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ファタリテクロンヌ――星の下に輝く者――  作者: 常居嗣子


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第五章

【1】



 夜の離宮は、昼よりも広く感じられた。


 人の気配が薄れると、石造りの回廊は音を吸い込み、歩く者を孤独にする。アルケスは灯りを持たずに歩いていた。道は覚えている。幼い頃から通い慣れた、母の私室へ続く道だった。


 扉の前で足を止める。


 中から紙をめくる音が聞こえる。


 母はいつもそうだ。夜になると執務を続ける。王妃でありながら、誰よりも官僚のように働く人だった。


 軽く叩く。


「……アルケスです」


 間を置いて、落ち着いた声が返る。


「入りなさい」


 扉を開けると、灯火の橙色が目に沁みた。


 正妃は机に向かい、書簡を読んでいた。翡翠の髪を受け継いだ自分と同じように母の髪も深い緑。背筋は真っ直ぐで、疲労の影を見せない。


 だがアルケスには分かる。


 疲れている時ほど、母は静かになる。


「遅い時間です」


「王子が母を訪ねるのに時刻は関係ありません」


 形式的な返答。


 いつも通り。


 それなのに、今日は距離を感じた。


 アルケスは椅子に座らず立ったまま言った。


「……シャムのことです」


 紙をめくる音が止まる。


 それだけで、部屋の空気が変わった。


 母は顔を上げない。


「いずれ聞くと思っていました」


 叱責でも回避でもない。


 準備された言葉だった。


 アルケスは少し迷う。


 何を聞きたいのか、自分でも分からなかったからだ。


 怒っているわけではない。


 だが、胸の奥が落ち着かない。


「母上が……養子にされたと聞きました」


「ええ」


 即答だった。


 言い訳はない。


 隠しもしない。


 それが逆に重かった。


「どうして、ですか」


 問いは幼かった。


 王子としてではなく、息子としての声だった。


 母はようやく視線を上げる。


 その瞳は冷静で、優しいわけでも厳しいわけでもない。


 ただ――判断している目だった。


「あなたは、どう思いましたか」


 質問で返される。


 アルケスは言葉を探す。


「……分かりません」


 正直だった。


「伯父上のお妃様はカストルとポルックスの母上さましかおりませんので当然だとも思います。でも……」


 言葉が続かない。


 自分の中にある感情に名前がつけられない。


 母は静かに待った。


 急かさない。


 それが余計に語らせる。


「……少しだけ、驚きました」


 それが精一杯だった。


 母は頷いた。


「正しい反応です」


 そして椅子から立ち上がる。


 窓辺へ歩き、夜庭を見下ろす。


「王太后様が、あの子を望んでおられました」


 アルケスは息を呑んだ。


 祖母の名が出た瞬間、話が家族ではなく政治へ変わったと理解する。


「祖母上が……」


「ええ。先代王陛下に似ているからです」


 はっきり言った。


 遠回しにしない。


 母らしい。


 アルケスは思い出す。


 まだ遠目にしか見ていない少年。


 だが確かに、亡き王の肖像に似ていた。


「もし王太后様の養子となれば」


 母は続ける。


「彼は“思い出”になります」


 その意味を、アルケスは考える。


 思い出。


 それは優しい言葉のはずなのに。


 なぜか寒かった。


「思い出は、時に現実より強いのです」


 母の声は低い。


「民も、貴族も、過去を愛します。特に輝いていた時代ならなおさら」


 アルケスは理解し始める。


「……王位の問題になりますか」


 母は微かに微笑んだ。


「あなたは聡い子ですね」


 肯定だった。


 胸の奥が重くなる。


 つまり。


 自分を守るためだったのか。


「私のために?」


 思わず聞く。


 母は首を横に振った。


「国のためです」


 即答。


 迷いなく。


 それが少しだけ痛かった。


 だが次の言葉が続く。


「そして結果として、あなたのためにもなります」


 アルケスは黙る。


 母は振り返る。


「アルケス。王族とは、誰かを選ぶ立場ではありません」


 静かな声。


「選ばれないように整える立場です」


 意味は完全には理解できない。


 けれど重みだけは分かった。


 母は続ける。


「あの子には後ろ盾がない。だから私が与えました」


「守るために?」


「違います」


 即座に否定。


「均衡のためにです」


 その言葉は冷たい。


 だが嘘ではない。


 アルケスはようやく気づく。


 母は情で動いていない。


 恐れで動いたのでもない。


 計算だ。


 王宮が揺れないための。


 そしてそれが、この人の愛し方なのだ。


「……母上は、あの子が好きですか」


 気づけばそんなことを聞いていた。


 母は少しだけ考えた。


 珍しく。


「分かりません」


 初めて曖昧な答えだった。


「ただ、放置すれば不幸になると分かっています」


 それだけで十分だった。


 アルケスは胸の中のもやが、少し形を持つのを感じる。


 嫉妬ではない。


 不安でもない。


 立場が増えたのだ。


 弟が。


 それも、自分とは全く違う場所から来た弟が。


「……私は、兄になりますね」


 母は頷いた。


「ええ。あなたが望むなら」


 望むなら。


 強制ではない。


 それが母の優しさだった。


 アルケスはゆっくり息を吐く。


「まだ、分かりません」


 正直に言う。


「でも……話してみたいと思います」


 母の目がわずかに柔らいだ。


 ほんの一瞬だけ。


「それで十分です」


 灯りが揺れる。


 夜は深い。


 だがアルケスの胸の重さは、来た時より軽くなっていた。


 母は王妃として決断した。


 ならば自分は。


 王子としてどう在るかを選ぶ番だ。


 扉へ向かいながら、ふと思う。


 あの少年は、今どんな顔で眠っているのだろう。


 王族になったことも、まだ現実ではないはずだ。


 振り返ると、母はすでに書簡へ戻っていた。


 迷いのない背中。


 いつも見透かすような目がその時だけ子供心そのままにその姿を焼き付く。


 ――この人は、いつも国を先に選ぶ。


 だから自分も。


 いつか同じ選択をするのだろう。


 そう理解した夜だった。


 アルケスは静かに扉を閉めた。


 王宮の廊下に、再び静寂が戻る。


 そして新しい家族の形だけが、誰にも知られぬまま動き始めていた。


【2】



 眠れなかった。


 理由は分かっている。


 分かっているから、余計に腹が立つ。


 カストルは寝台の上で何度も体勢を変えた。天蓋の布が揺れ、影が伸び縮みする。誰かに見られているような気がして、目を閉じても落ち着かない。


 ――養子。


 その言葉が耳に残って離れない。


「……なんでだよ」


 呟いた途端、咳が込み上げた。


 胸の奥を引き裂くような咳。息が浅くなる。


 扉の外で足音が止まった。


 二度、控えめなノック。


「兄上、起きてる?」


 ポルックスだった。


「……入れ」


 扉が静かに開く。


 同じ顔。同じ薄桃色の髪。だが表情だけが違う。ポルックスはいつも、少しだけ世界を許している顔をしている。


 彼は何も尋ねず、水差しを取った。


 杯に水を注ぎ、自然な仕草で差し出す。


「ゆっくりね」


 命令でも慰めでもない声。


 ただ、そうするのが当然みたいな声音。


 カストルは受け取り、一口飲む。


「……ぬるい」


「夜中だからね」


 ポルックスは微笑んだ。


 怒らない。


 否定しない。


 それが余計に苛立つ。


「……聞いたんだろ」


「うん」


 椅子を引き、真正面ではなく少し横に座る。逃げ場を塞がない位置。


「……なんで平気なんだよ」


 声が荒れる。


 ポルックスは少し考えてから答えた。


「平気じゃないよ」


 静かな声。


「でも兄上が揺れてるなら、僕まで揺れたら困るでしょ」


 その言い方が癇に障った。


「俺は嫡男なんだぞ!」


 机の上の小箱を掴み、壁へ投げつける。


 乾いた音。


 蓋が外れ、中身が散らばった。


 沈黙。


 ポルックスは驚かなかった。


 ただ立ち上がり、床に落ちた箱を拾う。


 壊れていない部分だけを選び、静かに机へ戻していく。


 まるで何事もなかったかのように。


 その落ち着きが、逆に神経を逆撫でした。


「片付けるな」


 カストルが言う。


「使用人の仕事だ」


 ポルックスの手が止まった。


 一瞬だけ考える。


 そして、


「……分かった」


 穏やかに答えた。


 返事をしてから。


 手に持っていた箱の欠片を――そのまま離した。


 ぱら、と音を立てて床へ落ちる。


 丁寧に置くこともなく。


 拾い直すこともなく。


 ただ、命令に従った結果として。


 欠片は無惨に散らばったまま残った。


 乱暴でも反抗でもない。


 ただ、“従った”だけ。


 ポルックスは何事もなかったように椅子へ戻る。


「……怒らないのかよ」


「怒らないよ」


 即答だった。


「兄上、今つらいんでしょ」


 あまりにも自然な言葉。


 責める気配が一切ない。


「……似てるんだろ」


 カストルは目を逸らした。


「父上に」


「うん。そう言われてるね」


 比較しない声。


 評価を乗せない声。


 それが逆に苦しい。


「じゃあ俺はなんなんだよ」


 言葉が震えた。


「いらなくなるんじゃないかって思う」


 言ってしまった。


 王子らしくない弱音。


 けれどポルックスは笑わなかった。


 寝台の端に腰掛ける。


 距離は近いが、触れない。


「兄上」


 柔らかな声。


「僕は困るよ」


「……なにが」


「兄上がいなくなったら」


 簡単に言う。


 迷いなく。


「怒るし、物投げるし、すぐ無理するけど」


 少し笑う。


「でも、優しいの知ってるの僕だけだよ」


 胸の奥が熱くなる。


 そんなふうに見られていたとは思わなかった。


「だから大丈夫」


 ポルックスは続けた。


「増えても、減らないよ」


 王子が一人増えても。


 兄の場所は変わらない、と。


 カストルは黙ったまま横になる。


 さっきまで荒れていた心が、少し静かだった。


 何も解決していない。


 けれど。


 隣にいる存在が、全部を受け止めている。


 それだけで呼吸が楽になる。


「……明日、隣にいろ」


 ぶっきらぼうに言う。


「うん」


 ポルックスは即答した。


「ずっといるよ」


 当然のように。


 疑いもなく。


 灯りが揺れる。


 床にはまだ、箱の欠片が散らばったままだ。


 ポルックスは拾わない。


 命令されたからではない。


 ――兄が望まないなら整えない。


 それが彼の選択だった。


 カストルは目を閉じる。


 思った。


 こいつがいる限り、自分は崩れない。


 夜は静かに、更けていった。


【3】


 北翼の廊下は、夜になると音が遠くなる。


 石壁が声を吸い、灯火さえ息を潜める場所だ。だからこそ、その破砕音は異様なほど鮮明だった。


 ――激しい音。


 陶器が砕け散る音だった。


 私は思わず足を止める。給仕盆の銀器がかすかに鳴った。


「……まただ」


 後ろの侍女が小さく呟く。


 誰の部屋か、確認するまでもない。


 第二王子カストル殿下。


 怒声が続いた。


「違うって言ってるだろ!!」


 若い声。だが怒りは鋭く、刃物のようだった。


 扉前には侍従たちが集まっていたが、誰も入ろうとしない。視線だけが宙を泳ぐ。


 中へ入れるのは、決まった者だけだ。


 私は息を整え、扉を叩いた。


 返事はない。


 開ける。


 室内は嵐だった。


 本棚は半ば崩れ、装飾箱は踏み潰され、書簡が雪のように散っている。月光が破片に反射し、静かな惨状を照らしていた。


 その中央に、カストル殿下。


 肩を上下させ、怒りをまだ手放せずに立っている。


 そして。


 その少し後ろに――第三王子ポルックス殿下がいた。


 まるで最初からそこにいたかのように静かに。


「……兄上」


 穏やかな声。


 責める響きは欠片もない。


「触るな」


 カストル殿下が即座に言う。


 ポルックス殿下は頷いた。


「うん。触らない」


 素直な返答だった。


 だが殿下は膝を折り、床へ手を伸ばす。


 散乱した物の中から――壊れていない本だけを拾い上げる。


 埃を払い、机へ戻す。


 静かな動作。


「片付けるなって言った!」


 苛立った声。


 ポルックス殿下の手が止まる。


「……わかった」


 やわらかく答える。


 そして。


 手に持っていた箱の欠片を、そのまま離した。


 乾いた音。


 床で砕け、さらに細かな破片になる。


 私は息を呑んだ。


 命令には従う。

 だが壊れたものを守ろうとはしない。


 理性的な冷酷さが一瞬だけ顔を出す。


 けれど次の言葉は、驚くほど優しかった。


「いっぱい散らかしたね、兄上」


 幼子を労るような声音。


 カストル殿下の眉が歪む。


「……お前は平気なのか」


「平気じゃないよ」


 即答だった。


「でも、兄上が怒る方が大事」


 迷いがない。


 私は理解する。


 この方は――兄を最優先にしている。


 王位でも、体面でもない。


「……あいつのせいだ」


 カストル殿下が低く言う。


 名は出ない。


 だが城の誰もが思い浮かべる。


 第五王子シャム殿下。


 養子として迎えられてから、宮廷の空気は変わった。


 ポルックス殿下は静かに首を傾げる。


「怖い?」


 責めない問い。


 沈黙。


 否定も肯定もない。


 それで十分だったのだろう。


「大丈夫」


 ポルックス殿下は微笑む。


「兄上の隣は、僕が取ってるから」


 冗談のようで、本気の声。


 カストル殿下は視線を逸らした。


「……勝手にしろ」


「うん、勝手にする」


 嬉しそうに頷く。


 その瞬間、部屋の緊張がほどけた。


 嵐が過ぎた後のように。


 私はそっと頭を下げる。


「後ほど清掃を――」


 ポルックス殿下がこちらを見る。


 目が変わっていた。


 先ほどまでの柔らかさが消え、冷静な王族の瞳。


「お願いします」


 公的な声。


「はい、ポルックス王子殿下」


 再び兄へ視線を戻すと、もう優しい弟の顔に戻っている。


 その切り替えの速さに、背筋が冷えた。


 理解する。


 第三王子は誰にでも優しいのではない。


 ただ一人。


 第二王子カストル殿下にだけ、特別なのだ。


 床に散る破片を見下ろしながら、私は思った。


 この兄弟は支え合っている。


【4】


 城の朝は早い。


 まだ空が白くなりきらないうちから、人の足音が動き始める。廊下を磨く音、湯を運ぶ音、布が擦れる音。


 シャムはその音が好きだった。


 花街でも朝は静かだったが、ここは違う。静かなのに、止まっていない。国そのものが目を覚ましているようだった。


 その日、彼は侍従に呼ばれ、第二王子カストルの部屋へ届け物を持っていくことになった。


「中へ入ったら、机の上に置くだけでよろしいです」


 そう言われただけだった。


 王子の部屋に入ること自体、まだ慣れない。


 扉の前で一度深呼吸する。


 軽く叩く。


「……失礼します」


 返事はなかった。


 そっと扉を開ける。


 部屋は――整いすぎていた。


 驚くほど綺麗だった。


 本は角度まで揃えられ、机の上には紙が一枚も乱れていない。窓辺の花まで同じ向きに並んでいる。


 誰かが丁寧に整えたのだとすぐ分かった。


 けれど。


「……違う」


 背後から声がした。


 シャムは肩を跳ねさせる。


 カストルが立っていた。


 顔色は白い。寝起きらしく髪が少し乱れている。


 だが目だけが強く光っていた。


「これ、誰がやったの」


 静かな声。


 怒っているようには聞こえない。


 だから使用人の少女は安心したのだろう。


「はい、朝の整頓を――」


「頼んでない」


 言葉が途中で切れる。


 空気が冷える。


 シャムは分かった。


 これは、もう始まっている。


「本の順番、変わってる」


 カストルは机へ歩く。


 指先で本を触る。


「高さも違う」


 声が小さくなる。


「……なんで触ったの」


 少女が困惑している。


「整えるよう仰せでしたので……」


「整えるって、こうじゃない!」


 突然、声が跳ねた。


 本が床へ投げられる。


 乾いた音。


 少女が息を呑む。


「昨日のままでよかったのに!」


 もう止まらない。


 机の上のペン立てが倒される。


 紙が舞う。


 シャムは動けなかった。


 怒っている理由は分かる気がした。


 でも、どうしてここまで怒るのかは分からない。


「……全部、違う」


 カストルの声が震えていた。


「覚えてたのに」


 ぽつりと落ちた言葉。


 それは怒りではなく、悔しさだった。


「昨日、どこまで読んだか分からなくなるだろ!」


 本がもう一冊投げられる。


 少女が涙目で頭を下げる。


「申し訳ありません……!」


「謝るな!」


 叫び。


 そして咳。


 激しい咳だった。


 体が折れる。


 怒りと同時に、呼吸が追いつかなくなる。


 シャムは思わず一歩前へ出た。


 そのとき。


「兄上」


 穏やかな声。


 ポルックスが入ってきた。


 状況を一目で理解した顔だった。


「触るな」


 カストルが言う。


「うん」


 ポルックスは頷く。


 そして何もしない。


 近づかない。


 ただ立つ。


 それだけ。


 沈黙が落ちる。


 カストルの呼吸が少しずつ落ち着く。


「……勝手に変えるなって言ったのに」


 子どもの声だった。


 怒りではなく、拗ねた声。


 ポルックスが静かに答える。


「兄上、覚えてたんだね」


「当たり前だろ」


「すごいね」


 それだけで、空気が変わった。


 怒りの居場所がなくなる。


 カストルは視線を逸らす。


「……もういい」


 小さく言う。


 ポルックスは床の本を見る。


 壊れていないものだけ拾い上げる。


「片付けるな」


「わかった」


 返事。


 そして持っていた本を手放す。


 床に落ちる音。


 従っているのに、従いすぎない。


 シャムはそれをじっと見ていた。


 不思議な関係だった。


 怖がっていない。


 怒りを否定もしない。


 ただ、隣にいる。


 花街にはなかった距離だ。


 少女の使用人が震えているのに気づき、シャムはそっと近づいた。


「……外、行こ」


 小声で言う。


 少女は頷き、静かに部屋を出た。


 廊下に出た瞬間、彼女は涙をこぼした。


「どうして怒られたのか……」


 シャムは少し考える。


「たぶん」


 言葉を探す。


「覚えてたものが、なくなったから」


「……え?」


「順番とか。昨日のままとか」


 少女は目を瞬かせた。


「そんなことで……?」


 シャムは首を傾げる。


 そんなこと、ではない気がした。


 城では、小さなものが支えになるのかもしれない。


 決められた場所。変わらない順番。


 王子たちは、毎日変わるものの中にいるから。


 扉の向こうから、ポルックスの穏やかな声が聞こえた。


「兄上、朝餉どうする?」


「……あとで」


「うん。一緒に行こう」


 静かな約束の声。


 シャムは廊下の窓から朝日を見る。


 城は美しい。


 けれど、少し息苦しい。


 怒る理由が増える場所なのかもしれない、と彼は思った。


 そしてふと考える。


 もし自分が怒ったら。


 隣に立つ人はいるのだろうか、と。


 答えはまだ分からない。


 朝の光だけが、長い廊下をまっすぐ照らしていた。


【5】



 塔の上は、少し寒い。


 アルケスは両手を欄干に乗せながら、下の庭を見ていた。


 人が小さく見える。


 兵も、侍女も、馬も、みんな豆粒みたいだ。


 ここに来ると、自分も小さくなった気がした。


 朝の訓練が終わったあと、なんとなく足が向いたのだ。理由はうまく説明できない。ただ、部屋にいると落ち着かなかった。


 風が吹き、翡翠色の髪が揺れる。


 金ではない色。


 王家の髪は金だと、幼い頃に教えられた。


 でも自分は違う。


 母に似た色だと聞いたときは嬉しかったのに、最近は少しだけ気になるようになった。


 ――似ている。


 昨日、城下で聞こえた声を思い出す。


 シャムを見た民たちの声。


 先代王にそっくりだ、と。


 歓声は大きく、止まらなかった。


 アルケスはそのとき、ちゃんと笑っていたはずだ。


 第一王子として。


 けれど胸の奥が、少しだけざわざわした。


 嫌だったわけじゃない。


 ただ――自分の立つ場所が、少し動いた気がした。


 先代王は、父の兄だ。


 強くて、賢くて、みんなに好かれていた王。


 アルケスは会ったことがない。


 けれど城の大人たちは、今でもその話をする。


「先代王なら」


「アレス王の頃は」


 そう言われるたび、父の顔が少しだけ静かになる。


 そしてアルケスは思う。


 自分は、その王の子ではない。


 父は弟だ。


 間違いではないけれど、どこか違う気がする。


 うまく言えないけれど。


 自分は、一番前に立っていいのだろうか、と。


「……いた」


 後ろから声がした。


 振り向くと、ポルックスが階段を上がってきていた。


「探したよ」


「用事か?」


「ううん。なんとなく」


 そう言って隣に立つ。


 しばらく二人で黙って庭を見た。


 ポルックスはこういう沈黙を気にしない。


 カストルといるときの優しい顔とは違い、今は少しだけ大人びて見える。


「兄上、また怒ったよ」


 ぽつりと言った。


 カストルのことだ。


 アルケスは頷く。


「聞いた」


 使用人が泣いたとも。


 部屋の壺が割れたとも。


 城ではもう皆が知っている。


「止めたのか?」


「ううん」


 ポルックスは首を振る。


「待っただけ」


「待つ?」


「怒り終わるの」


 当たり前のように言う。


「兄上、途中で止められるともっと苦しくなるから」


 アルケスは少し驚いた。


 そんなふうに考えたことがなかった。


 怒るのは悪いことだと思っていた。


 でもポルックスは違う見方をしている。


 兄を守るみたいに。


 風が強く吹いた。


「アルケス兄様」


「なんだ」


「考えごとしてた?」


 図星だった。


「顔、難しい」


「そうか?」


「うん。先生みたい」


 思わず笑いそうになる。


 十歳らしい言い方だった。


 少し肩の力が抜ける。


「……ポルックス」


「なに?」


「私は、ちゃんと第一王子に見えるか」


 聞いたあとで、変な質問だと思った。


 けれど口から出てしまった。


 ポルックスは目を丸くした。


 少し考える。


「うーん」


 長い沈黙。


 そして言った。


「頑張ってる人に見える」


「……そうか」


「それって大事じゃない?」


 あっさりした声。


 アルケスは返事ができなかった。


 下を見ると、庭にシャムがいた。


 使用人と話している。


 笑っている。


 自然に人の中にいる。


 あれはすごいと思う。


 自分は話しかける前に考えてしまうから。


「人気あるね」


 ポルックスが言った。


「ああ」


 否定できない。


 少しだけ胸がちくりとする。


 でも嫌いではない。


 むしろ――安心する。


 あんなふうに笑える人が王家にいることが。


「……違っていいのかな」


 アルケスは小さく言った。


「なにが?」


「王って、みんな同じじゃなくて」


 言葉が途中で止まる。


 難しくてうまく言えない。


 ポルックスはすぐ理解したらしく、頷いた。


「うん。だって兄上もぼくも違うし」


 それは確かだった。


 怒るカストル。


 支えるポルックス。


 静かなヴィルギニス。


 まっすぐなシャム。


 そして自分。


 同じ人間など一人もいない。


「じゃあ」


 アルケスは空を見上げる。


「私は、私のままでいいのか」


「うん」


 迷いのない返事。


「だって、アルケス兄様はアルケス兄様だから」


 あまりに単純な言葉だった。


 でも胸の奥に、すとんと落ちた。


 難しい理屈より、ずっと分かりやすかった。


 風が止む。


 塔の上に静けさが戻る。


 アルケスはもう一度城を見下ろした。


 まだ背は低い。


 剣も重い。


 決断なんて、よく分からない。


 それでも。


 逃げられない場所に立っていることだけは分かる。


 第一王子だから。


 先代王の甥だから。


 現王の息子だから。


 理由はたくさんあるけれど。


 たぶん一番の理由は。


 ――ここにいるからだ。


「戻ろう」


 アルケスは言った。


「うん」


 二人で階段を降りる。


 塔の外では、城がいつもどおり動いていた。


 まだ誰も知らない。


 十歳の王子たちが、それぞれ違う形で王へ近づいていることを。


 アルケスは少しだけ背筋を伸ばした。


 王になるかどうかは分からない。


 でも。


 今日くらいは、第一王子らしく歩こうと思った。


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