ロールケーキは剥いてから食べる派です。
クリーム色とは、寧ろスポンジの色だと思う。
細かな気泡をたっぷりと含んだまま焼き上げられたスポンジは、見た目だけでもとても柔らかそうだ。
すんすんと匂いを嗅げば、包んでいる乳の匂いに負けない卵の匂い。
焦げ目一つのないそれを掴むと、僅かな抵抗とともに剥がれた。
少しでも力を入れたら潰れてしまいそうな柔らかさを指の腹で楽しみ、口に運ぶ。
ふに、と唇に柔かい感触があったと思えば、口一杯に広がる甘さ。卵の匂いとバターの匂いがくすぐるように鼻を抜けた。
それを楽しんでいる間にも、スポンジは口の中でほろほろと崩れる。
当たりだ。クリームの様になめらかなスポンジが、春子は好みだった。
スポンジが美味しいケーキは絶対美味しい。それが春子の持論だ。
子供の頃は生クリームさえあれば何でも良かったが、大人になるに連れて、寧ろスポンジこそがケーキの良し悪しを決めるのだと思うようになった。
基本はとにかく柔らかいこと。きちんとメレンゲを立てても、粉を混ぜる段階でつぶしてしまったら元も子もない。
生地にたっぷり空気を含んだまま焼いても、きめ細かな泡でないと萎んでしまう。
それはクリームも同じだが、不純物の少なさと泡を消すような工程がない分、あちらの方が誤魔化しが効くと思うのだ。
勿論、好きな人間には一目瞭然なのだろう。が、幸い春子はある程度適当でも満足できる程度の安い舌を持っている。
大体の物を美味しく食べられるのは、幸せなことだと春子は思っていた。
それには健康さえ無視してしまえば、という枕詞がつくが、それを気にしていたら殆どの菓子など食べられない。なので気にしない。
一通りスポンジを剥がせば、次はクリームである。
数年前から主流になってきた巻きの甘いロールケーキは、主役は中身だ。
スポンジの焼き目が残った側面は少々みすぼらしいが、切り口から見える真っ白なクリームには、心が踊る。
スポンジの良さに気付くようになったとはいえ、結局のところ、春子は生クリーム主義者なのだ。ビバ生クリームと叫んで、友人に生暖かい目を向けられたことは一度や二度ではない。
軽く舌を差し込めば、そのまま口に落ちてくる乳脂肪とバニラの香り。スポンジとは違う甘さが、熱で溶け、舌の上に広がった。
「んー」
若草を思わせるフレッシュな香りは、素材の良さを感じさせる。香り付けのバニラが大人しめなのも、それに合わせてのことだろう。
リキュールが使われたクリームの方が春子の好みではあったが、これはこれで美味しい。美味しいものなら何だって春子は好きだ。
スポンジは最高。クリームも上々。
だがしかし、これはロールケーキだ。スポンジがクリームを包んでいるのは、器代わりにするためではない。
単体で美味しいのなら、それだけで出せばいい。美味しいものを少しずつ、にしても、味が混ざって落ちるくらいならその方がはるかにマシである。
それでもなお合わせてきたというのなら、つまり、これが答えなのだ。ならば春子もそれに応えようと思った。
いざ尋常に。心なしか高鳴る胸を抑えつつ、春子は大きく口を開ける。
「…………なあ」
呆れを隠そうともしない声に、春子は口を開けたまま顔を向ける。
カップを乗せたトレイを持つ姿さえも様になる、背の高い男が居た。
男はロールケーキを掴んだままの春子に言った。
「その行儀の悪い食べ方、どうにかならないか」
春子は気にせず齧った。
「ロールケーキを丸齧りする女、初めて見た」
本体だけでも相当な重量を持つだろう大きなカップが、言葉と共に置かれる。
見た目より量の春子に合わせたそれが男の手にあるのを、春子はいつも似合わないなあと思っていた。
「箱ごと渡したのは柊さんです」
「まさか包丁を持ってくる前に食べ始めるとは思わないだろう」
「……だって、柊さん甘いものあまり好きじゃないから、食べないかと」
「別にここで食べなくても、持ち帰ればいい」
「確かに!」
本当に思い浮かばなかったらしい。
そんな春子を見て、柊は溜め息を溢す前に、手の中にある珈琲を啜った。
自分の失態に気付き、春子もまた、紅茶を口に含む。
風味豊かなアールグレイが舌に残るクリームとバターの脂っぽさを中和してくれる。が、やはり渋味を強く感じてしまうのは仕方ない。
相性が悪い訳ではないが、クリーム系には珈琲の方が合うよなあ、と春子は思った。
「私齧ってますけど、反対側食べます?」
「いい」
「すみません、食べる前に聞けば良かったですね」
「さっきの春を見ているだけで口の中が甘くなった」
「うわ、すみません」
そこまで思わせてしまったのなら仕方ないので、春子はケーキを箱に戻す。
だが、半分以上食べ尽くしているため、隙間の方が目立っていた。
箱の中で動くのは間違いないだろう。とはいえ、多少つぶれたとしても春子は気にしないが。
どうせケーキは生ものなのだ。時間が経って固くなるのも、つぶれて固くなるのもそう違いはない。
一番美味しい時を思う存分楽しめたのだから、春子は満足だった。
「貸せ」
上部を被せたところで、柊はケーキの箱を取り上げた。
そのままキッチンに消えていく柊を見送りながら、春子はカップを傾けた。
渋さが舌を刺した先程とは違い、ベルガモットの香りが口の中に広がる。
甘いのに苦い。よく言えば不思議な、はっきり言えば中途半端なその香りは、最近の春子のお気に入りだ。
(ベルガモットの匂いの柔軟剤とかあればいいのにな。もしくはジャスミン)
人工的なバニラやベリーの匂いよりもよっぽど美味しそうなのに。
春子の思考は大体世間とズレていた。
昔から言われてきたそれを、けれど春子は直すこともなく、今日に至る。
珈琲の匂いが広がる部屋で飲む紅茶は何だか変な気分になる。
春子に渡されるカップの中身は、いつも紅茶であった。
最初に紅茶が好きだと言った手前、いつだって春子は何も言わずに紅茶を飲む。気を使われていることには代わりないのだ。
手間は掛けさせているし、春子自身、はそういうのは要らない。だが、敢えて水を差す必要はないだろう。
そうして男に紅茶を淹れさせるのが、もうすぐ両手の指では足りなくなることには、気付かない振りをしていたい春子であった。
戻ってきた柊が手提げの付いた紙袋を春子に差し出す。
ずっしりと重い袋の中を覗き込めば、先程より短くなった箱が見えた。
「ぱ、ち、っさー……じゃない、てぃす。ああ、パティスリー。……え、もしかしてちゃんとしたお店のだったんですか?」
「さあ……目に付いた店に入っただけだから、よくわからない」
「別にチェーンとかでもいいのに。お店の名前は?」
「覚えていない」
柊の言葉に春子は視線の先を箱に戻した。
棒を組み合わせたような文字で記された『Patisserie』の後に続くだろう文字は、細い直線を残して、ぷっつりと黒い側面に覆われている。
B、D、E、F……。
そこまで頭に浮かんだところで、春子は考えることを止めた。
代わりに、きっちり90度に組まれた三面、その鋭い頂点を指の腹に軽く埋める。
そのまま小さく指を動かしたが、急拵えで作られた筈のそれはびくともしない。
春子は感嘆の声を上げた。
「器用ですね」
「普通だろう」
当たり前のように返された言葉にもう一度「そうですか?」と聞く。
そして、また当たり前のように「そうだ」と返されば、もうこの話は終わりだった。春子と柊は、会話を楽しむような関係ではない。
春子が柊に甘いものを要求し、柊はそれを差し出す。
それだけならいいのにな。
春子は常々思っているが、そもそもそれに至るまでの前提があってのその関係だ。どれだけ馬鹿だ頭が軽いと言われても、口に出す程は愚かでなかった。
「――――四十代くらいの男」
柊が呟いた言葉に、春子は顔を上げる。
「大通りから外れていたから、人気はなかった」
「そうですか」
「でも周りは結構綺麗だったな」
「そうですか」
「参考になったか?」
そうですね、と言葉を返した春子は咳をした。
こふこふと空咳を繰り返し、頭がくらくらし始め、気が済むまで咳き込んだ後、深呼吸をした春子は柊を見上げる。
「定期の範囲内なら、行くかもしれません」
「そうか。駅から10分くらいだし、丁度いいぞ」
「そうですか」
「あと、そうだな」
その後続いた言葉はあまり日常で聞くことはない。
春子は蓮根の天ぷらは好きです、と言おうとして、止めた。
帰宅した春子は箱を開ける。
食べかけのロールケーキに保冷剤。そしてケーキと逆の端に寄せられたオレンジ色。
その中でぽつんと乗せられた緑が、とても美しいと春子は思う。
そして、でもゼリーは次の時に出してくれればいいのに、と思いながら殆ど味のしない葉っぱを食べた。
『――平和な町に、恐ろしい事件が起きました』
流しっぱなしのニュースが次の話題になったのを、春子はターンテーブルの上で回るマグカップを眺めながら聞いた。
『昨日22時頃、付近の住民から「人が死んでいる」と通報がありました。警察の調べによると、被害者は○○区の会社員、××さんと判明しました』
画面の中には、ぽつぽつと白髪が混ざり始めた短髪の男が映っている。
殺害された××さん(44)と写し出された画面を見ながら、こういう写真はどうやって手に入れるんだろう、と春子は思った。
『被害者の身体には数十ヶ所にも及ぶ刃物によると思われる刺し傷があり、警察は』
チン、と電子レンジの高い音が響く。
中のカップを取り出そうと手を伸ばした春子だったが、思っていたより持ち手が熱かったらしい。
寝間着代わりのスウェットの袖を伸ばして掴み、膜の張ったホットミルクを啜った。
『怨恨の線で捜査を進めています。付近の住民によると、現場は人通りの少ない路地で――』
紺色の作業着を着た男達が動く映像の中に、見覚えのある棒文字を見つけた春子は、あ、と呟いた。
『――都市に認められる程治安が良い町であり、付近の住民達には不安の色が広がっています』
次のニュースです、とアナウンサーが声音を変えたところで、春子はテレビを消した。
そして、普段からスリープモードのパソコンを立ち上げ、検索エンジンを出す。
そのままキーボードを叩いた指先が止まった。
「……いの?いーの?いのー?」
検索結果に表示された『Patisserie Ino』。
その表記の数に気付いた春子は、そのままパソコンを閉じる。
定期外ですから、と誰に聞かせるわけでもないのに言い訳をした。
どれにせよ、春子があの駅で降りるつもりはない。
すっかりぼそぼそになったスポンジを齧りながら、次は何だろうな、と春子は思った。