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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第七章

【1】


 龍星逐鹿 ――八日目


 夜明け前の王城は、まだ眠りの底に沈んでいた。


 石壁に染み込んだ冷気が回廊を満たし、灯されたばかりの燭火が頼りなく揺れる。油の匂いと湿った石の匂いが混ざり合い、静寂は重く、耳鳴りのように続いていた。


 やがて――鐘が鳴る。


 低く、深く、胸骨の奥を震わせる音。


 龍星逐鹿、八日目の始まりである。


 王子たちは、それぞれ別の廊下を歩き始めた。


 第一王子アルケスは、規則正しい歩幅で進んでいた。


 翡翠色の髪はきちんと結い上げられ、衣の襞一つ乱れていない。幼い顔立ちながら、その表情には年齢に似合わぬ緊張が張り付いていた。


(背を曲げるな)


 誰に言われたわけでもない言葉が、胸の内で繰り返される。


 彼は知っている。


 自分は先代王の子ではない。


 名君と謳われた王の血を直接継ぐ者ではなく、その弟――現王の息子に過ぎない。


 視線がある。


 壁の陰。高窓。衛兵の沈黙。


 すべてが評価だ。


 アルケスは無意識に指先を握り込み、すぐに力を抜いた。


 子供らしい仕草は、弱さに見える。


(完璧でいなければ)


 それだけが、彼の武器だった。




 第二王子カストルは、廊下の中央で突然立ち止まった。


 眉が寄る。


 視線の先――燭台。


 わずかに傾いている。


 ほんの指一本分。


 だが彼の胸の奥がざわついた。


 整っていない。


 あるべき形ではない。


 彼は無言で歩み寄り、金属の台座を強く押した。


 ぎ、と音が鳴る。


 後ろの侍従が息を呑んだ。


 カストルの頬はわずかに紅潮していた。怒りというより、焦燥に近い色。


(なぜ誰も直さない)


 理解できない。


 世界はなぜ、こんなにも雑なのか。


 振り返らないまま歩き出す。足音は硬く、石床を叩いた。


 


「兄上」


 柔らかな声が追いつく。


 第三王子ポルックスだった。


 薄桃色の髪が揺れ、穏やかな微笑が浮かんでいる。


「少し、強く押しすぎましたね」


 責める響きはない。

 ただ、兄の呼吸を整えるための言葉。


 カストルは答えない。


 だが肩の力がわずかに抜けた。


 ポルックスはそれ以上何も言わない。


 兄を正そうとはしない。


 ただ隣を歩く。


 それが最善だと知っているから。


 通り過ぎる侍女に、彼は静かに微笑みかけた。


 その瞳は冷静だった。


 兄へ向ける甘さとは別の、理知的な光。


(兄上は、傷つきやすい)


 だから守る。


 理由はそれだけで十分だった。



 第四王子ヴィルギニスは窓辺で足を止めていた。


 青みがかった髪が朝の薄光を受け、淡く透ける。


 異国の色。


 亡き母の証。


 彼は自分がこの国で半ば客人であることを理解していた。


 貴族たちの視線は礼儀正しい。

 だが、温度がない。


 窓の外、霧に沈む庭園を眺めながら呟く。


「今日も、観察の日か」


 選ばれる気はない。


 選ばれれば争いになる。


 彼は争いを望まない。


 けれど――


(父上は、何を見ているのだろう)


 その疑問だけが消えなかった。




 第五王子シャムは少し遅れていた。


 衣の紐がどうしても綺麗に結べない。


 指先がぎこちない。


 侍女が手を差し伸べた瞬間、彼の身体が硬直した。


 反射だった。


 触れられる前に距離を取る。


 花街で覚えた癖。


 侍女はすぐ手を引く。


「申し訳ございません」


 謝罪の意味が分からず、シャムは瞬きをした。


「……別に」


 小さく答える。


 胸の奥がざわつく。


 ここでは誰も殴らない。

 怒鳴らない。


 それが逆に落ち着かなかった。


 

 大広間の扉が開いた。


 五人が並ぶ。


 初めて同じ光の下で。


 中央には巨大な机。

 広げられた王国地図。


 宰相の声が静かに落ちる。


「北方三都市が洪水で孤立した。反乱の兆しあり。諸君が王なら、どうする」


 空気が凍る。


 遊戯ではない。


 評価だ。


 未来を測る秤。



 アルケスが口を開く。


 喉が乾いているのを感じながら。


「商人による補給路を確保します。軍は威圧となり、民心を離反させます」


 言い終えた瞬間、背筋に汗が滲んだ。


 正解かは分からない。


 だが“王らしい”答えだった。



 カストルの瞳が鋭く光る。


「反乱が起きた時点で失政だ」


 声は冷たい。


「首謀者を処刑し統治を立て直す」


 室内の温度が下がった。


 彼自身も気づいていない。


 言葉が刃のようであることに。

 


 ポルックスが静かに続ける。


「兄上の判断は迅速です」


 まず肯定する。


 それから柔らかく。


「ですが恐怖は長続きしません。処罰は最後にすべきかと」


 兄の顔色を横目で確かめる。


 怒っていない。


 それだけで安堵した。


 ヴィルギニスはゆっくり口を開いた。


「理由を調べます」


 視線は地図の河川へ。


「洪水は自然ですが、反乱は意思です。人は理由なく立ちません」


 異国の王族らしい思考。


 宰相の眉がわずかに動いた。



 最後に視線がシャムへ集まる。


 彼は戸惑った。


 皆、難しいことを言う。


 けれど――


「……腹、減ってるなら怒る」


 沈黙。


 彼は続けた。


「まず食わせる。話はそれから」


 恥ずかしさで耳が赤くなる。


 笑われると思った。


 だが宰相は目を細めただけだった。



 高所の格子窓の奥。


 王太后が座していた。


 背は曲がり、白髪は薄い。

 指は震えている。


 だが眼光だけは鋭かった。


 五人を順に見る。


 完璧を装う子。

 怒りを抱える子。

 支える子。

 距離を取る子。

 飾らない子。


「……龍が多すぎる」


 掠れた声。


「一つの空には、収まりきらぬ」


 鐘が鳴る。


 課題終了。


 王子たちは退出する。


 先頭を歩くアルケスの背は固い。

 カストルは苛立ちを隠せない。

 ポルックスは静かに寄り添い、

 ヴィルギニスは距離を保ち、

 シャムは最後尾で周囲を観察していた。


 幼い背中。


 だが王太后には見えていた。


 この並びは、いつか崩れる。


 王座は一つ。


 兄弟でいられる時間は、思っているより短い。


 鐘の余韻が城を満たす。


 龍星逐鹿。


 それは選抜ではない。


 ――静かな淘汰の始まりだった。


【2】


 廊下を歩きながら、僕は前を行く背中を見ていた。


 同い年の背中だ。


 生まれた年も、季節も、ほとんど変わらない。

 同じ満月の夜に生まれ、同じ乳母に抱かれ、同じ庭で転んだはずなのに。


 それなのに。


 カストルは「第二王子」で、僕は「第一王子」だった。


 石床に落ちる足音が、わずかに違う。

 僕の靴音は規則正しく、彼の歩みは少し短い。


 背丈は少しだけ彼の方が低い。


 昔は誰も気にしていなかった。

 幼い頃は皆、小さかったからだ。


 けれど成長の節目を越えた頃から、周囲の視線が変わった。


 比べられている、と気づいたのはいつだっただろう。


 成長の差だと、誰も口にしなくなった頃。

 医官の出入りが増えた。


 薬の匂いが残る部屋。

 閉じられた扉。

 低く抑えた大人たちの声。


 僕は偶然、その理由を知った。


 幼龍症。


 難しい言葉だった。


 けれど意味は理解できた。


 理解してしまった。


 理解した瞬間、胸の奥が冷えた。


 ――知らなければよかった、と少し思った。


 カストルは振り返らない。


 まっすぐ歩いている。

 堂々として見えるのに、歩幅だけがほんの少し違う。


 それを見ている自分が、嫌だった。


 ――もし先代王が生きていたら。


 その考えは、何度も頭に浮かぶ。


 王太子は、きっとカストルだった。


 血が違う。


 僕の父は王弟で、彼の父は王だった。


 それは覆らない。


 教師も、重臣も、誰も口にはしない。

 けれど沈黙の中に答えがあることを、僕はもう知っている。


 血統。


 その言葉は剣より重い。


 僕がどれだけ剣を振っても、どれだけ書を覚えても、

 生まれた瞬間に決まっているものがある。


 けれど。


(本当に、そうなっただろうか)


 考えてしまう自分がいる。


 考えてはいけない気がするのに。


 剣の訓練のあと、彼は誰より早く息が上がる。


 額に浮かぶ汗は細かく、呼吸が浅い。

 休憩の時間になると、誰よりも早く椅子に座る。


 教師は見ないふりをする。


 皆、見ていないふりをする。


 僕だけが気づいているわけじゃない。

 きっと全員、知っている。


 長く立っていると顔色が悪くなる。


 冬の朝は特にそうだ。


 唇の色が薄くなるのを、僕は何度も見た。


 王は倒れない存在でなければならない。


 そう教えられている。


 王は国そのものだから、と。


 倒れる王は、国を不安にさせる。


 幼い頃は意味がわからなかった。

 今はわかる。


 わかってしまった。


 だから。


 僕が選ばれる未来を、誰かが考えている。


 重臣たちが。


 父が。


 城そのものが。


 そのことが――怖かった。


 嬉しい、とは思えなかった。


 少しだけ、ほっとしてしまう自分がいるから。


 それが一番、怖かった。


 同い年なのに。


 同じ日に生まれたのに。


 どうして僕たちは、同じ場所に立てないのだろう。


 カストルがふと立ち止まる。


 僕も足を止めた。


 彼は振り向き、少し不機嫌そうに眉を寄せた。


「遅い」


 短い言葉。


 命令でも、叱責でもない。

 けれど逆らえない響きがある。


 それは年齢ではない。


 血だ。


 僕は頷いて歩み寄る。


 隣に並ぶと、視線の高さがわずかに違うことに気づく。


 昔は同じだった気がするのに。


「……次、剣だよな」


 僕が言うと、彼は肩をすくめた。


「負けないから」


 子供らしい言葉だった。


 その瞬間だけ、ただの十歳に戻る。


 胸が少し軽くなる。


 けれど同時に思う。


 もし彼が健康だったら。


 もし何も問題がなかったら。


 僕は今、ここに立っていただろうか。


 第一王子として。


 皆に頭を下げられながら。


 答えは出ない。


 出してはいけない気もする。


 廊下の窓から光が差し込む。


 満月から数日経った光。


 僕たちは同じ月の下で生まれた。


 それなのに。


 進む道だけが、少しずつずれていく。


 僕は前を歩く彼の背中を、もう一度見た。


 追い越してはいけない気がした。


 でも、止まることも許されない。


 だから僕は、


 同じ速さで歩こうとした。


 追い抜かず、離れず。


 ただ隣にいられる距離を、必死に保ちながら。


 ✴︎⭐︎⭐︎⭐︎✴︎



 廊下を歩くとき、いちばん前にいるのはいつも僕だ。


 そう決まっているわけじゃない。

 誰かが「先へ」と言ったわけでもない。

 けれど足が自然にそう動く。気がつくと、僕は先頭に立っている。


 背後には、気配がある。


 振り返らなくてもわかる。

 真っ直ぐな足音。一定の間隔。わずかに呼吸を整える癖。


 アルケスだ。


 同い年の、第一王子。


 同じ満月の日に生まれた。

 そのことだけは、僕らを同じ場所に置くはずだった。


 ……そう思っていた。


 廊下の石は冷たく、足裏にその冷えが移る。僕は歩幅を大きくしようとして、すぐにやめた。無理をすると息が乱れる。息が乱れると、胸の奥が痛くなる。痛みを我慢すると、視界の端が白くなる。


 そういうことを、僕はもう知っている。


 知らないふりをしているのは周りだけだ。


「成長が遅いだけですよ」


 昔はそう言われた。

 大人たちの声はいつも甘く、優しく、そして薄かった。

 ある時期から、医官が増えた。薬の匂いが居間に残るようになった。眠る前の水が苦くなった。


 幼龍症。


 その言葉を、僕も知った。偶然だ。偶然聞こえただけだ。けれど、いちど意味が分かったら、もう戻れない。


 僕は小さい。昔から。

 今も、きっとこれからも。


 ……だから何だ。


 血がある。


 父は王だった。

 僕は先代王の嫡子だ。


 それは変わらない。


 変わらないはずなのに、背後の足音が、時々やけにまぶしく感じる。


 アルケスは揃っている。

 姿勢も、服の皺も、言葉も。

 僕が息を整える間に、あいつは平気な顔で立っていられる。


 それが腹立たしい。


 腹立たしいのに、腹立っていると気づかれるのも嫌で、僕は黙る。


 黙ると、余計に胸がざらつく。


(比べている)


 この城はいつも、そうだ。


 声にしないくせに、目だけで比べる。

 血統。母の家。政の都合。体の強さ。耐える時間。倒れないこと。


 倒れないこと。


 王は倒れない存在だと教えられた。


 なら、僕は……。


 廊下の途中で、ふっと息が詰まった。胸の奥が熱くなり、空気が薄くなる。

 足を止めたくなる。壁に手をつきたくなる。


 でも止まらない。


 止まったら、追いつかれる。


 追いつかれて、隣に並ばれて、同じ高さで見られるのが怖い。


 ……怖い?


 違う。


 怖いんじゃない。


 許せないんだ。


 同い年のくせに、あいつは「第一王子」だ。

 僕は「第二王子」。


 順番のせいじゃない。出生が数分遅いとか、そんな理由ではない。

 この国の王座が、今はあいつの父のものだからだ。

 先代王が死んで、王弟が即位したからだ。


 つまり、僕の正しさは――遅れて届く。


 正しさがすぐに王座へつながらない。


 それが許せない。


 許せないのに、僕は分かってしまう。


 もし父上が生きていたら、王太子は僕だった。

 皆、疑わなかった。

 アルケスも今ほど平気な顔で僕の背後を歩かなかった。


 でも父上は死んだ。


 濁流に呑まれた。


 王の正しさは、命を守らなかった。


 そのことを思い出すと、怒りは少しだけ形を変える。

 僕の中で、怒りが怖さに似てくる。


(王になるって、何だ)


 答えは出ない。


 出ないまま、足音だけが続く。


 背後の足音が、少し近づいた。

 僕が僅かに遅れたのだろう。


 それがわかって、喉が熱くなる。


 僕は言う。


「遅い」


 振り返らないまま。

 言葉だけを投げる。


 命令じゃない。叱責でもない。

 ただ、僕の心が先に壊れないようにするための釘だ。


 アルケスは何も言わない。


 言い返さない。


 それがまた、腹立たしい。


 同い年なのに、あいつは自分を守るのが上手い。


 僕は自分を守れない。


 守ろうとすると、癇癪になる。


 壊したくなる。


 誰かが本気の顔をするのを見たくなる。


 でも今日は、壊さない。


 壊せば、皆が「やっぱり」と思うからだ。


 皆の「やっぱり」は、僕を王から遠ざける。


 だから歩く。


 先頭を譲らずに。


 小さい背中でも、前に立つ。


 それだけが、僕に残された証みたいだった。


【3】


 廊下の突き当たりで扉が開くと、空気の密度が変わった。


 中央大広間は、光の部屋ではない。高窓から射す朝の白さは、床を照らす前に天井の梁で削られ、金糸の飾り布の陰に吸われてしまう。


 残るのは、燭台の火が落とす薄い金の震えだけだった。


 五人の王子は列を整え、入場した。


 先に立つのは第二王子カストルである。


 背丈は幼いままに留まっているが、歩みの癖には「譲らない」という意志が染みついている。小さな足が石を打つたび、靴音は短く、硬い。


 まるで小刀で石を刻むような音だった。


 その数歩後ろに第一王子アルケスがいた。

 翡翠の髪は結い目一つ乱れず、赤茶の瞳は落ち着いている。だが落ち着きは、安らぎとは違う。彼の平静は、城が要求する「正しさ」の形に自らを押し込めた結果に見えた。目立たないように、目立つ。


 息の仕方すら整えられている。


 第三王子ポルックスは、カストルの影のように寄り添う。薄桃色の髪が柔らかく揺れ、微笑は柔和だが、眼差しだけが兄の背中から離れない。


 気遣いのふりをした監視にも見える。それほどに彼は兄を守ることに慣れていた。


 第四王子ヴィルギニスは少し離れて歩く。青みがかった髪は王家の色ではなく、亡命王女の血の証だった。彼は先頭の小さな背を見ている。


 見ていないふりをしながら。生まれた瞬間から与えられた順位を、彼は諦めでも反抗でもなく、ただ「当然」として受け入れている。


 それが彼の身の守り方だった。


 第五王子シャムは最後尾にいた。金の髪と透き通る赤眼。亡きアレス王の肖像から抜け落ちた光が、歩いているように見える。その容貌だけで、広間の視線はひとつに集まり、次いで散った。


 貴族たちの目は礼儀正しく、礼儀正しいからこそ残酷だった。


 壇上、王は玉座にある。


 金髪に赤茶の瞳――兄王ほど鋭利ではないが、柔らかさは鈍さと紙一重だと囁かれる顔立ち。その評を、王自身も知っているように見えた。


 彼の指先は玉座の肘掛けを静かに撫で、爪の先だけがわずかに白い。緊張ではない。理性で押さえつけた震えだ。


 王の背後には、先代王アレスの肖像が掛けられている。


 絵の王は金髪に透き通る赤眼、高く細い鼻筋、整いすぎた顔立ちでこちらを見下ろしていた。生きていた頃よりも、絵の中の方が完璧だと人は言う。欠点が削られ、神話だけが残るからだ。


 そして今日、絵の下にもうひとりの「同じ顔」が立っている。


 シャムが視線を上げた瞬間、広間の気配が一段沈んだ。彼自身はその重さを理解していない。


 理解できないのではなく、理解の仕方を知らない。花街で学んだのは、殴られる前に逃げることと、笑ってやり過ごすことだった。


 ここでは、逃げ場がない。


 宰相が進み出る。声は乾いている。


「龍星逐鹿、九日目。これまでの諸課題について、暫定の評価を告げる」


 誰も息を吸わない。息を吸う音まで政治になるからだ。


 名を呼ばれる。


「第一王子アルケス殿下」


 アルケスは一礼した。礼の角度は教本どおりで、そこに彼の癖がないのが癖だった。


 貴族の視線が彼の翡翠の髪を撫でる。


 金ではない色を、王家の正妃が産んだ色を、人は意味として読む。


「統治理解、優。責任感、優。柔軟性――良」


 良、という一字が落ちる。


 小石が水面に沈むように、その音は小さいのに、広間の胸に残った。完璧ではない、という印が。

 だが同時に、落とし穴のない優等生という印も。


 次。


「第二王子カストル殿下」


 カストルは顔を上げる。顎がほんの僅かに突き出る。幼さを隠すよりも、幼さで押し切るような態度だ。彼にとって“嫡子”は鎧であり刃でもある。


「決断力、優。統率力、優。情緒安定性――可」


 可。


 それは評価ではなく、触れてはいけない部分に手を入れられた感覚に近い。


 カストルの瞳が細くなる。赤い瞳孔の周りに薄い白目が覗き、怒りが立ち上がるのが見て取れた。


 その瞬間、ポルックスが半歩前に出た。


 ほんの半歩。だが兄の視界に入る半歩だ。彼は何も言わない。ただ微笑む。

 兄だけが分かる合図で、兄の怒りを「ここで」止める。


 カストルは唇を噛み、視線を逸らした。逸らし方に失敗して、拳が震えた。

 壊す衝動が指先まで来ている。けれど壊せば、可は正しいと証明される。


 宰相は淡々と続ける。


「第三王子ポルックス殿下。分析力、優。調整能力、優。独立性――良」


 ポルックスは小さく頷いた。


 良の一字に眉一つ動かさない。兄のこと以外なら、彼は常に落ち着いている。


「第四王子ヴィルギニス殿下。洞察力、優。外交的資質、優。影響力――良」


 ここで、貴族席のざわめきが生まれた。

 ざわめきは声にならず、扇の影で蠢く。


 亡国の血に「優」が付いたことへの戸惑いだ。

 ヴィルギニスは表情を変えない。

 変える権利が自分にないことを、幼い頃から知っている顔だった。


 最後。


「第五王子シャム殿下」


 空気が引き締まる。シャムは一歩だけ身を固くする。彼はまだ、礼をする角度に慣れていない。教えられた通りにやろうとして、動きが遅れる。その遅れに、誰かが小さく笑った。笑ったのが誰かは、本人も隣も特定できない。宮廷の笑いは、そういう形で刺さる。


「民情理解、優。直観判断、優。統治知識――可」


 また可が落ちる。だがこの可は、嘲りではなく“足りないこと”の宣告だった。学んでいない子に学びを求める残酷さ。だが、優が二つ並ぶ残酷さの方が大きい。


 花街の子に、民情理解。


 それは貴族にとって、自分たちの盲点を突かれる言葉だった。


 シャムは意味を咀嚼できないまま、ただ立っていた。褒められたのか、貶されたのか、判別がつかない。けれど周囲の視線の温度が、明らかに変わったことだけは分かった。今までの好奇と違う。警戒だ。


 壇上の王は、一度だけシャムを見た。


 その視線は短く、そして深い。兄王の肖像へ逃げるように戻る。王太后がもしこの場にいたなら、王のその目の揺れを見逃さなかっただろう。


 宰相が締めくくる。


「以上。暫定である。龍星逐鹿は続く」


 鐘が鳴った。


 終わりの音は、始まりの音より低かった。


 五人の王子が退出のために向きを変える。


 先頭のカストルの背が、小さいのに重く見える。

 追い抜かせないための重さ。


 アルケスはその背後で、きちんと距離を保つ。

 保っているのか、保たされているのか分からない距離だ。


 ヴィルギニスは、カストルが振り向かないことを知っている。振り向いた時が怖いことも。だから、今日も黙って従う形を選ぶ。


 ポルックスは、兄の手が震えているのを見ていた。震えが収まるまで、兄の隣から離れないと決めた目をしている。


 シャムは、最後尾で自分の足音を聞いた。石床に落ちる音が、場違いに軽い。


 軽いのに、皆が怖がる。自分の顔を。


 広間を出たあと、扉が閉じる音がした。


 その音は、肖像画に額縁を嵌め直す音に似ていた。


 王は絵の中に戻り、王子たちは絵の外で削られていく。


【4】


 大広間の扉が閉じた瞬間、音がひとつ死んだ。


 外へ漏れていた視線と評価の気配が、厚い木と鉄の向こうへ押し戻される。


 廊下は長く、白い。昼の光が高窓から斜めに落ち、王子たちの影を引き延ばしていた。


 先頭を行くのはカストルである。

 背丈は幼い。だが背筋は伸び、顎はわずかに上がっている。


 評価の最後に落ちた一字が、まだ彼の耳の奥で響いていた。


 ――可。


 石床を踏む音が、ひとつ強くなる。


 その後ろにアルケスがいる。翡翠の髪は揺れず、足取りも乱れない。一定の距離を保ち、決して並ばない。並べば対等になる。


 並ばなければ序列は守られる。


 その距離が、いまは刃だった。


 さらに後ろにポルックス。


 兄の背を見ている。兄の肩の線が、いつ崩れるかを見ている。


 ヴィルギニスは無言で続き、シャムは最後尾で周囲の空気を測っている。


 カストルの呼吸が浅くなる。


 廊下の中央に置かれた装飾卓が目に入った。花瓶。金縁の盆。飾り箱。整いすぎた静けさ。


 次の瞬間、卓が横に払われた。


 陶器が砕ける音が、廊下に弾ける。


 花瓶が床で割れ、水が白い石に広がる。


 散った破片が光を拾う。


 誰もすぐには動かない。


 カストルの肩が上下する。握った拳が震えている。

 顔は紅潮し、瞳は赤く燃えていた。


「……可、だって?」


 声は低い。震えは怒りか、息の不足か、判別がつかない。


 アルケスは動かない。

 前へも出ず、後ろへも退かない。


 その静けさが、さらに火を煽る。


「情緒が安定していないから可だと?」


 言葉は誰に向けられたものでもない。

 だが空間全体を刺した。


「僕は嫡子だ」


 その一言が、廊下を凍らせる。


 先代王の血。将軍家の血。

 誰も否定できない事実。


 だがその事実が、今日の評価を覆さなかったことが、彼には理解できない。


 理解できないことが、許せない。


 足元の破片を踏みつける。


 靴底に陶片が砕ける音がする。

 呼吸が荒い。


「兄上」


 静かな声が差し込む。

 ポルックスだった。


 兄の正面に立つでもなく、横に並ぶでもなく、半歩斜め前へ出る。視線を合わせる位置に立つ。


「まだ九日目です」


 声は柔らかい。だが甘くはない。


 カストルは睨む。


「可だぞ」


「はい」


「可だ」


「はい」


 ポルックスは頷く。否定しない。慰めない。


 それが、兄を止めるやり方だった。


「優もありました」


 低く、淡々と。


「決断力、統率力」


 兄の強みだけを拾う。


 カストルの呼吸がひとつ乱れる。


「だが可だ」


「可は、失格ではありません」


 その言葉に、カストルの拳がわずかに緩む。


 廊下の端で、侍従たちが動き出そうとする気配がある。

 ポルックスはそれを視線だけで制する。


 近づくな、と。


 兄の爆発は、他人に見せてはいけない。


「兄上」


 もう一度、柔らかく。


「壊れたものは、戻りません」


 カストルの視線が足元へ落ちる。


 砕けた花瓶。水に濡れた石。

 可という一字が、そこに転がっているように見えた。


「片付けるな」


 カストルが言う。


 命令だ。


 侍従は止まる。


 ポルックスは「はい」と答えた。


 からり、と軽い音。



 その静かな従順が、逆に兄の熱を奪う。


 カストルは息を吐く。


 肩が一度、落ちた。


 怒りは消えていない。

 だが爆ぜる頂点は過ぎた。


 背後でアルケスが一歩だけ近づく。


 何も言わない。


 それが、いまは最も賢い選択だった。


 ヴィルギニスは視線を伏せている。

 自分が動けば、火種が別の形で燃えることを知っている。


 シャムは破片を見ていた。

 割れた陶器の縁が、どこか懐かしく感じられる。


 花街では、割れる音は日常だった。だがここでは違う。

 ここでは、音に意味が生まれる。


 廊下の奥から、重い足音が近づく。


 重臣の影だ。


 ポルックスは兄の袖をそっと整えた。


「戻りましょう」


 穏やかに。


 カストルは何も言わず、再び歩き出す。


 先頭のまま。


 小さな背中が、白い廊下を進む。


 後ろに、四つの影が続く。


 砕けた花瓶と、水に濡れた石だけが残った。


 そして、その水の上に映る五人の影は、どれも歪んでいた。


【5】


 廊下に残された破片は、やがて片付けられた。


 だが音は残った。


 陶器が砕ける音は、石に吸われても消えない。

 人の胸の奥に、形を変えて沈む。


 その日の午後、重臣たちは小広間に集まっていた。

 大広間とは違い、天井は低く、壁布は厚い。声が外へ漏れにくい構造だ。


 宰相が指先で茶器を回す。


「ご覧になりましたな」


 誰にともなく言う。


 将軍家の当主は口を閉ざしている。

 その視線は、床に落ちた花瓶を思い出している。


「まだ十歳です」


 財務卿が穏やかに言った。


「ええ、十歳です」


 宰相は笑わない。


「だからこそ、です」


 沈黙が落ちる。


 第二王子カストル。

 先代王嫡子。

 血統は最上位。


 だが今日、彼は壊した。


 壊したのは花瓶だ。

 しかし彼らが見たのは、花瓶ではない。


 情緒安定性――可。


 あの一字が、引き金だった。


「将軍家としては、どうお考えか」


 視線が向く。


 将軍はゆっくりと顔を上げた。


「血は正統である」


 それだけを言う。


 否定も肯定もしない。


 血は正統。


 だが王は血だけでは務まらない。


 誰も口にしないが、皆が知っている。


 第一王子アルケスはどうだったか。


 完璧すぎる。


 整いすぎている。


 危うさが見えない。


「柔軟性、良」


 その一字をどう読むか。


 従順か。

 迎合か。

 それとも器の広さか。


「第三王子は」


 財務卿が問う。


「兄を止めました」


 静かな声。


 止めたのは叱責ではない。

 慰めでもない。

 ただ、命令を守るという形で怒りを鎮めた。


 その器用さは、誰より冷たい。


 第四王子ヴィルギニス。


 亡命王女の子。


 影に立つ者。


 優の評価に、貴族席が揺れた。


「外交的資質、優」


 それは城の外を見ている証だ。


 第五王子シャム。


 花街の子。


 だが今日、彼に与えられたのは「民情理解、優」。


 それが何を意味するか。


「民は、顔で動く」


 老臣が言う。


「名君の面影が歩いている」


 その言葉は、警告だった。


 血統、嫡流、政治。


 それらを越えて、人は“似ている”という理由で動く。


 小広間の空気は重い。


「王に報告を」


 宰相が言う。



 玉座の間は薄暗い。


 現王は一人、肖像画を見ていた。


 兄の顔。


 金の髪。透き通る赤眼。


 完璧な王。


 その下で、自分は生きている。


 報告は短い。


 第二王子、癇癪。


 第三王子、鎮静。


 第一王子、沈黙。


 第四王子、無言。


 第五王子、警戒対象。


 王は目を閉じる。


 わずかな時間だけ。


「……見たか」


 宰相に問う。


「はい」


「どう思う」


 宰相は一拍置く。


「嫡流は強い。しかし不安定です」


「第一王子は」


「安定している。しかし揺らぎがない」


 王は息を吐く。


 それは疲労ではなく、覚悟の音だった。


「揺らぎがない者は、割れると大きい」


 ぽつりと言う。


「嫡流は」


「割れやすい」


 王は肖像画を見上げる。


 兄は、最後まで立っていた。


 立って、死んだ。


 王は倒れない存在でなければならない。


 だが、倒れない王は本当に王か。


「龍星逐鹿は続ける」


 王は言う。


「容赦なく」


 宰相は頭を下げる。


 玉座の影が、王の足元に伸びる。


 王は自分の手を見る。


 震えていない。


 だが、震えないことが正しいかどうかは分からない。


「五人は、同じ日に生まれた」


 独り言のように。


「だが同じ王にはならぬ」


 扉の外で、鐘が鳴る。


 夜が近い。


 城は静かだ。


 だが静けさは、嵐の前に似ている。


【6】




城下は春先の光に包まれていた。


冷えた石畳の隙間から、小さな草がのぞいている。

市場はまだ午前のざわめきに満ち、野菜の水気、焼きたてのパンの匂い、馬の鼻息が混じる。


そのざわめきの奥に、別の音が混じっていた。


「見たか?」


「誰をだ」


「第五王子だ」


声は低い。だが、抑えきれない熱を帯びている。


城から下りてきた噂は、足を持つ。


目を持ち、口を持つ。


そして形を変える。


「金の髪だと」


「赤い目だと」


「先代王そのものだ」


その言葉に、人々は振り返る。


金の髪と赤い目。


その組み合わせは、城下にとっては神話の一部だった。


先代王アレス。

戦を退け、税を軽くし、堤を築き、冬を越えさせた王。


彼の姿は記憶の中で磨かれ、実像よりも眩しくなっている。


その面影が、歩いているという。


「花街の子らしいぞ」


その一言で、空気が変わる。


好奇と、侮蔑と、期待とが混じる。


花街。


卑しい場所。


汚れた場所。


だが同時に、城の誰かが夜ごと足を運ぶ場所。


否定と現実が背中合わせになった場所。


「そんな血で王になれるか」


「血は血だろう」


「だが、あの顔だ」


市場の片隅で、老婆が目を細める。


「似ているってのは、怖いことだよ」


誰かが笑う。


「顔だけで米は増えない」


笑いはすぐに消える。


民は知っている。


顔が、心を動かすことを。


数日後、城の外苑で王子たちが民に姿を見せると告げられた。


名目は視察。


実際は、見せるためだ。


石畳に人が集まる。


遠巻きに。


直接触れられない距離で。


王子たちが現れる。


最初に目に入るのは整えられた色彩だ。


翡翠の髪。

薄桃色の髪。

青みがかった髪。


そして最後に。


金の光が、陽に反射する。


ざわめきが波のように広がる。


「あれだ」


「本当に……」


シャムは歩いている。


まだ背は低く、動きはぎこちない。


礼の角度も完璧ではない。


だが顔を上げた瞬間、時間が一瞬止まる。


透き通る赤い瞳が、群衆を映す。


そこに威圧はない。


王の威光もない。


ただ、まっすぐな視線。


そのまっすぐさが、逆に人を打つ。


「似ている……」


誰かが呟く。


それは比較ではなく、記憶の再生だった。


老兵が一歩前へ出る。


膝に古傷がある。


「陛下」


無意識にそう呼び、すぐに口をつぐむ。


周囲が息を呑む。


シャムはその呼びかけを理解していない。


だが、呼ばれた方向へ目を向ける。


老兵の目に涙が滲む。


その涙は、政治ではない。


生き延びた記憶だ。


その瞬間。


民の心の中で、何かが傾く。


血統も、花街も、正妃も、宰相家も。


それらの前に、記憶が立ちはだかる。


「顔だけだ」


若い男が言う。


だが声は小さい。


顔だけで、これほど心が揺れることを、彼自身が恐れている。


シャムは群衆の視線を浴びながら、困惑している。


自分が何をしたのか分からない。


ただ立っているだけだ。


ただ、見ているだけだ。


だがその姿が、民の胸に火を灯す。


その火は小さい。


まだ炎ではない。


だが消えない。


貴族席から、その様子を見ている者がいる。


宰相家の若き嫡男。


将軍家の遠縁。


彼らは顔を見合わせる。


「厄介だ」


誰かが低く言う。


花街の血は穢れている。


そう信じたい。


だが民は、穢れを見ていない。


見ているのは、亡き王の面影だ。


「神託が、民の記憶を呼び起こしたか」


呟きは風に溶ける。


その頃、シャムは初めて自覚する。


視線が重い。


優しさではない。


期待だ。


期待は刃になる。


彼はそれをまだ知らない。


だが本能的に、少しだけ肩をすくめた。


その仕草が、また人の心を掴む。


不完全な王。


幼い王。


守りたくなる王。


噂は、その夜さらに広がった。


酒場で。

井戸端で。

灯りの消えかけた家の中で。


「第五王子」


その名は、まだ小さい。


だが確実に、城の外で形を持ち始めていた。


そして城の中では。


その名を、誰も軽く扱えなくなっていた。


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