしれない。そんな今更どうにもならない妄想がリディアーヌの頭を過る。
「一度、貴女の侍従に呼び出されたことがありました。
『貴女を大切にしないと許さない』だそうですよ。
彼は貴女を、誰のモノだと思っていたんでしょうね」
「……っ」
一瞬、リディアーヌはその言葉を喜んでしまった。
しかし、身分や立場、それ等が頭に戻ってくると、その行為が如何に愚かで身の程知らずな行動かが判る。
三男であろうとも公爵令息をたかが伯爵家令嬢付きの侍従如きが呼び出した上にいきなり勝手な要求を押し付ける。普通なら、そのような理不尽な行為はとても許されることではない。
なぜその時、自分はそれを知らされなかったのか、なぜ主として罰を受けなかったのか。疑問が渦巻く。
「ですから、伯爵家には婚約者も年頃になってきたので、そろそろ傍付きには侍従ではなく侍女をと申し入れました」
あれがそうだったのか。この学園に入園する前のことだからもう3年近く前になる。
リディアーヌの父である伯爵から「傍付きには侍女を」と言われて全力で反抗した。リディアーヌはハンストまでしてみせたのだ。セレスが支えてくれなかったら生きていけないとまで思いつめて。
そうして、このことが切欠となり、リディアーヌはセレスへの想いをはっきりと自覚したのだ。
「この要求に対する私の婚約者の家からの回答は、『侍従は替えない、それを受け入れて欲しい』でした。
更に貴女はそれ以降、他の誰にも呼ばせない特別な愛称で自分を呼ぶことをその侍従に許したのですよね。本当に、素晴らしい愛だ」
そんなことまでバレていたのか。誰もいない時だけだと約束して守っていたつもりだったのに、そう愕然とする。
ようやくリディアーヌにも判った。自分はその時点でこの婚約者に切られたのだろう。
3年も前に、とっくに心の中で切り捨てられていたのだ。
初めて知った事実と、さきほど自分が発した妬心の愚かさに激しく動揺して視線が揺れていた。
「よろしいのです。そんな貴女方に、今の私はお礼を言いたい位なのですから」
視線の先にはここにいない誰かがいるのか。
先ほどとは全く違う、ふわりと優しい笑顔が浮かぶ。
──こんな顔をする人だったんだ、私の元婚約者は。
やさしげな風貌をしているのに、婚約者である自分といる時はいつも冷たい顔をしていた。
笑っているのに、全然楽しそうでもなければ、そこに何の熱も持たない。
しかし、いま目の前にあるのは蕩けるように甘い笑顔だ。
そしてそれは甘いだけの笑顔ではない。ある種の熱を帯びていた。熱情を孕んだその笑顔を自分に向けて欲しいと、女なら誰でも一度は願うことだろう、そんな笑顔だ。
タレた目元が可愛いと、周囲から騒がれることも多い人だ。
騎士として誉れ高い近衛兵になっただけの身体能力もある。均整のとれた身体つきと相まって憧れる友達も多かった。羨ましいと何度も言われたこともある。
その度に「でもね、優しそうに見えるけど、本当はね…」そう下げてみせたものだった。
しかし──。
後悔しても仕方がない。自分が捨てたものだ。
本当は捨てられた、が正しいのかもしれないのだけれど。そうは思いたくなかった。
「あぁ。でも、貴女方は私にもっと感謝して下さいね。
なにしろ、私はいま、彼の義理とはいえ父ですからね。いくらでも敬って貰って構わないですよ」
きらりと、危険な色を乗せてライトブルーの瞳が光った。
元々、ムーアとリディアーヌの婚約は、アイゼル侯爵家とブロイ伯爵家における事業の繋がりを確たるものにするべく、三男であるムーアを一人娘であるリディアーヌのところへと婿入りするよう組まれたもの。云わば血による契約だ。
つまり、この婚姻において必要なのはアイゼル侯爵家からブロイ伯爵家への婿入りする、その一点である。
そこでムーアは、自分がブロイ家に婿入りする前に祖母から受け継いだロッド子爵家という家名を最大限に利用することにしたのである。
リディアーヌ付きの侍従であったセレスを自身の養子として迎え入れ、1年ほど教育を施したのちに、アイゼル侯爵家へと養子に出す。そこから更にブロイ伯爵家へと婿入りさせるという計画を立てたのだ。
平民でしかないセレスを伯爵家へ婿入りさせるために。
そんな面倒を押してまでムーア自身の婚約を破棄したかったということだ。
そしてそれは、関係者を集めて行った話し合いでムーアが論じて見せたようなリディアーヌとセレスの愛に感動したからなどではない。
それが今日、はっきりとリディアーヌにも判った。
「それと、『教育は子爵家で』そうあの時はいいましたけどブロイ家でちゃんとして下さいね?
伯爵領での仕事に支障をきたすことになっても私は責任をとれませんし。
そんなことになるくらいなら、ねぇ?
やっぱり養子縁組なんか解消したくなってしまうかもしれないじゃないですか?」
だからちゃんと躾てくださいね? そう言って、彼はその場から立ち去って行った。
そこには、目下のものが上の存在を呼びつけ、要求を突きつけるような無礼を二度と許さないというだけでなく、その時は養子を侯爵家の縁戚者に挿げ替えますよ、そんな警告を含んでいるように思えて、リディアーヌの身体がぶるりと震える。
遠くなっていくその後ろ姿に、リディアーヌは深く頭を下げた。
今こそ本当に、自分はこの人の婚約者ではなくなったのだな、と、そう心と頭に刻み込みながら。
「ふう。参りましたね。
せっかくこれから、りんさんと初のデートだというのに。幸先の悪い」
容赦ない捨て台詞は、それを耳にする者がいない時にするものだとムーアは思っている。
もしくは、それを聞かせたいと思っている相手がこっそりと聞いている時でもいい。
別に自分は優しいだけの存在ではないのだから。
一生教えるつもりはないが、ムーアは実際にあの二人に感謝したいと心から思っていた。
それは、スムーズに自分主導で婚約を白紙にする方法を手に入れることができたというだけではない。
素直に、恋愛に堕ちるとどこまでも頭の悪い行動を躊躇うことなくできるようになる、そのことをムーアに見せてくれたという点で、感謝したいと心から思っていた。
ムーアの周囲には恋愛結婚をしたものなどいなかったし、ブロイ伯爵がそうだといわれてもすでに奥方が亡くなった後のことしか知ることはできなかった。
そしてそれ以外の恋とは下半身におけるそれを置き換えただけのもののように感じられて、ムーアには唾棄すべきものとしか思えなかったからだ。
その行き着く先がどうなるのか観察してみたい、そう思っていたのだが。
「でもまさか、自分がそうなるとは思いませんでしたね」
くすくすと他人事のように、楽しそうにムーアは笑う。
あの日、あの瞬間に「候補に入れて欲しい」そう言えた自分を褒めたい。
いきなり異世界転移などという訳の分からないものに巻き込まれても、それでも笑顔で暮らせるような強さを持った令嬢など、これまでムーアの周りにはいなかった。
城に軟禁されても「お腹が空いた」と食べ物を要求し、心行くまでそれを味わい、働いてるのだから当然で恥じることなどないと主張できる、そんな胆力を持った令嬢もだ。
誰も知り合いのいない世界で、あんなに細くて小さい手をしているのに、自分の力で立とうとする。
そんな強さを持った彼女に尊敬の念を抱いた。心惹かれずに居られなかった。
あそこで手を挙げられなかったら、自分はそのまま傍観者に徹していたかもしれない。
そうして、恨めし気に自分とは違う世界の事として諦めてみていたのかもしれない。
誰かとの未来を手に入れたいと熱望する、それをオープンにして、掴み取るための努力をする。
どれもこれも、そんな選択肢を自分が選ぶとは思ってもみなかったことだ。
きっと、もしこの恋が手に入らなくても、自分は彼女の幸せを一番に願うのだろう。
そんな風に考える今の自分が、ムーアには信じられないと同時に面白くてならなかった。
腹黒が好きです(ぽっ
腹黒の純愛、しかも初恋。
自分的お御馳走です




