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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第八章

【1】


 ぼくは十歳になるまで、王家とは無関係だった。


 そう思っていた。


 いや、無関係という言葉すら知らなかった。

 ただ、生きていた。


 花街のいちばん奥、赤い提灯が昼でも薄暗い路地を照らす場所。

 そこにある妓楼の裏口が、ぼくの世界だった。


 朝は、帰っていく客の靴を磨いた。


 泥と酒と吐瀉物と、女の香りと男の汗が混ざった匂い。

 それを拭き取るのが仕事だった。


 夜は、使い走り。


「シャム、水を持ってきな」

「シャム、あれを届けておいで」


 名前を呼ばれるのは、悪くなかった。

 呼ばれない子もいたからだ。


 ぼくの髪は金色らしい。

 でも、泥に塗れていた。


 水は貴重だったから、毎日浴びられるものではない。

 だからいつも髪は土色で、ぼくは自分がどんな色をしているのか知らなかった。


 月に一度だけ、特別な日があった。


 妓楼でいちばん高い客が来る夜。


 女たちはその日に限って、ぼくを水浴びさせた。


「今日はきれいにしときな」


 桶の水は冷たくて、肌が痛いほどだった。

 髪を洗われると、女たちが笑う。


「あら、ほんとに金だねえ」


「もったいない色だよ」


 もったいない、という言葉の意味は知らなかった。


 ただ、その日だけ、ぼくは別のものになる。


 きれいな着物を着せられ、廊下を歩く。


 でも客はぼくを見ない。


 男は女を見る。


 だからぼくの顔は噂にもならなかった。


 花街で男が美しくても、意味がない。


 ぼくはただの孤児だった。



 あの日も、朝はいつもと同じだった。


 濡れた靴を磨き、手を黒くしていた。


 そこへ、見慣れない男が来た。


 灰色の瞳。


 きれいな靴。


 泥がついていない。


「この子か」


 誰にともなく言う。


 楼主が笑った。


「ただの拾い子ですよ」


 男はぼくを見る。


 長く、静かに。


 その視線が怖かった。


 ぼくを値踏みする目でも、哀れむ目でもない。


 探していたものを見つけた目だった。


「名は」


「シャム」


 それだけ。


 男は頷き、楼主に何かを渡した。


 金属の音がした。


 その日、ぼくは裏口ではなく、正面から出た。


 泥の路地を振り返る。


 赤い提灯は昼でも揺れている。


 女たちが手を振った。


「元気でね、シャム」


 それは見送りの言葉ではなかった。


 二度と戻らない子への言葉だった。



 城は、白かった。


 石は泥を許さない。


 廊下は長く、足音が響く。


 水が、いくらでもあった。


 湯もあった。


 湯に浸かったとき、皮膚がほどけるようだった。


 泥が流れ、髪が軽くなる。


 鏡を見せられた。


 そこにいたのは、知らない子供だった。


 金の髪。


 透き通る赤い目。


 細い鼻筋。


「……だれだ」


 思わず言った。


 侍女が微笑む。


「あなたですよ、殿下」


 殿下。


 その言葉は重かった。


 ぼくは首を振った。


「違う」


 違うはずだ。


 ぼくは靴を磨く子供だ。


 女の笑い声の裏で眠る子供だ。


 湯の香りに包まれる資格はない。


 だが、用意された衣は柔らかく、

 食卓には温かい料理が並ぶ。


 布団は、沈むほど厚い。


 夜、眠れなかった。


 静かすぎた。


 花街の夜はうるさい。


 笑い声、怒鳴り声、泣き声、戸を叩く音。


 それが子守唄だった。


 ここは、音がない。


 自分の呼吸が大きすぎる。


 天井を見上げる。


 高い。


 落ち着かない。


 ここはぼくの場所ではない。


 そう思うのに、

 布団はやわらかく、

 腹は満たされている。


 翌日、廊下で肖像画を見た。


 金の髪。


 赤い目。


 完璧な王。


 胸が痛くなる。


 似ている。


 誰かが言った。


「瓜二つだ」


 その言葉が、ぼくを檻に入れた。


 ぼくはぼくでいられなくなる。


 泥のシャムではなくなる。


 王の影になる。


 侍女が言う。


「もう泥に触れてはいけません」


 それは禁じられた楽園のようだった。


 泥は、ぼくの証だった。


 泥がなければ、ぼくは何者だ。


 夜、窓を開ける。


 城下の灯りが遠くに見える。


 花街はあのどこかにある。


 ぼくの名前を呼ぶ声は、もう届かない。


 殿下。


 その呼び名は、甘くて冷たい。


 贅沢は、優しい。


 優しいが、孤独だ。


 ぼくは思う。


 泥の中のほうが、まだ自由だったのではないかと。


 けれど朝になると、

 新しい衣が運ばれ、

 教師が来て、

 礼を学ぶ。


 食事は温かい。


 手はきれい。


 靴は磨かれている。


 今度は、ぼくが磨かれる番だ。


 磨かれて、光らされて、

 誰かの記憶と重ねられる。


 ぼくはまだ十歳だ。


 でももう、戻れない。


 泥は乾いた。


 金の髪は隠せない。


 ぼくは贅沢の中で、

 初めて、自分の影の形を知る。


 影は長く、

 そしてどこまでも、

 王の肖像へと伸びていた。


【2】



 その夜の食卓は、息が詰まるほど静かだった。


 長い卓の上には、磨かれた銀器が並び、燭台の炎がゆらゆらと揺れている。皿は白磁で、縁に細い金が走っていた。そこに盛られているのは、花街では匂いだけしか知らなかった肉と、透き通ったスープと、光る果実。


 ぼくは椅子に座っている。


 背もたれが高く、足が床につかない。


 膝の上で、手が汗ばむ。


「第五王子シャム」


 低く名を呼ばれ、顔を上げる。


 王太后が座っていた。


 年老いている、という言葉では足りない。

 時間が、彼女の上に静かに積もっている。


 銀を混ぜた白髪は高く結い上げられ、額の皺は深く、しかし崩れてはいない。瞼は重たく垂れているが、その奥の眼は濁らない。爪先まで整えられた姿勢は、崩れぬ塔のようだった。


 先代王と現王の母。


 つまり、この城でいちばん長く王を知っている人。


 その視線が、ぼくを測る。


 優しくはない。

 だが、冷酷でもない。


 ただ、確かめている。


「食べなさい」


 柔らかな声だった。


 侍女がナイフとフォークを整える。


 銀が触れ合い、小さな音が鳴る。


 ぼくはそれを見つめる。


 ナイフは細く、光っている。


 花街で持ったことのある刃物は、もっと鈍くて、重かった。包丁や、果物を切る小刀。手に馴染んでいた。


 だがこれは違う。


 軽くて、冷たい。


 持ち方が分からない。


 右手に取る。


 指が滑る。


「……」


 切ろうとする。


 肉は思ったより固い。


 刃が滑り、皿に当たる。


 甲高い音が、広間に響く。


 心臓が跳ねる。


 視線が集まる。


 第一王子アルケスは静かに食事を進めている。

 第二王子カストルは不機嫌そうに皿を睨み、第三王子ポルックスは穏やかに兄の皿を整えている。

 第四王子ヴィルギニスは背筋を伸ばし、音を立てずに切り分ける。


 ぼくだけが、止まっている。


 ナイフが持てない。


 それだけのことが、胸を締めつける。


「……」


 もう一度、刃を入れる。


 手が震える。


 皿が鳴る。


 肉は切れない。


 喉が熱い。


 花街なら、手で食べた。

 奪い合うように、早く。


 ここでは違う。


 きれいに、静かに、音を立てずに。


「貸しなさい」


 王太后が言った。


 叱責ではない。


 命令でもない。


 ただ、当然のように。


 ぼくはナイフを差し出す。


 老いた手が受け取る。


 皺だらけだが、指先は迷いがない。


 刃を当て、す、と引く。


 肉は音もなく分かれる。


「刃は押すのではなく、引くのです」


 静かな声。


「王も同じ」


 ぼくは顔を上げる。


 王太后の眼が、まっすぐにぼくを見る。


「力で押せば、反発する。だが引けば、ついてくる」


 意味は、半分しか分からない。


 でも、笑われていないことだけは分かる。


 ナイフが戻される。


「もう一度」


 ぼくは握る。


 さきほどより、少しだけ指が安定する。


 刃を引く。


 肉が、ゆっくりと切れる。


 音はしない。


 ほんの小さな成功。


 胸の奥で、何かがほどける。


「よろしい」


 王太后が言う。


 その声は、誰に向けたものでもなく、ただ事実を述べている。


 食卓は再び静かになる。


 だが、さきほどまでの緊張とは違う。


 ぼくは小さく息を吐く。


 豪奢な食事は、温かい。


 だが、味はまだ分からない。


 舌よりも先に、心が疲れている。


 王太后がワインを口にする。


 細い喉がわずかに動く。


「泥の子でも、刃は持てる」


 不意にそう言った。


 誰にともなく。


 広間が凍る。


 侍女の動きが一瞬止まる。


 王太后は続けない。


 それ以上、何も言わない。


 だがその一言は、肯定でも侮蔑でもない。


 ただ、現実だった。


 ぼくは皿を見る。


 自分で切った肉がある。


 泥は、もうついていない。


 けれど完全に消えたわけでもない。


 指先の奥に、まだ残っている。


 食卓の光の中で、ぼくは初めて知る。


 贅沢は、甘いだけではない。


 刃のように細く、冷たい。


 持てなければ、切れない。


 持てば、切れる。


 それだけのこと。


 王太后は最後に、ぼくを一瞥した。


 その目は、遠い過去を見ている。


 きっと、先代王の幼い頃も、こうして見たのだろう。


 そして、現王も。


 今は、ぼく。


 老いた月のようなその人の視線の下で、ぼくはナイフを握る。


 引く。


 切れる。


 音は、もうしない。


 豪奢な食卓で、ぼくはようやく、自分の指を見た。


【3】


 食事が終わると、皿は静かに下げられた。


 銀の音は、もう鳴らない。


 侍女たちの足音も、絨毯に吸われて消えていく。

 広間に残るのは、燭台の火と、淡い葡萄酒の香りだけだった。



 アルケスは父王に呼ばれ、奥へ。


 カストルは苛立ったように椅子を鳴らし、ポルックスが穏やかに寄り添って去る。


 ヴィルギニスは静かに一礼し、影のように消えた。


 ぼくは立ち上がろうとして、躊躇した。


 足が、すぐには動かなかった。


「残りなさい」


 王太后の声は、低く、しかし確実だった。


 侍女たちが一瞬、視線を交わす。

 だが誰も異を唱えない。


 広間に、ぼくと王太后だけが残る。


 燭台の火が、ゆらりと揺れる。


「座りなさい」


 命令ではなく、事実の提示のような声。


 ぼくは、もう一度椅子に腰を下ろす。


 足がぶらつくのを、気づかれないように止める。


 王太后は葡萄酒を口に含み、ゆっくりと置いた。


 その手は老いている。

 だが震えはない。


「味はどうでしたか」


 問いかけられ、ぼくは言葉を探す。


「……おいしかった、です」


 本当はよく分からなかった。

 緊張で舌が鈍っていた。


 王太后は、かすかに口元を動かす。


 笑っているのかどうか、判然としない。


「味が分からぬのは、悪いことではありません」


 そう言って、ぼくを見た。


「味を知るのは、慣れてからでよい」


 沈黙が落ちる。


 ぼくは視線を落とす。


 白い皿の跡が残る卓布。


 豪奢な布の上に、ぼくの影が細く伸びている。


「あなたは、泥の匂いを覚えているでしょう」


 突然の言葉に、胸が跳ねた。


 否定しようとして、できなかった。


「……はい」


 王太后は頷く。


「それは消えません」


 責める調子ではない。


 事実を述べているだけ。


「王家に入ったからといって、消えるものではない」


 彼女は指先で卓布をなぞる。


「消そうとすれば、歪みます」


 ぼくは息を呑む。


 歪む、という言葉が怖い。


「歪んだ王は、長くは持ちません」


 ゆっくりとした声。


「だが泥を抱えたまま王になる者も、また難しい」


 その意味が、すぐには理解できない。


 ただ、胸の奥が重くなる。


 王太后は立ち上がる。


 衣擦れの音が、静かな広間に響く。


 近づいてくる。


 ぼくは反射的に背筋を伸ばす。


 彼女の指が、ぼくの顎に触れた。


 冷たい。


 だが力は強くない。


 顔を上げさせられる。


 赤い瞳と、老いた瞳が合う。


「似ていますね」


 誰の名も出さない。


 だが分かる。


「それがあなたの武器であり、鎖でもある」


 鎖。


 胸が締めつけられる。


「人は顔に跪きます」


 王太后の声は淡々としている。


「ですが、顔に失望もする」


 指が離れる。


 ぼくは息を吐く。


「あなたはまだ十歳です」


 その言葉だけが、ほんの少し柔らかい。


「十歳で背負うには、重すぎる」


 視線が、遠くを見る。


 きっと、先代王の幼い頃を思い出している。


 あるいは現王を。


「あなたを養子にしたのは、正妃の判断です」


 淡々と続く。


「私が引き取れば、城は割れた」


 それは政治の話だ。


 ぼくには分からない。


 だが、割れる、という言葉は理解できる。


「あなたは駒ではない」


 一拍。


「だが駒として扱われる」


 その残酷さを、彼女は隠さない。


「覚えておきなさい。刃は押さず、引く」


 さきほどの言葉と同じ。


「そして、泥を恥じるな」


 思わず顔を上げる。


 王太后は、初めて、はっきりと笑った。


 それは優しさではない。


 強さだ。


「泥に塗れて生きた者は、転ばぬ」


 静かな断言。


「転んだことのない者より、強い」


 胸の奥で、何かがほどける。


 初めて、ぼくはこの城で息ができた気がした。


 王太后は背を向ける。


 老いた背中は細い。


 だが、揺るがない。


 扉の前で立ち止まり、振り返る。


「第五王子」


 ぼくは立ち上がる。


「王になるかどうかは、まだ分かりません」


 その声は、確信でも希望でもない。


「だが、生き残る者にはなりなさい」


 扉が閉じる。


 広間に一人、取り残される。


 燭台の火が、静かに燃えている。


 ぼくは指先を見る。


 さきほど握ったナイフの感触が、まだ残っている。


 泥は消えていない。


 贅沢も消えない。


 どちらも、ぼくの中にある。


 月は窓の外。


 ぼくはそっと、卓布に触れた。


 やわらかい。


 その感触を確かめる。


 ここは、ぼくの場所ではなかった。


 けれど。


 もしかしたら、これからなるのかもしれない。


 泥の子は、まだ立っている。


【4】



 朝の光が高窓から射し込み、大理石の床を淡く照らしていた。


 城の東塔は、夜の余韻をわずかに残している。

 絹のカーテンが静かに揺れ、香木の残り香が空気に溶けていた。


 王太后はすでに身支度を終えている。


 銀を帯びた髪は高く結い上げられ、深い皺の刻まれた額は動じない。老いは確かにそこにある。


 だがそれは衰えではなく、長い年月を越えてなお折れなかった証のようだった。


 彼女は椅子に腰かけ、両手を重ねる。


 その指先には、かつて王冠を支えた力が宿っている。


「庭へ出たのですね」


 侍女が慎重に告げる。


「はい。王妃殿下が、第五王子殿下を」


 王太后は、わずかに目を細めた。


 昨夜の食卓。


 少年の震える指。

 銀の刃。

 そして――あの言葉。


 泥を恥じるな。


 あれは慰めではない。

 試金石だった。


 誇りを与えるか、重荷を背負わせるか。

 その境界線に、彼女は意図的に触れた。


 王妃が動くのは、当然だった。


 王太后はゆっくり立ち上がる。

 杖は取らない。


 長い廊下を進む足取りは静かだが、迷いはない。


 東庭は朝露に濡れ、噴水の水音が響いている。


 遠目に、二つの影が見える。


 翡翠の髪を持つ王妃。

 金の髪の第五王子。


 王妃は距離を保ちつつ、少年に語りかけている。

 背筋はまっすぐ、声は穏やかだが隙がない。


 王太后は立ち止まる。


 聞こえなくとも、分かる。


 王妃は物語を書き換えている。


 泥は個の過去ではない。

 国の土であると。


 少年が背負うのではない。

 支える側に立てと。


 王太后の唇が、わずかに弧を描いた。


「賢い」


 それは評価であり、警戒でもある。


 王妃は感情に流されない。

 第五王子を養子に迎えたのも慈悲ではなく均衡のため。


 王太后が引き取れば、貴族は二分された。


 将軍家の血を引く双子は反発し、宰相家と王家の古い系譜が揺らぐ。


 王妃はそれを未然に防いだ。


 そして今、言葉の主導権を握ろうとしている。


 誇りを個から王家へ。


 泥を物語から制度へ。


 王太后は視線を逸らす。


 勝敗ではない。


 これは綱の張り合いだ。


 第五王子はまだ十歳。

 だが彼の顔は、亡き王を思い起こさせる。


 それが最大の危うさ。


 民は理では動かない。

 記憶で動く。


 記憶は、血統より強い。


 王太后は自室へ戻る。


 厚い扉が閉じられ、外界の音が遮断される。


 彼女は窓辺に立ち、遠くの城下を眺めた。


 塔の向こう、広場の石畳。


 あの少年が一歩踏み出せば、囁きは波になる。


 王妃はそれを防ごうとしている。


 だが同時に利用もする。


「……良い」


 王太后は静かに呟く。


 王妃は敵ではない。


 未熟でもない。


 盤を読める。


 ならば対話ができる。


 しかし。


 王太后の眼が鋭く光る。


 王妃は“今”を守る。


 王太后は“未来”を見る。


 第五王子を完全に王家へ組み込めば、民との距離は広がる。


 逆に、民へ近づけすぎれば、王家は揺らぐ。


 均衡は刃の上。


 侍女が控えめに問う。


「いかがなさいますか」


 王太后は椅子に腰を下ろす。


 背筋は崩れない。


「茶を」


 短い命。


「今宵、王妃を招きます」


 それは牽制ではない。


 確認だ。


 どこまでを枠とし、どこまでを自由とするか。


 第五王子の未来は、二人の女の静かな対話にかかっている。


 城は静かだ。


 だが静寂は、嵐の前の気配に似ている。


 王太后は目を閉じる。


 アレスの幼い頃を思い出す。


 強く、美しく、そして孤独だった。


 似ているということは祝福ではない。


 呪いだ。


 それをどう扱うか。


 王妃は泥を国へ変えようとした。


 ならば自分は、王へ変える。


 昼の光の中で、老いた王太后の影は長く伸びる。


 王冠を戴かずとも、彼女はなお、王を育てる者だった。


 そして城のどこかで、十歳の少年はまだ、自分が盤の中心に置かれていることを知らない。


【4】




 午後の光は、王妃の私室に柔らかく差し込んでいた。


 高い天井、淡い青灰色の壁布、磨き上げられた床。

 窓辺には白薔薇が活けられ、甘くも控えめな香りが漂っている。


 王妃は机に向かい、書簡に目を通していた。


 宰相家の実家からの報告。

 北方の穀倉の収量予測。

 そして、宮廷内の細かな動き。


 扉が叩かれる。


「お入りなさい」


 侍女が進み出る。


 銀盆の上に、封蝋の施された招待状。


 赤ではない。

 深い群青。


 王太后の紋章。


 王妃の指先が一瞬、止まる。


「お預かりいたしました。今宵、私室にて茶を、と」


 侍女の声は慎重だ。


 王妃は封蝋に触れる。


 冷たい。


 だが指は震えない。


 割る。


 紙が開く。


 文字は端正で、無駄がない。


 ――今宵、語りましょう。


 それだけ。


 王妃は一度、息を整える。


 予想はしていた。


 第五王子への言葉を、王太后が黙って見過ごすはずはない。


 茶席。


 それは社交の名を借りた政治。


「返答を」


 と口にしかけたとき。


「待て」


 低く、しかし確かな声が部屋に落ちる。


 王だった。


 現王。


 金の髪は整えられ、赤茶の瞳は疲労を帯びているが揺らがない。


 いつからそこにいたのか。


 王妃は静かに立ち上がる。


「陛下」


 王は招待状を見下ろす。


 封はすでに割られている。


「母上からか」


 王妃は頷く。


 王は紙を取り、目を走らせる。


 眉間に、わずかな皺。


「行くつもりか」


 問いは穏やかだが、重い。


 王妃は躊躇わない。


「ええ」


「理由は」


「避ければ疑念になります」


 王は黙る。


 窓の外を見やる。


 塔の向こう、遠くに城下の屋根。


「母上は、まだ盤を握っている」


 静かな声。


 それは非難ではない。


 理解だ。


「第五王子の件で、動いたな」


 王妃は否定しない。


「動かなければ、動かされます」


 王の視線が鋭くなる。


「私は王だ」


 その言葉には、わずかな焦りが混じる。


「盤を握るのは、私でなければならぬ」


 王妃は一歩近づく。


 距離を詰めすぎない、絶妙な位置で止まる。


「陛下は盤そのものです」


 柔らかな声音。


「動けば、全てが動きます」


 王は苦笑する。


「慰めか」


「現実です」


 沈黙が落ちる。


 王は招待状を握る。


 紙がわずかに軋む。


「行くな」


 短い命令。


 王妃の瞳がわずかに揺れる。


 それは従順の揺れではない。


 計算の揺れ。


「母上は、第五王子を試している」


 王は続ける。


「そして、お前をも」


 王妃は理解している。


 茶席は言葉の剣。


 老いた王太后は、まだ鋭い。


 だが避ければ、弱さと取られる。


「陛下」


 王妃は静かに言う。


「私が行かなければ、王太后は“拒絶された”と見るでしょう」


「それが問題だ」


 王は即答する。


「母上に拒絶されたと思わせる方が、まだましだ」


 その言葉の裏にあるのは、息子としての葛藤。


 王は母を恐れているのではない。


 母の“読む力”を知っている。


 王妃はしばし黙る。


 そして。


「では、陛下もお越しになりますか」


 王の視線が止まる。


 茶席に、王が。


 それは力の均衡を変える。


 王太后と王妃の対話に、王が入る。


 それは政治ではなく、親子の対峙になる。


 王はゆっくりと首を振る。


「それはできぬ」


「ならば」


 王妃は一礼する。


「私が行きます」


 王は手を伸ばす。


 王妃の手首を、軽く掴む。


 強くはない。


 だが止める意思は明確だ。


「……危うい橋だ」


 王妃は視線を上げる。


「橋は、渡らなければ向こう岸は見えません」


 静かな対抗。


 王は手を離す。


 深く息を吐く。


「第五王子を、駒にするな」


 その言葉だけは、王としてではない。


 父としての声。


 王妃は一瞬だけ、感情を滲ませる。


「駒にはいたしません」


 そして続ける。


「ですが、守るためには形を与えねばなりません」


 王は目を閉じる。


 兄の顔が浮かぶ。


 瓜二つの少年。


 民のざわめき。


 母の視線。


 全てが絡む。


「……行け」


 ようやく落ちた許可。


「だが、一つだけ」


 王は王妃を真っ直ぐに見る。


「母上に、第五王子を預けるな」


 その言葉の重みを、王妃は理解する。


 王太后は育てる。


 だが、その育て方は時に王をも超える。


「承知しております」


 王妃は深く一礼する。


 王は背を向ける。


 窓辺へ歩く。


 夕光が金の髪を染める。


 王妃は招待状を机に置く。


 今宵。


 茶は甘くはならない。


 だが逃げはしない。


 城の空気が、静かに張り詰める。



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