第四十八話「伝わる熱」
身を切るような寂しさが、体を貫いていた。
そのどうしようもない寒さに、思わず俺はその手にあった最も温かい熱源を、ぎゅっと握り締めてしまった。
気付けば目の前には、少し眉をひそめた彼女が居た。
こちらをじっと見る目元には、微かに涙のようなものが滲んでいる。その証拠に、頬にはそれが伝った跡もある。
心配になって思わず手を伸ばそうとしたが、先になぜか彼女がぴっ、と俺の顔に指を差した。
土でも付いたか、とそこを撫でてみて、俺は驚いた。
感じたのは、微かな水気。ぐいと手のひらで拭うと、彼女の頬と同じように、そこに一筋の水が流れたような感触があった。どうやら俺は泣いていたらしい。
「これは……」
何か夢のようなものを見ていたような感覚が残っている。胸の内に、何とも言い難い温かさと寂しさがぐるぐると蟠っている。
手にはまだ彼女の熱が残っていて、その不思議な感覚の余韻は未だ抜け切らない。
しかし対面の強い光を帯びた青い双眸に射抜かれて、俺は体の力を抜くように息を吐いた。
まだ少しのぼせているような感覚があるが、大丈夫。やらなきゃいけないことは忘れていない。
と、そうしてティアと二人で頷き合ったところで、腹の辺りに違和感があるのに気づいた。
見れば、フージンがいつの間にやら俺達の膝の上にいた。そして俺達を離れさせようとでもしているのか、ぐいぐいとそのヒレで俺達を押して来ていた。
やけに必死なせいか隙だらけだったので、俺はフージンの頭の皮膚をつまんで横にぺいっと放った。
「……何やってんだよこの緊急時に」
「別になんでもないわ! ふん!」
いやに機嫌が悪い。そうして鼻息を荒くするフージンを二人で顔を見合わせながら訝しげに見ると、やつはさらにむきーっ! っと肩を怒らせた。
この不思議生物、いよいよもってよくわからん。て言うか何かちょっと体光ってるし。深海生物的な何かかな?
「まあなんでもいいけどな。それよりお前の術的なものは成功したのか? 何かあんまり変化を感じないんだが」
変わったことと言えば、この少しふわふわした感じと夢のようなものを見ていた感覚くらいだ。
正直こいつの言う“繋がった”感じはしないんだが、もうすでにティアは俺のマナで魔法を放てる状態になっているのだろうか。
俺のそれに、フージンはぶすっとした顔で答えた。
「嘆かわしいことだが、成功している。その証拠に、お嬢のマナ切れの状態は回復しているだろう」
言われて俺達は顔を見合わせた。
本当だ。確かに。普通に起き上がっても平気みたいだ。
ってことは、もうティアの魔法も使えるってことか。
そんなことを思った俺に、しかしフージンが眉をひそめて見せる。
「しかしどうも、そう簡単にはいかないようだな」
「何がだ?」
「貴様とお嬢は確かにワタシが繋げた。だが実際にはまだ何か足らないらしい。そうだな? お嬢」
そうして水を向けられたティアは、フージンのそれに難しそうに眉を寄せ、ゆっくりと頷いた。
「動けるようにはなった。しかし魔法を撃てる程には回復していない。そうなのだろう?」
「えっ」
ティアは目を伏せ、それを無言で肯定した。
そんなばかな。だってこいつはさっき……。
気付けば俺は、フージンの首根っこを掴んで揺さぶっていた。
「お、おい! さっきと言ってること違うじゃねえか! お前はイケそうだって言ってたのに!?」
「おぼぼぼぼおおおろろおおおちつけ、馬鹿者が! せっかく繋いだ状態が解ける! やめろ!」
「うぶふあ"っ!?」
ヒレですぱぁん! と頬を叩かれた。
全く……とヒレで体裁を整えながらフージンが言う。
「完璧な状態とは言えんが、なんとか繋げられたのは大きい。この状態で安定していることも奇跡だ。しかしそもそも、この安定した状態では真に繋がった状態とは言えん。今は繋がりが弱いからこそ安定している。ワタシはそう思う」
「繋がりが弱い……。つまり、これじゃ足らないってことか? 何かしなきゃいけないのか?」
俺のその問いに、フージンは低く唸る。
「お前とお嬢が十年来の親友でもあったならもう少し繋がれたのかもしれないが……たかだか数日共に過ごしたくらいだからな。悠長に親交を深める時間など当然ないし、ここでできることも限られる」
「な、なんだ? なにすりゃいい?」
聞けば、フージンはそのつぶらな瞳をキッ、と細めて俺を見た。
「業腹だが、そのまま身体的接触は解くな。手は繋いだままでいろ。あとは何でもいいから話せ」
「いや話せったって……何を」
「何がきっかけになるかはワタシにもわからん。とにかく話せ。何かが互いの精神に歯止めを掛けている可能性もある。例えばワタシはさっきお前に最悪死ぬという話をしたが、そのせいで繋がることを無意識に拒否していたりすることがあるかもしれん」
言われ、思わず俺はティアと顔を見合わせてしまった。
「それは……あるかもな」
「イドを制御することは難しい。まずはそういった無意識を言語化するために、互いが何を思っているかを話し、共有するのだ。より深く繋がる方法があるとすれば、おそらくそれだけだ」
ふむ。なるほど。要はもっとお互いを知らないとダメってことか。
しかしフージンが言った通り、今は時間がない。ここでちょっと話したくらいでお互いの理解を深めることなどできるだろうか。
「とりあえずその死ぬかもしれないってのは……どうだろうな。俺はあんまり気になってないかも」
「嘘を吐け。どうせ貴様が歯止めをかけているに決まっている」
と、即フージンに即否定されてしまったが、実際胸の中を洗ってみても、その恐怖心のようなものは薄い気がする。
「まあ、実感がないだけかもしれんけど」
何だろうなあ。そもそも俺の命はもう短い、という天命の件があるから覚悟が決まってる……っていうのも何か違う気がする。
どういう理由か、俺の心のうちは驚く程に静かだ。
これ以外で俺の何かが繋がることを躊躇しているという可能性もあるが、他に何かあるかと言われても思いつかない。
「ティアはどう? 何か思い当たるフシがあったりとか」
傍らの彼女に問い掛ける。
すると、彼女は何か思うところがあったのか、眉を寄せながら俺の手をじわりと握り返した。
しかしそのまま何を言うでもなく、唇を引き結んで押し黙る。
胸のうちを探っているのか、と思ったが、そういう顔ではなかった。
どちらかと言えば、とっくに何かを思いついていて、それを話すのを躊躇している。そんなふうに見えた。
辛抱強く、彼女の言葉を待つ。
深く息を吸って、吐いた。俺の顔を一度見て、しかしまた地面に目を落とす。
そうしてようやく彼女から出てきた言葉は、およそ普段の彼女からは想像もできない言葉だった。
「──こわい」
と、彼女は静かに言った。
そのあまりにも意外な言葉に目を見開いてしまうと、彼女は胸の辺りを絞るように握りつつ、縋るような目で俺を見上げた。
「怖い? 何が? 黒竜が?」
続く言葉が出ない彼女に問い掛けた。
しかし、彼女はそれにふるふると首を振る。
また少しの間彼女は口を噤むが、やがて、観念したかのように息を吐き、言った。
「まけるのが……こわい」
弱々しいその声が、地面に吸い込まれていくように消えていった。
その声とは裏腹に、俺の手を握る彼女の手に力が入る。
そこまでされて、俺はようやく気が付いた。
(そうか……。そうだった。馬鹿だな、俺は)
彼女の心は勇気で満ちている。そして彼女は目的のために長年鍛錬を続けて来た傑物であり、俺とは違って地に足をつけて成長する道を歩んで来た真っ当な人間だ。
と、そうして彼女を半ば神聖視してしまっていた俺だが、実際のところ、それは彼女の全てではない。当たり前だ。彼女はまだ10代を折り返そうというところ。迷いや恐怖といったものが全くないなどということはあり得ない。
そして思い返してみれば、彼女は今まで黒竜に明確な決定打を与えられたことがない。
あの洞窟内での一戦では最終的に彼女が押し勝ったが、やつを退けるだけに留まった。今日も何度も魔法を浴びせているが、未だ黒竜は健在。今のところダメージを負っている気配はない。
その状況が、彼女の心に疑念を生んだのだろう。本当に自分の魔法は、黒竜に通じる程のものなのか、と。
(死ぬのが怖いんじゃなくて負けるのが怖いってのが、すげえティアらしいところだけどな)
死ぬのは構わない。しかし、俺とティアのタッグで魔法を撃ち、それでもダメだったら、自分の魔法は黒竜に通じないことが確定してしまう。それは嫌だ。ティアの気持ちとしては、そんな感じだろうか。
もしその迷いが俺達の繋がりを阻害しているのであれば、俺にできることは……。
と、そんなことを考えていたその時だった。
「──っ」
やたらと粘つく、ぬるりとした風が顔を首筋を撫でた。
気付けば俺はティアの手を取り、全力で疾走していた。
絶望がやって来る。飲まれたら死は免れない。巨大な熱の奔流、黒竜の炎がすぐそこまで迫っていた。
だが、間に合わない。疲れと、未だ残る全身の痛みが動きを鈍らせる。
俺は、賭けに出た。
「ダムド・ローア!!」
ほぼ目の前、地上スレスレに大岩を召喚。それを俺達に向かって“降らせた”。
ティアを包むように抱くと、程なく大岩が俺に接触。衝撃が背中を打ち、俺達はその大岩に押されるようにして吹き飛ばされた。
「うおおおおおおおおおおおおおぐえっ!?」
そのまま数十メートル程転がされたが、俺の魔法はやはり詠唱なしでは大した威力にはならないらしく、ティアを受け止めた時よりかはかなりマシな吹き飛び方だった。
最後は焼け焦げて折れた木の幹に背中からぶつかり、何とか事なきを得る。
全身くまなく打ちつけたのは変わらないが、それでも動ける程度。緊急避難としては上出来も上出来だ。
地面と平行に隕石を降らせる。そんなイメージが魔法にちゃんと反映されるかは賭けだったが、何とかなった。危なかった。マジで。
「……ふー」
追撃は……ない。レオナルドさんが抑えてくれたのだろうか。今のうちにティアと話をしたい。
と、そう思ったところで、ふいに後ろから誰かに肩を掴まれた。
「っ!?」
「面白い魔法の使い方をしますね」
とっさに振り払おうとするが、なぜかその前にバチリと音がして弾かれるようにその手が離れた。
(何だ? 何かされた?)
違和感を覚えつつも、俺はティアの手を取って立ち上がり、そこから距離を取った。
何となく予想はついていたが、その木陰からゆっくりと現れたのは、この騒動の中心であろう、やつだった。
「リヒト……!」
あの手に触れられるのはまずい。おそらく、エレナのように操られてしまう可能性がある。そう思って警戒していたのだが、触れられてしまった。
(……あれ?)
だが不思議なことに、少し経っても何も起こる気配がない。
思わずティアと怪訝な顔を向け合う。腕や腰を撫で回してみたが、特に異常はない。
不思議に思ってやつの顔を見る。すると、どうもやはりこれは本人が意図した結果ではないらしいということがわかった。
俺達よりも、やつのほうがはっきりと動揺が見て取れる程に目を見張っていた。
「これは……」
やつは俺とティアを交互に見つめながら、最後に俺達が繋いだ手に視線を落とす。
「まさか、すでに繋がっている……?」
今まで飄々として全く表情を曇らせることのなかったこの男だが、強く眉をひそめ、明らかに不快感を顕としていた。
(こいつまさか、俺達の状態に気づいた……?)
やつの握られた拳から、何かがぽたりと落ちた。
血だ。気づけばリヒトは、細い目を限界いっぱいまで開き、その血走った三白眼で俺達を睨みつけていた。
「許しません。許しませんよ……そんな繋がり方は……」
ギリギリと歯を軋らせるようにそう言ったかと思うと、
「不完全で、不健全です!」
やつがそう声を上げた瞬間、突然やつの足元からどす黒い煙が間欠泉のように激しく湧き上がった。
「まずい! 離れろ!」
耳元でフージンが切羽詰まった声を上げる。
咄嗟にティアを引っ張り、その煙から離れた。
黒煙の勢いは留まるところを知らず、激しく吹き上がり続ける。
「おいこれ、まさか……」
俺のそれに、フージンは眉の肉をぐいと険しく寄せて頷いた。
「瘴気だ。間違いない」
「おいおいおいマジかよ! 大丈夫なのかこの量!? もし街全体に行き渡ったら……!」
黒竜云々の前に、街全体が瘴気に汚染されて終わりだ。
「いや、見ろ。そこまでの量はなさそうだ。しかしどうもやつの狙いは、そういうことではないらしいぞ」
そうして空を見上げるフージンに、俺とティアは釣られるようにそこを見た。
湧き上がった大量の瘴気が、ある一点に集まっていく。
黒竜だ。上空にいた黒竜の周りに瘴気が集まり、その巨躯を飲み込んでいく。
「黒竜の強さは、周囲の瘴気の量に比例する。つまり……」
フージンはそこで言葉を切ったが、その先は聞かなくてもわかった。
その巨大な雲と化した黒竜を中心に暴風が吹き荒れ、稲光が雲間を貫く。
雷鳴が轟いたのか、はたまた黒竜の叫びなのか。まるで空が切り裂かれたのかのような轟音が鳴り響き、大地を揺らす。
「これは……まずい」
フージンがそう呟くのを耳にしながら、俺もその光景を見て息を呑んだ。
雷を伴うその黒雲が次第に収縮し、その末端からやつの姿が次第に顕になっていく。
空を覆わんばかりの翼。
より太く、大きくなった手足。
家すらも飲み込めそうになった巨大な顎。
一回り……いや、二回りはでかくなっている。
陸上生物の大きさの限界はとうに超えているはずだが、悠々と空を塞ぐその姿は紛うことなき現実。あまりのスケール感の違いに目眩がする。
と、呆気に取られていると、ふいにその視線に影が割って入った。
淡く光る幾何学模様……魔法陣か何かだろうか。いつの間にかそれが宙にあって、その上にやつが立っていた。
やつは、リヒトはその黒竜から激しく吹きつける風を一身に受けながら、ゆっくりとこちらを向く。
これだけのカードを持っていたのだ。さぞ勝ち誇った顔をしているのだろうと思ったが、その表情は意外にも重く険しい。
「────」
やつはそうしてこちらを汚いものでも見るかのように一瞥した後、ふいと黒竜に向き、右手を高く上げた。
それと呼応するように、黒竜が天に向かって吠える。
そうして鋸でギリギリと耳の神経を削るような咆哮を散々地上に振らせた後、黒竜はぴたりと鳴くのを止め、こちらを向いた。
文字通り、本当にこっちだ。
思わず喉が引きつった。距離はかなり離れているはずなのに、間違いなく目が合った。
そしてやつはこちらを見下ろしたまま、突然その大きな口で周囲の瘴気を吸い込み始めた。
何をしようとしているのかは、何となくわかってしまった。
黒炎が来る。おそらく、先程とは比べ物にならないものが。
もうすでにどこかへと消えてしまっていたが、最後に見たリヒトの顔もそれを物語っていた。やつはもう、これで終わらせるつもりなのだ。
相手がでかすぎて見誤りそうだが、やつはこれまでと違い、完全に俺達の手が届かない程の上空に陣取っていた。この距離では満身創痍のバーンズさんとネイトさんはもちろん、レオナルドさんのあの剣撃でもおそらく届かない。
このままじゃただ蹂躙されるだけだ。──俺達に、魔法でもない限りは。
「──っ」
ティアの口から、声なき声が漏れた。
俺が、強くその手を握ったからだ。
「やっぱり怖い?」
黒竜を睨みつけながら、俺はあえてまた聞いた。
「そりゃそうだよな。ずっと独りで、一つのことだけをやって来たんだもんな。それが否定されるのは怖い。当たり前だよな」
偉そうなことを言っているが、俺にはそんなものはない。だからその気持ちも、何となくしかわからない。彼女のその恐怖を肩代わりしてやるなんてこともできない。
ただ、そんな俺にも一つだけ自信を持って言えることがある。
「俺は信じてる」
俺がそうして彼女の青い瞳を真っ直ぐに見据えると。
揺れる瞳が、俺を見上げた。
俺は彼女のもう一つの手を取り、もう一度強く、それを握った。
「ティアが、絶対に勝つってことを」
そう。俺は信じてる。彼女が、ティアが。ティアの魔法が、絶対に黒竜を打ち倒すと。
しかし当然、そんな俺の軽い言葉などしっかりと届くはずもなく、目の前の青い瞳から迷いの色が消えることはなかった。
「もちろん根拠なんかない。でも、」
だから俺は、そのまま彼女の体を引き寄せ、
「っ!?」
「あ、おい、貴様!」
フージンの抗議の声を無視して、俺は、彼女を自分の胸に抱き寄せた。そして、彼女の耳を俺の胸に強く押し当てた。
「俺の心臓の音、聞こえる?」
急にこんなことをされれば、さすがの彼女も戸惑う。
しかしそれでも何拍か置いてから、彼女はしっかり頷いてくれた。
「あー……何て言うか、どう? うるさい?」
どちらともなく、互いに息を潜めた。自分の胸の鼓動が彼女の耳を打つ感覚が伝わって来て、少し気恥ずかしい。でも俺の気持ちをちゃんと伝えるには、きっとこれしかない。
やがて、彼女は深く呼吸すると、言った。
「しずか……すごく」
そう言って、彼女はその朝凪の湖面のように強く光る瞳を、ゆっくりと俺に向けた。
本当に綺麗な瞳だと、見る度に思わされる。しばらくこの凪に向き合っていたいと思ってしまう心を何とか抑え、俺は彼女にうんと頷いて見せた。
「自慢じゃないけど、俺は勝ち目がないとわかったら即逃げる男だ。そんなやつが、この期に及んでもこんなところに留まれて落ち着いてるのはなぜか。答えは簡単。俺が心の底からティアが勝つと信じてるからだ」
言った先から、我ながらアレだなと思ってしまった。
目の端にもっとマシな文句なかったんかとばかりに目頭を抑えながら頭を振るフージンが見えたが、これはもうしょうがない。見栄も恥もかなぐり捨てなければ、きっと彼女には届かない。
誰か一人でも自分を信じてくれている人がいれば、きっと人は頑張れる。俺はそれを裏切ってしまったことのある人間だが、その時俺は確かに救われて、胸を張って立てたのだ。
「俺はティアが負けるなんて微塵も思ってない。本気出せば完膚なきまでに俺の推しが勝つ! そう思ってる! だから……」
気付けば俺はまた彼女の両手を取り、正面からその青い瞳を見据えていた。
自信持てよ、とか、大丈夫、とか。浮かぶ言葉はあったが、どの口が言ってるんだと思ってしまって最後の言葉が出ない。
だけど、どうか伝わって欲しい。そう願いを込めて、俺は彼女を真っ直ぐに見る。
「────」
彼女は、俺から目を離さなかった。
だから俺も、絶対にそこから目を逸らさなかった。
彼女の手の熱が伝わって来る。熱い。俺の手が熱いのか、彼女の手が熱いのか、どちらかわからない。
「っ」
微かな浮遊感。熱が体中を巡る感覚。しかし頭はきっちりと冴えていて、不思議な感覚だ。
そう思っていたら、浮遊感が一層強くなった。
彼女の髪が大きく揺れ、持ち上がる。
気付けば俺達は、湧き上がる風の中にいた。
叫び出したい程の歓びが俺を包む。彼女の心が伝わって来る。
「……あんなに頑張って来たんだもんな」
本当に、長い間。
「あんな子どもが、遊びたいのを我慢して毎日毎日魔法の訓練。危なっかしいこともいっぱいしたよな。木から飛び降りて無理やり飛ぶ練習をしてみたり、ちょっとできるようになったら今度は谷に飛び込んで……」
情景が目に浮かぶ。小さな彼女が、ホコリまみれになりながら努力している姿が。
最初はまだ転んだだけでもすぐ泣くような年齢だったはず。なのに彼女は、あの日以来一度たりとも泣かなかった。
「嵐の夜には周りの目を盗んで外に出て、暴風と自分の魔法を戦わせてみたりもしたよな。あの日は大変だったなあ。やりすぎて嵐が激しくなっちゃって、さすがに気づかれそうになっちまった。慌ててベッドの中に戻ったもんなあ」
「おい貴様、何を言って──」
横から何やら訝しむ声が聞こえたが、それ以上は耳に入らなかった。
「やっぱりそうだ。負けるわけがねえ」
うんと頷きながらも、俺はあえて聞いてみた。
「こんな感じで、どうかな。やっぱまだ足りない?」
俺のそれに、彼女は口元に笑みを湛えながら首を横に振る。
彼女の優しい声音が、俺の耳を打った。
「──じゅうぶん」
と、彼女がそう答えてくれた、次の瞬間。
爆発的な風が俺達を包んだ。いよいよ足がふわふわと宙を浮き出して、慌てて強く彼女の手を握った。
不思議だ。もう怖くない。あれだけ消そうと思っても、しぶとく自分の中にこびりついて離れなかった恐怖が、嘘のように綺麗さっぱり消えてしまった。
その呆気なさに、私という人間はそんなに単純だったのかと、思わず少し呆れ気味な笑みがこぼれてしまう。
だけど、今ならわかる。私はきっと、ただ誰かに自分を見ていて欲しかったんだ。信じて欲しかったんだ。
どうしようもなく、子どもだ。後で冷静になったら恥ずかしくて死にそうになるかもしれない。
でも今はそれでいい。
だってもう、負ける気がしない。
だから私は、手のひらから伝わって来る、確かなその熱を感じながら。
偉そうに空からこちらを見下ろすあいつを指差し、思い切り宣言してやった。
『こんどは……ぜったいに私がかつ!』