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一番初めに目に入ったのは、暖炉の暖かな火だった。

暖炉で薪が燃える様子を実際に見たのは初めてだったからだろうか。恵美は、その様子にしばし見とれ、きれいだなと思った。

そして、暖炉から視線を動かしていく。ひどく頭が重い。頭痛だろうかと思い、そういえば、先ほど突如眩暈に襲われたのだったと思い出した。

体を動かすと、自身にかけられた布が床の上に落ちた。暖炉から見て正面に位置するソファに寝かされていたらしい。手を伸ばし、布を拾う。拾ったそれは、しっかりとした厚手の生地で、細やかな刺繍が施されていた。

ふるりと体が震えるのを感じ、恵美は体を起こしながら拾った布を体に巻きつけた。視界をさらに広げていく。自身が寝かされたソファのそばには小さな机がある。机の上にはなにもない。頭痛を抑え、体ごとソファの背側に視線を向ける。ダイニングテーブルと二脚の椅子が見え、その向こうに鍋が置いてあるのがかろうじて見えた。キッチンだろう。

左側の壁に沿うように置かれた書棚の上には、小さな箱が置いてあるのが見えた。

恵美はそっと息を吐く。

ここはきちんとした人の住む家だ。清潔で、しっかり生活感がある。


次に、恵美は自身の様子を確認した。高校の制服であるセーラー服は、寝ていたせいか軽くしわになっているがきれいなもので、紅色のリボンも解けることなく胸の上にとどまっている。左手につけた腕時計もそのままだ。軽く腕や足を動かすが、どこも痛めていないようだ。


ここまで確認して、恵美はようやく安堵した。

自分の身は安全だ。頭痛も、ありがたいことに収まってきている。

それなら、次にやることは一つだけ。


「・・・考えなきゃ」


ここがどこなのか。自分がなぜ、ここにいるのか、ということを。




いつもと同じ、日常だったはずだ。



いつもと同じ時間に起き、母親とともに朝食を食べた。歯磨きや洗顔は簡単に済ませ、部屋へと戻った。四月に袖を通したばかりの、まだ新しい制服を着て、丁寧に髪を梳き、一つに結んだ。眉の形を確かめ、唇にリップクリームを塗った。高校入学祝にもらった腕時計を付け、鏡で全身を確認した。そして部屋を出て、妹の部屋へと向かった。まだ寝ている妹を起こしてから、家を出た。通う私立高校へは電車で三十分。自宅の最寄り駅まで徒歩で向かった。


思い返しても、どこに非日常があるだろうか。変わったことなど何もない、と恵美は思う。


歩いている途中に、軽い眩暈を感じ、目を閉じた。

恵美の思い当たる非日常は、それだけだ。


眩暈を感じ、目を閉じた一瞬の間に、だれかに薬でもかがされて、拉致されたのだろうか。

一般家庭の自分を誘拐したところで、身代金に期待できそうもないが、身代金目的の誘拐だろうか。


恵美は、暖炉で薪が燃える様子をじっと見つめる。太陽ほど眩しすぎない、蛍光灯のような白々しい明るさでもない。暖かで優しい光だ。


恵美は、その考えを否定する。

『部屋は、そこで暮らす人の、人となりを映す』祖母の教えだ。

この部屋には悪意が感じられない。



では、なぜ、自分はここにいるのか。


堂々巡りとなる考えに、恵美は嘆息した。


「分からないなら、考えても無駄かしら」

柔らかなソファに深く背を沈ませた。

目を閉じると、薪が燃えるぱちぱちとした音が心地よかった。





静かに薪が燃える音が、一瞬激しくなった。

恵美は目を開け、軽く頭を振る。少しうとうととしていたようだ。

暖炉へと視線を向けると、女の後姿が見えた。

女は、火力の衰えた暖炉に薪を追加しているようだ。細長い棒のようなものを使って、薪の様子を整えている。

炎が一定になり、満足がいったのか、女は小さくうなずくと振り返った。


「あら」


ソファで様子を見ていた恵美と目が合うと、女は驚いたように目を丸くし、すぐに微笑んだ。

「起きたのね。よかった」

女の銀色の髪が、暖炉の炎で柔らかな橙色を帯びて輝いていた。



女は恵美をダイニングテーブルのほうへと誘い、恵美を椅子に座らせると、女自身はキッチンへ立った。

湯を沸かしながら、茶器の用意をしている。

恵美はその様子を見つめた。


女は、美しかった。

恵美は、もちろんこれまで、きれいやかわいいと思う人と出会ったことは何度かある。しかし、女は、その言葉より、『美しい』という言葉がよく似合った。

銀糸の髪は、まっすぐ艶やかで、腰まで伸びている。彼女が動くたびにその髪が揺れ、煌めいた。蒼色の大きな瞳に少し高めの鼻、ふっくら柔らかな唇は、今常に微笑みを浮かべている。まろやかな鎖骨が見える丸首の上着には金糸の刺繍が鮮やかだ。スカートは足首までの丈でふわりと動くたびに裾が揺れる。


「お腹はすいているかしら」

女はダイニングテーブルの中心に、クッキーを置いた。そしてカップにお茶を入れ、それを恵美の前と、その反対にある椅子の前に置いた。

「お砂糖はいる?」

女は、恵美の返答のない様子を気にする様子もなく、笑みを浮かべたまま角砂糖の入った小さな壺を棚から取出した。そして、角砂糖を一つ、女自身のお茶の中へと入れた。


お茶は、少し緑がかり、ほのかな芳香がある。ハーブティなのかもしれない。

恵美は、女が口を付けたのを見てから、砂糖を入れずにお茶を飲んだ。

ほんの少しの渋みの後に感じる甘みと花の香り、そして温かなお茶が恵美の体に染み渡たり、恵美は緊張から強張っていた体が緩むのを感じた。

クッキーにもそっと手を伸ばす。

素朴な味だが、とても美味しい。


恵美が人心地付いたのを見てか、女はカップから手を放した。


「さて」


女は首を傾げた。さらりと銀の髪が肩から滑り落ちる。

蒼の目にじっと見つめられ、恵美は身じろいた。


「何から聞きたいのかしら?」


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