第4話:追憶
赤い記憶がある。
夕暮れに染まる部屋。テーブルの上の熟れた果実。
俺が8つの時、マジュはまだ赤ん坊だった。
やさしい両親に囲まれ、何不自由なく暮らしていた。
星都のはずれにあるごく平凡なマンションの一室。
そこが俺にとって世界の中心であり、すべてだった。だが…
ある日突然、置手紙一つ残して両親は姿を消した。
何の前触れもなく、俺たち兄妹の前からいなくなった。
星都が大災害と暴動によって崩落した直後だった。
2日ほどして、伯父だと名乗る男がマンションを訪ねてきた。蛇のような目をした感じの悪い男だった。
伯父は俺とマジュを車に乗せると、何も言わずにマンションを後にした。
俺たち2人の後見人となった伯父夫婦とは何かと反りが合わなかった。
もともと両親の残していった金が目当てだったようで、まともに世話を焼かれた記憶がない。
マジュの面倒をみながら学校へ通った。
夜は夜鳴きがうるさいからと殴りつけられ、食事すら与えられない日々が続いた。
けれど感傷に浸っている余裕はなかった。
マジュのため、自分のため。
ただ、悔しかった。
ストレスのはけ口として理不尽に暴力へと訴える伯父。
それに対抗できない非力な自分。
何も語らず姿を消した両親。
俺がマジュを連れて新居を飛び出すまでにたいして時間はかからなかった。
幸せだった頃の思い出に縋り付いて、ひたすらマンションへの道のりを歩いた。
春の長雨。
空腹と疲労で動けなくなった俺は泣き止まない曇天を仰いで冷たいアスファルトに身を預けた。
マンションまであとどれくらいだろう?
なくなってはいないだろうか?
もしそうだったら、もうどこにも行くあてがない。
朦朧とする意識の中、誰かが俺の体を抱き上げる感触がした。
久しぶりに味わう誰かの体温。
「こんなところで寝てると風邪ひくぞ、ガキ。」
父親とも伯父とも違う、初めて耳にする声。
大きな手のひらのごつごつした手触り。とてもあたたかい。けれど…
「…酒クサイ…」
ぽつりと呟いた俺に、男は豪快に笑い返した。
それが、福禄寿との出会いだった。
青い記憶がある。
真っ青な空の下。それ以上に真っ青な海。
買ったばかりの相棒でドライブした帰り道、浜辺で一休みする俺とマジュは潮風に吹かれ、蒼穹を仰いでいた。
「ごめんね、お兄ちゃん。」
「? なんだよ、いきなり。」
「ん、うん…」
マジュは困ったように俯いて、自嘲気味に微笑んだ。
「お兄ちゃん、わたしの面倒をみるのが忙しくって自分の時間がほとんどないでしょ?お兄ちゃんかっこいいんだし、もしわたしがいなければ彼女とか作れて、もっと自由に…、」
また始まった。
マジュの悪い癖がでた。困ったもんだ、まったく。
「あほたれ!」俺はマジュの頭を手のひらでぐしゃぐしゃにかき回す。「お前がいなかったら、誰が俺に特製ハチミツ丼を作ってくれるんだよ?」
「あれ…そんなにおいしい??」
「絶品だね。」
くすり、とマジュが笑った。
「そっか。そっかぁ…」
うれしそうに何度も何度も呟いた。
その笑顔が、とても愛しかった。
いつか、2人の安全のためにもオトシボシを離れようと相談したことがあった。
けれどマジュはそれを受け入れなかった。
両親の記憶などほとんどないマジュにとって、あのマンションだけがかけがえのない思い出だったのだろう。
もしかしたら、あそこにいればいつか両親が戻ってくると思っているのかもしれない。
だから俺はオトシボシを捨てられない。
例え危険な場所であろうとも。
俺は強くなって、マジュを守り続ける。
そう、誓った。