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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第六章

【1】


 王太后が立ち上がるまでには、わずかな時間が必要だった。


 誰もそれを急かさない。


 急かすことが許されないのではなく、急かすという発想そのものがこの部屋には存在しないのだ。


 椅子の肘掛けに置かれた指が、ゆっくりと力を探す。


 細い。


 かつて王冠を戴く王を抱き上げた手とは思えぬほど、骨ばり、皮膚は薄く乾いている。血管は青く浮き、まるで古地図に引かれた川筋のようだった。


 関節がわずかに鳴る。


 音は小さいが、本人にははっきり聞こえる。


 ――また一日、老いた。


 その事実を、王太后は淡々と受け入れていた。


 侍女が支えようと一歩踏み出すが、王太后は視線だけで制した。


 まだ、自分で立てる。


 立てるうちは、立つ。


 それが彼女の矜持だった。


 ゆっくりと背が伸びる。


 完全には伸びきらない。

 若き日の彼女を知る者なら、その差に気づくだろう。かつて真っ直ぐだった背筋は、今はわずかに前へ傾いている。


 老木が風に耐え続けた末の、ほんの僅かな歪み。


 しかしその姿勢には、なお威圧があった。


 年老いた獣が持つ静かな支配力。


 王太后の髪は、完全な白ではない。


 銀糸の中に、かすかに残る淡い金が混じっている。

 かつて王宮中を魅了した黄金の髪は、今や月光に洗われたような色へ変わっていた。


 重く結い上げられた髪から、細い後れ毛が一本だけ落ちている。


 侍女が整えようとすると、王太后は首を振った。


「……そのままでよいわ」


 完璧である必要は、もうない。


 完璧であろうとした年月は、十分に長かった。


 鏡の前へ歩く。


 歩幅は小さい。

 だが足取りは揺れない。


 杖を使わないのは意地ではない。習慣だ。


 王であった夫が倒れた日、彼女は悟った。


 王族が弱さを見せる瞬間は、常に政治になる。


 鏡の中の女は、深い皺に刻まれていた。


 目元には幾重もの線。

 口元は固く結ばれる癖がそのまま刻印となり、微笑んでいなくとも厳格に見える。


 だが目だけは、衰えていない。


 淡い灰青色の瞳。


 濁りはある。視力も落ちている。

 それでも、物事の本質を見る光だけは失われていなかった。


「……老いたわね」


 独り言のように呟く。


 嘆きはない。


 確認に近い。


 指先で頬に触れると、皮膚は驚くほど軽かった。

 若い頃は張り詰めた弓のようだった顔が、今は時間に解かれた布のように柔らかい。


 だがその柔らかさの奥に、消えないものがある。


 記憶だ。


 王を産み、王を送り、王を失った記憶。


 先代王――最初の息子。


 名君と呼ばれたあの子。


 幼い頃、彼はよく彼女の膝で眠った。


 その重みを、王太后の身体はまだ覚えている。


 膝に手を置くと、わずかな震えが走った。


 寒さではない。


 空白の重さ。


 人は、失った数だけ老いるのだと彼女は思う。


 現王は生きている。


 だが王となった瞬間、息子ではなくなった。


 それが王家というものだ。


 窓辺へ向かう途中、王太后は一度立ち止まった。


 呼吸を整えるため。


 胸が以前より浅くしか膨らまない。


 侍女たちは気づかぬふりをする。


 それもまた忠誠だった。


 庭では王子たちが動いている。


 小さな影。


 十歳の身体。


 未来の重さをまだ知らぬ年齢。


 アルケスの動きは慎重だ。

 己の立場を理解している者の剣。


 カストルは感情のまま振るう。

 血が先に動く子。


 ポルックスは兄を見ている。

 常に、常に。


 あの子の視線には慈悲がある。

 王には向かぬが、人を救う目だ。


 ヴィルギニスは距離を取る。

 観察者。


 そして――シャム。


 王太后の指先が窓枠に触れた。


 冷たい石の感触。


 少年は他の王子より静かだった。


 動きが慎重すぎる。


 周囲の空気を読む癖。


 王宮では学ばない生存術。


 花街の子。


 その事実は変わらない。


 だが。


(……似ている)


 また思ってしまう。


 亡き長子に。


 老いた心は、時に理性より先に記憶へ触れる。


 それを王太后は嫌悪していた。


 判断を曇らせるからだ。


 彼女はゆっくりと手を離した。


 指先が震えている。


 怒りではない。


 時間だ。


 時間が身体から力を奪っていく。


 だが奇妙なことに、恐怖はなかった。


 若い頃、死は敵だった。

 今はただの到達点に過ぎない。


「……まだ、終わらないわ」


 小さく呟く。


 声はかすれているが、命令の響きを失っていない。


 王太后は椅子へ戻り、座る。


 腰を下ろす動作一つにも慎重さが要る。


 衣擦れの音が静寂に溶ける。


 侍女が温かい茶を差し出す。


 カップを持つ手はわずかに揺れ、陶器が触れ合う微かな音がした。


 それでも一滴もこぼさない。


 長年の制御。


 王妃として生きた年月が、身体そのものを儀礼へ変えていた。


 湯気が顔を撫でる。


 目を閉じる。


 暖かい。


 それだけで十分だった。


 王太后は知っている。


 自分が生きている限り、この王家は過去と繋がっている。


 彼女が死ねば、ひとつの時代が完全に終わる。


 だからまだ倒れない。


 老いた身体であっても。


 皺だらけの手であっても。


 王家の記憶として。


 最後の証人として。


 静かに、確実に、そこに在り続ける。


 まるで庭の奥に立つ古い王樹のように。


 枝は衰え、葉は減り、それでも根だけは深く大地を掴み続ける。


 誰もその樹を見上げなくなっても。


 王国は、その影の中で生きているのだった。


【2】


 午後の光は、老いた宮の奥ではいつも薄い。


 王太后の居室は南向きでありながら、意図的に光を遮っていた。重ねられた薄布の帳が日差しを砕き、室内を柔らかな灰色に沈めている。


 時間そのものが、ここでは歩みを遅くする。


 正妃は一礼し、静かに膝を折った。


「お呼びと伺い、参上いたしました」


 声は落ち着いている。揺れはない。


 翡翠色の髪を受け継いだ第一王子アルケスの母――宰相家の血を引く女。姿勢は完璧で、衣擦れすら統制されているようだった。


 王太后はすぐには答えなかった。


 茶器を持つ手を少し休ませ、正妃を観察する。


 若い。


 それがまず浮かんだ感想だった。


 若さとは力だ。だが同時に、世界を単純に見る危険でもある。


「顔を上げなさい」


 低く、乾いた声。


 正妃がゆっくり視線を上げる。


 二人の女の目が合った。


 王を産んだ女と、王を産ませた女。


 同じ座に立ちながら、決して同じではない存在。


「……シャムを養子にしたそうね」


 前置きはなかった。


 正妃の瞳が、わずかにだけ細くなる。


「はい。陛下のご意思に従い、そして――私の判断でもあります」


「私の判断でも、ね」


 王太后は微かに笑った。


 笑みというより、皺の動きだった。


「あなたらしい答えだわ」


 沈黙。


 遠くで風鈴が鳴った。


 王太后は茶を一口含む。


 手は老いているが、動作は寸分違わぬ王族の作法だった。


「なぜ引き取ったのか、聞かせてもらえる?」


 問いは穏やかだった。


 だが拒否は許されない声音。


 正妃は迷わなかった。


「王太后様が、お引き取りになるという噂を耳にいたしました」


 空気が、ほんのわずか変わった。


 王太后の指が止まる。


「……ほう」


「王太后様が関与されれば、王位継承は“過去”と“現在”の争いになります。私はそれを避けました」


 率直だった。


 遠回しな言葉を選ばない。


 王太后の目が細くなる。


「つまり、私を政治から遠ざけたと?」


「いいえ」


 正妃は静かに首を振った。


「王家を、分断から遠ざけました」


 沈黙が落ちた。


 長い。


 しかし不快ではない。


 互いに相手を測っている沈黙だった。


「……あの子の血が、気にならないの?」


 王太后の声は低い。


 試す問い。


 正妃の答えは一瞬遅れた。


 それが本音の証だった。


「気になります」


 はっきりと。


「花街は……我々とは異なる世界です」


 言葉は選ばれている。


 だが嫌悪は隠されていない。


「穢れた場所と、私は教えられて育ちました」


 王太后は頷いた。


 否定しない。


 それがこの時代の常識だからだ。


「ですが」


 正妃は続ける。


「子に罪はありません」


 王太后の目が、わずかに揺れた。


「私はあの子を愛することはできないでしょう」


 静かな告白。


「けれど、守ることはできます」


 その言葉に嘘はなかった。


 愛ではなく責務。


 それは王妃として最も正しい形だった。


「……正直ね」


「虚飾は不要かと存じます」


 王太后は小さく息を吐いた。


 老いた肺の音。


「あなたは賢いわ。だから恐ろしい」


 正妃は答えない。


 称賛ではないと理解しているから。


「あなたは王家を“制度”として見ている」


「王国を守るために必要です」


「私は違った」


 王太后の声が、わずかに遠くなる。


「私は、家族として見ていた」


 その差が、時代だった。


 先代王の時代はカリスマ的才能で統治された。

 だが今は違う。


 制度で支えねば崩れる。


「……シャムは、嵐になるわ」


 王太后が言う。


「ええ」


「それでも?」


「嵐を外に置けば、いずれ城を壊します」


 正妃の視線は真っ直ぐだった。


「ならば内に置き、形を与えるべきです」


 王太后は目を閉じた。


 ゆっくりと頷く。


 老いた枝が風に揺れるように。


「あなたは王を育てる女ね」


 その言葉は、承認だった。


 そして同時に。


 時代が自分から離れていくことの確認でもあった。


「……ただし」


 王太后が目を開く。


 光が宿る。


「忘れないことよ」


 声は老いてなお鋭い。


「王家は血だけでも、制度だけでも続かない」


 正妃が静かに耳を傾ける。


「最後に国を救うのは、いつだって“人”よ」


 沈黙。


 長く、深い。


 やがて正妃は深く頭を下げた。


「肝に銘じます」


 王太后は微かに微笑んだ。


 それは祖母の顔だった。


「……あの子を、寒い場所に立たせないで」


 命令ではない。


 願いだった。


 正妃は一瞬だけ迷い、そして答える。


「王子として扱います」


 それが彼女にできる最大の優しさだった。


 王太后は頷いた。


 十分だ、と。


 外では夕日が落ち始めている。


 王宮は静かに色を変え、次の時代へ影を伸ばしていた。


【3】


 春の茶会は、王宮において最も穏やかな儀式のひとつとされている。


 戦も政も持ち込まぬ場。


 女たちが花を愛で、香を語り、季節を称えるだけの時間。


 ――そう、表向きは。


 中庭の杏花が風に揺れ、薄桃色の花弁が水盤へ落ちていく。


 侍女たちは音を立てず動き、銀の茶器が整然と並べられていた。


 そこへ、先に現れたのは先代王妃だった。


 将軍家の娘。


 双子王子――カストルとポルックスの母。


 背筋は剣のように真っ直ぐで、座るだけで空気が引き締まる。


 戦場を知らぬ女たちの中で、ただ一人、戦を理解する者の気配をまとっていた。


「お待たせいたしました」


 続いて正妃が現れる。


 衣の色は淡い翡翠。


 宰相家の娘らしい、計算された柔らかさ。


 二人は同時に微笑んだ。


 完璧な角度で。


「お久しゅうございます、姉上」


 正妃が言う。


 先代王の正妃であった女を、形式上そう呼ぶ。


「ええ、本当に」


 先代王妃も微笑む。


 声は穏やかだった。


 だが温度はない。


 互いに座る。


 茶が注がれる音だけが響く。


 しばし、花の話が続いた。


 今年の開花は早いだの、香木の質が変わっただの。


 意味のない言葉。


 だからこそ必要な言葉。


 やがて。


「――新しい王子のこと、聞いております」


 先代王妃が、茶碗を置きながら言った。


 唐突ではない。


 だが避けられない瞬間だった。


「ええ」


 正妃は微笑みを崩さない。


「シャムは、私の子となりました」


 わずかな沈黙。


 風が花弁を運ぶ。


「……ご立派なご判断ですこと」


 称賛の形をした言葉。


 だが響きは硬い。


「ありがとうございます」


 正妃は頭を下げる。


 互いに一歩も踏み込まない。


「お優しいのですね」


 先代王妃は続けた。


「身寄りのない子をお引き取りになるとは」


 “身寄りのない”。


 その表現に、すべてが含まれていた。


 血筋を持たぬ子。


 後ろ盾なき存在。


 そして――花街の子。


 正妃は理解している。


 だが否定しない。


「王家の血を引く以上、当然のことです」


「ええ、ええ。もちろん」


 先代王妃は頷く。


 だが指先がわずかに茶碗をなぞった。


 不快の癖だった。


「……あのような場所から来た子でも」


 静かな一言。


 侍女たちは顔を伏せたまま動かない。


 聞こえぬふり。


 正妃の微笑みが、ほんの少しだけ硬くなる。


「花街は、我々とは異なる文化を持つ場所です」


 否定もしない。


 肯定もしない。


 政治的な答え。


 先代王妃は小さく笑った。


「将軍家では、あの界隈には兵を近づけぬよう教えられました」


「……でしょうね」


「秩序が違うのです。清浄という概念が」


 言葉は柔らかい。


 だが線引きは明確だった。


 穢れ。


 口にせずとも意味は伝わる。


 正妃は茶を口に運ぶ。


 一拍置いてから言った。


「ですが、子は環境を選べません」


「ええ」


 先代王妃も頷く。


「だからこそ憐れです」


 その言葉に、同意が生まれた。


 愛ではない。


 憐憫。


 それが二人の共通点だった。


 沈黙。


 庭の鳥が鳴く。


「アルケス殿下は、どう受け止めておいでです?」


 先代王妃が問う。


 視線が鋭くなる。


 探っている。


 王位争いへの影響を。


「兄として振る舞おうとしております」


 正妃は答える。


 誇りと、わずかな不安を含ませて。


「よいことです」


 先代王妃は言う。


「兄は強くあらねば」


 それは双子の母の言葉だった。


 そして。


「……カストルは、少々感情が激しくて」


 初めて私的な響きが混じる。


 母の顔。


 正妃は静かに頷く。


「ポルックス殿下がよく支えておられるとか」


「ええ。あの子は優しい」


 ほんの一瞬。


 本物の笑みが浮かぶ。


 だがすぐ消えた。


 再び王妃の顔に戻る。


「五人も王子がいれば、宮廷は賑やかになりますね」


 先代王妃が言う。


 意味は明白だった。


 争い。


「……ええ」


 正妃は否定しない。


「だからこそ、秩序が必要です」


 宰相家の娘らしい答え。


 先代王妃は静かに目を細めた。


「将軍家では、秩序は力によって守るものと教えられました」


「宰相家では、理解によって守るものと」


 二人の視線が交差する。


 微笑んだまま。


 刃のように。


 長い沈黙の後。


 先代王妃が立ち上がった。


「よい茶会でした」


「ええ、本当に」


 互いに礼を交わす。


 完璧な王族の所作。


 外から見れば、仲睦まじい義姉妹。


 だが背を向けた瞬間。


 二人の笑みは同時に消えた。


 花弁がまた一枚、水面へ落ちる。


 静かな波紋。


 王宮という池に投げ込まれた、小さな石のように。


 ――シャム。


 名を口にせずとも、二人の思考は同じ場所へ向かっていた。


 新しい王子は、まだ幼い。


 だが。


 王宮の均衡はすでに、わずかに傾き始めていた。


【4】


 茶会が終わると、庭は急に広く感じられた。


 人が去ったあとの静けさは、いつも少し冷たい。


 正妃は侍女たちを下がらせた。


「しばらく、誰も入れぬように」


「かしこまりました」


 衣擦れの音が遠ざかる。


 障子が閉じられる音。


 それでようやく、息を吐いた。


 ――長い。


 ただ座っていただけなのに、ひどく疲れている。


 背筋を伸ばし続けたせいか、肩が鈍く痛んだ。


 正妃はゆっくりと簪を外す。


 翡翠の飾りが卓に触れ、小さな音を立てた。


 その音が、やけに大きく響く。


「……本当に」


 小さく呟く。


「疲れるものですね」


 誰もいない部屋でだけ許される声だった。


 先代王妃の微笑みが脳裏に残っている。


 穏やかで、整っていて、そして冷たい。


 将軍家の女。


 あの女は、決して本心を見せない。


 だが今日の言葉は十分だった。


 ――あのような場所から来た子。


 否定できなかった。


 正妃自身も、同じ感覚を持っているからだ。


 花街。


 香と酒と欲望の混ざる場所。


 王宮の女たちにとって、それは「世界の外」だった。


 秩序の外。


 清浄の外。


 幼いころから教えられてきた。


 近づいてはならぬ場所。


 語るべきでない人々。


 そこに生きる者たちは――


 無意識に、下と定められていた。


 正妃は目を閉じる。


 そして思い出す。


 あの日、初めてシャムを見た瞬間を。


 粗末な衣。


 警戒した目。


 だが。


 顔立ちは、あまりにも先代王に似ていた。


 息が止まったほどに。


「……罪な方」


 先代王を思い、呟く。


 あの人は境界を越える人だった。


 だから国を広げた。


 だから――多くを残しすぎた。


 王太后がシャムを引き取るという噂を聞いたとき、正妃の背筋は冷えた。


 王太后。


 王家の中心。


 もし彼女の庇護下に入れば。


 シャムは一瞬で“正統”になる。


 血統争いは終わるどころか、燃え上がる。


 アルケスが巻き込まれる。


 それだけは避けねばならなかった。


「だから、私が引き取った」


 理屈は明確だった。


 政治的判断。


 最適解。


 宰相家の娘として、間違ってはいない。


 ――なのに。


 胸の奥が、少しだけ重い。


 正妃は指先を見つめる。


 その手で、シャムの頭に触れたとき。


 少年は一瞬、身を強張らせた。


 怯えではない。


 慣れていないのだ。


 守られることに。


 その事実が、予想以上に胸を刺した。


「……憐れな子」


 愛情ではない。


 同情でもない。


 ただ。


 放置すれば壊れるとわかる器を見る感覚。


 それでも。


 完全に距離を取れなかった。


 理由は分かっている。


 アルケスだ。


 あの子は、躊躇なくシャムに話しかけた。


 身分も出自も考えず。


 まるで最初から弟であるかのように。


「あなたは……」


 正妃は小さく笑う。


「誰に似たのかしら」


 現王ではない。


 宰相家でもない。


 もっと古い何か。


 王家の、本来の姿。


 それが誇らしくもあり、恐ろしくもあった。


 優しさは、王を弱くする。


 だが民は優しい王を愛する。


 どちらが正しいのか。


 正妃にはまだ答えが出ない。


 窓の外で風が鳴る。


 花弁が舞う。


 ふと、思う。


 もしシャムが王になれば。


 国はどうなるのだろう。


 血統は最も強い。


 民の支持も得やすい。


 だが。


 育った場所が違いすぎる。


 王宮の論理を知らない。


 貴族を知らない。


 ――そして、穢れを知らない。


 正妃はそこで思考を止めた。


 自分が何を考えたのか理解したからだ。


「……いけませんね」


 自嘲が漏れる。


 穢れ。


 その言葉を、結局自分も使っている。


 理性では否定しても、染みついた価値観は消えない。


 王妃である前に、貴族の女なのだ。


 しばらくして。


 正妃は再び簪を手に取った。


 鏡の前に座る。


 翡翠の髪を整える。


 顔を作る。


 王妃の顔へ。


 疲れも迷いも消していく。


「……まだ終わっていない」


 王太子選抜。


 五人の王子。


 それぞれの母。


 それぞれの思惑。


 これは始まりに過ぎない。


 そして。


「アルケス」


 息子の名を小さく呼ぶ。


 願いは一つだけだった。


 この争いの中で。


 あの子のまっすぐさが、折れませんように。


 鏡の中の王妃は、すでに完璧に微笑んでいた。


 誰にも、もう迷いは見えない。


 翡翠は静かに光る。


 檻の中で。


【5】



 最近、城の音が少し変わった。


 そう思ったのは、ほんの些細なことからだった。


 廊下を歩く侍女たちの足音が、以前より静かだ。


 笑い声が短い。


 扉が閉まるとき、わずかに急ぐ気配がある。


 ポルックスは柱の影に寄りかかりながら、それをぼんやり考えていた。


 理由はわからない。


 けれど、何かが違う。


 空気が、少しだけ固い。


「……ポル?」


 振り向くと、カストルがいた。


 薄桃色の髪が少し乱れている。侍従が後ろで困った顔をしていた。


「どうしたの、こんなところで」


「待ってただけ」


 ポルックスはすぐに立ち上がる。


 兄の歩幅に合わせるのは、もう癖だった。


「また薬、飲まされた」


 カストルが不満げに言う。


「苦いんだよ、あれ」


「効くならいいでしょ」


「良くない」


 即答だった。


 子供らしい拗ねた声。


 ポルックスは少し笑う。


 この時間が、いちばん安心する。


 兄が怒っていない時の会話は、世界が静かになる。


 だが。


 角を曲がったとき、二人は足を止めた。


 向こう側の回廊で、侍女たちが話している。


「……正妃様が」


「声を落として」


「でも、本当に養子に――」


 そこで侍女がこちらに気づき、慌てて頭を下げた。


 会話は途切れる。


 沈黙。


 カストルは興味なさそうに通り過ぎたが、ポルックスは一瞬だけ振り返った。


 養子。


 その言葉だけが残る。


 シャムのことだと、すぐわかった。


 最近、城の中心にいる名前。


 民が騒ぎ、貴族が囁く名前。


 ――五番目の王子。


「ねえ」


 歩きながら、ポルックスは言った。


「兄上、シャムのことどう思う?」


「別に」


 カストルは即答した。


「静かだし、邪魔しないし」


 少し考えてから続ける。


「でも、みんな変だよね」


 ポルックスは頷いた。


 そう。


 変なのはシャムじゃない。


 周りだ。


 大人たちが、彼を見る目。


 優しいのに、距離がある。


 丁寧なのに、触れない。


 まるで壊れ物みたいに扱う。


 なのに――恐れている。


(どうして?)


 ポルックスは考える。


 血筋。


 言葉としては知っている。


 けれど、それだけで城の空気が変わるものだろうか。


 庭へ出ると、風が吹いていた。


 遠くで第一王子アルケスが剣の稽古をしている。


 真面目だな、とポルックスは思う。


 あの人はいつも同じだ。


 誰にでも話しかける。


 身分とか順番とかを、あまり気にしていない。


 だから侍女たちは安心した顔をする。


 でも貴族は少し困った顔をする。


(あれも、変)


 正しいはずなのに。


 なぜか皆、少しだけ緊張する。


 その理由が、まだ言葉にならない。


「ポル」


 カストルが袖を引いた。


「あれ取って」


 指差した先には、庭石の上に置かれた菓子箱。


 侍従が慌てて取りに行こうとするが、ポルックスが先に拾った。


「はい」


「ありがとう」


 カストルは嬉しそうに笑う。


 その顔を見ると、胸が軽くなる。


 世界は単純でいいと思える。


 けれど。


 箱を開けた瞬間、菓子が崩れているのを見て、カストルの表情が変わった。


「……なんで崩れてるの」


 空気が止まる。


 侍従が青ざめた。


「も、申し訳ございません――」


「ちゃんと運べないの?」


 声が強くなる。


 ポルックスはすぐ横に立つ。


 兄の呼吸を聞く。


 速い。


 危ない。


「兄上、大丈夫。味は同じだよ」


「違う!」


 箱が地面に叩きつけられた。


 乾いた音。


 菓子が散る。


 侍従が震える。


 ポルックスは静かにしゃがみ、割れていない菓子だけを拾った。


 机に戻そうとして――


「片付けるな」


 カストルが言った。


 怒りの残る声。


 ポルックスは頷く。


「わかった」


 そして。


 拾っていた欠片を、そのまま手から離した。


 ぱらぱらと床へ落ちる。


 誰も何も言わない。


 それでいい。


 兄が落ち着くなら。


 しばらくして、カストルの呼吸が戻った。


 怒りが去る。


 子供の顔に戻る。


 ポルックスは立ち上がった。


 そして、ふと思った。


(これも……同じかもしれない)


 城の空気。


 誰も片付けない何か。


 触れてはいけない欠片。


 シャム。


 養子。


 王太后。


 正妃。


 言葉はわからない。


 でも。


 大人たちは今、何かを「壊さないように」している。


 そして誰かが、そっと手を離している。


 理由は知らない。


 けれど。


(たぶん、王様になるって)


 ポルックスは空を見上げた。


(こういうのを、ずっと考えることなんだ)


 まだ十歳。


 理解は半分もしていない。


 それでも、確かに感じていた。


 盤が動き始めている。


 そして自分は――


 その上にいる。


 風が吹き、散った菓子の欠片が転がった。


 誰も拾わないまま。


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