フィーネ
歩道橋に青年の姿があった。
彼は何時間も線路を見下ろしていた。
無地の黒いスーツが十月の夕陽に照らされ薄橙に染まる。
斜めに皺の走った紺ネクタイに、履き潰してぺしゃんこになった黒靴、垂れた左手首の腕時計の隙間から、いくつかの自傷痕が覗いた。
真下を姫路行きの新快速電車が通り抜ける。その拍子に、左手から紙がこぼれ落ちた。
A4版のハローワーク紹介状だった。
遠くで警笛が聞こえ、加古川行きの快速電車が向かってくるのが見えた。
「もう、行かなくちゃ」
青年は呟くと、足を一歩踏み出す。囲障の向こうで迎えるのは、純粋な死であった。
自殺する寸前、世界からは一切のリアリティが失われる。現実感を亡くした身体が、在るべき姿に還ろうとするのだ。
思考から肉体が離れゆき、自動的に動き始める。
と、そのとき、誰かが背広の裾を引っ張った。
青年の予定はひとまず中断された。
「死んじゃダメ。お兄ちゃんはまだ、神に選ばれてないんだから」
振り返ると、立っていたのは幼い子供だった。
小学校低学年に見える少女は、青年を真正面から見上げてにこりと笑った。
真っ白なワンピース姿で、真っ赤なランドセルを背負う少女。それはどこか異様で、現実的ではない雰囲気を装っていた。
青年は目の前の少女が幻覚に過ぎないことを悟った。
「そうだよ。僕は選ばれなかった。だから死ぬんだ」
積み上げられた百数枚の履歴書が、静かに崩れてゆく。
今まで積み上げてきたと思ったものは、ただの幻想だった。
青年の選び取った死の選択は、失われた可能性の帰結に過ぎなかった。
「お兄ちゃんは、命を捨てて何がしたいの?」
「もう何もしたくないんだよ。消えてしまいたいだけさ」
ふうん……と答え、少女はランドセルを降ろした。そして中からチョコパイを取り出して、もぐもぐと食べ始める。
少女の幻覚が消えてしまうまえにと、青年は口早に言葉を繋いだ。
「僕は気づいたんだ。生と死は等価値だって。将来を悩んでエントリーする会社を選び、明日の面接を心配して眠れなくなる。そして不採用通知が届くたびに、思い描いた未来が閉ざされてゆく。僕は何のためにこんなことを続けているのだろう。この先に進めば、何があるのだろう。人はいつか死ぬ。死という現実から目を逸らし、未来という幻覚のために生きている。なんて滑稽なんだ。人は努力して、苦しんで、幻影を捕らえようと手を伸ばす。でも道の先では、死が手招きして待っている。そう、生きることと死ぬことは同じなんだ。僕は悟った。だからもう――、頑張りたくないんだ」