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「雨の日だけ、ここにいるんです」——Loss;空室の隣人が遺した万年筆と、晴れた空の下で始まる新しい恋

作者: uta
掲載日:2026/03/19

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

雨の日は、いつも少しだけ息がしやすい。


そう思うようになったのは、いつからだろう。会社で押し殺した感情が、雨音に紛れて溶けていくような気がするのだ。


「藤堂さん、この資料、明日までにお願いできる?」


三島課長の声が、定時五分前のオフィスに響く。私のデスクには既に今週三度目の「緊急」案件が積み上がっていた。


「……はい、承知しました」


口から出たのは、いつも通りの従順な返事。


(これで今週何度目ですか。他の人には絶対に振らないくせに)


本当は叫びたかった。でも、言えない。言ったところで何も変わらないと、二十八年の人生で学んでしまったから。


「君ならできると思ってね。期待してるよ」


「ありがとうございます」


(その言葉、もう何度聞いただろう。期待という名の押し付けを)


終電間際に帰宅したマンションの廊下で、私は足を止めた。


隣の部屋——確か一年以上空室だったはずの403号室の前に、引っ越し業者が使うような段ボールが置かれている。


誰か、越してきたのだろうか。


雨に濡れた髪を拭いながら、私はインターホンに手を伸ばした。隣人への挨拶くらいはしておくべきだろう。菓子折りは……今度でいいか。まずは顔合わせだけでも。


ピンポーン。


応答はない。


もう一度。


——沈黙。


留守なのだろうか。それとも、もう寝てしまったのか。時刻は午後十一時を回っている。非常識な時間に押しかけた私が悪い。


「……また今度にしよう」


独り言を呟いて、自分の部屋に入る。窓の外では、雨が静かに降り続けていた。



◇◇◇



それから三日後。


珍しく定時で上がれた日も、やはり雨だった。


エレベーターを降り、廊下を歩いていると——


「こんばんは」


穏やかな声に、心臓が跳ねた。


振り返ると、403号室の前に青年が立っていた。柔らかな茶髪、どこか憂いを帯びた優しい瞳。雨に濡れているはずなのに、不思議と清潔感がある。


「あ……こんばんは。隣の者です、藤堂と申します」


「雨宮です。先日は、インターホン鳴らしてくださったんですね。気づかなくて、すみません」


知っていたのか。少し驚きながらも、私は頭を下げた。


「いえ、遅い時間に失礼しました。改めてご挨拶に伺おうと思っていたのですが……」


「お気遣いなく」


雨宮さんは微笑んだ。その笑顔が、なぜか胸の奥をちくりと刺す。


「雨の日だけ、ここにいるんです」


「……え?」


意味がわからなかった。雨の日だけ? 単身赴任か何かで、週末だけ戻ってくるという意味だろうか。


「不思議な話ですよね。でも、本当のことなんです」


彼はそう言って、鍵を開ける仕草をした。ガチャリという音は聞こえなかったけれど、彼の姿は403号室の中へ消えていった。


取り残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


雨の匂いが、やけに濃く感じられた夜だった。



◇◇◇



次の日は、嘘のような快晴だった。


昨夜の出会いが気になって、私は仕事帰りに403号室のインターホンを押してみた。菓子折りも用意した。雨の日だけいるというのは比喩か何かで、きっと今日も会えるはずだ。


ピンポーン。


応答なし。


もう一度。


——沈黙。


「雨宮さん?」


呼びかけても、反応はない。ドアに耳を当てても、物音ひとつ聞こえてこなかった。


(本当に、いないの……?)


不思議に思いながらも、その日は諦めて自分の部屋に戻った。


翌日も晴れ。その翌日も。


何度インターホンを押しても、403号室からの応答はなかった。


四日目の朝、出勤前にふと思い立って管理人室を訪ねた。白髪の管理人・田中さんは、私の顔を見ると人懐っこい笑みを浮かべた。


「あら、藤堂さん。どうかしました?」


「あの、403号室のことで……新しい方が越してきたんですよね? ご挨拶しようと思ったんですが、なかなかお会いできなくて」


田中さんは首を傾げた。


「403号室? いいえ、あの部屋はずっと空室ですよ」


「え……?」


「もう一年以上、誰も入っていないはずです。この前内見の方がいらしたけど、結局契約には至らなかったし……」


頭の中が真っ白になった。


「でも、先日お会いしたんです。雨宮さんという方に。廊下で挨拶を——」


「雨宮さん?」


田中さんの表情が、一瞬だけ曇った。すぐに笑顔に戻ったけれど、私はその変化を見逃さなかった。


「いえ、きっと別の階の方と勘違いされたんじゃないですか。うちのマンション、似たような造りですから」


「……そう、ですか」


納得できないまま、私は頭を下げて管理人室を後にした。


勘違いなんかじゃない。あの人は確かに403号室の前に立っていた。鍵を開けて、中に入っていった。


——雨の日だけ、ここにいるんです。


あの言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。



◇◇◇



その夜、天気予報通りに雨が降り始めた。


私は傘も差さずにベランダに出て、雨音を聴いていた。仕事で溜まった疲労が、冷たい雫と一緒に流れ落ちていくような気がした。


「風邪を引きますよ」


隣から声がした。


振り向くと、仕切り板の向こう側——403号室のベランダに、雨宮さんが立っていた。


「……いらしたんですね」


驚きよりも、安堵が先に来た。ああ、やっぱり私の見間違いじゃなかった、と。


「ええ。雨の日ですから」


彼は穏やかに微笑んで、マグカップを掲げた。湯気が立っている。


「珈琲、お好きですか?」


「……はい」


「よかったら、淹れましょうか。ベランダ越しで失礼ですが」


断る理由がなかった。いや、本当は山ほど聞きたいことがあったはずなのに——なぜか、彼の前では言葉が溶けてしまう。


数分後、仕切り板越しに渡されたマグカップを受け取った。温かくて、少しだけ苦い。でも、どこか優しい味がした。


「藤堂さんは、いつも遅くまでお仕事されてますね」


「見てたんですか」


「雨の日だけですけどね。帰ってくる足音で、なんとなく」


「……そうですか」


私は珈琲を啜りながら、雨に煙る夜景を眺めた。こんなふうに誰かと静かに時間を過ごすのは、いつぶりだろう。


「お仕事、大変そうですね」


「……どうしてわかるんですか」


「足音で。疲れてる日は、少しだけ重いんです」


見透かされているようで、少し怖かった。でも、不思議と嫌ではなかった。


「大変、ですね。毎日」


気づいたら、そんな言葉が口をついていた。誰にも言えなかった本音が、雨音に紛れて零れ落ちる。


「でしょうね」


雨宮さんは否定も肯定もせず、ただ静かに頷いた。


「僕も、そうでした」


その言葉が、妙に胸に残った。


彼は何者なのか。なぜ雨の日だけ現れるのか。管理人が言った「空室」とは。


聞きたいことは山ほどあった。でも今夜は、ただこの静けさに身を委ねていたかった。


雨は、夜通し降り続けた。



◇◇◇



雨の日が、待ち遠しくなった。


そんな自分に気づいたのは、三度目のベランダ珈琲の夜だった。


「また残業だったんですね」


雨宮さん——いつの間にか心の中で「蒼佑さん」と呼ぶようになっていた——は、いつものように穏やかな声で言った。


「三島課長っていう人がいて」


気づけば私は、会社での出来事を話していた。理不尽な仕事の押し付け。「君のためだから」という白々しい言葉。何も言えない自分への苛立ち。


「断れないんです。断ったら、もっと面倒なことになるって、わかってるから」


「……わかります」


蒼佑さんの声が、少しだけ震えた気がした。


「本当のことを言ったら、全部壊れてしまうんじゃないかって。だから黙って、耐えて、やり過ごす。でも——」


「でも?」


「それを続けていると、自分が何を感じているのかも、わからなくなってくるんですよね」


私は息を呑んだ。


この人は、私のことを知っている。いや、違う。この人もまた、同じ場所に立っていたのだ。


「蒼佑さんも、そうだったんですか」


「ええ」


彼は雨に濡れた手すりを見つめながら、静かに語り始めた。


「僕は経理部にいました。数字を扱う仕事は好きでした。でも、ある日——見てはいけないものを、見てしまったんです」


不正経理。横領。そして、それを隠蔽しようとする上司の姿。


「気づいてしまったら、もう元には戻れない。でも告発する勇気もなかった。結局、僕は——」


言葉が途切れた。雨音だけが、静かに響いている。


「見て見ぬふりを、しようとしたんです。でも上司は、僕が知っていることに気づいていた」


そこから先は、想像がついた。パワハラ。孤立。精神的な追い詰め。


私は問いたかった。それで、どうなったんですか、と。


でも聞けなかった。聞いてしまったら、何かが決定的に変わってしまう気がして。


「藤堂さん」


「はい」


「あなたは、泣いていましたね。最初に会った日の前の夜」


心臓が跳ねた。


あの夜——私は確かにベランダで泣いていた。会社で限界を感じて、でも誰にも言えなくて、雨音に紛れて声を殺して泣いた夜。


「見ていたんですか」


「傍にいたかったんです」


蒼佑さんは、悲しげに微笑んだ。


「あなたの泣き方が、昔の僕と同じだったから」


私たちは、鏡合わせだった。


本心を言えない孤独。理不尽に耐え続ける日々。誰にも助けを求められない苦しさ。


違うのは——私はまだ、ここにいるということ。


「蒼佑さん」


「はい」


「晴れた日も、会いたいです」


言ってしまってから、自分の言葉に驚いた。でも、本心だった。雨の日だけじゃなく、毎日会いたい。この人と、もっと話したい。


蒼佑さんは、悲しげに目を伏せた。


「……それは、できないんです」


「どうして」


「僕は——」


彼の姿が、雨に溶けるように薄くなった気がした。


「雨の日だけの存在だから」



◇◇◇



その夜、私はインターネットで検索した。


『403号室 事故』『雨宮 マンション』『一年前 死亡』


見つかった記事は、短いものだった。


「昨年六月、都内マンションで会社員の男性(27)が死亡しているのが発見された。警察は事故と事件の両面で——」


記事に添えられた写真は、遺影だった。


柔らかな茶髪。憂いを帯びた優しい瞳。


——雨宮蒼佑さん(享年27歳)。


私の知っている顔が、そこにあった。



◇◇◇



知ってしまった。


知ってしまったのに、私は蒼佑さんに会いたいと思った。


次の雨の日、私は震える足でベランダに出た。隣には、やはり彼がいた。


「知ったんですね」


責めるでもなく、悲しむでもなく。ただ静かに、蒼佑さんは言った。


「……はい」


「怖くないですか」


「少しだけ」


嘘だった。本当は、怖くなんかなかった。むしろ——納得した、という方が近い。


雨の日だけ現れる理由。空室のはずの部屋に住んでいる理由。私の孤独を見抜けた理由。


全部、繋がった。


「どうして、私のところに?」


「最初は偶然でした」


蒼佑さんは、雨に濡れた夜景を眺めながら語った。


「雨の日だけ、この場所に戻ってこれるんです。理由はわかりません。でも、あの夜——あなたが泣いているのを見て」


「……」


「昔の自分を見ているようでした。誰にも助けを求められなくて、一人で抱え込んで、壊れていく自分を止められなかった頃の」


彼の声が震えていた。


「僕は、誰にも本当のことを言えないまま死んだ。不正を告発する勇気もなく、助けを求める勇気もなく。だから——」


「だから?」


「あなたには、同じようになってほしくなかった」


私は泣いていた。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。


「蒼佑さん」


「はい」


「あなたの死は、本当に事故だったんですか」


沈黙が降りた。雨音だけが、二人の間を埋めている。


「……わかりません。僕自身にも」


「でも、追い詰められていたんですよね。不正に気づいて、パワハラを受けて」


「ええ」


「その上司は、今どうしているんですか」


蒼佑さんの表情が、初めて歪んだ。


「黒崎、という人です。今は役員に昇進したと聞きました」


私の中で、何かが弾けた。


人を死に追いやった人間が、のうのうと出世している。証拠を握り潰し、若い命を奪っておきながら、今も誰かを同じように追い詰めているかもしれない。


——もう、見て見ぬふりはしない。


「蒼佑さん」


「はい」


「私、調べます。あなたの死の真相を。黒崎という人が何をしたのかを」


蒼佑さんは目を見開いた。


「藤堂さん、それは——」


「危険なのはわかっています。でも」


私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「あなたの声を、誰かが聴かなきゃいけない。あなたが言えなかったことを、私が代わりに叫ぶ」


「……どうして、そこまで」


「同じだから。私たちは、同じ場所に立っていたから」


蒼佑さんは、泣いていた。雨粒なのか涙なのか、わからない。でも確かに、彼の頬を何かが伝っていた。


「実は——」


彼は震える声で言った。


「僕の部屋に、証拠が残っているかもしれない。不正経理の記録を、密かにコピーしていたんです。告発する勇気がなくて、結局使えなかったけれど」


「どこに」


「机の引き出しの二重底。遺品整理で処分されていなければ……」


私は頷いた。これが、彼にできる最後の抵抗なのだと理解した。


死んでなお、真実を伝えようとする彼の想い。


私が受け取らなくて、誰が受け取るというのか。


「任せてください」


雨の夜に、私は誓った。


この人の無念を、必ず晴らす、と。



◇◇◇



それからの日々は、嵐のようだった。


蒼佑さんの実家を訪ね、事情を話し、遺品を見せてもらった。机の二重底には、確かに資料が残っていた。黒崎雄一郎による不正経理の証拠。改竄された帳簿のコピー。そして——蒼佑さんが最後に書いた日記。


『今日も黒崎部長に呼び出された。お前が余計なことを言わなければ、誰も困らないんだ、と。

僕が悪いのだろうか。知ってしまったことが、罪なのだろうか。

誰にも言えない。誰も信じてくれない。

雨の音だけが、今は唯一の友達だ』


ページをめくるたびに、彼の心が削られていく様子が伝わってきた。最後のページは、途中で途切れていた。


私は泣いた。泣きながら、全てをスキャンした。



◇◇◇



「藤堂さん、これは……」


告発先に選んだのは、外部の監査機関と、信頼できる記者だった。会社の内部通報制度は、黒崎のような人間が握り潰すに決まっている。


「一年前に亡くなった雨宮蒼佑さんが遺した記録です。黒崎雄一郎役員による組織的な不正経理と、それを隠蔽するためのパワーハラスメントの証拠があります」


記者は資料を見て、顔色を変えた。


「これが本物なら、大スキャンダルですよ」


「本物です。そして——彼の死は事故ではありませんでした」


私の声は震えていた。でも、逃げなかった。


「彼は追い詰められて、誰にも助けを求められないまま、命を落としたんです」



◇◇◇



記事が出た日、会社は大騒ぎになった。


黒崎役員は即座に職を追われ、警察の捜査対象になった。会見で彼が「知らない」「部下の独断だ」と言い訳する姿は、醜悪そのものだった。


三島課長も、見て見ぬふりをしていた責任を問われて降格処分を受けた。彼は私の机の前で立ち尽くし、何か言いたげな顔をしていたけれど、私は目も合わせなかった。


「藤堂さん」


声をかけてきたのは、人事部長だった。


「今回の件、あなたが?」


「……はい」


「勇気ある行動だと思います。ただ、社内に残るのは難しいかもしれない」


「わかっています」


覚悟の上だった。会社にいられなくなることも、社会的に孤立する可能性も。


でも、後悔はなかった。


私は、見て見ぬふりをしなかった。


蒼佑さんが言えなかったことを、私が代わりに叫んだ。


それだけで、十分だった。



◇◇◇



その夜は、雨が降っていた。


ベランダに出ると、蒼佑さんがいた。いつもの穏やかな笑顔——でも今夜は、どこか晴れやかだった。


「見ました。ニュース」


「……うん」


「ありがとう」


彼の声が震えていた。


「ありがとう、藤堂さん。いや——澪さん」


初めて、名前を呼ばれた。


「僕の代わりに、戦ってくれて。僕が言えなかったことを、言ってくれて」


「私がやりたかっただけだよ」


「でも、危険だったのに」


「うん。でも、もう見て見ぬふりは嫌だった」


蒼佑さんは、静かに泣いていた。


雨と涙が混じり合って、彼の頬を濡らしている。


「君に会えてよかった」


「私も」


「本当に——本当に、よかった」


彼の姿が、少しずつ薄くなっていく気がした。


「蒼佑さん」


「うん」


「もう、会えなくなる?」


彼は答えなかった。ただ、穏やかに微笑んでいた。


雨が上がり始めていた。雲の切れ間から、微かに星が見えた。


「晴れた日も、君の隣にいるよ」


そう言って——彼は、夜明けの光に溶けていった。



◇◇◇



雨上がりの朝。


ベランダに出ると、空は嘘みたいに晴れていた。隣の部屋には、もう誰もいない。


403号室は、相変わらず空室のままだ。


ポストを開けると、一通の手紙が入っていた。見覚えのない便箋。でも、筆跡は知っている。



『澪さんへ


この手紙を読んでいるということは、僕はもうここにいないのでしょう。


短い間だったけれど、君と過ごした雨の夜は、僕にとって最高の贈り物でした。


生きている間、僕は誰にも本当のことを言えなかった。不正を見て見ぬふりをしようとして、結局それすらできなくて、一人で潰れていった。


でも君は違った。君は戦ってくれた。僕の代わりに、声を上げてくれた。


君は僕の希望だった。


この万年筆は、僕が生前愛用していたものです。君に使ってほしい。晴れた日も、雨の日も、君の言葉を紡ぐために。


僕はもう雨の日にしか会えないけれど、心はいつも君の隣にいます。


晴れた空の下で、君が笑っていることを願っています。


雨宮蒼佑』



手紙と一緒に、深い青色の万年筆が入っていた。手に取ると、不思議と温かかった。


私は泣いた。一人で、声を上げて泣いた。


でも、それは悲しみだけの涙じゃなかった。



◇◇◇



三ヶ月後。


私は新しい会社で働いていた。規模は小さいけれど、風通しの良い職場。何より、自分の意見を言える環境が心地よかった。


雨の日には、蒼佑さんの万年筆で日記を書く。


『今日は雨だった。蒼佑さんのことを思い出した。会いたいな、と少しだけ思った。でも、悲しくはない。彼がくれた勇気は、今も私の中にある』


そんなことを書いていると、ふと彼が隣にいるような気がするのだ。



◇◇◇



ある晴れた日の昼下がり。


行きつけの喫茶店で本を読んでいると、誰かに声をかけられた。


「あの、すみません。藤堂澪さん、ですか?」


顔を上げて——私は息を呑んだ。


蒼佑さんに、よく似た顔がそこにあった。でも、少しだけ雰囲気が違う。より明るくて、前向きな光を宿した瞳。


「……はい」


「よかった。やっと見つけた」


青年は安堵したように微笑んで、向かいの席に座った。


「雨宮晴人といいます。蒼佑の、従弟です」


心臓が跳ねた。


「蒼佑さんの……」


「はい。兄は——僕にとっては兄みたいな存在だったんです。遺品整理をしていたら、あなた宛ての手紙と日記が見つかって」


晴人さんは、鞄から一冊のノートを取り出した。


「これ、兄が最後の方に書いていたものです。あなたのことが、たくさん書いてありました」


受け取ったノートをめくると、蒼佑さんの筆跡があった。


『今日も彼女と話した。藤堂澪という人。僕と同じ孤独を抱えている。でも、彼女には僕にはなかった強さがある。いつか、その強さが彼女を救うと信じている』


『彼女が笑っていた。嬉しかった。こんな気持ち、生きている間は感じたことがなかった』


『僕はもう長くいられないかもしれない。でも、彼女に会えてよかった。それだけは、確かだ』


涙が零れた。


「兄は、最後に幸せだったんだと思います」


晴人さんの声が、優しく響いた。


「ずっと一人で、誰にも本当のことを言えなかった兄が、最後にあなたと出会えて。それが——僕にとっても、救いなんです」


「私は、何もできなかった」


「いいえ」


晴人さんは首を振った。


「告発してくれたでしょう。黒崎のこと。兄の無念を晴らしてくれた」


「それは——」


「兄が望んでいたことです。でも、それ以上に」


彼は真っ直ぐに私を見つめた。蒼佑さんとよく似た、でも少しだけ違う瞳で。


「あなたが兄の最後の日々を、幸せなものにしてくれた。それが、何より嬉しいんです」


私は泣いた。晴れた日の喫茶店で、声を上げて泣いた。


蒼佑さんの想いは、ちゃんと届いていた。形を変えて、今も生きている。



◇◇◇



それから、晴人さんとは時々会うようになった。


蒼佑さんの思い出を話したり、彼が好きだった本の話をしたり。少しずつ、新しい関係が築かれていく。


ある雨の日、晴人さんがふと言った。


「兄は、雨が好きだったんです」


「……知ってます」


「雨の日は、世界が静かになるからって。嘘をつかなくていい気がするって」


私は窓の外を見た。雨粒が、ガラスを伝って流れ落ちていく。


「私も、雨が好きになりました」


蒼佑さんのおかげで。



◇◇◇



数ヶ月後、晴人さんと付き合い始めた。


「兄の代わりなんかじゃないですから」


彼は真剣な顔でそう言った。


「僕は僕として、あなたと一緒にいたいんです」


「わかってる」


私は微笑んだ。


「蒼佑さんは蒼佑さん。晴人さんは晴人さん。別の人だって、ちゃんとわかってるよ」


「よかった」


晴人さんは、ほっとしたように笑った。蒼佑さんに似ているけれど、でも確かに違う笑顔。


雨の日に始まった恋は、晴れた空の下で新しい形になった。


蒼佑さんがくれた万年筆で、私は今日も日記を書く。


『晴れた日も、雨の日も、私は幸せだ。蒼佑さんが繋いでくれたこの縁を、大切にしていく。彼が願ってくれたように、笑って生きていく』


窓の外には、青い空が広がっている。


でも私は知っている。雨が降れば、蒼佑さんが傍にいてくれることを。


晴れた日には、晴人さんが隣で笑っていてくれることを。


私はもう、一人じゃない。


——雨の日に始まった恋は、晴れた空の下で、優しく私を照らし続けている。



【完】

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