「雨の日だけ、ここにいるんです」——Loss;空室の隣人が遺した万年筆と、晴れた空の下で始まる新しい恋
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雨の日は、いつも少しだけ息がしやすい。
そう思うようになったのは、いつからだろう。会社で押し殺した感情が、雨音に紛れて溶けていくような気がするのだ。
「藤堂さん、この資料、明日までにお願いできる?」
三島課長の声が、定時五分前のオフィスに響く。私のデスクには既に今週三度目の「緊急」案件が積み上がっていた。
「……はい、承知しました」
口から出たのは、いつも通りの従順な返事。
(これで今週何度目ですか。他の人には絶対に振らないくせに)
本当は叫びたかった。でも、言えない。言ったところで何も変わらないと、二十八年の人生で学んでしまったから。
「君ならできると思ってね。期待してるよ」
「ありがとうございます」
(その言葉、もう何度聞いただろう。期待という名の押し付けを)
終電間際に帰宅したマンションの廊下で、私は足を止めた。
隣の部屋——確か一年以上空室だったはずの403号室の前に、引っ越し業者が使うような段ボールが置かれている。
誰か、越してきたのだろうか。
雨に濡れた髪を拭いながら、私はインターホンに手を伸ばした。隣人への挨拶くらいはしておくべきだろう。菓子折りは……今度でいいか。まずは顔合わせだけでも。
ピンポーン。
応答はない。
もう一度。
——沈黙。
留守なのだろうか。それとも、もう寝てしまったのか。時刻は午後十一時を回っている。非常識な時間に押しかけた私が悪い。
「……また今度にしよう」
独り言を呟いて、自分の部屋に入る。窓の外では、雨が静かに降り続けていた。
◇◇◇
それから三日後。
珍しく定時で上がれた日も、やはり雨だった。
エレベーターを降り、廊下を歩いていると——
「こんばんは」
穏やかな声に、心臓が跳ねた。
振り返ると、403号室の前に青年が立っていた。柔らかな茶髪、どこか憂いを帯びた優しい瞳。雨に濡れているはずなのに、不思議と清潔感がある。
「あ……こんばんは。隣の者です、藤堂と申します」
「雨宮です。先日は、インターホン鳴らしてくださったんですね。気づかなくて、すみません」
知っていたのか。少し驚きながらも、私は頭を下げた。
「いえ、遅い時間に失礼しました。改めてご挨拶に伺おうと思っていたのですが……」
「お気遣いなく」
雨宮さんは微笑んだ。その笑顔が、なぜか胸の奥をちくりと刺す。
「雨の日だけ、ここにいるんです」
「……え?」
意味がわからなかった。雨の日だけ? 単身赴任か何かで、週末だけ戻ってくるという意味だろうか。
「不思議な話ですよね。でも、本当のことなんです」
彼はそう言って、鍵を開ける仕草をした。ガチャリという音は聞こえなかったけれど、彼の姿は403号室の中へ消えていった。
取り残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
雨の匂いが、やけに濃く感じられた夜だった。
◇◇◇
次の日は、嘘のような快晴だった。
昨夜の出会いが気になって、私は仕事帰りに403号室のインターホンを押してみた。菓子折りも用意した。雨の日だけいるというのは比喩か何かで、きっと今日も会えるはずだ。
ピンポーン。
応答なし。
もう一度。
——沈黙。
「雨宮さん?」
呼びかけても、反応はない。ドアに耳を当てても、物音ひとつ聞こえてこなかった。
(本当に、いないの……?)
不思議に思いながらも、その日は諦めて自分の部屋に戻った。
翌日も晴れ。その翌日も。
何度インターホンを押しても、403号室からの応答はなかった。
四日目の朝、出勤前にふと思い立って管理人室を訪ねた。白髪の管理人・田中さんは、私の顔を見ると人懐っこい笑みを浮かべた。
「あら、藤堂さん。どうかしました?」
「あの、403号室のことで……新しい方が越してきたんですよね? ご挨拶しようと思ったんですが、なかなかお会いできなくて」
田中さんは首を傾げた。
「403号室? いいえ、あの部屋はずっと空室ですよ」
「え……?」
「もう一年以上、誰も入っていないはずです。この前内見の方がいらしたけど、結局契約には至らなかったし……」
頭の中が真っ白になった。
「でも、先日お会いしたんです。雨宮さんという方に。廊下で挨拶を——」
「雨宮さん?」
田中さんの表情が、一瞬だけ曇った。すぐに笑顔に戻ったけれど、私はその変化を見逃さなかった。
「いえ、きっと別の階の方と勘違いされたんじゃないですか。うちのマンション、似たような造りですから」
「……そう、ですか」
納得できないまま、私は頭を下げて管理人室を後にした。
勘違いなんかじゃない。あの人は確かに403号室の前に立っていた。鍵を開けて、中に入っていった。
——雨の日だけ、ここにいるんです。
あの言葉が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。
◇◇◇
その夜、天気予報通りに雨が降り始めた。
私は傘も差さずにベランダに出て、雨音を聴いていた。仕事で溜まった疲労が、冷たい雫と一緒に流れ落ちていくような気がした。
「風邪を引きますよ」
隣から声がした。
振り向くと、仕切り板の向こう側——403号室のベランダに、雨宮さんが立っていた。
「……いらしたんですね」
驚きよりも、安堵が先に来た。ああ、やっぱり私の見間違いじゃなかった、と。
「ええ。雨の日ですから」
彼は穏やかに微笑んで、マグカップを掲げた。湯気が立っている。
「珈琲、お好きですか?」
「……はい」
「よかったら、淹れましょうか。ベランダ越しで失礼ですが」
断る理由がなかった。いや、本当は山ほど聞きたいことがあったはずなのに——なぜか、彼の前では言葉が溶けてしまう。
数分後、仕切り板越しに渡されたマグカップを受け取った。温かくて、少しだけ苦い。でも、どこか優しい味がした。
「藤堂さんは、いつも遅くまでお仕事されてますね」
「見てたんですか」
「雨の日だけですけどね。帰ってくる足音で、なんとなく」
「……そうですか」
私は珈琲を啜りながら、雨に煙る夜景を眺めた。こんなふうに誰かと静かに時間を過ごすのは、いつぶりだろう。
「お仕事、大変そうですね」
「……どうしてわかるんですか」
「足音で。疲れてる日は、少しだけ重いんです」
見透かされているようで、少し怖かった。でも、不思議と嫌ではなかった。
「大変、ですね。毎日」
気づいたら、そんな言葉が口をついていた。誰にも言えなかった本音が、雨音に紛れて零れ落ちる。
「でしょうね」
雨宮さんは否定も肯定もせず、ただ静かに頷いた。
「僕も、そうでした」
その言葉が、妙に胸に残った。
彼は何者なのか。なぜ雨の日だけ現れるのか。管理人が言った「空室」とは。
聞きたいことは山ほどあった。でも今夜は、ただこの静けさに身を委ねていたかった。
雨は、夜通し降り続けた。
◇◇◇
雨の日が、待ち遠しくなった。
そんな自分に気づいたのは、三度目のベランダ珈琲の夜だった。
「また残業だったんですね」
雨宮さん——いつの間にか心の中で「蒼佑さん」と呼ぶようになっていた——は、いつものように穏やかな声で言った。
「三島課長っていう人がいて」
気づけば私は、会社での出来事を話していた。理不尽な仕事の押し付け。「君のためだから」という白々しい言葉。何も言えない自分への苛立ち。
「断れないんです。断ったら、もっと面倒なことになるって、わかってるから」
「……わかります」
蒼佑さんの声が、少しだけ震えた気がした。
「本当のことを言ったら、全部壊れてしまうんじゃないかって。だから黙って、耐えて、やり過ごす。でも——」
「でも?」
「それを続けていると、自分が何を感じているのかも、わからなくなってくるんですよね」
私は息を呑んだ。
この人は、私のことを知っている。いや、違う。この人もまた、同じ場所に立っていたのだ。
「蒼佑さんも、そうだったんですか」
「ええ」
彼は雨に濡れた手すりを見つめながら、静かに語り始めた。
「僕は経理部にいました。数字を扱う仕事は好きでした。でも、ある日——見てはいけないものを、見てしまったんです」
不正経理。横領。そして、それを隠蔽しようとする上司の姿。
「気づいてしまったら、もう元には戻れない。でも告発する勇気もなかった。結局、僕は——」
言葉が途切れた。雨音だけが、静かに響いている。
「見て見ぬふりを、しようとしたんです。でも上司は、僕が知っていることに気づいていた」
そこから先は、想像がついた。パワハラ。孤立。精神的な追い詰め。
私は問いたかった。それで、どうなったんですか、と。
でも聞けなかった。聞いてしまったら、何かが決定的に変わってしまう気がして。
「藤堂さん」
「はい」
「あなたは、泣いていましたね。最初に会った日の前の夜」
心臓が跳ねた。
あの夜——私は確かにベランダで泣いていた。会社で限界を感じて、でも誰にも言えなくて、雨音に紛れて声を殺して泣いた夜。
「見ていたんですか」
「傍にいたかったんです」
蒼佑さんは、悲しげに微笑んだ。
「あなたの泣き方が、昔の僕と同じだったから」
私たちは、鏡合わせだった。
本心を言えない孤独。理不尽に耐え続ける日々。誰にも助けを求められない苦しさ。
違うのは——私はまだ、ここにいるということ。
「蒼佑さん」
「はい」
「晴れた日も、会いたいです」
言ってしまってから、自分の言葉に驚いた。でも、本心だった。雨の日だけじゃなく、毎日会いたい。この人と、もっと話したい。
蒼佑さんは、悲しげに目を伏せた。
「……それは、できないんです」
「どうして」
「僕は——」
彼の姿が、雨に溶けるように薄くなった気がした。
「雨の日だけの存在だから」
◇◇◇
その夜、私はインターネットで検索した。
『403号室 事故』『雨宮 マンション』『一年前 死亡』
見つかった記事は、短いものだった。
「昨年六月、都内マンションで会社員の男性(27)が死亡しているのが発見された。警察は事故と事件の両面で——」
記事に添えられた写真は、遺影だった。
柔らかな茶髪。憂いを帯びた優しい瞳。
——雨宮蒼佑さん(享年27歳)。
私の知っている顔が、そこにあった。
◇◇◇
知ってしまった。
知ってしまったのに、私は蒼佑さんに会いたいと思った。
次の雨の日、私は震える足でベランダに出た。隣には、やはり彼がいた。
「知ったんですね」
責めるでもなく、悲しむでもなく。ただ静かに、蒼佑さんは言った。
「……はい」
「怖くないですか」
「少しだけ」
嘘だった。本当は、怖くなんかなかった。むしろ——納得した、という方が近い。
雨の日だけ現れる理由。空室のはずの部屋に住んでいる理由。私の孤独を見抜けた理由。
全部、繋がった。
「どうして、私のところに?」
「最初は偶然でした」
蒼佑さんは、雨に濡れた夜景を眺めながら語った。
「雨の日だけ、この場所に戻ってこれるんです。理由はわかりません。でも、あの夜——あなたが泣いているのを見て」
「……」
「昔の自分を見ているようでした。誰にも助けを求められなくて、一人で抱え込んで、壊れていく自分を止められなかった頃の」
彼の声が震えていた。
「僕は、誰にも本当のことを言えないまま死んだ。不正を告発する勇気もなく、助けを求める勇気もなく。だから——」
「だから?」
「あなたには、同じようになってほしくなかった」
私は泣いていた。いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
「蒼佑さん」
「はい」
「あなたの死は、本当に事故だったんですか」
沈黙が降りた。雨音だけが、二人の間を埋めている。
「……わかりません。僕自身にも」
「でも、追い詰められていたんですよね。不正に気づいて、パワハラを受けて」
「ええ」
「その上司は、今どうしているんですか」
蒼佑さんの表情が、初めて歪んだ。
「黒崎、という人です。今は役員に昇進したと聞きました」
私の中で、何かが弾けた。
人を死に追いやった人間が、のうのうと出世している。証拠を握り潰し、若い命を奪っておきながら、今も誰かを同じように追い詰めているかもしれない。
——もう、見て見ぬふりはしない。
「蒼佑さん」
「はい」
「私、調べます。あなたの死の真相を。黒崎という人が何をしたのかを」
蒼佑さんは目を見開いた。
「藤堂さん、それは——」
「危険なのはわかっています。でも」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたの声を、誰かが聴かなきゃいけない。あなたが言えなかったことを、私が代わりに叫ぶ」
「……どうして、そこまで」
「同じだから。私たちは、同じ場所に立っていたから」
蒼佑さんは、泣いていた。雨粒なのか涙なのか、わからない。でも確かに、彼の頬を何かが伝っていた。
「実は——」
彼は震える声で言った。
「僕の部屋に、証拠が残っているかもしれない。不正経理の記録を、密かにコピーしていたんです。告発する勇気がなくて、結局使えなかったけれど」
「どこに」
「机の引き出しの二重底。遺品整理で処分されていなければ……」
私は頷いた。これが、彼にできる最後の抵抗なのだと理解した。
死んでなお、真実を伝えようとする彼の想い。
私が受け取らなくて、誰が受け取るというのか。
「任せてください」
雨の夜に、私は誓った。
この人の無念を、必ず晴らす、と。
◇◇◇
それからの日々は、嵐のようだった。
蒼佑さんの実家を訪ね、事情を話し、遺品を見せてもらった。机の二重底には、確かに資料が残っていた。黒崎雄一郎による不正経理の証拠。改竄された帳簿のコピー。そして——蒼佑さんが最後に書いた日記。
『今日も黒崎部長に呼び出された。お前が余計なことを言わなければ、誰も困らないんだ、と。
僕が悪いのだろうか。知ってしまったことが、罪なのだろうか。
誰にも言えない。誰も信じてくれない。
雨の音だけが、今は唯一の友達だ』
ページをめくるたびに、彼の心が削られていく様子が伝わってきた。最後のページは、途中で途切れていた。
私は泣いた。泣きながら、全てをスキャンした。
◇◇◇
「藤堂さん、これは……」
告発先に選んだのは、外部の監査機関と、信頼できる記者だった。会社の内部通報制度は、黒崎のような人間が握り潰すに決まっている。
「一年前に亡くなった雨宮蒼佑さんが遺した記録です。黒崎雄一郎役員による組織的な不正経理と、それを隠蔽するためのパワーハラスメントの証拠があります」
記者は資料を見て、顔色を変えた。
「これが本物なら、大スキャンダルですよ」
「本物です。そして——彼の死は事故ではありませんでした」
私の声は震えていた。でも、逃げなかった。
「彼は追い詰められて、誰にも助けを求められないまま、命を落としたんです」
◇◇◇
記事が出た日、会社は大騒ぎになった。
黒崎役員は即座に職を追われ、警察の捜査対象になった。会見で彼が「知らない」「部下の独断だ」と言い訳する姿は、醜悪そのものだった。
三島課長も、見て見ぬふりをしていた責任を問われて降格処分を受けた。彼は私の机の前で立ち尽くし、何か言いたげな顔をしていたけれど、私は目も合わせなかった。
「藤堂さん」
声をかけてきたのは、人事部長だった。
「今回の件、あなたが?」
「……はい」
「勇気ある行動だと思います。ただ、社内に残るのは難しいかもしれない」
「わかっています」
覚悟の上だった。会社にいられなくなることも、社会的に孤立する可能性も。
でも、後悔はなかった。
私は、見て見ぬふりをしなかった。
蒼佑さんが言えなかったことを、私が代わりに叫んだ。
それだけで、十分だった。
◇◇◇
その夜は、雨が降っていた。
ベランダに出ると、蒼佑さんがいた。いつもの穏やかな笑顔——でも今夜は、どこか晴れやかだった。
「見ました。ニュース」
「……うん」
「ありがとう」
彼の声が震えていた。
「ありがとう、藤堂さん。いや——澪さん」
初めて、名前を呼ばれた。
「僕の代わりに、戦ってくれて。僕が言えなかったことを、言ってくれて」
「私がやりたかっただけだよ」
「でも、危険だったのに」
「うん。でも、もう見て見ぬふりは嫌だった」
蒼佑さんは、静かに泣いていた。
雨と涙が混じり合って、彼の頬を濡らしている。
「君に会えてよかった」
「私も」
「本当に——本当に、よかった」
彼の姿が、少しずつ薄くなっていく気がした。
「蒼佑さん」
「うん」
「もう、会えなくなる?」
彼は答えなかった。ただ、穏やかに微笑んでいた。
雨が上がり始めていた。雲の切れ間から、微かに星が見えた。
「晴れた日も、君の隣にいるよ」
そう言って——彼は、夜明けの光に溶けていった。
◇◇◇
雨上がりの朝。
ベランダに出ると、空は嘘みたいに晴れていた。隣の部屋には、もう誰もいない。
403号室は、相変わらず空室のままだ。
ポストを開けると、一通の手紙が入っていた。見覚えのない便箋。でも、筆跡は知っている。
『澪さんへ
この手紙を読んでいるということは、僕はもうここにいないのでしょう。
短い間だったけれど、君と過ごした雨の夜は、僕にとって最高の贈り物でした。
生きている間、僕は誰にも本当のことを言えなかった。不正を見て見ぬふりをしようとして、結局それすらできなくて、一人で潰れていった。
でも君は違った。君は戦ってくれた。僕の代わりに、声を上げてくれた。
君は僕の希望だった。
この万年筆は、僕が生前愛用していたものです。君に使ってほしい。晴れた日も、雨の日も、君の言葉を紡ぐために。
僕はもう雨の日にしか会えないけれど、心はいつも君の隣にいます。
晴れた空の下で、君が笑っていることを願っています。
雨宮蒼佑』
手紙と一緒に、深い青色の万年筆が入っていた。手に取ると、不思議と温かかった。
私は泣いた。一人で、声を上げて泣いた。
でも、それは悲しみだけの涙じゃなかった。
◇◇◇
三ヶ月後。
私は新しい会社で働いていた。規模は小さいけれど、風通しの良い職場。何より、自分の意見を言える環境が心地よかった。
雨の日には、蒼佑さんの万年筆で日記を書く。
『今日は雨だった。蒼佑さんのことを思い出した。会いたいな、と少しだけ思った。でも、悲しくはない。彼がくれた勇気は、今も私の中にある』
そんなことを書いていると、ふと彼が隣にいるような気がするのだ。
◇◇◇
ある晴れた日の昼下がり。
行きつけの喫茶店で本を読んでいると、誰かに声をかけられた。
「あの、すみません。藤堂澪さん、ですか?」
顔を上げて——私は息を呑んだ。
蒼佑さんに、よく似た顔がそこにあった。でも、少しだけ雰囲気が違う。より明るくて、前向きな光を宿した瞳。
「……はい」
「よかった。やっと見つけた」
青年は安堵したように微笑んで、向かいの席に座った。
「雨宮晴人といいます。蒼佑の、従弟です」
心臓が跳ねた。
「蒼佑さんの……」
「はい。兄は——僕にとっては兄みたいな存在だったんです。遺品整理をしていたら、あなた宛ての手紙と日記が見つかって」
晴人さんは、鞄から一冊のノートを取り出した。
「これ、兄が最後の方に書いていたものです。あなたのことが、たくさん書いてありました」
受け取ったノートをめくると、蒼佑さんの筆跡があった。
『今日も彼女と話した。藤堂澪という人。僕と同じ孤独を抱えている。でも、彼女には僕にはなかった強さがある。いつか、その強さが彼女を救うと信じている』
『彼女が笑っていた。嬉しかった。こんな気持ち、生きている間は感じたことがなかった』
『僕はもう長くいられないかもしれない。でも、彼女に会えてよかった。それだけは、確かだ』
涙が零れた。
「兄は、最後に幸せだったんだと思います」
晴人さんの声が、優しく響いた。
「ずっと一人で、誰にも本当のことを言えなかった兄が、最後にあなたと出会えて。それが——僕にとっても、救いなんです」
「私は、何もできなかった」
「いいえ」
晴人さんは首を振った。
「告発してくれたでしょう。黒崎のこと。兄の無念を晴らしてくれた」
「それは——」
「兄が望んでいたことです。でも、それ以上に」
彼は真っ直ぐに私を見つめた。蒼佑さんとよく似た、でも少しだけ違う瞳で。
「あなたが兄の最後の日々を、幸せなものにしてくれた。それが、何より嬉しいんです」
私は泣いた。晴れた日の喫茶店で、声を上げて泣いた。
蒼佑さんの想いは、ちゃんと届いていた。形を変えて、今も生きている。
◇◇◇
それから、晴人さんとは時々会うようになった。
蒼佑さんの思い出を話したり、彼が好きだった本の話をしたり。少しずつ、新しい関係が築かれていく。
ある雨の日、晴人さんがふと言った。
「兄は、雨が好きだったんです」
「……知ってます」
「雨の日は、世界が静かになるからって。嘘をつかなくていい気がするって」
私は窓の外を見た。雨粒が、ガラスを伝って流れ落ちていく。
「私も、雨が好きになりました」
蒼佑さんのおかげで。
◇◇◇
数ヶ月後、晴人さんと付き合い始めた。
「兄の代わりなんかじゃないですから」
彼は真剣な顔でそう言った。
「僕は僕として、あなたと一緒にいたいんです」
「わかってる」
私は微笑んだ。
「蒼佑さんは蒼佑さん。晴人さんは晴人さん。別の人だって、ちゃんとわかってるよ」
「よかった」
晴人さんは、ほっとしたように笑った。蒼佑さんに似ているけれど、でも確かに違う笑顔。
雨の日に始まった恋は、晴れた空の下で新しい形になった。
蒼佑さんがくれた万年筆で、私は今日も日記を書く。
『晴れた日も、雨の日も、私は幸せだ。蒼佑さんが繋いでくれたこの縁を、大切にしていく。彼が願ってくれたように、笑って生きていく』
窓の外には、青い空が広がっている。
でも私は知っている。雨が降れば、蒼佑さんが傍にいてくれることを。
晴れた日には、晴人さんが隣で笑っていてくれることを。
私はもう、一人じゃない。
——雨の日に始まった恋は、晴れた空の下で、優しく私を照らし続けている。
【完】




