第20話 学校の中の境界線
家の前から学校までの道が、やけに長く感じた。
いつもと同じ景色のはずなのに、今日は違う。
頭の中に残っているのは、昨夜のやり取りでも、今朝の門前の空気でもない。
『じゃあ次は、学校の中で朝比奈にとって大事な場所を探してみる』
その一文だけが、妙に残っていた。
場所。
今まで凛は、人との距離で踏み込んできた。
接触。
視線。
質問。
境界。
でも今度は、場所で来ると言った。
それはつまり――
「朝比奈」
校門をくぐったところで、すぐに声をかけられた。
反射的に足が止まりそうになる。
けど、止めない。
そのまま歩きながら、視線だけ向ける。
一ノ瀬凛が、少し離れた位置から並んでくる。
「……おはよう」
短く返す。
「おはよう」
凛はいつも通りの声だった。
今朝家まで来たやつの声とは思えないくらい、自然に。
「来ると思った?」
「思った」
嘘じゃない。
「そっか」
それだけ言って、凛は少しだけ笑う。
距離は保っている。
触れない。
近づきすぎない。
今のところ、線の外。
「じゃあ次」
軽い口調で言う。
「学校の中、案内してよ」
「断る」
即答した。
「早いね」
「当たり前だ」
案内なんてしたら終わる。
“ここが大事です”と自分から教えるようなものだ。
「でもさ」
凛は歩調を合わせたまま、こっちを見る。
「朝比奈って分かりやすいから、別に案内なくても平気だと思う」
心臓がわずかに跳ねる。
――こいつ、本当に面倒だな。
「どこで止まるか。どこで嫌がるか。どこで会話を切るか」
淡々と並べていく。
「見てれば、だいたい分かるよ」
やっぱり、観察からもう一段進んでいる。
「……好きにしろ」
「うん、そうする」
その返事が早すぎて、逆に嫌だった。
教室に入る。
朝のざわつき。
机を引く音。
誰かの笑い声。
凛はそれ以上話しかけてこなかった。
ただ、自分の席につく前に一度だけ教室全体を見回した。
探している。
そういう目だった。
――
一時間目が終わる。
休み時間。
席を立って廊下に出ようとした瞬間。
「朝比奈」
また呼ばれる。
今度は、凛だけじゃなかった。
「悪い、これ職員室に持ってってくれない?」
担任がプリントの束を渡してくる。
断る理由もない。
「ああ」
受け取る。
そして、その流れで教室を出る。
廊下に出た瞬間、背後から足音がついた。
振り返らなくても分かる。
「何で来る」
「別に?」
凛が当然みたいに答える。
「ただ気になっただけ」
「何がだ」
「朝比奈が“自然に動く場所”」
やっぱりそこか。
職員室へ向かう廊下。
階段。
渡り廊下。
凛は一つずつ見ている。
景色じゃない。
こっちの反応を。
「……職員室だぞ」
「うん」
「ついてきても意味ないだろ」
「あるよ」
即答だった。
「朝比奈って、人が多い場所だと少し楽そう」
そこで階段を上りながら、思わず足がわずかに止まる。
それを、見逃さない。
「今のもそう」
凛が小さく言う。
「図星?」
「……うるさい」
けど、否定できなかった。
人が多い場所だと、意識が分散する。
一人に向かう濃さが減る。
だから少しだけ楽になる。
それを、もう見抜かれている。
「じゃあ逆に」
凛が続ける。
「人が少ない場所は、朝比奈にとって危ないんだ」
そこまで行くか。
頭が痛くなる。
「……お前さ」
「うん?」
「そういうの、わざわざ口に出すな」
「出した方が反応見るのに楽だから」
最悪だった。
職員室前に着く。
ここは人が多い。
教師の声。
部活の連絡。
通り過ぎる生徒。
凛は、そこで少しだけ口を閉じた。
プリントを渡して、すぐに戻る。
その帰り道。
「ねえ」
凛がまた声をかける。
「逆に、朝比奈が落ち着く場所ってどこ?」
「教えるわけないだろ」
「教えなくていいよ」
少しだけ笑う。
「どうせそのうち分かるし」
その自信が嫌だった。
でも、多分こいつは本当に分かってしまう。
――
昼休み。
教室は相変わらず騒がしい。
弁当を開こうとしたところで、凛がこっちを見た。
「今日は屋上、行かないよ」
妙な宣言だった。
「……そうか」
「代わりに、別のとこ見る」
嫌な予感しかしない。
「どこだ」
「言わない」
珍しく、凛が先に切った。
その代わり、視線だけが残る。
――次は場所。
それが本気だと、改めて分かる。
結局その昼休み、凛は近づいてこなかった。
でも、その分だけ不気味だった。
何もしていないのに、進んでいる感じがする。
――
放課後。
今日は早く帰るつもりだった。
余計な場所に寄らない。
凛にも付き合わない。
最短で終える。
そう決めて席を立ったところで。
「朝比奈くん」
今度はクラス委員の女子が声をかけてきた。
「悪いんだけど、体育倉庫の鍵、職員室に返してくれない?」
嫌な予感がした。
職員室。
体育倉庫。
人が少ない場所。
全部が繋がる。
「他のやつに頼めよ」
「えー、だって近いし」
近くない。
むしろ遠い。
でも断りきれず、鍵を受け取る。
その瞬間。
「へえ」
すぐ後ろで、凛の声がした。
「そこ、行くんだ」
最悪だった。
「……来るなよ」
「まだ何も言ってない」
「言う前に止めてる」
鞄を持って教室を出る。
足音がつく。
やっぱり来る。
体育倉庫のある裏手は、放課後になると人が少ない。
部活が始まる前の、微妙な空白。
静かで、少しだけ風が強い。
その途中で、凛が隣に並ぶ。
「ここだね」
「何がだ」
「朝比奈が嫌がる場所」
周囲に人がいない。
校舎の影。
視線が少ない。
確かに、楽じゃない。
「……だからどうした」
「ううん」
凛は少しだけ前を向いたまま言う。
「こういう場所だと、朝比奈の反応が濃い」
図星だ。
「じゃあ」
足を止める。
体育倉庫の手前。
ここから先は、本当に人気がない。
凛も止まる。
「ここから先は駄目」
はっきりと言う。
場所の線。
初めて、自分から明確に引いた。
凛が、わずかに目を細める。
「……へえ」
その声に、少しだけ熱が混じる。
「ここが線なんだ」
「そうだ」
「どうして?」
「必要だからだ」
「違うよ」
凛が小さく首を振る。
「必要だからじゃなくて、ここから先だと朝比奈が危ないからでしょ」
その言葉が、妙に正確で嫌だった。
何も言わない。
言わないこと自体が答えになる。
「そっか」
凛はその場で止まったまま、じっとこっちを見る。
「じゃあ、分かった」
意外にも、それ以上は来なかった。
「今日はここまで」
「……珍しいな」
「ルール守るって言ったでしょ?」
軽く笑う。
「その代わり」
一歩も踏み込まないまま、続ける。
「朝比奈にとって“危ない場所”は覚えた」
ぞくり、とした。
それが一番まずい。
「次からは、そこを避ける」
「……何?」
「朝比奈が平気な場所で攻めるってこと」
そう言って、凛は少しだけ嬉しそうに笑った。
「その方が、長くいられるし」
完全に、次の形を見つけている。
体育倉庫前で線を引いた意味はあった。
でも同時に、“ここは危ない”と教えたことにもなった。
主導権を握ったつもりで、別の材料を渡した。
――本当に厄介だな。
「じゃ、鍵返してきなよ」
凛はそこから動かない。
本当に入ってこない。
でも、その目はまだこちらを見ている。
体育倉庫の鍵を受け取りに来た教師に渡して、すぐ戻る。
帰り道、凛は自然にまた隣に並んだ。
「今日は収穫多かった」
「……お前だけだろ」
「朝比奈もでしょ」
即答。
「“場所でも線を引ける”って分かったし」
言い返せない。
確かに、それは収穫だ。
でも、それ以上に向こうの収穫が大きい気がする。
――
家に帰ると、リビングに二人いた。
陽菜はソファ。
沙夜姉はテーブル。
いつもの構図。
でも、こっちの顔を見た瞬間に、二人とも何かを察したみたいだった。
「おかえり」
陽菜が言う。
「……ただいま」
「何かあったわね」
沙夜姉が即座に言った。
「顔に出てる」
面倒だなと思いながらも、隠せる気がしない。
「……場所で来た」
短く言う。
その瞬間、二人の空気が少しだけ変わる。
「へえ」
陽菜が身を乗り出す。
「どこ?」
「体育倉庫の方」
「人少ないとこだ」
「ええ」
沙夜姉が静かに頷く。
「予想通りね」
「で、そこで線引いた」
「引けたの?」
陽菜が聞く。
「ああ。ここから先は駄目だって」
答えると、沙夜姉がほんの少しだけ目を細めた。
「いい判断よ」
「でも」
続ける。
「そこで“危ない場所”だって知られた」
その一言で、沈黙が落ちる。
数秒。
「……なるほど」
最初に口を開いたのは陽菜だった。
「それ、痛いね」
「ええ」
沙夜姉も肯定する。
「場所の線は有効。でも同時に、弱点の開示にもなる」
まさにそうだった。
「じゃあ次は?」
陽菜が聞く。
「今度は逆よ」
沙夜姉の声は落ち着いていた。
「“平気な場所”を利用してくる」
「……それも言われた」
答えると、陽菜が小さく吹き出した。
「うわ、本当に読んでる」
笑っている場合じゃない。
でも否定もできない。
「つまり」
沙夜姉が静かにまとめる。
「これからは“危ない場所を避けて、長く居られる場所で削ってくる”」
最悪だった。
しかもそれは、今の凛に一番向いているやり方だ。
「……どこだよ、そういう場所」
「教室」
沙夜姉が即答した。
「人がいて、逃げにくくて、自然に隣にいられる」
「うわ」
陽菜が嫌そうな顔をする。
「最悪」
「ええ」
沙夜姉は淡々としている。
「だから次は、“場所”じゃなく“時間”で管理する」
今度は時間か。
もう何でもありだなと思う。
「……どういう意味だ」
「一回の滞在時間を決めるの」
静かな声。
「相手と同じ場所に長くいすぎない。長くいるほど、向こうに有利になる」
なるほど。
体育倉庫前の件で場所を意識したなら、次は滞在時間。
理屈は通っている。
「ねえ、お兄ちゃん」
陽菜がこっちを見る。
「今日、一ノ瀬さんにとって“入りたい場所”が分かった気がする」
「何だよ」
「家じゃなくて」
少しだけ笑う。
「朝比奈が“普通にしてる場所”なんだよね」
その一言が、妙に残った。
家の前でも、体育倉庫前でもない。
もっと自然で、もっと日常の中。
そこで“入れる位置”を探している。
それは多分、教室だ。
廊下だ。
帰り道だ。
つまり、逃げ場のない日常そのものだ。
「……面倒だな」
また同じ言葉が出る。
でも今回は、二人とも少しだけ笑った。
「うん」
陽菜が頷く。
「でも、ちょっと面白い」
「面白がるな」
「だってさ」
陽菜は肩をすくめる。
「一ノ瀬さん、もう完全に“入り方”考えてるもん」
その通りだった。
そしてこっちも、もう“止める”じゃなく“管理する”で動いている。
どっちも同じ段階にいる。
そこが、一番まずい気がした。




