第1話:カイマク
「…悪ぃ。今なんつった?」
ホットミルクにハチミツを大量に流し込み、綺麗に装飾された銀のスプーンでかちゃかちゃとかき混ぜる。立ち昇るあまい香りに眠気が増した。やはりここはコーヒーにしておくべきだったか?とびきり苦いやつに。
「だ・か・ら!最近変なウワサが学校中で流れてるの!オトシボシの方でゾンビが出たとか、でっかい昆虫オバケが人を襲ったとか!」
くるみ色の長い髪を揺らしてヒスイが俺に詰め寄った。
その目は実に真剣で、冗談を言っているようには到底思えないのだが…話の内容が内容だけに、俺は彼女の言葉を話半分で聞いていた。
人の噂なんてものは大概あてにならない。現にヒスイの話は小学生にさえ鼻で笑われそうなB級ホラー映画なみのチンプな内容だ。ゾンビ?巨大昆虫?そんなもんがいるならぜひ拝んでみたいもんだね。
「はいはい、分かったからお前は弟の勉強の邪魔にならないようにそこらへんで大人しくしてなさい。もしくは俺のタバコでも買ってきなさい。」
ぽんぽんとヒスイの頭を叩く。実に軽そうな音がするぞ。大丈夫か?
「なによ、全然信じてないくせに!水晶なんか糖尿病か肺癌にでもなっちゃえばいいのよ、この甲斐性なし!」
「…このやろ、言わせておけば…」
と、俺が言い掛けた頃にはすでにヒスイの体はドア付近にあり、憎たらしげにあっかんベー的なポーズをとっている。次の瞬間、ドアは乱暴に閉められた。
部屋全体が静寂に包まれる。ちらりと壁時計に目をやると、時刻は22:00をまわったところだった。
「あーあ。ミアキ先生ってば、また姉ちゃんのこと怒らせちゃった。駄目だよ〜、姉ちゃんは思考回路が単純なんだから。感情の起伏も人より激しいって、先生も知ってるでしょ?」
整頓された勉強机に腰掛けた少年が、困ったように笑った。
ヒスイと同じ色の髪は猫ッ毛で、やわらかそうにふわふわと揺れている。俺が家庭教師として週2回ほど教えている可愛い教え子だ。名前はコハク、小学5年生。
「もちろん知ってるさ。怒るのも冷めるのも早い。だからこそ…おもしろい。」
「…先生って、時々子供みたいだね。」
ニコニコ顔のコハクは急に真剣な顔つきになると、握っていたシャープペンシルを広げたノートの上にことりと置いた。
「でも、姉ちゃん本気で心配してるんだよ。あんなふうに強がってるけど。オトシボシって、ミアキ先生が住んでる地区でしょ?最近はますます治安も悪くなってるみたいだし、先生は強いから大丈夫かもしれないけど…その…姉ちゃん、先生のことが」
遮るように、俺はコハクの頭に手のひらをのせる。
「ああ、分かってるよ。コハクやヒスイには感謝してる。けど、余計な心配は無用だ。もうすぐテストだろ、今は勉強に集中しろよ。でないと俺がご両親に顔向けできんからな。」
「はぁい」
こくんと頷いたコハクは、再び問題集に取り掛かった。その小さな後姿が、なんとも頼もしく感じた。
23:00。
いくら家庭教師のバイトとはいえ、相手は小学生。夜更かしはよくない。定時に帰路へとつこうとする俺を、コハクとその母親が玄関先まで見送りにきてくれた。
「おやすみなさい、ミアキ先生。」
「おやすみ、コハク。それじゃ、失礼します。」
コハクと、傍らで微笑む母親にぺこりと一礼する。ドアノブに手を掛ける。がちゃり、冷たい金属音。
「!」
玄関のドアを開くと、そこにヒスイの姿があった。何か言いたげにじっと俺を見つめている。
さては、まださっきのことを怒っているのだろうか?
「…風邪ひくぞ、んなとこにつっ立ってると。」
季節は夏の終わり。まだまだ暑い日が続くが、夜は結構冷え込む。家に入るように促した俺に、ヒスイは首を横にふった。唇が微かに開かれる。
そうして、搾り出すように言葉を発した。
「ちょっと、付き合ってよ。」
俺の返答も聞かずに、ヒスイはさっさと歩き始めた。夜道を一人で歩かせるわけにもいかないので、しかたなく着いていくことにした。