狐の苦いシロップ
この小説は、
プーランクの『クラリネットソナタ』第二楽章をモデルにしています。
(※動物の擬人化にご理解のない方の閲覧はお控えください。)
(俺は、……ここで死ぬのか……?)
冬の空は、温かい日差しが時折、雲間から降り注ごうとも、
どこか物憂げだった。
吹き抜ける風は冷たく、ひんやりと肌を撫でる。
生気が尽き果て、花も木も、冷たい風と雨に促され、
誰にも見向きもされないが、ひっそりと眠りにつこうとしている。
そしてまた、延々と広がる人気のない荒れ地を、
ふらふらと覚束ない足取りで歩いている一匹の狐も、
その命を終えようとしていた。
(……っ、きっと、もう少し歩けば、餌にありつけるはずだ……。)
そう思いながらも、心の何処かでは、
もう餌にありつける事は無いだろう、と悟っていた。
そこは、人も、他の生き物もいない、荒れ地だった。
人間の手が入るのを拒むように、
噎せ返るような死の臭いを放つそこには、
枯れ木が数本と、木から落ちた茶色の葉っぱだけしかなかった。
餌など、あるはずがない、分かってはいた。
運良く水にありつけたとしても、それは、死の水だ。
飲んではいけない、飲むと、身体の内側から痺れ毒が回っていき、
身体の感覚がじわじわと無くなっていき、あまり苦しみはしないが、
ゆっくりと死に至るのだ。
そして、死に至る直前、すっかり全身の感覚が消え失せた頃、
走馬灯のように、今までに自分が一番思い出したくない事が、
何度も、何度も駆け巡り、後悔や悲しみの中で死を迎える、
出来れば、味わいたくない痛みだった。
狐は先程から、極度の疲労から、ピタリと足を止め、
その泉の前で立ちすくんでいたのだ。
飢えに苛まれ、絶え間ない空腹を味わい、この世界を恨みながら死ぬか、
感覚が無くなる代わりに、あの忌まわしい思い出を胸に抱いて死ぬか。
しかし、目の前にある泉からは、死をもたらすとは到底思えない、
食欲をそそり、とても美味しそうな、甘い匂いがした。
狐には、それが死の甘美な誘惑だと分からなかったのだ。
それほどに、狐は飢えていた。
たった一滴の水すらも、今の狐にとっては、天上の甘露のようであった。
……ゴクリ、狐は生唾を飲み込んだ。
(俺は、……っ、畜生、……こんな所で……。)
狐は今、孤独だった。
自分の死を誰も看取ってくれない事が、この上なく、悲しかった。
沈みゆく夕日が、狐を優しく照らし出すが、それでも、
孤独は収まるどころか、一層大きな炎となり、狐の心を焦がしていった。
同情も、慰めも、有難く受け止める事が出来なかった。
狐は泉に鼻先を近付け、恐る恐る、クンクンと匂いを嗅いでみた。
すると、何とも心地の良い匂いが、鼻腔から風のように、
すぅっと忍び込んできた。
それは、どんな同情よりも、どんな慰めよりも、
今の狐の心を強く打った。
吸い込まれるように、狐は泉の中に顔を埋め、その水を口一杯に含んだ。
その水は程良く甘く、狐の喉を隅々まで潤した。
と、同時に、味わった潤いはそのままに、後ろ足から前足へ、
じんわりと痺れが広がっていった。
やがて、立ってバランスを取る事が出来なくなると、
狐は、とうとう力尽きたのか、地面に突っ伏してしまった。
足から毒は広がり、全身をすっぽりと覆い、包み込んでいった。
嗅覚から伝わる毒はますます甘美に、眩暈がするほどにきつくなり、
遂に、瞼を開けている事も出来なくなってしまった。
意識してみると、全身の感覚が全く無かった。
まるで、最初から無かったかのように、綺麗に消え去ってしまっていた。
ふと、脳裏を一つの絵がよぎった。
ぼんやりとしたイメージが、徐々にはっきりし、
色濃く鮮明になっていく。
そうだ、これは、あの時の、……忌々しい、心が締めつけられる……。
自分が、仲間と共に緑豊かな平原を旅していた頃、
あまりの空腹に襲われた時、眠っている仲間の狐を食い殺してしまった、
その時の一部始終だった。
身体中、甘美な匂いに包まれ、安らかな死へと向かっていき、
もう何も考えられないくらいなのに、その映像だけは、
忌まわしき思い出は、狐の罪悪感を甦らせるように、
狐の胸をギュッときつく締めつけた。
本当は、狐も好きで仲間を殺したわけではなかった。
ただ、死ぬのが怖かったから。
生きたかったから、生への渇望が、
狐にその残酷な選択肢を選ばせたのだ。
そして、その映像は今、死を迎えようとしている今、
何度も繰り返され、いつまでも、狐の心に残り続けた。
その狐が命を落としてからは、ますます死の臭いがきつくなり、
数週間が経った頃には、その地には一本の木も、
一枚の葉っぱも無かった。
ただ、荒れ地の中央に位置する泉だけは、周辺の土壌、
死の祝福を受けた大地を通じて狐の命を吸い、
一滴も残らず生き汁を啜り、より深い藍色に染まり、
新たに生まれる命を誘惑し、懐柔し、
その背に残酷な刃を振り下ろすべく、
泉の奥へ、底の無い泥沼へズルズルと引きずり込むように、
静かに佇み、甘い匂いを放っていた。