そして、24歳
「どう言う事だ?」
ククから流れ出る涙は止まらない。
「私がこの事を教えたんだからさ、涼君は、その運命から逃げる事が出来るじゃない」
「え?」
ククの言っている事が、すぐには理解できなかった。だがそれは、至極当然な考えだと気づく。そう、知っているのなら、その日を逃げてしまえばいい。それは、もっともな考えだ。だが、何かおかしい……。
「クク?」
ククの顔は、悲しい微笑みを湛えたままだ。その奥に、一杯の悲しみを押し隠している、そんな顔だ。
「僕が逃げたら、それからどうなるんだ?」
ククの顔が凍りつく。唇は引きつるように笑った形のまま、瞳は煌々と見開いている。
「何で、そんな事、聞くの?」
「え、何でって……」
「聞かれたらっ! ……答えなきゃいけないんだから」
ククは、下を向いて叫んだ。そして、そのままゆっくりと、しゃべり始める。
「……涼、君が……、この運命から、逃げたら……、美玖ちゃんが、死ぬよ」
――美玖が?
ククの言葉が理解できないまま、必死で飲み込もうとする。だが、重たい思考は砂のように、口の水気だけを奪って、体の中には入ってこない。
「だって、涼君は……、美玖ちゃんを、助ける、為に……」
ククの声は、掠れて張り付いて、よく聞こえなかった。でも、伝えたいだろう気持ちは、全部伝わってきた。
自分でも、何て言ったらいいかわからなかった。ただ、全てを嘘だと思いたい自分が、逃げ出したい自分が、心の中で暴れ狂っている。それを、必死で繋ぎとめていたのは、ククを信頼し、美玖を大事に思う、自分だった。
「ね?」
ククは、そこで顔をあげた。もう、何も隠そうとはしていない。そこには、顔をぐしゃぐしゃに濡らしたククの顔があった。
「こんなの、聞いちゃったらさ……、涼君、絶対に、逃げないもんね、逃げられないもんね」
そしてククは顔を抑えて、静かに静かに、しゃがみこんだ。
「……なかった」
ククの微かな嗚咽に混じり、消え入りそうな言葉が、何度も聞こえてきた。
――言いたくなかった……。
そう、聞こえてきた。
しばらく僕は、どうしていいのかわからず、ククを眺めていた。ベッドに力無く座り、ぼんやりと、天井を眺めたりもした。
――僕、死ぬのか……。
頭にまず浮かんだのは、驚く事に、自分が10年後に死ぬと言う恐怖より、美玖を死なせる訳にはいかないと言う、不思議な使命感だった。
「ごめんね……」
少しして、ククは顔を拭いながら立ち上がった。そして、先程の言葉を繰り返す。
「言ったでしょ、分岐点だって……」
そこでククは、ちょこんと僕の隣に座った。
「こんな、恐怖を抱えたまま生きていきたくないでしょ?」
「え?」
「簡単だよ。運命は変えられないけど、私の事が見えなくなれば、全てを忘れて、その日まで明るく過ごせるよ」
ククの声は努めて明るくしているように聞こえた。
「それって……ククの存在を、忘れるって事か?」
「うん、言ったでしょ? 死神はその存在が見えなくなれば、それまでの死神の記憶は全部忘れるって……」
ククはこっちを向いて、一つ頷いた。
「でも……、涼君は、肯かなかった」
桃色の世界の中で、ククは、嬉しそうにも寂しそうにもとれる声を出した。
「ククが見えなくなるのは嫌だ! 僕はククを忘れたくないし、美玖も守りたい! だから、何もしなくていいんだ!」
「そ、そんなかっこよく言ったっけ?」
「わかんない、少し大げさかもしれないけど、私の目には、こう映ったんだもん」
その時、ククは僕の元へ来て、いきなり抱きついた。
ククの体は、軽かった。
「嬉しかった……、でも、辛かったよ……」
「クク……」
背中に手を回す。その髪を指で梳く。頭を撫でてやる。背中をトントンと叩く。
今まで出来なかった事が、全部出来る。手を触れられなかったククに、僕は今、手が届いている。それは、自分が死んだ事も忘れてしまうくらい、愛おしく感じた。
「クク」
名前を呼んで、顔を前に持ってくる。それから、泣いている顔を手で拭ってやる。
「ごめんね……、涼君……」
「謝る事なんか無いだろ」
「でも……」
「クク」
「……うん」
そう言うと、ククは自分の顔を両手でゴシゴシと擦った。
僕は少しククから体を離し、言った。
「ククさん」
座っているククの前で、跪くポーズを取る。
「今夜は、私と、踊って戴けませんでしょ……」
「えぇ、喜んで」
ククはすっと僕の手を取ると、そのまま立たせた。ククの手が、僕の腰に触れる。僕もそれに倣う。
「最後まで言わせろよ」
「ごめんね、何か、……嬉しくって」
涙が零れそうなのに、顔は満面の笑みだった。
周りの空気が急速に軽くなり、時間は緩やかになった。
音楽は何も無いし、普段はあった僕の足音もここには無い。あるのは、ククと僕の声と、僕達が紡ぎだす独特の空気。それは、僕とククが長い時間をかけて作ってきた、空気だった。
ククの指は、こんなに細くて綺麗だったんだ。腰回り、やっぱり改めて触れると緊張するな。笑顔はいつもと変わらないのに、何で、こんなに、暖かいんだろう……。
今まで気づかなかったものが、次々と体に染み込んでいく。それは、喜びだし、寂しさだった。これが、最期のダンスになるのかなと、ぼんやりとでも思えば、寂しくもなる。
『お兄ちゃん、死んじゃやだ!』
瞬間、美玖がベッドの横で、僕の手を握っている姿が浮かぶ。その手には、美玖に買ってもらった腕時計。傍らの心音計は、あまり大きくはない数字。両親も、逆側に座っている。
ダンスの足を止めずに、左手に目をやる。時計は、僕の腕にはまっていた。だけど残念な事に、その時計はもう止まってしまっていた。
――みんなにも、迷惑かけるな……。
「ダメ……」
そこで、ククは足を動かすのを止めた。そして、僕の顔を見ながら言った。
「やっぱり……、ダメだよ……」
その顔は、再び涙で濡れている。
「クク?」
「ダメだよ、涼君は、こんな所で終わっちゃダメ! もっと、もっともっと一杯、沢山のものを見て、聞いて、触って、一杯一杯、沢山の人と出会って、色んな事感じて、一杯、恋もして……、ダメだよ、涼君は、……終わっちゃダメだよ」
ククは、搾り出すように言った。
そしてそのまま、僕の事を抱きしめた。強く、強く抱きしめながら、耳元で囁いた。
「私が、涼君の命になる……。だから、生きて」
耳を擽るその言葉を、僕は、心のどこで聞いていたんだろう……。
――うっ……。
体中に痛みを感じた。まるで、自分の体が別のものになってしまったみたいだ。
ゆっくりと開けた瞼の重みは、瞼の上にバーベルでも乗っているのでは無いかと思うほどだった。
「おにい……ちゃん?」
美玖は、変わらずに僕の手を握っていた。
――美玖、膝、大丈夫か?
言いたかったが、言葉にはならなかった。
美玖は僕にちょっと待っててねと言うと、廊下へと駆けて行った。遠くから、お母さん、お兄ちゃんがと言う声が聞こえてくる。
美玖が握っていた手を見ると、昨日貰った時計が目に付いた。表面はヒビだらけなのに、何故だか針は動いていた。
『24歳』
今日は、美玖の高校の卒業式だ。
「お兄ちゃん、写真撮って、写真」
美玖の卒業式に、母さんだけではなく、何故か僕までが付き添っている。確かにお兄ちゃんも来てとは言われたが、それでのこのこ着いて行くんだから、シスコンだと言われても否定できない。
「お兄ちゃん、今度はあっち」
「はいはい」
今日はもうすっかり、美玖の専属カメラマンの名を欲しいままにしている。でも、そんな名前本当はいらない。全然いらない。
「あんたの卒業式の時と、あんまり変わらないねぇ」
母さんは校舎を見渡しながらそんな事を言っている。そして再び感慨深げに美玖を見る。
「あ、お兄ちゃん。ちょっと待っててね」
そう言うと、美玖は向こうにいる女子の集団に混ざっていった。その集団は最初は囀っていたが、すぐに解散して、美玖はその傍にいた男の所へと向かう。
「あれ美玖ちゃんの恋人かしらね?」
母さんが横で嬉しそうに呟く。ああ、そうかもねと適当に返すが、僕もそれは気になる。後で聞いておこう。
「それにしても、涼も無事に就職も決まったし、美玖の大学の合格発表が終われば、一段落ね」
「美玖なら大丈夫だと思うよ」
あいつは、僕が入院していた時のベッドの横でも、必死に参考書を広げていたから。
結局僕は、8ヶ月程入院生活を送る羽目になった。そのお陰で、普通の学生よりも少し長いキャンパスライフを送った。卒業後、地道な就職活動の末、大きめの食品量販店に就職が決まった。
この結果をどう見るかは人にもよるが、両親も美玖も相変わらず大仰に喜んでくれた。
「じゃあ、母さんはご馳走の用意してるから、先に帰るわね」
「ああ、うん」
そう言うと、母さんは人込みに紛れて行った。
程なくして戻ってきた美玖にご馳走の事を伝えると、飛んで喜んだ。
「さっきのが、彼氏か?」
「ううん、もう違うよ。こないだ別れたの。彼、大学の都合で北海道に行くらしいから、しょうがないんだけどね」
「そうか」
あんなに小さかった美玖が、今や男を振るようになったか。
「あ、お兄ちゃん、ちょっと行ってくる」
そう言うと、美玖はまた別の女子の集団に混ざりに行った。
ふと周りを見ると、そこは昔僕が使ってた教室の前だった。
――懐かしいなぁ。
中に入り、自分が座っていた机のとこまで歩く。昔の空気と今の空気が、同時に体の中に入ってきて、それが今と昔が同時に流れているように錯覚させる。
この教室にも、ククと一緒に過ごした思い出が一杯だった。
あの日以来、ククが僕の前に現れる事は無くなった。僕がククを見えなくなったのかとも思ったが、僕はまだククの事を覚えている。だから、僕の目の前にいないだけで、どこかにいる事は確かだった。
彼女の言葉を思い出す。
『私が、涼君の命になる……。だから、生きて』
ククが、僕の命になってくれている。それは、僕の中に存在し、僕と共にあると言う事なのだろう。ククの事を思うと、ふわりと心が軽くなり、胸の奥が暖かくなる。決して触れる事は出来なくても、その温もりは確かに伝わる。そう、僕とククの関係は昔から、そしてこれからも、何も変わりはしない。
「お兄ちゃん、お待たせ~」
美玖に呼ばれて教室を出ると、外の人数は大分減っていた。
「さて、帰りますか」
「これから、友達とどっか行ったりしないのか?」
「あー、そう言うのは、明後日。今日はもう疲れたから」
美玖はそのまま歩き出した。僕もその後に続く。
「美玖も、もう高校卒業か。早いなぁ」
「そうだよ、いつまでも子供じゃないんですからね」
得意気に言う美玖は、何だかとても上機嫌だった。
「そうだな、もう大人なんだもんな」
「うーん、まだ大人になりたくない気もするんだよねぇ」
僕はそこで、得意気に言ってやった。
「じゃあ、あれだ。レディーなんだな」
そう言うと、美玖はそこで、何言ってんの、と笑った。
「女の子はね、みんなレディーなんだよ。生まれてから死ぬまで、ずーっと」
そして、わかってないなぁ、お兄ちゃんと得意気に付け加えた。
――ああ、そうか、結局僕は、何にもわかってなかったんだな。
自嘲気味なその言葉が、何故か優しく感じた。僕の中のククが反応しているのかもしれない。
美玖の後を歩きながら、ふいにククの顔が目に浮かんだ。僕はきっとこれからも、ちゃんと歩いて行けるだろう。力尽きた時には、またククに会えるかもしれない。そう考えると、死ぬのが怖くなくなる、魔法の呪文だ。勿論、僕はまだ死ぬつもりは無い。ククと一緒に、生きていく。
梅の季節も終わり、また今年も、桜の季節がやってくる。




