四十二歳でリストラされた俺、退職金代わりの底辺ダンジョンに入ったら古代神に【千年ぶりの継承者】と認証された——古代神話オタクの趣味が活きました
「佐久間君、悪いんだが——今月で退職してくれ」
ヘリオス第二探索部、部長室。北野透部長は机の向こうで軽く笑った。
四十二歳、勤続二十年。俺は二十二歳でヘリオスに入った。当時はまだダンジョンが日本に出現して五年目で、業界全体が手探り状態だった。先輩もいなければ教科書もない。俺たちは現場で叩かれながら鑑定の精度を上げてきた。
「お前のスキル、〔下位鑑定〕だっけ?もう新人にも劣るんだよ」
北野部長は続けた。三十八歳。俺より四歳下。三年前に本社から異動してきた、いわゆる「上から降ってきた管理職」だった。
「最近の若手は〔上位鑑定〕や〔神鑑定〕持ちが普通だ。〔下位鑑定〕じゃ社内で居場所がない」
「分かりました」
俺は軽く頭を下げた。
(——二十年か)
(——長かったな)
「退職金は規定通り出ない。お前のような中途半端な勤続年数では退職金の枠から外れる」
「代わりに、と言ってはなんだが——」
北野部長は机の引き出しから一枚の書類を取り出した。
「これをお前に譲渡する」
書類のタイトルにはこう書かれていた。
——『奥多摩第七ダンジョン・個人探索権譲渡証明』
「奥多摩第七?」
俺は軽く首を傾げた。
「ヘリオスが保有するF級ダンジョンの中でも、最低ランク中の最低ランク。誰も興味を示さない、本当に底辺のダンジョンだ」
「お前みたいな〔下位鑑定〕でも入れる」
「でもろくな魔物もろくな鉱物も出ない。せいぜいハーブを摘んで街で売る程度だな」
北野部長は笑った。
「退職金代わりだ。受け取れ」
「……分かりました」
俺は書類を受け取り、深く頭を下げた。
「二十年、お世話になりました」
「ご苦労さん」
北野部長はもう俺を見ていなかった。俺は静かに部長室を後にした。
◇
ヘリオスの社員寮を出る最後の日、雨が降っていた。
俺の私物は段ボール三箱に収まった。二十年勤めた男の全財産。古い剣道着、ダンジョン用の防具、本棚一段分の古代神話の本——それだけ。
妻は五年前に出て行った。「あなたみたいな出世しないサラリーマンはもう嫌」が最後の言葉だった。子供はいない。両親はもう亡くなっている。
(——四十二歳)
(——独り身)
(——リストラ)
(——人生詰んだな)
俺は安アパートの一室に段ボールを運び込んだ。家賃四万五千円。築三十年。狭い1Kだが、これが俺の新しい城だ。
夜、ビールを開ける前に、俺は自分のステータスを確認した。
——『佐久間修。レベル12。HP280。MP90。スキル〔下位鑑定〕』
ヘリオス入社時、俺はレベル4だった。二十年の現場経験で、レベル12まで上がった。一年に〇・四レベルのペース。〔下位鑑定〕のような地味なスキルでは、これが標準だった。
(——四十二歳でレベル12)
(——俺の人生、こんなものか)
俺はステータス画面を閉じ、ビールを開けた。
そして古代神話の本をぱらぱらとめくった。学生時代から古代神話が好きだった。インド・ギリシャ・北欧・日本。神々の物語を読むのが唯一の趣味だった。
仕事で〔下位鑑定〕しか持っていなかった俺は、神話の研究で気持ちを慰めた。「いつか神話の世界に触れる日が来るかもしれない」と本気で信じていた青年時代があった。
——その本気はいつしか消えた。
ヘリオスでの二十年は、〔下位鑑定〕で「ハーブの種類を判定する」ような地味な仕事の連続だった。神話の世界どころかダンジョン奥地に踏み込むことすら許されなかった。
(——奥多摩第七、ねえ)
俺はテーブルの上に置いた譲渡証明書をぼんやりと見つめた。
「行ってみるか」
そうぽつりと呟いた。
「どうせ暇だしな」
◇
奥多摩第七ダンジョン。
東京の西の山奥、JR奥多摩駅から車で四十分。ヘリオスが管理しているF級ダンジョンの中で最も遠く、最も評判が悪い場所。
俺は中古のジムニーで山道を登った。
ダンジョンの入り口は苔むした古い鳥居の奥にあった。
「鳥居……?」
不思議な配置だった。日本の現代ダンジョンの入り口はたいてい単なる岩の裂け目か洞窟か、人工的に作られた門だ。だがこの第七ダンジョンの入り口には、明らかに古い神社の鳥居が立っていた。
(——誰がこんな鳥居をここに?)
俺は鳥居の柱を軽く指で撫でた。木材は古く、すでに表面が剥がれていた。だが奇妙に温かい感触があった。
(——まあ、いいか)
俺は鳥居をくぐりダンジョンの口に足を踏み入れた。
その瞬間——
俺の視界にシステムからの通知が浮かんだ。
——『【神域候補】を検知しました』
——『継承者の認証には、最深部の扉の鍵が必要です』
「は?」
俺は立ち止まった。
「神域……候補?継承者?」
(——何だ、これは)
(——ダンジョン入り口でこんな表示が出るのは初めてだ)
ヘリオスでの二十年、いくつものダンジョンに入った。だが「神域候補」などという通知は一度も見たことがなかった。
(——〔上位鑑定〕や〔神鑑定〕持ちなら見える特殊なメッセージか?)
(——いや、違う気がする)
俺はしばらく入り口で立ち止まっていた。
そしてゆっくりと奥に進み始めた。
——空気の温度が、急激に下がった。
夏の山の中だというのに、ダンジョン内部は真冬の冷気に包まれていた。息が白い。皮膚がぴりぴりと痺れる。
(——F級ダンジョンで、こんな冷気は聞いたことがない)
(——封印の気配だな……いや、まさか)
俺は古代神話の本で読んだ知識を思い出した。「神々の領域には、温度が異常に変化する。冷気は封印された神域の特徴」と古いインドの伝承には記されている。
(——まさか、本当に神域?)
通路の壁に〔下位鑑定〕をかけた。
——『古代の石。年代:不明。神域構造の一部』
(——神域構造?)
俺は軽く眉をひそめた。
通路の脇に小さなハーブが生えていた。よくダンジョンで見るタイプ。〔下位鑑定〕をかけた。
——『回復草。神域産:微量。市場価格:通常の十倍』
(——え)
俺は二度見直した。
(——市場価格、通常の十倍?)
普通の回復草は街の素材屋で一束百円で買い取られる。十倍なら千円。一束で千円というのは、F級ダンジョンの素材としてはありえない金額だった。
俺はそのハーブを丁寧に摘んだ。
通路を進むと、別のハーブが、また別の鉱物が、次々と目に入った。すべて〔下位鑑定〕で「神域産」の表示。すべて市場価格の十倍だった。
(——これ、本当にF級ダンジョンか?)
通路の途中で、奥のほうから、微かな音が聞こえた。
風の音、ではない。
何か——古代語の囁きのような、低く、深く、温かい音。
(——気のせいか?)
俺は耳を澄ました。音はまた聞こえた。確かに何かの言葉だった。サンスクリットの古代形——俺が大学で齧った言語に似ている。
(——「継承者よ……ようこそ」)
(——そう、聞こえた)
俺は震える足で、ハーブと鉱物を集めた。
通路の奥には簡易な広場があった。広場の中央に小さなスライム状のモンスターが二匹。低位の魔物だ。〔下位鑑定〕では「ジェル種スライム。F級下位」と表示されていた。
俺は安物の鉄剣を抜いた。
二十年〔下位鑑定〕でハーブばかり判定してきた俺だが、現場での戦闘経験はあった。スライムを軽く斬る程度ならできる。
剣を一振り。スライムが二つに割れた。中から宝石のような球体が転がった。〔下位鑑定〕をかけた。
——『神域産・魔素結晶。純度:極高。市場価格:通常の二十倍』
俺はその場で立ち止まった。
(——通常の、二十倍)
(——F級スライムからこんなものが出るのか?)
もう一匹のスライムも斬った。同じく純度の高い魔素結晶が出た。
俺は麻袋に結晶を入れた。袋がずっしりと重くなった。
そして奥に進もうとした、その時——
通路の最奥から、金色の光が、微かに漏れた。
(——光?)
(——何だ?)
光はすぐに消えた。だが確かに、奥に何かがある。
俺は息を吐いた。
(——今日はここまでだ)
(——いきなり奥には行けない)
(——準備して、明日また来よう)
ダンジョンを出る前、俺は自分のステータスを確認した。
——『佐久間修。レベル14。HP310。MP110。スキル〔下位鑑定〕』
(——レベル、二つ上がっている)
スライム二匹を倒しただけで、レベル12からレベル14。二十年で八レベルしか上がらなかった俺が、今日たった二匹で二レベル。
(——F級スライムなのに……)
(——いや、これは「神域産」と表示されていた)
(——経験値が桁違いに多いのか)
頭の中で軽く計算した。仮にこのペースが続いたら——一週間で十数レベル、一ヶ月で五十レベル。ヘリオスの最強クラスにすぐ追いつく。
(——いや、まだ早合点するな)
(——慎重に、観察を続けよう)
俺はダンジョンを後にした。
◇
奥多摩の街の素材買取所は駅前の小さな店だった。店主は六十代の老人。ヘリオス時代も何度か顔を合わせたことがある。
「佐久間さん、お久しぶりですね。今日はどちらから?」
「奥多摩のあちこちで、です」
俺は曖昧に答えた。リストラされたばかりで詳細を話す気にはなれなかった。
「そうですか。何か、出ましたか」
俺は麻袋から回復草を取り出してカウンターに置いた。
店主は手に取り目を細めた。そしてしばらく動かなくなった。
「これ……」
「どうですか」
「これは——回復草の最高級品です。骨折まで治せる純度ですよ」
「一束、千円でお買い取りします」
俺は袋から、ハーブを全部、カウンターに並べた。十二束。
そして魔素結晶も二個、横に並べた。
店主は結晶を持ち上げて目を細めた。
「これは——純度の高い魔素結晶です。装備に組み込めば、攻撃力増幅効果も期待できる」
「一個、二万円でお買い取りします」
「全部で、いくらになりますか」
「ハーブ十二束で一万二千円。魔素結晶二個で四万円。合計、五万二千円です」
俺はしばらく店主を見つめていた。
(——五万二千円)
(——一日で)
(——F級ダンジョンの素材で)
頭の中で計算した。
ヘリオスの月給は四十一万円だった。手取り三十二万円。一日あたり、一万円ちょい。
俺は——たった一日で、ヘリオス時代の四日分以上を稼いだ。
(——毎日通えば)
(——月収百五十万円)
(——年収にして、千八百万円)
(——リストラされた俺の年収が、四倍に)
俺は息を呑んだ。
(——いや、待て)
(——これは、慎重に考えるべきだ)
(——あのダンジョン、何か、おかしい)
(——「神域候補」の通知)
(——冷気、囁き、光)
(——明日、調べてみよう)
「店主さん」
「はい?」
「こういう品質の素材が、よくあるダンジョンで出ることはあるんですか」
店主はしばらく俺を見つめていた。そして軽く首を傾げた。
「いいえ。ありえません」
「ありえない、ですか」
「A級ダンジョンでも、滅多に出ない品質です」
「ですが、佐久間さん——どこのダンジョンで採れたか、私は聞きません。それが、この業界の作法ですから」
店主は穏やかに頷いた。
「素材だけ、お買い取りします」
「ありがとうございます」
俺は五万二千円の現金を財布に入れた。そして安アパートに戻った。
◇
その夜、俺は古代神話の本を机の上に広げた。
サンスクリットの古代形——インド神話。
ダンジョンで聞いた囁きが、頭の中で再生された。
「継承者よ、ようこそ」
(——これは明らかに古代インド神話の言い回し)
(——「継承者」という単語が出てくるのは、限られた神々)
俺は本のページを丁寧にめくった。
アグニ神。火の神。古代インド神話で最古の神の一柱。継承者を選ぶ古代神。
——その記述を、見つけた。
『アグニ神は、千年に一度、人の世に継承者を選ぶ。継承者は、神の眠る場所——神域——に、認証される』
(——千年に一度の継承者)
(——神の眠る場所)
(——神域)
ヘリオスはあのダンジョンをF級と判定した。だが俺の目には、明らかに異常な品質の素材と冷気と囁きが見えていた。
(——もしかして)
(——あの場所は、俺だけに見えているのか)
(——他の探索者には、ただのF級にしか見えていなかった、と)
俺は深く息を吐いた。
(——本当に俺なのか)
(——〔下位鑑定〕でハーブを判定してきた俺なのか)
ビールを口に運んだ。冷たい喉ごしが心地よかった。
(——明日、奥に進もう)
(——通路の最深部に、何かある)
(——金色の光の正体を、確かめよう)
◇
翌朝、俺は奥多摩第七ダンジョンに戻った。
鳥居をくぐった。【神域候補】の通知。冷気。囁き。すべて、昨日と同じだった。
俺は通路の奥へ慎重に歩いた。
「ジェル種スライム」が出る広場の、さらに奥。通路は暗く、長く続いていた。冷気はますます強くなった。息が白い。
通路の途中で、壁の苔の下から古代の文字が現れた。〔下位鑑定〕をかけた。
——『サンスクリットの古代形。アグニ神の眠りの場所、と記載』
俺は立ち止まった。
(——昨日の本の記述と、一致している)
(——本当に、アグニ神の)
胸の奥で何かが震えた。
俺は通路をさらに奥へ進んだ。
通路の終わりに巨大な扉が現れた。
両開きの石の扉。表面には古代インド神話の図像が彫り込まれていた。中央に四本の腕の神。アグニ神の図像だった。
扉の前で俺は立ち尽くした。
——その瞬間、扉の隙間から再び金色の光が漏れた。
低い囁きが、扉の向こうから響いた。
——『継承者よ、ようこそ』
——『あなたを、千年ぶりの継承者として、認証いたします』
——『ですが——扉を開く鍵が、必要です』
——『鍵は神域内のどこかにあります。探しなさい』
俺はしばらく、その通知を見つめていた。
(——千年ぶりの継承者)
(——本当に、俺)
(——〔下位鑑定〕の俺)
胸の奥が熱く震えた。
俺は扉に両手を当てた。
扉はぴくりとも動かなかった。鎖が扉の中央に巻きついていた。鎖の表面には、見たことのない古代の魔法陣が刻まれていた。〔下位鑑定〕は「読み取れず」と表示した。
(——俺の能力では、まだ扉のことが分からない)
(——鍵は、どこにある)
(——いつか、この扉を、開ける日が来るのか)
俺は扉の前で軽く頭を下げた。
(——アグニ……必ず扉を開きに来る)
(——もう少し、待っていてくれ)
そしてダンジョンを後にした。
その日も、俺は素材を持ち帰った。買取金額は、五万一千円。
(——昨日と、ほぼ同じ)
(——毎日、稼げる)
俺は安アパートに戻り、ノートを広げた。
「奥多摩第七・調査記録」
そう、表紙に書いた。
中には、囁きの内容、冷気の温度、金色の光の出現タイミング、サンスクリット文字の解読、扉の魔法陣の特徴を、丁寧に書き込んだ。
(——何年かかっても、必ず鍵を見つけてやる)
◇
三日目の朝、俺の安アパートに、一人の男が訪ねてきた。
ドアを開けると、北野透部長が立っていた。スーツは整っていたが、髪に少し乱れがあった。やや疲れた表情。だが、口元には軽い余裕の笑みがあった。
「やあ、佐久間君。久しぶりじゃないか」
北野部長は軽く手を挙げた。
「ちょっと、相談があってね。お邪魔していいかな」
俺はしばらく彼を見つめていた。
そして軽く頭を下げた。
「どうぞ、お入りください」
俺は安アパートの狭い1Kに北野部長を招き入れた。
「ビール、飲みますか」
「いや、結構だ。すぐ済むからな」
北野部長はテーブルの前に座った。落ち着いている。一見、余裕の表情。
(——あんた、特殊なダンジョンだと気づいたから、来たんだろう)
(——でも、私が気づいていないと、思っているな)
(——軽く返してもらえる、と)
俺は心の中で軽く笑った。
「佐久間君。あの……奥多摩第七の譲渡証明書、覚えているか」
「はい」
「いや、悪いんだけどさ、あれを、ヘリオスに返却してくれないかな」
北野部長は軽い口調で言った。
「あれ、底辺のダンジョンだろう?お前、使い道もないだろうし。ヘリオスとしては、ダンジョン保有資産の整理整頓のために、再回収したくてね」
「お礼として、譲渡返却金、十万円を、用意している」
「十万円、ですか」
「ああ、お前にしては、悪くない金額だろう?」
(——十万円)
(——俺が、二日で稼いだ金額だ)
(——あんた、本当に何も知らないんだな)
俺は穏やかに微笑んだ。
「お断りします」
北野部長の眉が、軽く動いた。
「は?」
「私はあのダンジョンを、自分で、運用します」
「ちょっと、待て。何を言ってるんだ?お前のスキル、〔下位鑑定〕だぞ?F級ダンジョンで、何ができる?」
「ハーブを採るくらいですよ」
俺は穏やかに答えた。
「でも、それで、十分なのです」
「十分?」
「ええ」
北野部長はしばらく俺を見つめていた。そして軽く笑った。
「お前、F級でハーブを採って、いくら稼ぐ気だ?月に二万円か?三万円か?」
「そんなものですかね」
俺は嘘をついた。
「だろ?なら譲渡返却金の十万円のほうが、お前にとって、ずっと得だ。受け取れ」
「お断りします」
北野部長の眉が、わずかに動いた。
「は?なぜだ。月二万円三万円なら、十万円のほうが圧倒的に得だろう」
俺はビールを口に運んだ。冷たい喉ごしが心地よかった。
そして穏やかに答えた。
「私は、あのダンジョンが気に入ったんですよ」
「気に入った、だと?」
「ええ。退職金代わりにいただいた、私の城ですから」
「金より、ダンジョンを残したい。生活が成り立たなくても」
俺は曖昧な微笑みでそれ以上は何も語らなかった。
(——額を教える義務はない)
(——あなたは、知らなくていい)
北野部長の目が泳いだ。
「お前……何か、隠してるな」
「さあ、どうでしょう」
俺は微笑むだけだった。
(——疑念が、湧いてきたな)
「譲渡返却金、二十万円にしよう」
「お断りします」
「三十万円」
「お断りします」
「五十万円!」
北野部長の声がわずかに上ずった。落ち着いた口調が剥がれ始めていた。
「お断りします」
俺は穏やかに繰り返した。
「く……佐久間君」
北野部長の額に汗が滲み始めた。
「何か、知っているのか?あのダンジョン、何が出るんだ?」
「F級ですよ」
俺は穏やかに笑った。
「部長が仰った通りの、底辺ダンジョンです」
「そ、そんな金額を断るほどの場所じゃないだろう——!」
北野部長の声が震え始めた。
「譲渡返却金、百万円!」
部長の声が裏返った。
「お断りします」
「な、なぜだ——!」
北野部長はテーブルに両手をついた。両手が震えていた。
「佐久間君、頼む。私の出世がかかっている」
「お前がダンジョンを返さなければ、私は降格させられる」
「年収三千万円で、ヘリオスに戻ってきてくれ」
「ダンジョンの運用権を、ヘリオス経由にしてくれれば——」
「お断りします」
「そ、そんな——」
北野部長は頭を下げた。完全な哀願の姿勢で。
「佐久間君、頼む——」
俺は彼をしばらく見下ろしていた。
「北野部長」
「は、はい」
「リストラ通告の時、あんたはこう言ったよな。『〔下位鑑定〕じゃ社内で居場所がない』と」
俺は急にくだけた口調になった。
「そ、それは——」
「その〔下位鑑定〕の俺だけが、あのダンジョンに、入ってるんだ」
「あんたが入っても、何も見えない」
「あんたには、決して、入れない場所だ」
「な——」
「もう遅いんだよ、北野部長」
北野部長はしばらくテーブルの前で両手をついていた。
そしてふらふらと立ち上がり、安アパートを後にした。
ドアを閉じた俺は、ふっと笑った。
◇
翌朝、俺は奥多摩第七ダンジョンに、戻った。
苔むした鳥居の前で立ち止まった。
朝の山の空気は清涼だった。鳥の声、葉のざわめき。神域候補の前で、自然が優しく囁いていた。
俺は鳥居をくぐった。
——『継承者よ、お帰りなさい』
——『鍵をお探しください。あなたが扉を開いた瞬間、あなたは本物の継承者として認証されます』
俺は深く息を吐いた。
(——鍵か)
(——神域内のどこかにある)
(——そして扉の向こうには、何があるのか)
(——アグニ神なのか)
(——それとも、もっと深い、何かなのか)
俺はダンジョンの奥に歩き始めた。
冷気が肌を撫でた。
奥のほうから、また金色の光が漏れた。
囁きが、扉の向こうから続いていた。
俺は〔下位鑑定〕しか持っていない。剣の腕も二十年前からほぼ変わらない。神話級モンスターと戦えるレベルではない。
——だが。
俺はこの場所の唯一の継承者だ。
俺だけがこの神域を見ている。
俺だけがこの囁きを聞いている。
俺だけがこの光を見ている。
(——何年かかるか、分からない)
(——でもいつか、この扉を開ける)
(——その日まで、俺はここに通い続ける)
(——〔下位鑑定〕のままでもいい)
(——この場所が、俺を強くしてくれる)
俺は通路の奥を見つめた。
(——アグニ、待ってろ)
(——いつか、必ず、会いに行く)
俺は一歩、奥へ踏み出した。
四十二歳。リストラされた中年男。
スキルは〔下位鑑定〕のまま。
——だが、人生はまだ終わっていない。
ここから何かが始まる。
そして金色の光が、奥で静かに待っている。
——終
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